#4

 陽も完全に沈み、辺りを暗闇が覆う中、ハヤテは街灯の光のみを頼りにその漫画を読み進めていた。
 その完成度は高く、同一人物が数年前まではブリトニーと先輩の異種族ラブコメを描いていたというのが嘘のように思える。だがあの高レベルの漫画に何故か愛着を感じるのも事実で、最近のこの漫画を読むと、ほんの少し寂しいような気持ちにもなった。
 話がクライマックスに突入するというのはただの宣伝文句ではないようで、登場キャラクターの心情がこの漫画には不似合いではないかと思えるほどにシリアスに交錯し、まさに物語が一つの結末を迎えようとしているといった雰囲気を漂わせている。
 さらに、それでいて先が読めない。屋敷にいた頃も含め、少し前までは、ハヤテには話の展開が予想出来ていた。本当になんでもなく、ふと思った話がそのまま雑誌に載っていたりして、驚いたことが何度もあった。
 あまりにそれが続くので、まさか既存の漫画を盗作しているんじゃないかと心配になったこともあった。だが調べた限りはそのような情報は無く、それどころか、読者の予想を良い意味で裏切る展開だとして賞賛されているほどであり、盗作などを心配する必要は無いように見受けられたが、そうなると、どうして自分が展開を予測できるのか、その理由は結局のところ謎でしかなかった。
 そして今、ほとんどの読者にとってはいつものように、ハヤテにとってはここにきて何故か、この漫画のラストは予測できないものになりそうだった。
結末を予想しようとしてみても、まるでここから先がいくつもの分かれ道であるかのようで、どの道が正解なのか、そもそも正解の道が存在するのかすら怪しく思えてくる。
 過去、まだ自分があの屋敷にいた頃にナギが受けた雑誌のインタビューによると、ナギはこの漫画のストーリーをかなり前から考え始めていたがその結末についてはまだナギ自身にもわからないとのことであり、しかしそれでいて「最後にどうなるのか考えていないで大丈夫なのか?」と訊かれた際には、妙に自信ありげに、楽しそうに笑って、「絶対にハッピーエンドになるんだ」と語っていた。
 その言葉の意味についてハヤテが尋ねても当時のナギは楽しそうにするだけで何も答えず、今に至ってもハヤテはこの言葉の真意を測りかねている。
 結局、どんなに思考を凝らしても、この先の展開はハヤテには見当がつかなかった。
(前に言ったとおりハッピーエンドで終わってくれたらいいんだけど……お嬢様、どう話をまとめるつもりなんだろう?)
 今月の話の最後のページを閉じながら、主人公を一途に思い続けるヒロインには出来れば幸せになって欲しいと、ハヤテは考えていた。
 ポケットからビニール袋を取り出す。くしゃくしゃになったそれを広げて雑誌を入れる。
重くなったビニール袋をまた右手に握り直すと、ハヤテはベンチから腰を上げた。
 携帯電話を見ると、時刻は既に七時過ぎ。今の季節が冬である以上、これから時間が経つにつれてどんどん寒さは増していくだろう。
(……もう、帰ろう)
 そう思って顔を上げる。そして同時に、今まで意識していなかったことを、自分が今どこにいるのかということを、約三十分遅れで認識した。

 それまでは自分にとって何の特殊性も無かった、ただの公園。
 それからは忘れがたい場所になった、ただの公園。

 自分にとっては人生の転機だったと言っても過言ではないその時のことは、今でもはっきり覚えている。記憶の中の風景と、目の前にある光景が重なり始める。
(そうだ、僕はここで)
「ね〜ね〜、君、可愛いね〜」
(お嬢様と)
「せっかくのクリスマスイブに一人なんて」
(出会って……?)
 聞き覚えの無い声が聞き覚えのある文句を使っている。それは自分の記憶の中にある言葉が甦っているのかと思ったが、どうやらそうではないようだ。
 声が聞こえる方向、少し離れたその場所に、吸い寄せられるように目を向ける。
 二人の男がこちらに背を向けている。そしてハヤテの場所からは死角になっていてその姿は見えなかったが、どうやらもう一人、女性がいるらしいということが、男達の台詞から推測できた。
 まさかと思いつつ、ハヤテは一歩を踏み出して、そして、見た。二人の男の間から微かに伺える、その女性の髪の色は、
(金髪!?……お嬢様!?)
「オレ達とどっか楽しい所に──」
「僕のお嬢様に手を出すなぁ!!」
 考えるよりも先に、体が動く。一瞬の後には、二人の軟派男は宙に吹き飛んでいた。
「大丈夫ですか!? お嬢様!?」
 ハヤテが振り向いた先には、変わらない金髪、それを頭の両側で結んだ少女が、目を見開いている。
 見間違えでは無い。そこにいたのはまぎれもなく、かつての自分の主人、三千院ナギだった。

