「あ……」
ナギの体力トレーニングの一環として屋敷の敷地内を散歩している途中、ハヤテはそう呟くと、急に足を止めた。
後ろを歩いていたナギは不思議に思い、ハヤテに声をかける。
「ハヤテ、どうしたのだ?」
しかしハヤテは、聞こえないのだろうか、ナギの言葉に反応することなくある方向を見つめている。よく見ると、その顔はやや赤くなっているようだった。
「…………?」
ナギもまたハヤテが見ているのと同じ方向に目をやるが、そこには池が一つあるだけで、特に変わったことは無いように思えた。
ただ、池といってもここは三千院家の敷地内。その大きさはもはや小さな湖といっても差し支えないであろうもの。
もしやそれがものめずらしいのか、と思って再度ハヤテの方を見るが、かつて帝のいる本宅に連れて行った時にそのあまりの大きさに驚いていたりしたのとは、少し様子が違う感じがした。
とりあえずこのまま留まっていても仕方ないと判断し、ハヤテの耳元に顔を寄せる。そのことにすら気づかないでいるハヤテに多少苛立ちを覚えながらも、スゥと息を吸い込むと、
「ハヤテ!!」
「うわっ!……お嬢様、どうしたんですか? そんなに大声出して」
ハヤテは大声をあげたナギを不思議そうに見つめるが、すぐに自分たちが今まで何をしていたか思い出し、
「あ、そういえば散歩の途中でしたね。でもそろそろお昼の時間ですし、一度屋敷に戻りましょうか……」
アハハ……とばつがわるそうに笑って歩き出そうとする。
だがナギは、それには続かない。ハヤテが顔を赤くして見つめていたこの場所のことが、気になっていた。
「えっと、お嬢様、行きましょうか?」
「……ハヤテ、この場所がどうかしたのか?」
「へ!?」
少し裏返った声を出すと同時に、ハヤテの顔が朱に染まる。
「あ……えっと、それは、その……」
ごにょごにょと呟く。その目は泳いでいる。
怪しい。
それ以外に何も浮かばなかった。
基本的にハヤテを信頼していない、というわけでもないのだが、顔を赤くして、しどろもどろになって、結局は何も話そうとはしていない。
ハヤテを恋愛対象としてみている者からすれば、気になって当然。そんな状況だった。
「ハヤテ……?」
不信と不安が、心に沸き起こる。
「ああ、こんなところにいたんですか」
ハヤテとナギ以外の、第三者の声が響いたのはそんな時だった。
「あ……マリア、どうしてここに?」
「どうしてって……もうお昼ご飯の準備はできてますよ。散歩も良いですけど、ご飯を食べてからにしてください。ほら、ハヤテ君も……」
しかしマリアはその続きを言うことなく言葉を止めると、ハヤテに近づき、その顔を覗きこんだ。
「う〜ん、ハヤテ君、顔が赤いみたいですけど、もしかして風邪ですか?」
そう言って彼の額に手を当てようとするが、
「い、いえ、そんなことはありません!」
ハヤテはマリアの手を避け、ただでさえ真っ赤な顔にさらに血をのぼらせる。
「…………?」
訝しげにハヤテを見るマリアだったが、その視線がハヤテの背後、先程ハヤテが見ていた風景を捉え、そしてもう一度ハヤテの顔を見ると────彼女の顔もまたみるみる赤く染まっていった。
「……マリア?」
どうしたんだ?と訊く意味も込めて言ったつもりだったが、それはマリアには通じなかったらしい。
ナギとハヤテに背を向けて顔を見られないようにすると、そそくさと歩き出す。
「え、えっと……さあ、戻りましょうか。早くしないと、ご飯が冷めてしまいますよ」
「そ、そうですね、マリアさん。お嬢様も、戻りましょう」
「………………」
何があったのかはわからない。だが、あの場所で、二人に関係のある何かがあったのはおそらく確かだろう。
自分の知らないところで二人が何かをしている、ということ自体も気になるが、むしろ、何があったのか自分に教えてくれない、ということが不信感を募らせた。
その場から動こうとしないナギに、マリアが振り返って言う。
「ほらナギ、行きますよ」
「……ああ、今行く」
その答えに、マリアが再び前を向いて歩き出すのを確認すると、ナギはさりげなく周りを見渡した。すると、太陽の光を反射している、あるものが目に入る。それは敷地内にいくつも備え付けられている、監視カメラの一つ。
