「えっと……」
その両手にチェスの道具一式を抱えながらにこにこと笑うナギの前で、マリアは少々混乱していた。
それでは、何をして遊ぼうか。そう訊いた時、ナギは、マリアの予想とは完全に外れた答えを返した。
第一印象からは活発な子供であるように思えたので、外に出て遊ぼうとか言ったり、もしくはこの年代の女の子の常として人形などで遊んだり、といったことを思い浮かべていた。だから、チェスをしたい、とナギが答えた時は、驚いた。
「チェス……ですか?」
「うん、昨日教えてもらったの♪」
「ああ……なるほど」
この言葉を聞き、マリアは頷いた。今目の前にいるのは、基本的に好奇心が強い子供。新しく学んだ事を試してみたくて仕方が無いのだろうと、ナギの気持ちが想像できた。
そしてそれを微笑ましく思うと同時に。
なぜか羨ましいとも思った。
「…………?」
急に黙ってしまったマリアを不審に思ったのか、ナギが覗きこんでくる。
マリアはいつのまにか下を向いてしまっていた顔を上げると、ナギの手からチェスの道具の一式を取り、小さく笑みを浮かべて言った。
「……手加減はしませんよ?」
「チェック!」
しかし十分後、白い駒で満たされたボードに力強く駒を打ちつけながら得意げにそう言ったのは、マリアではなかった。
「あ……私の負けですね」
悔しがったりすることも無く、マリアは穏やかに笑う。
最初から、わざと負けてあげようと決めていた。
ナギが思ったよりもかなり強かったため、あまり難しいことではなかった。
わざと負ける、ということにもあまり抵抗感は無く、むしろナギが喜んでいるのを見ると、良いことをしたとさえ思えた。
少しは、自分も思う存分楽しみたいという気持ちがあったかもしれない。
だが、そもそもこれは自分が勝って喜ぶための勝負ではなく、あくまで使用人として、退屈しているナギを楽しませるための時間つぶしのようなもの。ナギとここにいるのは『遊び』ではなく、あくまで『仕事』の一環としてなのだ。
そう思うことで、その気持ちは無理矢理心に押しこめた。
「じゃあ、もう一回やろ♪」
ナギはそう言うと、今の対戦でマリアから取った黒い駒を両手に持ち、マリアに渡した。
勝った事に気を良くしたというのもあるのだろうが、どうやらまだまだ遊び足りないらしい。
「え……あ、はい、もう一回ですね」
マリアはそれを受け取ると、また駒を並べ始めた。
そして、二度目の対戦。
一度目の勝負で、ナギが見かけからは想像もつかないほどに強いということが、マリアにはわかっていた。
ナギの言葉を信じるならば、彼女はチェス歴一日足らず。しかもまだ小さな子供。しばらくやっていなかったとはいえ、ゲームの一種であるチェスなら実力の差は大きいと思っていた。
その予想に対して、一戦終えた後での率直な感想は、『本当に昨日教わったばかりなのか?』というものだった。正直、あまりに強い。
無論、いくら強いといってもマリアが本気を出せば勝てる相手であることに変わりは無かったのだが、それでもその外見や雰囲気からはかけ離れたナギの強さは、驚くに値するものだった。
この子は強い、という認識。
久しぶりに何かを楽しんで、心が踊る感覚。
それらが合わさったのだろうか、マリアの心には油断が生まれていた。
油断して力を抜いてしまうのではなく、油断して力を入れすぎてしまう。
少しくらい本気を出してもこの子なら大丈夫だという油断から生じる、一回目の勝負のときには見せなかった鋭い打ち方。
ナギを楽しませることを第一としていたはずが、いつしかマリア自身が楽しんでいた。
そしてその結果、
「………………」
「………………」
五分後にそこにいたのは、涙目でワナワナ震えるナギと、気まずそうにしているマリア。
一度目の勝負が終わったときは黒い駒で溢れていた盤面は、チェスのルールを無視するほどに一方的に白い駒で埋め尽くされている。
何を言えば良いのか。考えながら、目を離した一瞬。
ナギは椅子から立ち上がり、部屋を出ていってしまった。
「あ! ちょっと待って……」
わずかに遅れて、マリアも後を追う。
本来ならすぐに追いつけるはずだったが、ナギは隣の部屋に入り、そこに鍵をかけてしまった。
「鍵は……!」
できればすぐにでも開けてやりたいが、さすがに鍵が無くてはどうしようもない。
マリアは仕方なく、ほんのわずかだけナギを一人で置いておくことにした。
「え……?」
しかし数分後、鍵を持って戻ってきたマリアが見たのは、ナギが鍵をかけたはずの扉が、無造作に開け放たれている光景だった。
急いで中を見てみるが、やはり、そこには誰もいない。
「ど、どうしよう……」
「どうかしたの?」
「ナギがどこかに行ってしまって………………え?」
背後からの、聞き覚えのある声。
振り向いてみると、いなくなったと思った少女が、そこにいる。
その手には、チェスの教本があった。
──もしかすると。
もう一度勝負しよう、と言ってくるナギを見て、一つの仮説が浮かぶ。
「あの……さっきまでこの部屋で、何をしていたんですか?」
「え…それは……」
「もしかして、負けたのが悔しくて、その本でチェスの勉強をしていたとか……」
「ち……違うよ! 悔しくなんかないよ!!」
少しだけ意地悪く訊いてみると、返ってきた反応は、予想通りの必死な否定。
──なんだ、そういうことか。
少しだけ、この少女のことがわかったような気がした。
そして、それと同時に。
自分を心配させた行動すらも、とても愛しく思えた。