「う……ん……」

 三千院家のとある使用人の部屋。小さな寝息がその部屋の中で微かに響いていたが、カーテンの隙間から漏れた光がその主の顔にあたると、それは小さなうめき声へと変化する。
 数秒の後に、今この時まで眠りの世界にいたマリアはゆっくりと身を起こした。

「…………」

 ぼーっとした頭で周りを見渡して初めて、そこが自分に割り当てられた部屋だと認識する。と同時に、自分の状況にいくつか違和感を覚えた。

 まず、そのままふと視線を落として自分の姿を見てみると、目に入るのは寝る時にはいつも着ているはずのお気に入りの寝巻きではなく、使用人として働く時に着ている服、いわゆるメイド服。よく見ると、ところどころしわになってしまっている。
 さらに、いつもはちゃんと枕に頭を預け、布団に入って仰向けになり、綺麗に装飾された天井を眺めながら眠りについているはずなのに、今の自分は枕も使わず、うつぶせになって布団もかぶっていない。
 何となく体が汗でべたついているようにも感じられる。服が変わっていないことから見ても、恐らく昨夜はシャワーを浴びることも忘れ、部屋に戻って眠ってしまったのだろう、と考えた。

 しかし彼女にとって最も悪いことは、シャワーを浴び忘れたことでも服がしわくちゃになっていることでもなく、睡眠をとった直後だというのに、疲労が薄まった感じがまったくしないことだった。むしろ全身にまとわりつく虚脱感は大きくなったようにも感じられ、本当に自分は眠ったのだろうかという気にさえなる。

 だが、疲れているからといってそのままベッドに倒れこむわけにもいかない。
 眠い目をこすり、だるい体を起こし、力の入らない足で多少ふらつきながらも立ちあがると、なんとか窓の傍まで歩いていった。

 朝起きてマリアが最初にすることは、洗面所に行って顔を洗うことでも歯を磨くことでもない。今日に限ってはシャワーを浴びに行くという選択もあるが、それも後回しにする。
 最初にすることは、カーテンを開け、窓を全開にし、外の景色をしばしの間楽しむことだった。  まだ薄暗い空に太陽が少しだけ姿を現すこの光景が、マリアは好きだった。
 朝の景色が好きな理由については考えたことは無い。ただ、自分は明るくて皆と一緒にいられる昼が好きで、それとは逆の、外も暗く、否応無しに一人で過ごさなくてはならない夜が嫌いだという意識があるとは気づいていたので、それと関連はあるのだろう、とはなんとなく思っていた。

 既に習慣となっている起床後の行動。
 今日もまた、大好きな景色を楽しもう。そう思ってカーテンに手をかけ、一気に開けた。

「え……?」

 しかし、いつものようにカーテンを開けた彼女の目の前に広がる光景は、いつも見ているものとは違っていた。
 薄紫であるはずの空は、青く晴れ渡っていて。
 地平線から少しだけ姿を見せているはずの太陽は、頭上で堂々と光り輝いている。

 マリアは慌てて時計に目をやるが、時計の針は、いつも朝起きてから見ているものと変わりなく見えた。
 普段の起床時間は五時少し前といったところ。時計はというと、一方の針が五、もう一方が十を指している。

「……あれ?」

 しかしよく見ると違和感があることに気づいた。軽く目をこすり、もう一度見てみるが、思った通り。本来五の位置にあるはずの短針は十の位置に、十の位置にあるはずの長針は五を指しているのだ。

「えっと……」

 時計の針が何を意味するかは当然わかっていたが、あまり理解したくもなかった。
 そういえば起きたときにいつもよりちょっと眩しいと思ったとか、小鳥のさえずりが聞こえなかったな、とか思い出したが、それももはや何の意味も成さない。
 五時前だと思っていた現在の時刻は、本当は十時半だと、時計の針は告げているのだ。

「@+*&●%#$★Σ!!!」

 彼女が急いで着替えを済ませ、顔を洗い、歯を磨き、軽く身だしなみを整えて部屋を出るには、十分とかからなかった。






    カツ、カツ、と廊下にマリアの足音が響く。
 やはりこのままで一日を過ごすのは抵抗があったらしく、マリアは部屋を出るとまず大浴場へ向かった。あまりゆったりとしている暇は無いのでとりあえず軽くシャワーを浴びるだけにしたが、それでも汗は洗い流せた。
 そしてそれを終え、現在、昨日の夜も通った長い廊下を歩いている。起きてからここまで三十分とかかっていないが、それでも十一時なので、余裕は無い。