それだけ確認すると、二人について歩き始めた。
「ふふふ……私に隠し事など、できると思うなよ」
屋敷に向かって歩いて行く二人を、ナギは後ろから睨みつけた。
「これでもない、とすると……」
その日の夜、三千院家のとある一室。
そこには家具の類は一切無い。
壁には、数十のモニター。そして、部屋の大部分を占めるのはコンピューター。
この屋敷の者でもごく一部のみが入室を許される、三千院家のセキュリティを司る場所がここだった。
そんな部屋で、ナギは、あるものを探していた。
慣れた手つきでコンピューターに指示を出し、モニターに映る画面に目を走らせる。
そんな作業を続けること、約五分。
「うむ、これだな」
目的のものを見つけて満足げに言うと、近くにあった椅子に腰を下ろす。
ナギの前のモニターには、昼間にハヤテとマリアがおかしな反応をしていた、あの景色が映し出されている。
さらにボタンを一つ押すと、その映像が過去のものへと戻り始めた。ここの映像は録画もされているので、もちろん巻戻しも可能。
そして根気よく見続けていれば、あの場所で何があったのかもきっとわかる、という考えだった。
どれだけ巻戻せばよいのかはわからないが、ハヤテがこの家に来てからまだ一ヶ月と少ししか経っていないので、最高でも一月分巻戻せば目当ての部分は見つかるだろう。
さらに、今モニターに映し出されている場所は、普段は人が通らない場所。高速で巻戻しつつ、何か動くものがあればそこで止めれば良いというだけなので、あまり苦労はないだろうとも思っていた。
そしてナギの思惑通り、しばらく巻戻したところで何かが画面に映る。
「今のは……」
椅子から身を乗り出し、巻戻しを止め、標準スピードで再生する。
そこには湖のほとりで石に腰を下ろしてうなだれているハヤテと、
「マリア……」
その背後にはやはり、彼女がいた。
ふと画面の時刻を確認すると、深夜の二時半を過ぎたところ。
どうしてハヤテ、そんなに辛そうに?
この日、何があっただろうか?
いや、それよりどうしてこんな時間に、こんなところに二人きりで?
唐突に、迷いが生じる。この先を見るのが少しだけ怖くなる。
だが、モニターはそんな主人の心の動きには一切反応せずにただ二人の姿を映し続ける。
二人の声が、微かに聞こえてくる。
『……そんな所……カゼを…………心配して…………』
『…………この屋敷に来る前……未来に期待したり……』
「……音量が小さいな……」
口の動きからしてハヤテもマリアも何かを喋っているようだが、音量が小さくてよく聞こえない。
どうしよう。
聞きたいけど、聞きたくない気もする。
音量を操作するボタンに手を伸ばしかけ、引っ込める。
何度か繰り返すうちに、やっとのことでボタンに触れる。
指に力をこめ、それを押そうとしたその時、
「え……?」
映像の中の二人に、動きがあった。
いや、正確には一人。マリアがハヤテと背中合わせに、腰を下ろしたのだ。
そして一言二言喋ったかと思うと、
ハヤテに、後ろから抱きついた。
「マリア……?」
まだ何か喋っているようだったが、ナギの耳には入らない。
「一体、どういう……」
呆けたように言うと同時に、視界がにじむ。涙のせいだとは、すぐにわかった。
目を強くこすってそれを拭うと、再び前を見る。
『……空っぽの……………いつかハヤテ君の……』
相変わらず音声はよく聞こえなかったが、二人は既に離れ、立ち上がって、やはり何かを話しているようだった。
もしも二人が抱き合ってでもしていようものなら、もはや耐える事はできなかっただろう。そうはなっていなかったことに少しだけ安心し、表情が緩む。
しかし、それはハヤテの次の言葉に、いとも簡単に打ち砕かれた。
『はい!! 僕、マリアさんのためにも……白皇で一流の執事になってみせます!!』
ただ単に、彼の声が大きかっただけなのか。
あるいは、彼がその言葉に、並々ならぬ決意を秘めていたからであろうか。
今までは聞きとれなかったというのに、その言葉だけは、ナギははっきりと聞き取り、はっきりと理解できた。
先程、『自分から』ハヤテに抱きついたマリア。
