まだ、胸の鼓動が収まらない。
 顔が、ものすごく熱い。
 洗面所の鏡で自分の顔を見ると、思った通り、トマトのように真っ赤な顔をしている。

(私、あんな大胆なこと……)

 それは、ついさっきのこと。
 好きな人にチョコレートを渡して、一度は受けとめてもらえなかった想いを再び伝えて、そして、そのまま、彼を抱きしめて。

(なんであんなことしちゃったんだろ……)

 既にそれも三十分ほど前の話、今は家に帰ってきて、こうして洗面所の鏡で自分の顔を見ているのだが、どうも現実感が無い。
 彼に想いを伝えた後、ここに帰ってくるまでの記憶は曖昧で、気がついたら家の前にいた、という感じで。
 よく考えれば、彼がわざわざ追ってきてくれたのだって、話がうますぎる気がする。

(最近変な夢を見ることも多いけど……まさか、これも夢!? 夢オチなのかな!?)

 ほっぺたをつねってみた。
 けれど、なんだか力が入らなくて、全然痛くない。

(え!? ウソ!? つまりこれは夢ってことかな!? そんな、神様……!!)

 半泣きになりながら天を仰いで一心不乱に懇願するが、神様は答えてくれない──



「なんか姉ちゃん、気持ちわりぃ……」
「…………」

 よくわからない思考から覚ましてくれたのは神様ではなく、いつのまにかすぐ側にいた弟だった。
 でも、感謝はしない。

「痛ぇ!! 何すんだよ姉ちゃん!?」
「まったく……誰が気持ち悪いのかな……」

 いつものように弟を一発殴り、歩は洗面所を後にして、自室へと向かう。
 少し早足で歩き、自分の部屋に着くと、扉を乱暴に閉めた。そして、歩はそのままベッドに倒れこんだ。
 制服にしわがつくとか、そういう事は気にならなかった。緊張して疲れ切っていたので、少しでも横になりたいという思いだけがあった。
 部屋の温度が低いせいか、ベッドは妙に冷たかった。




(ハヤテ君、なんて返事してくるんだろ……)

 静寂の中、歩の興味はその一言に尽きた。
 一ヶ月後には、ホワイトデーがある。おそらく、その日には答えが聞ける。
 何日か経ってから、もう一度白皇学院に行って訊くという選択肢もあるにはある。だが、とてもそれを実行する勇気は無かった。

 心の中を占める不安。
 これ以上は望めないのではないかという不安。彼との関係は、自分が半ば無理矢理に抱きついた今日が最高潮で、それ以上は望めないんじゃないかという不安。こうして盛り上がっているのは自分だけ、そして、今だけなんじゃないかという不安。
 それは、多分に現実味のある考え。なにせ、既に自分は一度振られているのだ。また同じように振られることだって十分に考えられる。むしろ後腐れが無いように、前よりもきっぱりと否定されるんじゃないかとさえ思える。

(また、振られちゃうのかな? 前と何も変わってないし……)

 目に涙が溜まる感覚。その涙が、顔を押し付けている枕に染み込んで行く感覚。
 考えれば考えるほど、悪い結果に思考が導かれて行く。


 ──そんな中で、引っかかった言葉があった。


(何も、変わってない……?)

 脳内で再生されるビジョン。
 それに映るのは、今日初めて出会った自分の手助けをしてくれた、あの少女。

 同い年なのに、自分よりも遥かに大人っぽい人。
 白皇ほどの名門校に通っていて、その上生徒会長まで勤めている人。
 自分とはまったく正反対の人。
 そして、何よりも心に深く残っている印象。

 ──すごく、かっこいい人。



 ある予感を感じる。
 彼女との別れ際に、心に走った予感。
 根拠など何も無い、けれど、何故か確信めいた予感。
 おそらくそれには、彼の女性の好みだとか、そういうことも関係してくるはず。
 だから、確信なんてできるはずが無いのに。そんなこと、わかるはずが無いのに。

 あの人みたいにかっこよくなれたら。
 例え今の自分ではだめだったとしても、変わることができたなら、彼も振り向いてくれるんじゃないかと。
 そんな、気がした。

「桂ヒナギクさん、かぁ……」

 自分とはまったく違う世界の人。
 自分には無いものを、持っている人。

「また会えるかな……」

 あんな風になれたら、と心に思い浮かべる。
 流した涙は、いつのまにか乾いていた。


→ side-H

index      top



inserted by FC2 system