果てしなく長い廊下を、ひとりの少女が歩いている。
 時にふらつきながらゆっくりと歩いている彼女を除いては、そこには人の姿は見えない。
 そして、その小さな歩幅で、おぼつかない足取りで歩き続ける彼女の顔には、明らかに疲労の色が見て取れる。

 一日の仕事を終えて疲れ果て、自室に戻ろうとした矢先、彼女はこの三千院家の当主から呼び出しを受けた。
 自分をまるで本当の孫であるかのように接してくれる彼に会う事自体はまったく悪い気はせず、むしろ彼女にとっては歓迎するような事だった。
 しかし、今はタイミングが悪いと言わざるを得ない。
 全身が疲労を訴えてきて、頭はぼーっとし、まぶたも下がり始めている。
 そのまま意識がどこかに行こうとする……がその時、足に何かが引っかかる感覚を感じた。

「あっ!」

 気付いたときにはもう遅く、バランスを崩して転倒するのは避けられなかった。
 とっさに手を前に出して顔から床にぶつかるのは避けられたが、打ちつけた膝には痛みが残っている。すりむいてしまったのかもしれない。

「いたた……」

 痛む右足の膝を両手で抑えつつ周りを見渡すが、つまずくようなものは何も無い。
 スカートの先につま先をひっかけてしまったらしいと、彼女は結論付けた。

 彼女が身にまとっている三千院家の使用人の服は、確かに似合ってはいるが彼女の体には若干大きいつくりになっている。今は半袖のため気にならないが、長袖を着ると袖はほとんど指を覆い隠してしまう。スカートはというと、床につきそうなくらいに長い。
 しかしそれは服が大きすぎるというよりも、彼女がまだ少学校低学年程の年齢であるのに原因がある。
 本来彼女のような年齢、背格好の者が着ることを想定した服ではなかったので、少し大きめなのは仕方のないことだった。

 さらに、疲れていたということも転倒した理由の一つだ。
 もちろんいつもは気を配っているため、足を引っ掛けるようなことは滅多に無い。しかし先程はその余裕も無かったようで、珍しく盛大に転んでしまった。
 彼女はとりあえず痛みが消えるまではじっとしていようと考え、その場にしゃがみこんだ。
 膝がずきずきと痛むせいか、先程まで感じていた眠気も、今はあまり感じない。

 静かだ、と彼女は思った。
 彼女が歩くのを止めた以上、廊下に唯一響いていた自身の足音は消え、人の声はもちろん、物音一つ聞こえない。

 しばらくの間その静寂の中にいると、なにやら不思議な感覚を覚えた。

 前を向いても、後ろを向いても、見えるのはただ長い廊下のみ。終わりの見えないそれは、まるで無限に続いているかのように思える。

 助けを求めるかのように、そばにあった窓から外を見る。色とりどりの花が植えられている庭の景色は、今が昼間であったなら彼女の心を和ませてくれただろう。
 しかし、日が沈んで既に数時間が経過していては、そこにあるのは彼女が期待した光景ではなく、夜の暗闇のみだ。

 あまりに広く、あまりに長い廊下。
 そこにいるのは、自分ひとりだけ。
 外にあるのは、真っ暗な闇。
 他に、誰もいない。何も聞こえない。

 まるで、世界にひとりだけ取り残されてしまったかのように感じた。

 そう思うが否や、彼女は痛みをこらえて立ちあがり、再び前を向く。そして足元に注意をはらいつつも、小走りで目的の場所へと急いだ。






 しばらくの間走り続けると、彼女はある部屋の前で立ち止まった。
 幾度か入ったことのある部屋ではあるが、もちろんそのまま扉を開けて中に入ったりはしない。そこが自分の部屋ではない以上、まずは人類最大の発明と名高いノックをするのが、彼女の中での常識だ。
 少しの間立ち止まって乱れた息を整え、右手でトントン、と二度扉を叩くと、中にいる誰かが反応する気配がした。それを確認してから、扉越しに自分の名前を名乗る。