今のハヤテの『マリアさんのために』という言葉。
まさか。
一つの考えに行きつく。
それはおそらく、自分にとっては最も失うものが多い結末で。
また視界がぼやけて、そして何も見えなくなった。
どこか遠くで、何かが割れるような音がした。
どれだけの時間が経ったのか。意識は、唐突に戻ってきた。
周りにはガラスの破片が散らばり、二人が映っていたはずのモニターには、今まで自分が座っていたはずの椅子が叩きつけられている。
壊れてしまったのだろうか、コンピューターももはや稼動していない。
どうやら、自分がやったらしいと理解する。ああ、マリアにまた何か言われるなと、ぼんやり思った。
「痛……」
腕のあたりに、焼けるような痛みを感じた。自分の周りに散らばっているモニターの破片。その一つに切られたのだろうか。見ると、血が一筋流れていた。
『大丈夫ですか!?』と心配してくれる彼も、『やれやれ……』と言いつつ穏やかに微笑んで治療してくれる彼女も、そこにはいなかった。
『はい!! 僕、マリアさんのためにも……白皇で一流の執事になってみせます!!』
頭の中で、彼の言葉がこだまする。
できることなら忘れてしまいたい、なかったことにしてしまいたい彼の言葉は、しかしはっきりと頭に残っていた。
「ハヤテの、バカ……」
それは、彼に対しては、今までに何度も突きつけた言葉。
しかし、彼女に対しては今までにそのようなことを言った覚えはなかった。
彼女はいつでも自分と一緒にいてくれて、いつでも味方だと思っていたから。
壊れたモニターが目に入る。
それはもう何の映像も映し出さないはずなのに、彼女が彼に抱き着いているその光景が、未だに残り続けているように思えた。
「マリアの、バカ……」
今まで一度も口にしたことの無かった言葉が、涙と共に零れ落ちた。
「ハヤテ君、ナギを見かけませんでしたか?」
「お嬢様ですか? そういえばしばらく見ていないかも……どうかしたんですか?」
自分の答えを聞いて暗い顔をするマリアに、ハヤテは問い掛けた。
あまり良いことではないが、ナギの家出は日常茶飯事。前回勝手に家を出たときも、『SPが後をつけているから大丈夫』と、実に手慣れた様子だった。
だというのに、切迫した様子でナギの居場所を聞いてくる。何か起こったのかもしれないと、不安が込み上げた。
「実は……ナギがどこにいるかわからないんです」
もしかしたら、と思っていた予想は的中してしまった。しかし同時に疑問にも思う。
「えっと……この屋敷には監視カメラがありますよね? それで探せば……」
例え敷地内から外に出ていても、手がかりくらいはつかめるかもしれない。そう続けようとしたが、マリアは首を横に振る。
「それが、監視カメラの映像をチェックするための設備が、誰かに壊されていて……」
これを聞いてハヤテも顔色を変えた。監視カメラの映像を見られない、というのが問題ではない。誰かに壊されていた、というのがまずいのだ。
いくらナギとはいえ、家出のために大切な設備を破壊したりはしないはず。となると、他の誰かが破壊したということになる。もしかしたら、本当に誘拐されたという可能性さえ考えられる。
実際のところ、それは他でもないナギの仕業であるのだが、今の二人にはそんなことはわからなかった。
「どうしましょう……とりあえず、警察に……」
珍しく慌てるマリアの言葉に、あのクリスマスの夜が思い出された。ナギと出会い、ここにいるきっかけになった夜。あの時は目の前で車に連れこまれていたから助けられたが、今は居場所がわからない。
(確か、あの時は……)
目の前にいる、マリアとも初めて出会った夜。彼女は今と同じように、ナギを捜していた。
『実はすぐそこの迎賓館でのパーティーに出席していたんですが、あの子ったら……』
『カードも携帯も持たずに飛び出してしまって……』
そこまで思い出したとき、ふと閃いた事があった。
「マリアさん、お嬢様の携帯に電話をかけてみます」
ハヤテが自分の携帯を取り出すと、マリアもそのことに思い当たったのか、「あっ」と呟く。
アドレス帳の一番に登録してある名前を選択して、すぐに電話をかけ、耳に当てた。
