#2

 綾崎ハヤテが三千院家の執事となってから実に数年。
 その決して短くは無い期間にあったいくつもの出来事の中でも最も驚いたことだとハヤテが断言できるのが、主である三千院ナギがとある漫画の賞に入選し、そのまま月刊誌での連載を勝ち取ったことであった。
 絵自体はかなり上手になったがまだストーリーを考える能力が足りない──というよりも間違った方向に高すぎるのでおそらくもう少し時間が必要だろうということでハヤテとマリアは意見を一致させていたため、ナギが開いたままの雑誌を両手に持ち、その目に涙すら浮かべて駆け寄った時には、ハヤテもマリアもしばらくの間驚きで固まってしまった。

 とにもかくにもそれ以来ナギは以前にもまして漫画に打ち込み、ハヤテもマリアもそれを否定する気はそれほど無かった。
 そのうちにナギが始めた連載も軌道に乗り、かつてはよく自分やマリアを困らせたナギが良い意味で落ち着いたことに対して、ハヤテもある種の安心を感じ始めていた。屋敷の中の生活は静かでいてどこか心地よく、それはいつまでも変わらないように思えた。

 そんなふうにして時が流れていた、ある日のことだった。



「ハヤテは、何か……夢、みたいなものはあるか?」
 横目でちらちらとこちらを伺いながら言った三千院ナギは、まるで何かを期待しているようだった。
「え? どうして急にそんなことを……」
「……漫画のストーリーの参考にしたいからだ」
 ぶっきらぼうにそれだけを言って、ナギは睨むように鋭くハヤテを見つめた。
 連載を持ってからというもの、ナギは時々このような理由でハヤテやマリアに質問をすることがあった。そしてナギが「漫画のストーリーの参考にする」という理由付けをすると、それに協力してあげたいハヤテとしてはできれば答えてあげたいと思い、また一方、どのような質問であろうと、基本的にナギも無回答は許さなかった。
 それほど悩むこともなく、ハヤテの中に一つの回答が浮かぶ。だがハヤテは、思い浮かんですぐに、正直にそれを言うことはしない。どうやらナギのするこれらの質問には、正解も不正解もある程度存在するらしい。決して短くない付き合いから、ハヤテはそう見抜いていた。
 ナギが、漫画のストーリーの参考にすると言ってハヤテに問いかけた質問は数知れず。その中で、自分は明らかに答え方を間違えたらしい、地雷を踏んだらしいという認識に至ったことが何度もあった。
(「マリアさんのことをどう思うか」だとか「ヒナギクさんのことをどう思うか」とか、僕が答えた後はなんだかいじけてたし……そうそう、「大きいのと小さいのとどちらが好きか」とか、よくわからなかったからとりあえず大きいのって言ったら部屋に閉じこもっちゃったんだっけ……)
 今までのナギの質問と自分の答え、そしてその後のナギの反応を思い返す。その経験上、この目はまずい。ナギがこのように何かを期待するようにして問いかけてくる時は、答え方を間違えるとゲーム機の筐体が飛んでくる。頑丈であるとはいえ、出来るだけ痛いことは避けたい。後に部屋を片付けるマリアのジト目も思い浮かぶ。
 だからまずはナギに話を戻し、もう少しその様子を観察して、何かヒントを探すことにした。
「えっと……そう言うお嬢様は、どうなんですか?」
「え……私は、」
 話を振られたナギは、「ハヤテと」と霞むような声で何かを言っていたが、ふと何かに気がついたようにはっとした顔になり、咳払いをして、
「い、いや、そうだな、私はこれから自分の単行本を十兆部売るのが夢だ」
 やっとのことでハヤテの質問への答えを述べた。
 ハヤテはそれまでのナギの奇行と見る見る赤くなっていくその顔をあえて無視し、
「十兆部ですか……」
 それはまた、と驚きを示す。現在の世界人口の何倍だろうか、などと考えていると、ナギがなんでもないことのように言い放った。
「う、うむ、昔は一兆部が目標だったが、やっぱり私の才能はその程度では収まらないと思い直してな」
十兆割る六十億イコール、約千六百七十。暗算で計算結果を導き出し、(一兆部でも一人当たり百六十七冊かあ……)と感慨にふけるハヤテに、ナギはまた大声を張り上げる。
「私のことはいい! ハヤテの夢は何なのかと訊いているのだ!」
 と、同時にまたこちらから顔を背け、ちらちらと横目で伺う。
「あー……えっと……けっこうデカい夢ですから……口に出して言うのは恥ずかしいんですけど……」
 結局、主が自分の回答に求めるものが何なのかわからない。ハヤテは、正直に答えることにした。
 かつてこの屋敷の専属メイドにしたように前置いてナギを見ると、横目ではありながらも完全にこちらに視線を固定していた。
