いつのまにか歩き慣れていた道。
彼は今日も、この道を通っている。
初めてここに来た時と同じように、隣には彼女がいる。
「悪いわね、手伝わせちゃって」
自らも両手に荷物を抱えながら、彼女は申し訳なさそうに言う。
「いえ、いつもお世話になってますから」
軽々と荷物を持ちながら、彼はエレベーターのボタンを押した。
一階に留まっていたエレベーターは、すぐにドアを開く。
「ヒナギクさん、足元に気をつけて」
「うん、ありがと」
彼は彼女を気遣いながら、彼女はそれに笑顔で応えながら、二人はエレベーターに乗り込んだ。
昇り続けるエレベーターの中、彼は思う。
会話が無い、と。
いつもならこんなことはないのに、と。
別に不快なわけではないが、少し、居心地が悪い。
そこまで考えて、ふと思い当たる。
ここは密室で、二人きり。
「──私が言った通りになったでしょ?」
妙な考えにとりつかれそうになったその瞬間、彼女が口を開いた。
「──え?」
はっとして彼女を見やるが、彼女は悪戯っぽい笑みをたたえるだけで、それ以上の言葉は無い。
「着いたわね」
彼女は正面に視線を戻し、呟いた。
いつのまにかエレベーターは止まり、ドアも開いている。
床に置いていた荷物を、彼は慌てて持ち上げる。
目の前には、見慣れた生徒会室があった。
「ハヤテ君、手伝ってくれてありがとう」
お礼にお茶でも飲んでいってと、準備をする彼女に、彼は尋ねる。
「ヒナギクさん、言った通りになったって、どういうことですか?」
ん?と首を傾けながら、彼女はお茶をカップに入れた。
「もう忘れちゃった?……はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
彼がお茶に口をつけるのを見ると、彼女もそれを一口味わった。
外を歩いて冷えた体が暖まるのを感じると、彼はカップを両手で包み込むようにして持ち、彼女の次の言葉を待った。
ややあって、彼女はゆっくりと口を開いた。
「最初に会った時のこと、覚えてる?」
「え……あ、はい。僕が歩いてたら、ヒナギクさんが木の上から声をかけてきて……」
「そこはいいの」
少しだけ顔を赤く染めながら、彼女はその一言で彼の回想を中断させると、一息ついて自分から続きを語り始めた。
「あの後、私と一緒に時計台に登ったでしょ?」
彼女はそう言うと、彼が思い出すのを待っているかのように、一拍置いた。
彼も数ヶ月ほど前のことながらおぼろげに思い出すと、あ、はい、と小さく頷いた。
「それからハヤテ君が帰ろうとした時に、そのうちマメにここへ出入りすることになるかもしれないって言ったんだけど……」
ほら、あの辺で、とエレベーターの乗り降り口を指しながら彼女は続けて、また一拍置く。
彼は、彼女の指差すその方向を見つめ、しばらくして、あっと声を上げた。
そんな彼を見て、彼女はクスリと笑う。
「私が言った通りになったでしょ?」
彼女のその笑顔を見て、彼は考える。
彼女の性格からすると、彼女は『自分の思った通りに』自分がここに入り浸るようになっていることが嬉しいのだろう、と。
しかしその一方で、もう一つだけ、小さな考えがあった。
都合の良い考えだけど、まさかとは思うけど。
自分の主人に似た彼女を見ていると、なんとなくそんな気になってしまう。
もしかしたら、この笑顔はもっと単純に──
そこまでで、彼は思考を打ち切った。
もしも後者の考えが当たっていたらすごく嬉しいと、そう思いながら。
「どうしたの? 顔が赤いわよ?」
「え? あ、いえ……なんでもないですよ」
ふーん、とわざとらしく笑う彼女から目を背けると同時に、
「──あれ?」
彼は唐突に、彼女の発言の矛盾に気がついた。
自分の主人が生徒会の一員であったならばまだしも、そういうわけでもない。
本来なら生徒会と関わりが無いどころか、この学園とも自分はほとんど関わりが無いはずだった。
なのに、会ったばかりの自分に対して、どうしてそこまで言い切れたのだろう。
「あの、ヒナギクさん」
「何?」
「どうして、僕がここにマメに出入りすることになると思ったんですか? あの時は僕、まだこの学園の生徒でさえなかったのに……」
その質問に、彼女は少しだけ沈黙して、
「んー……まあ、女の勘、かな」
どこか茶化すような感じで、答えた。
彼女が目を見て話さなかったからであろうか、質問した瞬間、雰囲気が変わったように見えたからだろうか。
単なる勘、というのも一応の答えではあるけれど。
それは彼女が真に思っていることではない。何かを隠そうとしている。
妙に強く、彼はそう感じた。
現に彼女は、質問に答えてから、何かを考えこんでいるようだった。
声をかけようとしたが、彼女の寂しげな微笑を見ていると、これ以上何も訊くべきではない、と直感が訴えてくる。
そんな、彼女の滅多に見ない表情。
しばらくの間それをじっと見ていたと気づくと、彼は少し慌てて、けれどそれを悟られないように、ゆっくりとお茶に口をつけた。
お茶を飲みながらカップの影からちらりと見てみると、彼女はやはり、何か考えこんでいるようだった。
彼は所在無く、視線をふと窓の外にやって、
「うわぁ……」
そこにあったものに、思わず感嘆のため息を漏らした。
彼女もその声に反応して我に返ったらしく、彼と同じ方向を見ようと首を回して──その方向に何があるか気づいて、すぐに目を背けた。
彼はそれを見て笑いながら、バルコニーまで歩く。
高い位置にあるためか、風が強く、少し肌寒い。だがそれでも、初めてここに来た時よりは、たしかに暖かい。
「すごい景色ですね…桜がとっても綺麗で……ヒナギクさんは見ないんですか?」
「私はいいの。桜なら別にここからじゃなくても見えるから」
自分のいる方向に背を向けるいつもの彼女を見て、彼はまた笑った。
そうやって、彼らの春は過ぎる。