「ハヤテ君、本当にごめん!」
 どうしても抜けられない用事が入っちゃって、と申し訳なさそうに頭を下げる彼女に、綾崎ハヤテは、気にしないで、とその肩を叩いた。
 半泣きでうつむいていた西沢歩は顔を上げ、
「でも、普段なかなか会えないからって、ハヤテ君も明日は無理してバイトに休みを入れてくれてたのに……」
 潤んだ瞳でハヤテを見上げる。
「いえ、そもそも僕が普段バイトばっかりしてるせいでなかなか会う時間が取れないわけですし」
 西沢さんがそんなに気にすることは無いですよ、とハヤテは笑った。
 どこまでも優しい彼への申し訳なさからか、歩は感極まったように、ハヤテの胸に飛び込んだ。
 ハヤテは困ったように頬をかきながらも、それを拒絶する様子は無い。
 しゃくりあげる歩をいとおしげに見つめながら、ハヤテはその手を、歩の背中に回した。
 クリスマスイブを明日に控えた、とある夜の出来事だった。




      いつかと同じ、雪空の下で




 #1

 携帯電話の着信音を目覚まし代わりに、ハヤテは目を開いた。
 うつぶせになって枕に顔をうずめているにも関わらず、ハヤテは右手を伸ばして携帯電話を正確に掴むと、そのまま携帯に目を向けることもせずに、流れ続けているメロディを慣れた手つきで止めた。
 メロディが止まってから数秒後、ハヤテはごろりと寝返りをうって目を開け、窓から差し込む眩しい光を遮るために手を顔の前にやろうとして、部屋の中がやけに暗く、いつもとは自分の感覚も違うということに気がついた。反射的に外を見ると、西に面した窓から見える景色は既に赤みがかっていて、夕焼けの光が真っ白い雪を橙色に染めている。
 普段は早く起きて早く寝ている。さらに、日中はバイトをしていることがほとんどであるために、このように、昼寝をして夕方に目を覚ますということは無い。
 ハヤテは、あまり慣れない状況に面食らいながら、上半身を起こし、右手に握っていた携帯を開いてその画面を見る。新着メールが一通。歩からのもので、今日のキャンセルを詫びる内容だった。「本当にごめんなさい!」というタイトルで始まり、「この埋め合わせはきっとするから!」と締めくくられている本文までを寝ぼけ眼で読み終え、そのメールの受信時刻が十七時とあるのに気がついて、やっと現在の時刻が午後の五時過ぎなのだと理解した。
 ベッドに横になったまま、メールの返信を打ち始める。気にしないで、というただそれだけの旨を、キャンセルのことを歩が気に病むことの無いような文章に仕立て上げるために、まだ起き出していない頭脳をフル回転させた。
 そうして書き上げた文章をもう一度チェックして、返信ボタンを押すと、ハヤテは再び枕を引き寄せて、そのままうつぶせになって目を閉じた。まだ眠気があるわけではないが、動き出す気が起きない。既に時間は午後の五時過ぎ。今から出来ることなどほとんど無い。一日を無駄にしてしまったことへの脱力感が、ハヤテから気力を奪っていた。
 そもそも今日一日は彼女のためだけに空けていたはずだったのだから、実際のところ、彼女との約束が無くなった今、ハヤテには他にさしたる予定も無い。
 このまま何もせずに無気力に今日という日の残り七時間を過ごすか、誰か友人を誘って出かけでもしようか。二つの選択肢が浮かぶ。
 クリスマスイブに一人というのも少々物悲しく、心情的には誰かと一緒に過ごしたかったが、かといって暇にしている友人にもあまり心当たりは無い。咄嗟に思い浮かぶのはわずかに数人。

 最近は歩を通して会うことが多くなった、勝気で、友達想いで、そして自分には少し厳しいところもある女性、桂ヒナギク。
 桂ヒナギクの友人で、自分も高校時代には随分と世話になった、瀬川泉、花菱美希、朝風理沙の三人。
 今日もまたレンタルビデオショップで店番をしているであろう橘ワタルと、変わらずにその傍に付き添っているであろう、貴嶋サキ。