「どうして誰も起こしてくれなかったんだろう……?」

 何となしに窓の外を見ながら早足で歩いているうちに、シャワーを浴びているときにもずっと心に引っかかっていた疑問が、無意識に言葉になった。
 使用人として働き始めてすぐの頃は、前日の疲れの為に寝過ごすことも多く、何度も他の人に起こされたものだった。
 最近は少なくなったとはいえ、やはりある程度の時間まで寝ていると起こされた。無論、十時半まで眠っていることなど許されはしない。しかも、普段ならともかく、今日は大事な客がある日なのだ。

 もう客はこの屋敷に来ているのだろうか、とそんなことも思った。
 昨日の夜に帝に聞いた話では、今日の何時頃来るのかまでは聞いていない。まだ午前中だが、もしかしたらもう来ているのかもしれない。
 いつもは使用人達が雑談などしながら掃除をしているこの廊下に人の姿が見られないというのも、あまりうるさくならないように廊下には出ないようにしているとか、客をもてなすために皆で豪華な料理を作ったりしていると考えれば、納得がいく。

 とりあえず自分はどうするべきかわからないので、誰か人を探して、状況を把握したほうが良いだろう。
 そう考えながら歩いていると、近くの部屋から窓を開けるような音が聞こえた。

「…………?」

 その部屋の前で、マリアは立ち止まる。
 誰かがそこにいるのだろうか。そう思い、静かにドアを開けて中を除いてみると、見慣れない子供が一人、窓際にいた。

 鮮やかな金髪に、ツインテールの女の子だった。窓から体を乗り出し、つまらなそうな顔で外を眺めている。
 少女の背丈や顔立ちから、自分よりもいくらか年下であるように思える。
 マリアは彼女とは面識もなく、どこかで見たことすらなかったが、この屋敷に自分よりも年下の者はいないということ、それに加えて昨夜の帝との会話から、彼女がおそらく帝の孫であり、自分が今日相手をする予定の子だと推測するのに苦労は無かった。
 となると、このまま放っておくわけにはいかない。理由はわからないが、おそらくこの部屋に一人で待っているように言われ、退屈しているのだろう。

「あの……」

 マリアの呼びかけに反応し、少女はこちらを向く。しかし、少女の名を呼ぼうとしてマリアは気づく。自分は彼女の名を知らないということに。

「あ……えっと……」

 口ごもるマリアに対して、一方少女のほうはというと、マリアの姿を視界に捉えるが否や、満面の笑みで駆け寄ってきた。そのまま、きょとんとしているマリアの目の前まで来ると、マリアの次の言葉を待つことなく、言った。

「ねえ、おねえちゃん、ナギと一緒に遊ぼ♪」
「……へ?」

 ナギ、というのが彼女の名前なのだろうか。今日はこの子と遊ぶ予定のはずだから、このまま一緒にいるべきなのだろうか。
 いくつかの疑問が頭に浮かぶが、それについて考慮する間もなく、ナギ、といった少女はマリアの手を握り、無邪気という形容が最も適するであろう、そんな目でこちらを覗きこみながら訊いてくる。

「ねえ、おねえちゃん、名前はなんていうの?」
「え……?」

 一方的な少女のペースに押されつつも、彼女が自分との親交を求めているのは伝わってくる。意地悪をして名前を教えない理由はない。むしろ今日一日を共に過ごす相手なのだから、どちらかというと教えてあげるべきだろう。
 少女の目を覗き返すと、できるだけ柔らかな口調でゆっくりと、マリアは名乗った。

「マリア、ですよ、お嬢様」

 しかし少女はそれを聞くと、ふっと手を離し、頬を膨らませ、ぷいと後ろを向いてしまった。
 マリアは何がいけなかったのかわからず、おろおろしながら理由を尋ねることしか出来ない。

「あの、お嬢様、私何か……?」

 そう言いながらマリアは左から彼女の顔を覗きこむが、今度は右を、

「お嬢様……?」

 右から覗くと、左側を向いてしまう。

 しかしそれでいてマリアを拒絶したわけではなさそうで、彼女は背を向けながらもちらちらとマリアのほうを伺っている。
 マリアはしばし考え、もう一度、さっきとは違う言葉で呼びかけてみた。

「えっと……ナギお嬢様?」

 途中までを聞いて振り向きかけた少女は、残りを聞いてまた後ろを向いてしまう。マリアもそれを見て、彼女が何を求めてるか確信した。

「一緒に遊びましょうか……ナギ?」

 つまりは、そうなのだろう。自分が年の近い相手だからなのかもしれないが、『お嬢様』と呼ばれるのが嫌いなだけだ。
 ナギは「うん!」と答えると再びマリアの手を取ってにっこりと笑い、つられてマリアも微笑んだ。

 それは穏やかで、見方によっては控えめでもあったかもしれないが、自然な笑顔。
 その笑顔とともに、目の前の少女のように無邪気に笑っていた、あの頃の自分が蘇ってくる気がした。




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