コール音を聞きながら、後ろで不安そうにしているマリアに目をやる。
(マリアさんが、こんなに取り乱すなんて……)
普段は冷静沈着。常に周りに気を配っている彼女が、ナギが携帯を持っている可能性にも気づかない。
それだけで、彼女がどれほど冷静さを失っているか推察できた。
息をのんで見守るマリア。
頼むから出てくれ、と携帯を強く握り締めるハヤテ。
緊張のためか、お互いに何も喋らない。
重苦しい沈黙の中、二十回のコール音を聞いた。
答える声は、無かった。
風が、吹いた。
木々の葉を揺らすその風は、ナギにも容赦無く吹きつけられた。
「寒いな……」
暗闇の中、ナギは体を震わせる。
まだ春と呼ぶには早い、そんな時期。
コートを着ることすら忘れて家を出てきた彼女には、夜の風は冷たすぎた。
ナギは、歩いていた。
どこかに行きたい、などの目的は一切無く、自分がどこにいるかすらもわからない。
ただ、歩き続けていた。
♪〜〜〜♪〜〜♪〜〜〜
歩いているうちに、ナギの携帯が着信を知らせる。立ち止まって、そのメロディーに耳を傾ける。
画面を見る必要は無い。その着信音だけで誰からの電話なのかは、はっきりとわかっている。
それがいつもなら楽しみに待ちわびていて、でも無駄な事にはあまり携帯を使わないため、滅多に電話もメールもくれない、彼からのものだともわかっていた。
彼からのものだからこそ、出る気になれなかった。
♪〜〜〜♪……
数十回のコールの後に、着信は切れた。
また、聞こえるのは風の音だけになった。
「ハヤテとマリアの、バーカ……」
力無い声で呟き、一呼吸置くと、
「バーカバーカ!! 大体ハヤテなんて伊澄やヒナギクになびいたりして、今度はマリアか!! もうお前のことなんか知るか!! それにマリアもマリアだ!! 恋愛とかには興味なさそうだったのにハヤテの事は好きか!? そんなに好きなら二人でどこへでも行ってしまえ!!」
周りをはばからない大音声で叫ぶナギ。しかし次に漏らした言葉は、また弱々しく、微かなもの。
「二人で……どこへでも……」
恐怖が、あった。
口に出してしまった事で、それはよりわかりやすい形となり、ナギの心を締めつける。
二人を失う事への恐怖。
駆け落ちという言葉をナギも知ってはいたが、二人の性格から考えて、さすがにそこまでするとは思えなかった。
おそらく、この後自分が屋敷に連れ戻されてからも、ハヤテもマリアも、何も変わりはしないだろう。
今までと同じように接してくれるはず。そうしようとするはずだ。
何も、変わりはしない。
ナギの意識の変化を除いては。
ハヤテの一番はマリア。
マリアの一番はハヤテ。
どちらも、自分ではなく。
ナギの意識にそれが植え付けられる、たったそれだけの変化。
しかしそれだけで、自分は二人といることに耐えられなくなる気がした。いや、きっと二人が一緒にいるのを見ただけで耐えられなくなる。
例え一時耐えることが出来たとしても、それはきっと長くは続かない。
二人にとって自分はいてもいなくてもいい、むしろ邪魔な存在なんじゃないか。
今までは考えもしなかったが、きっといつかそう思うようになる。そして、そう思うようになってしまった場合、もはや選択肢は二つしか残されていない。
即ち、自分が二人の前から消えるか、二人を自分の前から消えさせるか。
今まで通りに三人で過ごすというのが選択肢に加えられないことが、悲しくて、寂しかった。
そしてどちらを選んだにしろ、最終的に二人を失うことには変わりない。
一番好きな人と、一番大切な人。二人を同時に失う。
そんなことは、考えられない。考えたくないほどの、恐怖だった。
しばらくの間、立ち止まったままでそこを動かなかった。
頭に冷たい感触を感じることがなければ、そのままずっとそこにいたかもしれない。
髪を触ってみると、水滴がついていた。思わず空を見上げると、そこには星の姿は無く、厚い雲が重なっているのが見えた。
その雲の様子に、今にも降りそうだ、と思ったその時。
今度は額に、雨の滴が落ちる感触を感じた。
「へくちっ」
もう、くしゃみをするのが何度目かすらわからなかった。
