#3

 いつもよりも、はるかに寝覚めの悪い朝だった。
 今までは大体の場合において一眠りすれば体に蓄積された疲労はおおよそ取れていたのだが、今回は例外だった。体に残る疲労感が、もう少しだけ、とハヤテを強く布団へと誘ったが、これから自分だけでなくマリアの分の朝食も作らなくてはならないのだと精神を奮い立たせ、やっとのことでベッドから出る。
 結局のところ、ほとんど眠ることは出来なかった。窓の外が青白くなり始めて、小鳥のさえずる声も聞こえ始めるまでは起きていたという記憶と、時計を見て知った現在の時刻を考慮すると、睡眠時間は一、二時間といったところであろうか。それにも関わらず普段と変わらない時間に起きることができたのは、規則的な生活をしているために、この時間に起床することが習慣化していたからだろう。
 多少ふらつきながら、着慣れた執事服に手を伸ばすと、半分目を閉じながら、それに身を通していく。起床からこの服を着るまでの一連の動作は既に体が記憶しているため、半分どころか完全に目を閉じきっていても着替えることが出来る気がしていた。
 布団の中の程よい暖かさにまどろんでいたハヤテの体に、執事服がひんやりとした感覚を伝えていく。それだけで寝ぼけた頭がだんだんとすっきりしていくようで、この後に洗面所まで行って顔を洗ったことで、今度こそ完全に目が開けた。
 最後に鏡の前に立ち、軽く身だしなみを整えると、朝食の献立を頭に浮かべつつ、ハヤテは台所へと向かった。