「おじい様。マリアです」

 その高く澄んだ声に対し、中の人間もほとんど間をおかずに答えた。

「うむ、入ってくれ」

 久方ぶりに聞く声に少しだけ心を弾ませながら、マリアは扉に手をかける。
 そしてそのまま中に入ると、そこには一人の老人が椅子に腰掛けていた。

「久しぶりじゃな、マリア」
「お久しぶりです、おじい様」

 お互いに相手を認めるとつい顔がほころんでしまう。
 マリアが敬語を使っている点を除けば、まさに祖父と孫の対面といったところだろう。

 三千院帝。
 この三千院家の当主である彼は、現時点ではマリアにとって最も大切な人となっている。
 というのも、マリアにとっては彼はまるで親そのもののような存在だったからだ。

 自分は両親にとある教会の前に捨てられ、この家に拾われたらしい。
 マリアが自分自身の出生について知っているのはそれだけだった。
 らしい、というのは、これが後に人に教えられた事で、彼女自身にはその記憶は無かったからだ。
 自分が捨てられたと言う記憶、両親に関する記憶も無いため、そして何よりも、今目の前にいる帝、さらには執事長のクラウスがいつも一緒にいて遊んでくれていたため、自分の境遇を不幸だと思うような事も無く、マリアは幼少時代を過ごす事ができた。

 だが幸せな時間は、マリアが彼らの仕事の忙しさを知ることによって、終わりを告げることになった。
 帝やクラウスは本来多くの仕事をこなさなければならない身で、それらを終えて疲れた体で自分と遊んでいてくれたという事実。
 皆が隠し続けていたそれを偶然知ることになり、それでもなお無邪気に遊び続けるということはマリアにはできなかった。
 二人に負担をかけまいとして一緒に遊ぶことを自ら拒否し、少しでも力になれたらと使用人としての仕事も覚え始めた。

 しかしそれからというもの、マリアの中で何かが変わってしまった。
 三千院家の使いとして外に出たとき、両親らしい大人達といる子供を見つけると、いつのまにか立ち止まって彼らをじっと見ている自分がいて。
 彼らが一緒に遊んでいるのを見ていると、何故か涙が流れてきてしまう。

   自分には、肉親がいない。
 今まで意識していなかったこと、意識せずにすんでいたことの辛さに押しつぶされそうだった。


 そんな毎日を過ごしていたマリアが、帝に呼び出された。
 ありえないとは思いつつも、もしかしたら、という考えが脳裏をかすめる。

 もしかしたら、暇ができたのかもしれない。
 もしかしたら、また一緒に遊んでくれるのかもしれない。

 おそらく、そんなに都合のいいことは無いとわかっていた。でも、もしもそうだったら、昔のように少しだけ一緒に遊んで欲しかった。
 帝からしたら迷惑なのかもしれない。でも、もう少しだけ、甘えていたかった。


「こんな時間に呼び出してすまんかったの。マリアに少し頼みたいことがあるんじゃ」

 しかし帝が唐突に発したこの言葉に、マリアが心の奥で微かに抱いていた希望はあえなく崩れ去った。
 微笑みが消えた彼女の顔には、一瞬にして暗い影が帯びる。

「頼み……ですか」

 言葉に詰まりながらもなんとか返答するが、落胆の色は隠しきれない。
 ありえないと思いつつも、それがどんなに小さなものでも、何かに期待してしまった以上、それが打ち砕かれた時の絶望は避けられなかった。
 だが帝は言葉を止めはしない。神妙な顔でマリアを見つめつつ、話し続けた。

「うむ。明日ここにワシの孫が来るんじゃが、遊び相手になってもらいたい」
「……おじい様のお孫さんと……?」
「そうじゃ。両親がここに来るのについてくるんじゃが、ワシらが仕事の話をしている間は暇にしていての。お前とは年も近いことだし、相手をしていて欲しいんじゃが……どうじゃ。頼まれてくれるか?」

 帝に孫がいること、女の子らしいということ、自分よりも少し年下だということは聞いていたが、マリアは彼女と実際に会ったことは無かった。
 少しだけ、明日の自分の行動について思いをめぐらせる。
 連日の仕事で疲れている今、少しくらい休んでもいいんじゃないだろうか。実際、さっきまでは帝と遊びたいと思っていたわけで。
 冷静になると、先程の自分の考えからしてあまりにもタイミングが良い気がするが、断る理由は無い。むしろこれは三千院家の使用人として頼まれるようなことなので、断ることなど許されないだろう。
 自分に甘いな、と思いつつも無理矢理納得して思考を終えると、マリアは顔を上げた。

「はい。わかりました」

 まっすぐ前を見てそう答えるマリア。
 その目には、帝が微かに口の端を吊り上げたかのように見えた。



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