幸いにも雨宿りするのに申し分無いほどに大きな木を発見し、その下に入っているので雨自体はしのげている。しかし、吹きつける風と周囲の気温の低下だけは防ぎようは無い。
かといってここから出てもどうにかなるわけでもなく。ただその場に留まっている事しかできなかった。
歯がカタカタと音を鳴らす。手足は震え、指先の感覚はほとんど無い。体力を奪われたせいか眠気すらわいてきて、もはや木に寄りかかりながら立つのが精一杯だった。
「へくちっ」
また、くしゃみをする。一瞬だけ眠気がとんで、またやってくる。
ふと、既視感を感じた。
そう、たしか、こんな状況だった。
瞼を閉じる。あのクリスマスの夜の出来事が、頭の中で再生される。
道に迷って変な男に絡まれていたのを助けてくれて。
自分が寒がってくしゃみをした時に、コートをかけてくれて。
それは自分からすれば安物には違いなかったけれど、すごく暖かくて。
でも、そうしてくれた彼は今は傍にいなくて。
そんな負の感情が最後の体力を奪い去ったのか、ナギの足から力が抜けた。
目をつぶったまま、ふらっ……と前のめりに倒れていく。その動作はやけにスローに感じられたが、それに抗う力は残っていなかった。
とん。
しかし、地面に向かって倒れるその動作が止まった時にナギが感じた感触は、固い地面のものではなかった。
肩に誰かの手が添えられている。その手はナギの前方に傾いた体を押しもどし、また倒れないようにしっかりと掴む。
「お嬢様、大丈夫ですか!?」
ナギが目を開けると、そこには雨に打たれて体中を濡らしたハヤテとマリアがいた。
「お嬢様、体がすごく冷えてる……!!」
そう言うとハヤテは自分の着ている服を一枚脱ぎ、ナギに着せた。防水加工が施されているそのコートは、外側は濡れていても中までは浸透しておらず、それまで着ていた者の温もりを感じさせた。
「ハヤテ……」
ナギの顔が緩む。しかし、雨に全身を打たれ、自分と同様寒そうにしているマリアを視界に捉えると、ハヤテを見つめていたその目は彼から逸らされた。
「……マリアに着せてやったらどうだ?」
激情に任せて口にする言葉。しかしその一方で、これほどに冷たい声を出せるのか、と驚く冷静な自分がどこかにいた。
「……お嬢様?」
「……ナギ?」
訝しげな視線を向ける二人に対して、ナギはほとんど怒鳴りながら言葉を続ける。
「ハヤテは私よりマリアの方が好きなんだろう!? じゃあ後ろで寒がってるマリアに着せてやればいいじゃないか!? マリアだってハヤテが好きなんだから、そうしてもらいたいんだろう!?」
一方的に言いきると、二人に背を向けた。すると、もう本当に体力を使い果たしたのか、体から力が抜け、へなへなと座り込んでしまった。ハヤテはというと、あまりの状況に混乱して対処が遅れてしまっていた。
座り込んだナギの耳に、また、冷静な自分の声が聞こえた。
冷静な自分は言っていた。
やってしまった。もう終わりだ、と。
きっとハヤテは今自分が着ているコートを取って、本当に好きな人に着せる。ナギはそう信じて疑わなかった。
そしてそうなったら、自分の中の大切な何かが終わりを告げる、とも確信していた。
二人のどちらかが近づいてくる気配がした。ナギは目を閉じた。
誰かの手が、ぽん、と頭の上にのせられた。
「どうしてそんな考えを持ったのか知りませんけど……」
それに反応して、ナギはビクッと体を震わせた。その声が近くから聞こえたので、近づいてきてたのはマリアだったと推測できた。
そしてマリアは、ナギの考えとは正反対の言葉を口にした。
「私もハヤテ君も、そういう感情は持ってませんよ」
「え……?」
ナギの目が開かれる。一番に目に入ったのは、自分の前に座り込んでいるマリアの姿だった。
「そうですよね? ハヤテ君」
今度は、肩越しにハヤテに問いかけた。ナギの視線が彼に移動し、それを確認すると、マリアも振り向いて返答を待った。
そして、現在の状況がよくわかっていないハヤテであったが、今答えるべきことは雰囲気から理解していた。
「はい。僕とマリアさんはそういう関係じゃないですよ、お嬢様」
「で、でも……」
マリアはハヤテに抱きついたじゃないか。ハヤテはマリアのために白凰で一流の執事になると言ったじゃないか。