 なんだか、少し雰囲気が違う。
 目の前で朝食を口にするマリアについて、ハヤテが持った印象がそれだった。
 料理を作っている最中にやって来て「おはようございます」と挨拶を交わしたことも、食べながらハヤテの料理を褒めていることも、その行動だけはいつもと同じ。
 だが、纏っている空気がおかしい。
 少しぴりぴりしているような。何か焦っているような。
 マリアがこうなっている理由としてハヤテがまず思い当たったのは、やはり昨日の出来事だった。昨夜、ナギがマリアに何かを相談していると想像したことを思い出す。
(やっぱりマリアさん……お嬢様に何か言われたのかな……?)
 自作の味噌汁を胃に流し込みながら、考える。今、ここにはマリアと二人きり。そしてマリアはおそらく、昨日の出来事についてナギと何か話をしている。
(そうだ、今がマリアさんに相談するチャンスじゃないか)
 ハヤテは味噌汁を飲み干し、お椀をテーブルに置くと、マリアを見て、
「ハヤテ君」
 マリアの視線が自分に向けられていることに気づいた。マリアの箸は既に箸置きの上にあるが、見たところでは料理はいくつか残っていて、まだ食べ終わってはいないらしい。ハヤテの視線に反応して見返したという素振りは無く、味噌汁を飲んでいた時からずっとハヤテを見つめていたようだった。
「えっと……いきなりでなんですけど」
 目線を泳がせて、やや躊躇う様子を見せたが、それも一瞬のことで、再びハヤテに向き直ると、マリアは一言で言い切った。
「ハヤテ君は、ナギに借金を返し終えたらどうするつもりなんですか?」
「え……?」
 前に乗り出したマリアの手が茶碗に当たる。それによって食器同士が掠め合い、からん、と軽い音を立てた。
「……ナギは」
 マリアは目をつむり、静かに、はっきりと言葉をつむぐ。
「ナギは、ハヤテ君にずっとここにいて欲しいと思っています」
 ハヤテは、目を瞬かせた。
 それは、その言葉が意外だったからというだけではなく。
 ナギは、と。それがナギの気持ちだとマリアははっきり前置いている。だがそれにも関わらず、まるでその言葉がマリア自身の言葉であるように、ハヤテには思えた。
「……でもハヤテ君は」
 いや、さすがにそんな都合の良い展開は無い──とハヤテが思い直す間も無く、閉じていたその目を開き、マリアはゆっくりと問いかける。
「やっぱり、ここを出て行ってしまうんですか?」
 ハヤテは思わず、「あっ」と漏らしていた。
 質問は違うけれど、答えは同じ。そのことに気づいて、ハッとする。驚きが冷めやらない中で、口だけが勝手に動く。
「えっと……お嬢様に借金を返し終えるのは四十年も後のことですし、さすがにちょっとわからないというか……」
 それは、嘘だった。
 本当は、頭の中に答えがあった。
 昨日、ナギにされた質問に対するものと、同じ答えが。
「あ〜……でも昨日は、借金を返し終えたらこの屋敷を出て、3LDKの物件に住むと……」
 言ってたって聞いたんですけど、と。案の定、マリアもその答えをナギから聞いていたらしい。
「それは……」とハヤテは口を濁らせる。昨日のナギとの会話の中で何が食い違っていたのか、もうはっきりとわかっていた。
「だったら……例えばですけど、」
 自分が間違っているとは思わない。借金を全額返済した時には自分は五十六歳、それは考え方によっては「まだ」五十六歳であり、事実、かつて自分もそう考えていたはずだ。
 それから後のことについて、具体的に考えたことはない。だが、命の恩人にきちんと返すべきものを返したなら、その後は、できるなら人並みの幸せを得て、そう、例えば昔からの夢である3LDKの物件なんかで静かに暮らせればいいなと、そんなことを思っていた。
「……今この時点で、ハヤテ君の借金が帳消しになったとしたらどうします?」
 けれど、ナギは違う。ナギが見ている未来は違う。
 理由はわからないけれどナギの未来の中には自分がいて、それを当たり前だと思っている。しかもそれは自分が借金を返しきるまでの期間とは関係なく。
 ナギ自身は、自分が屋敷を出たらそれについていくというようなことも言っていたが、仮にも三千院家の跡取り、そんなことは許されないだろう。もしもそんな話が出たとしても、結局のところ、ナギが自分についていくのではない、自分がナギに、おそらく一生、ついていくという結果に落ち着くはずだ。
 すなわち、一生この屋敷にいるという結果に。
「……やっぱり、借金で縛り付けられることが無くなったら、ここからはいなくなってしまうんですか?」
 途方も無い話だ。
 実際のところ、この生活が悪いとは思わない。ここには可愛い、命の恩人でもある少女がいて、とても優しくて綺麗な、憧れの女性もいて、もう行くことは出来ないと諦めていた学校にも通わせてもらって、そこの生徒会長をはじめとする、新たな友人関係もたくさん出来て──今までの自分の人生と比較して、素晴らしく充実した、幸せな時を過ごしていると思う。
 だが、一生という時間。
 その時間はあまりに長く、あまりに途方も無い。
「……そう、ですよね」
 ハヤテの沈黙を答えとしたのか、マリアは諦観と、そして明らかに悲しみを顔に貼り付けて、目を伏せた。
 自分は、綾崎ハヤテは、いつかここからいなくなる。
 マリアはその事実を突きつけられて、はっきりと動揺している。悲しんでいる。
 二人の不安を取り除くことは何も難しくはない。「僕はずっとここにいます。他のどこにも行きません」と、ただそう言うだけで、ナギは年相応に明るく笑って、マリアもまた穏やかな微笑みを向けてくれるだろう。
 だが、そう言ったとして、自分は本当にその言葉の責任を取れるのだろうか?
 いつまでもここにいる。そんな一生を左右するような言葉を簡単に口にしてしまって、良いのだろうか?
 いつか、例えば借金を返し終えた時にでも、それを、その言葉を、後悔してしまう時が来るんじゃないだろうか?
(でも……お嬢様は僕の命の恩人で……だけど……)
 いくつもの疑問が混ざり合って、それは何一つとして答えをなさない。
 この長い、重い沈黙は、まさにハヤテの答えだった。


 かたん。


 小さな音が鳴った。
 ハヤテとマリアは反射的に顔を上げる。何か嫌な予感を感じながら、ハヤテが音のした方、柱の影を見ると──予感の通り、そこにはナギがいる。
 いや、「いた」というのが正しいのだろう。既にナギは身を翻し、その場を走り去っている。
 右手を目の辺りにやっているようだったが、その表情は見えなかった。
「ナギ!」
 マリアが叫んで、食べかけの朝食もそのままに、ナギを追う。
「お嬢様……!」
 ハヤテも身を乗り出して、手を前に伸ばす。
 そして、
(あれ?)
 それだけだった。
 両足は行儀よく椅子に座ったそのままで、まるで石になってしまったかのように微動だにしない。そして、そうしているうちにナギもマリアも視界から消えてしまった。
「あ……」
 力を失い、重力に負けて下ろした右手が、お椀に載せていた箸を掠め、テーブルの上に落とした。
(どうして……)
 どうして、追いかけられなかったんだろう。
 ぼんやりした頭の中で、それだけがぐるぐると回り続けていた。
 落とした箸が回り転がって、やがて、床の上へと落ちた。






「……そう、ですか……」
「本当に」
 すみませんか、ごめんなさいか。おそらくそう続けたのであろう、頭を下げかけたマリアを、ハヤテは遮った。
 ナギは、自分が借金とは関係無しにいつまでもここにいることを望んでいる。そのように想像していた。
 そんなナギの思いに、自分がたった今告げられたこと──自分が今日でクビだということは矛盾しているはずだったが、何故か疑問に思うことは無かった。

