「へえ、そんなことがあったんですか」

 お嬢様らしいですね、と続けて、ハヤテとマリアは一緒になって笑う。

「でも、それだとお嬢様はマリアさんに負けないように頑張って、逆にチェスが強くなっちゃうんじゃ……」

 不思議そうにするハヤテ。
 今度はマリアだけが、口元を緩めた。

「ええ、私もそのうち負けてしまうんじゃないかと思っていたんですけど……」

 ゆっくりと、話し始める。







 いつしか、窓から見える外の景色は暗くなっていた。
 結局その後、一日中チェスの対戦を繰り返しても、ナギがマリアに勝つことは一度も無かった。
 ナギの凄まじい成長速度をしても、一日のうちにマリアに追いつくには至らず、「手加減なんてするな」というナギの言によりマリアもほとんど手を抜かなかったので、必然のことだった。
 他の使用人たちが部屋に入ってきてナギを連れ出していった時、ナギは頬を膨らませたが、すぐに笑顔になると、「またやろうね!」とマリアに手を振った。
 同じように手を振り返すマリアの表情は、笑顔であったが、どこかかげりがあった。

 マリアは、知っていた。
 ナギは、明日には帰ってしまう。この屋敷から出て行ってしまうのだということを。
 そして、また会うことが出来たとしても、それはおそらく近い未来ではないということを。

 マリアがここに住み始めてから、ナギの両親が仕事のためにここにやってくるのは、初めてのこと。
 ナギの両親がここに来る、すなわちナギがここに来る頻度はかなり少ないと推測するのは、簡単だった。

 自分よりも幼いけれど、ほんの一日一緒にいただけだけど、その時間はとても心地よかった。

 初めての、友達。
 意識せず、そんな単語が浮かんだ。思わず笑みがこぼれ、そしてすぐに憂いの表情に変わる。
 その友達とは、すぐに会えなくなる。
 窓の外の景色が、心なしか先ほどよりも暗く見えた。







 沈んだ気持ちで過ごしていたマリアが帝に呼び出されたのは、やはり夜更けのことだった。

 呼び出しを受けた時、まったく期待しなかったわけではない。
「ナギはもう一日ここに残ることになった」「明日もあいつの相手をしてやって欲しい」

 そのような言葉をまったく期待していなかったといえば、嘘になる。
 そんなに都合の良いことは無い、最初はそう思っていたはずが、いつしか、もしかしたらという期待へと変わる。
「また明日もあいつと遊んでくれ」と言われた時、自分が「はい」と即答する姿をイメージして、マリアは知らず知らずのうちに微笑んでいた。

 昨夜よりも軽い足取りで帝のもとへ向かい、忘れずにノックをしてからその部屋へ入る。
 椅子に座る帝の目をしっかりと見て、

「おじい様、どういったご用件でしょうか」

 期待に目を輝かせて、マリアは訊いた。

「うむ、今日はナギの相手をしてくれてご苦労。それで、明日……」

 ──苦労なんかじゃないですよ。
 そう言おうとしたが、帝が言葉を続けるので、心中で呟くに留める。
 どこか帝の台詞が芝居がかっているような違和感を感じたが、それも些細な問題ではない。

 今、何よりも聞きたいこと。
 明日。その言葉の先は、

「明日、ナギは帰るわけなんじゃが」

 少し、足元がふらついた。

 当たり前のこと。
 そもそも両親の仕事について来ただけで、それが終わったんだから一緒に帰るのは当たり前。
 どうしてもう一日ここにいるなんて勝手に決めていたんだろう。

 でも、大丈夫。
 もう二度と会えないということは無いはず。
 また何年かすれば、きっと会える。
 その頃にはナギも自分も、もう少し背が伸びたりしているんだろうか。

 大丈夫、あと何年かすればまた会える。

 ──これから何年も、会うことは無い。


「……というわけなんじゃが、どう思う?」

「え……?」

 話の内容も耳に入っていない、呆けた声を出すマリアに、帝はにいと笑って、繰り返す。

「ナギがだだをこねているんじゃよ。マリアにまだチェスで一度も勝っていないからこのままでは帰れない、勝つまで勝負するんだと」

 何を言っているのか、咄嗟には理解できなかった。

「もう仕事の話は終わったからナギは両親と一緒に帰らなくてはならないと言ったのだが、それならマリアが一緒について来たらいいと言い出しおった。ついていったらナギが勝つまで延々とチェスの相手をさせられるかもしれんが……」

 そこまでで、帝は一度言葉を切った。
 実に楽しそうに笑いながら、マリアの目をじっと見つめ、試すように訊く。

「マリア、お前はどうしたい?」

「私……は……」

 あまりに魅力的な誘惑に、マリアは逆らう術を持たない。
 また、逆らう理由も無かった。

「ナギと──もっと一緒にいて、もっと一緒に遊びたいです」







「きっと、おじい様は全部わかってたんじゃないかと思うんです。私が一人でいるのが寂しくて、友達を欲しがっていたことも、あんな提案をすれば、私がナギについていこうと思うんじゃないかということも」

 そう言って、マリアは昔話を締めくくった。
 聞き入っていたハヤテをちらと見て、マリアは目を細める。
 この後に来る質問は、予想がついていた。

「あれ? 結局、お嬢様はどうしてチェスが苦手になったんですか?」

 思った通りのことを言うハヤテに、マリアは口元を緩めて、楽しそうに続ける。

「やっぱりあの子は昔から素直じゃないんですよ」

「え? それってどういう……」

 盤の上に整然と並べられたチェスの駒を、マリアはひとつ手に取った。

「あれからナギと何回かチェスで勝負をしたんですけど、あの子ったら、全然強くならないんですよ。やる気があまりなくなったみたいで。私と最初に会った時はぐんぐん成長してたのに、まるで、チェスで強くなる気がなくなってしまったみたいなんです」

 手に持った駒を、再び盤の上に置く。
 かん、と軽やかな音が鳴った。




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