「ハヤテのバカーーーーー!!!!」

 最近は聞くことが多くなったその叫び声とともに、どんがらがっしゃーんと派手な効果音が三千院の屋敷に響き渡った。
 何事かと思ってマリアが声のした方向へ急ぐと、ちょうどその声の主が扉を乱暴に開けて部屋を出て行くところに出会う。
 しかし彼女はとっさに壁の影に隠れたマリアの存在には気付かず、ツインテールをはためかせてぱたぱたと走っていった。

 また私が後片付けですか……と呟くと、マリアはとりあえず中の惨状を把握するために部屋に入ってみることにした。
 開けられたままの扉の影からそーっと中を覗き見ると、とりあえず一番に目に入るのは借金執事の無残な姿。

「まあ今更何があったのかは訊きませんけど……」

 まるで死んでいるようにも見えるハヤテだが、彼が頑丈だという事は理解しているので特に心配する事も無い。
 そもそも本当に死んでいたのであれば、状況から考えてナギが犯人となってしまう。
 そんなことはありえない……とは二人の関係が爆弾を抱えているために言い切れないのが怖いところだが、とりあえず彼は小刻みに動いているので、死んではいないだろう。それだけ確認すると、そのまま部屋に入り、中を見回してみた。

 床には見慣れたゲームの駒が、一面に散らばっている。ゲームの一種である以上自分も得意であるそれは、懐かしさのような思いを喚起した。

「ナギと、チェスをしていたんですか?」

 手近にあった黒のポーンを手に取りつつハヤテに尋ねた。
 床に倒れ伏していたはずのハヤテはというと、マリアの見ている前でいつまでも無様な姿をさらしているわけにはいかないとでも思ったのか、既に立ち上がって服の汚れをはらっていて、マリアの質問にもすぐに答える。

「ええ、そうなんですけど……」
「で、またよくわからないうちに勝ってしまったと」
「まあ、そんな感じです。正直勝てるとは思ってなかったんですけど……」

 ハヤテ自身、勝った実感があまり無いらしい。ナギが名門である白凰に通っていて、しかも飛び級までしていると知っては、こういった頭脳を使うゲームでは強い、というイメージがあったのだろう。
 なにしろ、年齢では上回っていても、学年は同じなのだから。

「でも、お嬢様ってチェスは苦手なんですかね? 頭はいいからこういうゲームは強いと思っていたんですけど……」
「ええ。あの子はチェスだけは苦手なんですよ。まあ、昔、いろいろありまして」
「へ? いろいろって……何か理由があるんですか?」
「ええ、まあ、あるにはあるんですけど……」

 ナギがチェスを苦手としている理由。自分も大いに関わっているそれは、本来ならあまり人に話すものではないのかもしれない。
 でも、目の前の少年──ナギが恋をしている少年が、ナギのことを、ささいなことではあるが、知りたがっている。
 彼がこの話を聞いたなら、彼は、三千院ナギという少女が思っている以上に素晴らしい子であると知ってくれるだろう。
 ナギのことを応援している身としては、話すべきなのかもしれない。

 思案しながら歩き回っていると、足に何かが当った。
 左手で拾いあげてみると、それは白のクイーン。それを自分の左の手のひらの上に立てると、先程から右手に持っていた黒のポーンも何となく隣に立て、眺めてみる。
 と、手のひらの上はバランスが悪かったのか、重心の高いクイーンが、ポーンを巻き込みながらすぐに倒れてしまう。
 カツンと小さな音をたて、自分の手のひらの上で横になったそれらは、どこか寄り添い合っているように見えた。

  「……そうですね。ハヤテくんになら話しても良いかもしれません」

 二つの駒を見つめながら言うマリアには、微笑みが浮かんでいた。

「でもその前に……」
「その前に?」
「ナギがまたすぐに戻ってくるでしょうから、部屋を片付けましょうか。今回はハヤテくんにも手伝ってもらいますよ?」

 微笑みに妙なプレッシャーをプラスしたマリアには、ハヤテは抵抗の術を持たなかった。
「あ、はい……」と二つ返事で了承すると、ハヤテは早速部屋の調度品の整頓に取り掛かる。
 一方マリアは、部屋の整頓はとりあえずハヤテに任せ、チェスの駒を拾い集めた。
 別に楽をしたいわけではない。ただ、ナギが戻ってきた時に一番最初に使用するであろう物を準備しているだけだ。
 すべて集め終わると、今度はそれをテーブルまで運ぶ。
 顔を上げて、少し前まで二人が座っていたであろうテーブルに目をやると、その後ろにある窓からは光が差し込んでいた。
 テーブルの上にチェス板を置き、駒を一つ一つ並べると、光が板と駒に反射して、まるでそれぞれの駒が生命を吹きこまれたかのように輝き始める。
 窓の外を見ると、そこには雲のひとかけらも無い、真っ青な空に、太陽だけがただ光を発している。

 ────そういえば、あの日もこんな風にいい天気でしたね。

 しばしの間、過去の思い出に浸る。
 それがどのくらいの時間だったかはわからない。
 あまり長くはないはずだが、もしかしたら数分間は経過していたかもしれない。

 ふと我に返って振り向くと、ハヤテが所在無さげに立っている。どうやら調度品の整頓は済んだようだ。
 一通り部屋の中を眺め、とりあえずは片付けが終わったことを確認すると、ハヤテに視線を戻し、唐突に口を開いた。

「あの子がチェスが苦手になった原因は、私にあるんですよ」


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