 ナギを追いかけることが出来なかったあの時から、なんとなく、こうなるような気がしていた。

「ごめんなさい」
 私がもう少し上手く立ち回っていれば、とマリアは言った。
「そんな、マリアさんのせいじゃありませんよ」
 そのように言うマリアの真意はわからないが、この件の原因が誰にあるのかと言われれば、それは間違いなく自分にある。
 ずっとこの場所に、ナギの隣にいる。
 確かに存在したその選択肢を、自分は選ばなかったのだから。

 もともとハヤテの私物はほとんど無く、荷物をまとめるのにそう時間はかからなかった。
 屋敷の玄関に立つハヤテの前に、ナギはいない。
「ハヤテ君……」
 別れ際、マリアはその胸に手を当てながら、何かを言いかけた。
 だが、それに続く言葉は無い。口を開きながら何も言えないでいるその様は、それを言うべきなのか悩んでいるか──あるいは、マリア自身、何を言おうとしているのかわからないでいるようにハヤテには見えた。
 そして同時に、あることを直感した。
 この先の言葉を聞いたら、ここから去ることが今感じているよりも遥かに、どうしようもなく辛いものになってしまうんじゃないかと。
「今まで、ありがとうございました」
 だから。それだけを言って断ち切るようにマリアに背を向け、ハヤテは歩き始めた。

 屋敷の門を出る前、まだ建物が見えるところで、一度だけ、振り返った。
 無意識にナギの私室に視線を向けるが、その窓にはカーテンが閉まっている。
 振り返った瞬間、カーテンが少し揺れたようにも感じたが、はっきりとは見えなかった。
「……お嬢様、今までありがとうございました」
 そして、ごめんなさい、と呟いた。






 その時の自分の頭はほとんど稼動していなかったのだと気づいたのは、しばらくの時間が経ってからだった。
 もうおそらく、ナギに会うことは無い。
 当たり前のことが脳に染みてきて、それをまぎれもない事実として実感するまでには、屋敷を出てからさらに数時間の猶予が必要だった。
 それでも、今まで何回か同じようなことがあった時も仲直り出来たのだから、今度も大丈夫じゃないだろうか。そんな楽天的な思考が頭を掠めなかったわけではない。だが、そう思った瞬間にそれを打ち消す、今回に限っては駄目な気がする、という根拠の無い予感があった。
 行く当ても無くさまよい歩きながら、もうマリアに会うこともないのだと、遅まきながら気づく。結局のところ何を伝えることも無く、自分の気持ちは秘めたままにしてしまった──そう思ったところで、胸の中で何かがうずくような感覚があったが、ほんの一瞬で消えたためにその正体はわからなかった。
 考える間を与えずに、脳は勝手に思考の対象を移す。
 伊澄や咲夜に会うことも、おそらく無くなるのだろう。彼女達はナギの友人で、ナギのいる場所にいたのであり、これから自分が行くであろうどこかにわざわざ来てくれるということは無いはずだ。
 ワタルやサキはどうだろう。彼らはこの近くでレンタルビデオ店を経営していて、おそらくそれはこれからも変わらないのだろうから、自分が店に行けば会うことはできるはずだ。
(でも、こんなことになった後じゃあ、ワタル君の店にも行きにくいなあ……)
 ハヤテは寂しげに笑い、高校に通っていた頃の友人を思い出す。
 桂ヒナギク、瀬川泉、花菱美希、朝風理沙。今はもう会うことも少なくなった彼女らは、今の自分を見て何を言うだろうか。

 かつてクリスマスイブの夜に両親に捨てられて、家も仕事も金も失くした。その時自分は人生でこれ以下の状況になることは無いだろうと思い、これ以上の喪失感に打ちのめされることも無いと信じて疑わなかった。
 だが、どうやらそうではなかったらしい。
 家は無い。仕事も今は無い。だが金に関しては、マイナス一億五千万円という状況に比べれば、所持金ゼロ円という今の状況は、まだましであると言えるはずだ。
 それなのに、喪失感は、今まであったものを失ったことによる感情は、数年前のクリスマスイブの時のそれよりも、遥かに大きかった。
 そんな辛すぎる感情に押しつぶされそうになっていた中で、ハヤテはその声を聞いた。
「……ハヤテ君? どうしたのかな? こんなところで」
「……西沢さん」
 声をかけられた、それだけのことが自分でも信じられないくらいに嬉しかったのは、だからなのかもしれなかった。




←back  →next
index      top



inserted by FC2 system