 本当にこの答えで大丈夫なのだろうか、という疑問がほんの一瞬脳裏を掠めるが、ナギの真意がわからない以上、正直にこう言う他はない。正直に答えたことで地雷を踏んだ今までのことは忘れることにした。
「3LDKですね」
「……3LDK?」
 ナギの眉間にしわが寄った。
やはりこれは正解ではなかったのだろうか、と嫌な予感にさいなまれつつ、何とか沈黙を打破するためにハヤテは続ける。
「あ、3LDKっていうのは三つの部屋の他にリビングとダイニングとキッチンのついた物件のことで、小学生の頃からずっと夢見てるんですけどやっぱりちょっとデカすぎるかな〜なんて……」
 あははは、と笑うハヤテと、そのハヤテを、いじけたような、それでいてほんのり赤い顔でじっと見つめる、もとい睨んでいるナギ。
 ああ、やっぱり自分は安全地帯を通り抜けることは出来なかったんだな、とハヤテがどこか他人事のように思った時、
「ん……?」
 ナギは疑問の響きが混ざった声を上げると、きょとんとした顔でハヤテを見上げた。
「お嬢様?」
 ただじっと見つめるだけで何も言わないナギを不審に思い、ハヤテは問いかける。二人の目が合った。
「ハヤテ……3LDKってこの屋敷より小さいよな?」
 不思議そうに訊くナギが何を言いたいのかわかった気がして、ハヤテは頭の後ろをかいた。既に3LDKなどという範疇をはるかに越えたこの屋敷に住んでいるのだから、その夢はもう叶っているんじゃないかと、そう言いたいのだろうと見当をつけ、ハヤテは苦笑いする。
「確かにこの屋敷に比べたら全然小さいですけど、お嬢様からの借金を返し終えてこの屋敷を出たらいつか自分の力でそれぐらいの物件に住みたいと」
 思っているんですよ、と言い終える前に、ナギはまた何かを考え込んでいるようだった。
 数秒間ほどその表情を崩さず、ハヤテもそれに何も言えなかったが、突然何かに思い当たったようにナギは顔を上げた。その顔は本日二度目の大火事を起こしており、「バ、バカ者!」などと口走りながら、手をもじもじと組み合わせている。
「わ、私は……ハヤテがそうしたいと言うなら、そのうちこの屋敷を出て二人きりで暮らすのもまあやぶさかではないが……で、でも、それだとマリアがさすがに寂しいだろうし……い、嫌なわけではないのだぞ!? でも、その……」
「え……?」
 ごにょごにょと、早口かつ小声で言われたそれを、しかしハヤテは正確に聞き取っていた。
 そして、生じた疑問を、正直に言葉にした。
「えっと……どうしてお嬢様もこの屋敷を出るんですか? それに、二人きりで暮らすって……?」
「え?」
 ナギが真っ直ぐに瞳を向ける。
「だって、いつかこの屋敷を出て3LDKとかいう物件に住むんだろ?」
「ええ、お嬢様からの借金を返し終えてこの屋敷を出たら、いつかそうしたいなーとは」
 まあ四十年後ですけどね、と冗談めいて付け足すが、ナギは何の反応も示さない。
 二人の視線が交差する。二人ともがハヤテの言葉を正しく復唱しているのに、話だけがまったくかみ合わない。
 何故自分が屋敷を出るとナギも屋敷を出るというのか、自分と二人きりで住むなんて話が飛び出すのか、ハヤテにはわからなかった。わかるのは、自分とナギとの間に、何か、この話の認識に関して異なる部分があるようだということだけだった。
 二人の間に、再び沈黙が落ちる。何も言えない、何を言えばいいのかわからない状況で、それでもしっかり目線だけは合っている。ハヤテはナギの目を見てはいるが半ば意識をそらし、どうしたものかと心の中で困り果てていた。
 考えてみてもナギの思うところはわからず、とりあえず何かを言おうとするが、
「え……?」
 先に口を開いたのはナギだった。
 だがその呟きは何の意味も成しておらず、ハヤテは黙ってその続きを待った。
 ナギは、何かを言おうとしていた。
 もじもじと組み合わせていた両手は、今はその左手だけが胸の前で強く握り締められている。ハヤテは凍りついたように、ナギの目から視線を逸らせなかった。
 ほんの少しだけ、おそらく十センチにも満たない距離を、ナギは一歩、バランスを崩して倒れこむかのように踏み出した。
 そして、震える声で、ゆっくりと、
「ハヤテ?」
 そう、訊いた。
 何かを問われている。それは明らかだが、何を問われているのかは見当もつかない。後に続く言葉は無いかと待ってみても、ナギはそれ以上何も言わない。唇を開いたり閉じたりしている様子からすると、それ以上訊くのを躊躇っている──むしろ、恐れているようにすらハヤテには見えた。