ぶつけようとした疑問は、しかし言葉にならなかった。
二人が嘘を言っているとは、どうしても思えなかった。
マリアがナギを理解しているのと同様に、ナギもマリアを理解している。幼い頃からの付き合いゆえだ。
マリアと一緒に過ごした日々の記憶が、彼女の言葉に嘘は無い、と語りかけてきた。
そして、ハヤテ。彼との付き合いは決して長いとは言えない。
ただ、自分にコートをかけてくれた彼は、あのクリスマスの夜、自分が絶対の信頼を抱いたあの夜の彼と、まったく変わらなかった。
だから、思った。自分はもっと彼を信じても良いんじゃないかと。
伊澄、ヒナギク、そしてマリア。いろいろな人との疑いはあっても、結局のところ彼は、自分を好きだと言ってくれたあの時のままなのだ。
(もちろん、後でちゃんと話は聞くがな)
そうやって心の中の葛藤に決着をつけ、立ち上がろうとするが、やはり足に力が入らなかった。
安心したせいか、眠気も急速に襲ってくる。
「あ……雨が弱くなってきましたね。今のうちに帰りましょうか」
ハヤテは空の様子とナギの様子を伺いながら言うと、立ち上がろうと四苦八苦するナギの後ろに回り、背中と膝に手をいれ、お姫様抱っこで持ち上げた。
「ハ! ハヤテ……!!」
「お嬢様、お疲れみたいですから大人しくしててくださいね」
「だから……!! もぉ……」
クスクスと笑うマリアの声が聞こえる。
二人きりならともかく、人の前でやられるのは死ぬほど恥ずかしい、というのが本音だった。
しかし同時に、決して悪い気がしないのも、確かだった。
何があろうと離さないようにと力強く自分を抱き上げているハヤテの腕を、ぎゅっと握り締める。
目の前にある彼の顔をぼんやりと見つめ、幸せそうに笑って。
ナギの意識は、そこで途切れた。
ハヤテは屋敷の中、ナギの寝室まで彼女を運び込み、マリアの指示でベッドに下ろした。ハヤテがナギをゆっくりと下ろすのを見届けると、マリアはずぶぬれになった自分の体を見て言う。
「とりあえず服を着替えないと、風邪をひいてしまいますね。私はここで着替えますから、ハヤテ君は自分の部屋で……」
と、そこまで言ってハヤテに目を向けると、なにやら困りきっているハヤテの顔が目に入る。
「あの、マリアさん……」
「ん? どうしたんですか?」
「お嬢様が手を離してくれないんですけど……」
近づいて見てみると、ナギの両手がしっかりとハヤテの左腕を掴んでいる。
ナギの気持ちを考えるとそれをはがすのは少々気がひけたが、さすがにこのままハヤテに風邪をひいてもらうわけにはいかないと、ナギの手を掴み、ひきはがそうと力をこめる。
しかし、手は外れない。本当にナギの力なのか、と疑うほどに強く掴んでいる。
「マリアさん、手伝いましょうか?」
「あ、はい。なんだかこの子、妙に力が強くて……」
ハヤテは掴まれていない右手を使い、今度は二人で力をこめる。しかし、それでも外れない。
もちろん、本気で力をこめたら折れてしまいそうな細い腕なので、ハヤテもそれなりに手加減はしているだろう。
それでも、二人の力で外れないなんて。
マリアがそう思い始めたその時、ついに左腕が外された。
一瞬安心するハヤテとマリア。そして、
「「へ……?」」
二人の間抜けな声が重なった。
やっとのことでハヤテからひきはがしたナギの左手は、今度はマリアの右手を掴んでいる。
何回ひきはがしても無意味かも……とマリアは何となく思った。
右手にハヤテ、左手にマリアをしっかりと掴み、ナギは幸せそうに眠っている。
しかし、掴まれている二人にとっては大問題。
掴まれていては、離れられない。服を替えるだけならなんとかできそうではあるが、その場合お互いの目の前で着替えるというわけで。
その事に気づいて意識してしまったのか、ハヤテの顔は赤くなって。
「えっと……どうしましょう……」
それを見てこちらも同じことを考えてしまったのか、マリアはハヤテから顔をそむける。
「さ、さあ……」
結局のところ、ちょっと気まずい雰囲気でそのまま黙ることしかできず。
疲れのためかいつのまにか眠ってしまい、翌日、二人揃って仲良く風邪をひいたとか。