 友人、と思っている人間の中でも今すぐ連絡が取れそうな相手を順に思い浮かべていくうちに、自分には同姓の友人がほとんどいないことに気づき、苦笑した。
 同時に、いくら暇であるとは言っても、歩への配慮として今日は異性の友人とは一緒にいないほうが良い予感がした。
 たとえば自分がバイトを理由にして今日の予定をキャンセルしたとする。もしそうなった場合、歩には本当に申し訳なく思うだろう。だが、かといって暇になった歩が他の男と一緒にイブを過ごしていたら──とその場面を想像しようとして、どうしてかその場面が浮かばず、むしろ他の女性と一緒にいる自分が歩に見つかって問い詰められるシーンばかりがイメージできることに、ハヤテはまた苦笑するしかなかった。
 そう、ハヤテの……この手の事に関しては外れた事の無い直感が告げていた。今、異性の友人と出かけると……自分はそのうち、ものすごく具合の悪いことになると……。
「歩を泣かせたら、許さないから」と、木刀を片手に何度も聞かされたヒナギクの台詞を思い出したところで、どうやら今年のクリスマスイブは一人で過ごすことになったらしいという結論に、不本意ながら辿り着いた。


「ふう……」
 ごろりと寝返りを打ってまた横を向くと、残りがあと一週間分のカレンダーが思いがけず目に入り、ハヤテはそれをぼんやりと眺めた。
 いくつかの日付の下に黒色のボールペンでメモがされている。そのほとんどはバイトに関するものだ。
 カレンダーはもともと安っぽいつくりであり、絵や写真がついているわけでもなく、主に数字と文字で埋め尽くされている。
 そんな白と黒のカレンダーの中に、ハヤテはいくつかの日にマーカーで色を塗って印をつけていた。それは例えば歩と会うことなど、その日に特別な予定があることを忘れないためだ。
 もちろん、今日、二十四日にも赤いマーカーで印が──
「ん?」
 二十四日には、赤いマーカーで目立つ印がつけられている。だがそれだけではなく、赤いマーカーの下には、黄色いマーカーで同じように印がついていた。
 その印が示すのは、ある雑誌の発売日。それは毎月二十四日発売で、常ならば発売日に買っている。歩との予定があったために、今月に限っては二、三日遅れで買うことになると思いながら、黄色の上に赤いマーカーで印をつけたのだった。
(でも、西沢さんとの予定は無くなっちゃったし……)
 これを買ってきて読む以外に、今日はもう他にやることもない。何よりも、月に一度その雑誌を買って読むことは、自分の楽しみの一つでもある。
 ハヤテはベッドから起き上がって着替えると、使い古したコートを羽織り、いくらかの小銭をポケットに入れて家を出た。



 暑い夏と、寒い冬。
 一番近いコンビニまでハヤテの足でも十分かかるという自分のアパートの立地条件を恨むのは、主にこの二つの季節だった。
 多くのバイトをこなしているはずなのに、暮らしは一向に楽にならない。クーラーなど備えられるはずが無い、暖房、冷房器具で使用しているのはリサイクルショップで見つけた旧式のストーブのみであり、それすら出来るだけ使いたくないと考えているハヤテとしては、貧乏人根性ではあるが、暑さや寒さをしのぐ場所として本来コンビニは非常に快適かつ便利な空間となるはずだった。
 そのような理由と、そもそも近くにコンビニくらいはないと不便だということから、当然ながらハヤテはアパートを選ぶ際に近所のコンビニの有無を確かめ、家賃との兼ね合いに苦悩しつつも、条件に見合う物件を選択した。
 だが、ハヤテが利用しようと考えていたコンビニは、ハヤテがこのアパートに入居してから一ヶ月の間に閉店。他にも三件のコンビニがアパートの近くにあったが、それらもまるで貧乏神に憑かれたかのように急速に経営が悪化したらしく、最終的には三件ともが閉店するという予想だにしなかった事態によって、軒並み姿を消していたのだった。



「やっと、着いた……」
 ポケットから手を出して、ほう、と白い息を吹きかけ、金属製ゆえに外気にさらされて冷え切っているであろう、扉の取っ手を掴む。そのまま引いて扉を開け、一歩中に入ると、暖房で温まった空気が、ハヤテを包んだ。「いらっしゃいませ」と元気に叫ぶ店員の声を聞きながら、心持ちゆっくりとした足取りで、しかし一直線に、目的の物がある場所へと足を向ける。
「今日発売の雑誌」と書かれた札が貼ってあるところに、その雑誌はあった。それなりには売れているようで、週刊のものほどではないにしろ、コンビニにしては多いと思わせるほどの数が置いてある。
 その表紙には「クライマックス突入!!」という歌い文句と共に、見慣れた漫画のキャラクターが描かれている。ハヤテはそれを見て目を細めると、月刊誌としてそれなりの厚みがあるその雑誌を手に取り、そのままレジへと持っていった。