 もう、どれほど前になるだろうか。
 かつての高校の同級生。
 今でも自分のことを待ってくれている女性。
 彼女に初めて告白された時に脳裏に浮かんだイメージ。

 どうしてそんなものをイメージしたかは未だにわからない。
 どんな状況なのか、それすらもわからない。
 ただ、やたらと悲しそうにしている、自分の大切な女の子。
 それがフラッシュバックして、目の前の少女と重なった。


「ナギ、夕食の準備が出来ましたよ」
 突然の声に、ハヤテはびくりと肩を上げた。見れば、ナギも同じ反応を示している。
 反射的に声が聞こえた方向に体を向け、そんな二人の様子に面食らったのか、驚いた表情で立ち尽くしているマリアを見て、ハヤテはつい溜息を漏らしてしまった。
 心の中でマリアに感謝を述べ、
「お嬢様、夕食にしましょうか」
 そのままナギに背を向け、逃げるように部屋の外へと出る。
 背後からは、ナギの視線が突き刺さってくる感触。
 自分とナギにせわしなく視線を往復させるマリアの横をすり抜けながら、自分のどの台詞がナギの挙動を不審にしてしまったのかを突き止めようとしたが、原因不明の家出を繰り返すようなナギのこと、これもいつものことと、あまり気にしないという結論に落ち着けて、答えを先延ばすことにした。
 このことについてはマリアに意見を求めたり、もう少し考えたりしてからでも遅くはない。そもそも、時間制限なんて存在しないのだから。
 そうやって理屈付けて、ほんの少しの、心の奥からじわじわとわいてきた感覚を、その時は押し込めた。






 その日、ハヤテはなかなか眠ることが出来なかった。
 布団に入って目をつむると、すぐにナギの姿が思い浮かぶ。
 夕食の最中、マリアと共に近くに控えていた自分をしきりに気にしていた姿が、思い出される。
 料理の中に苦手な辛い物が入っていることに対してマリアに無言の抗議をするのでもない。何故か苛立った表情でハヤテを見やり、ハヤテがそれに気づくとふいとそっぽを向いたり──というのとも、原因がわからないという点においては同じであるはずなのに、何かが決定的に違う気がする。
 普段はまったく見られない、まるで見知らぬ土地で迷子になっているような不安に満ちたその様子が、頭から離れない。
 今日のことをマリアに相談しようと思っていたが、夕食後はナギがずっとマリアと一緒にいたため、それも出来ていなかった。
(僕よりむしろ、お嬢様の方がマリアさんに相談しているのかも……)
 根拠は無く、どのように相談をしているのか見当がつくわけでもない。だが、なんとなくそう思う。
 ナギは他の誰よりもマリアを信頼している。短くはない時をこの屋敷で過ごした結果、ハヤテはそう認識していた。「マリアに手を出したら……殺す程度ではすまさんぞ……」とここに来てすぐに釘を刺されたのも、そう考えると納得がいった。それが単なる脅しではないのもかつてマリアとビリヤードをした際に確認済みであり、マリアに対してまさしくナギが危惧するような想いを抱くハヤテとしては、ただ嘆息するしかなかった。
(……今日は、もう寝よう)
 ここで一人で考えたところで何の結論も出ないように思えて、ハヤテは思考を止め、目を閉じた。
 視界が闇に包まれ、窓から見える月の光が、見慣れた装飾の施された天井が見えなくなる。

 悲しそうに佇む少女のイメージは、その闇の中でも変わらずにそこにあった。




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