 会計の途中、レジに置いてあるおでんをしきりに勧めてくる店員の言葉を聞いているうちに、起きてから初めて今日の夕食のことに考えが及んだ。
 そもそも今日は歩と外食する予定だったため、自宅の冷蔵庫に食料が残っているかというと、あまり自信が無い。正直なところ、久しぶりに贅沢をする予定だった今日のために今月は金の消費を出来るだけ抑えていたという事実を考えると、おそらく冷蔵庫の中は色々な意味で寒々としているはずだった。
 気がついてしまうと、空腹は即座にやってくる。そういえば朝はパンを数個、昼に至っては食べてすらいない……と思考しているうちに、ハヤテはいつのまにかその腹を鳴らしていた。
 物欲しそうにおでんを見つめながら、少しの期待を込めて、ポケットに手を突っ込み、持ってきた小銭をすべて出して、所持金を確認してみる。しかし現実は非情であり、何の気なしに掴んだ小銭は、雑誌を買っていくらも余らない程度の額しかなかった。
 雑誌と、夕食。二者択一に考えるまでも無く一瞬で答えを出すと、ハヤテは店員の勧めを断り、ただ雑誌だけを袋に入れて、腹を鳴らしながらコンビニを出た。



 右手に月刊誌の重みを感じながら、ハヤテは、来た時とは逆の方向に歩いていた。
 不思議と、すぐに帰ろうという気が起こらなかった。
 家に帰ったところで、おそらくは中身の無い冷蔵庫に溜息をつき、右手のビニール袋に入った雑誌を読んで、今日は終わる。(本当なら、今日は……)と歩の笑顔が思い浮かぶが、それももう過ぎたこと。
 そんな現実から、目を背けたかったのかもしれない。こうやってぶらぶらと歩き回ることで何かがあるわけでもないとわかっているのに、ただなんとなく歩いていた。
 ぼんやりとした頭で、自分がどこにいるかも考えずにただ足を動かす。そうしているうちにいつのまにか、太陽も地平線の向こうに完全に沈もうとしている。
 だんだんと辺りは暗くなる。空気は冷たく、風は心なしかだんだんと強くなっていく。その中でも一際大きな風が吹いて、積もっていた粉雪が舞い上がり、ハヤテの体に叩きつけられた。
 それをきっかけにして、ハヤテは我に返った。精神的なものもあるであろう、強烈な疲労感を感じる。一体何をやっているんだろうと小さく思いながら、自覚した寒さに震えていると、また風が吹いてさらなる冷気を運んでくる。
(何か暖かいものが飲みたいなあ……ついでにどこかで休みたい……)
 そんなことを考えながら、ふと脇を見ると、
「…………」
 自動販売機と、隣にベンチがあった。その横には街灯が光を灯していて、ベンチがライトアップされている。
(えっと……これは、ついに僕にも世界を思い通りに改変する能力が……!?)
 嬉々として、ポケットから小銭を取り出す。
 一円。
 一円。
 十円。
 計、十二円。
「うぐっ……」
 どうしようもなく情けなくなって、ハヤテはがっくりとうなだれた。念のために自動販売機のおつりの受け取り口も覗いてみるが、一円たりとも残ってはいない。
 自分の行動にまた溜息をつき、温かいコーヒーを掴むはずだったその手でベンチに積もっていた雪を払うと、ハヤテはそのまま腰を下ろした。
 座ったすぐ横に雑誌を置く。ハヤテは両手に息を吹きかけ、胸の前ですり合わせた。ビニール袋を握り続けることで冷えていた右手の感覚が、そうしているうちに戻ってきた。
 空を見上げ、雪が降っていないことを確認すると、ビニール袋から雑誌を取り出した。
 放っておけば風に飛んでしまいそうなビニール袋を丸めてコートのポケットに入れると、雑誌の表紙を見てまた目を細め、それをひっくり返す。
 目当てのものは、おそらく最初の方にあるだろうとはわかっている。だがハヤテは、前から順に見ていく、などということはしない。まず最初に一番後ろにある目次ページを開き、その名前を探す。
 上から下へと、連載漫画とその作者名そしてコメントが並んでいる目次欄。すべてを見るまでもなく、その上から二番目で、ハヤテは目を留めた。

 ──この漫画はこれより最終章に突入。応援をよろしくお願いします。
 そんな旨の文章が、作者からのメッセージの場所にある。


 その横、作者名には、三千院ナギとあった。




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