「……ハヤテ? どうしてここに」
「……僕は……散歩してたら、いつのまにかここに来てたんです」
 その声が驚き以外の感情を、嫌悪の響きを含んでいなかったことに安堵しつつ、ハヤテは答える。
 屋敷を追い出されて以来、ナギとは一切連絡を取り合っていない。マリアからたまに電話が入ることはあり、それを通してナギの様子を教えてもらったりはしたが、それだけだ。マリアによると、自分が執事を辞めてからすぐにナギは使っていた携帯を廃棄したとのことであり、ナギと直接連絡を取りたくても取れないという状況だった。
 何も考えずに飛び出してきてしまったが、もしかしたら拒絶されてしまうかもしれない、今にも自分を突き飛ばして走り去ってしまうのではないかと、ハヤテは思っていた。ナギがそうする映像が、容易にシミュレート出来た。
 だがナギは、走り去ったりSPを呼んだりということはせず、
「そうか」
 それだけ言うと、その場でくるりと体を回転させてハヤテに背を向け、空を仰いで白い息を吐いた。
「お……お嬢様こそ、こんなところに一人で……一体どうしたんですか?」
 背を向けるということの、意味。
 それはやはり、自分とはもう顔も合わせたくないということなのではないか。
 悲観的な考えが浮かぶ中、だが同時に、こんな信じられないほどの偶然、これはナギと話をする最後のチャンスなのではないか、という予感がした。
「なあハヤテ……少し付き合ってくれないか?」
 しばしの間をおいてナギが発したのは、ハヤテの質問に対する答えではなかった。
 思考の海に沈んでいたハヤテは、その声を聞いて意識を戻した。半ば反射的に「あ、はい」と答えると同時に、肩越しにこちらを見ていたナギの表情が目に入る。
「…………」
 静かな微笑み、と言えそうなそれはしかし、少なくともハヤテの記憶の中には存在しないものだった。
 自分の知らない部分を見せつけられ、その衝撃に固まっているハヤテを尻目に、ナギは歩き始める。
 ハヤテは慌てて追いかけて、すぐにその横に並ぶ。
 追いかけて、追いつけたことに、自分でも不思議なほど安堵した。



 雪の上に足跡を刻みながら、二人はゆっくりと歩く。
 公園内に人がいないのと同時に、二人ともが無言であることもあり、その足音が耳に響いてくる。
 ナギと出会うのは数年ぶりだったが、ハヤテは、何か違和感を感じていた。
 改めて見ると、髪形こそ変わっていないが、冬の夜に相応しい服装、少し伸びたように思える背丈、そして妙に大人びたような雰囲気など、日付、場所、状況こそ同じであれ、今のナギは、初めてここで出会った時のナギとも、屋敷を出る直前、最後に見たナギとも多くの点で違いが見受けられ、自分とナギが出会ってから、そして別れてからも、時間は確実に過ぎ去っているということを実感させられた。
 だが、それとは違う、何か自分の中に違和感があるような──水面に冷たい氷を投げ込まれ、そこに波紋が伝わっているような──そんな、正体のわからない感覚があった。
 いつの間にか二人の歩くペースはほぼ等しくなり、降り積もった雪を踏みしめる音は、まるで一人だけが歩いているように重なり合っていた。
 無言で歩くナギの横顔をちらりと覗いてみると、そこにはもう先程の表情は無い。ナギは真っ直ぐに前を向き、その瞳は宙を捉えている。
 どこか憂いを含んだ、痛みをこらえているような微笑み。
 あの屋敷の中での生活では見た覚えの無いその表情を、自分がいない間に、ナギがどうして、どうやって身につけたかはわからない。
 ただ、その表情はきっとナギには似合わない、出来ればもうこれ以上は見たくないとハヤテは思った。

「──あ」
 思考にふけるハヤテの横で、ナギが声をあげた。その視線は、上空、真っ白な雲が連なり、その合間からダークブルーが覗く、空を捉えている。
 ナギがポケットから出した小さな手に、雪の欠片が落ちて、瞬く間に透明な液体へと変わる。
「雪ですね」
 ハヤテが漏らした言葉に、ナギは反応しない。その掌に雪を受けつつ、空を眺めたままだ。
「お嬢様……寒くありませんか?」
 口に出してから、自分の質問がいかに意味の無いものか気づいた。以前とは違って、ナギは自分のそれよりも遥かに暖かそうなコートを着ているのだ。

 ただ、自分の中にある何かがそうしたい、そうなって欲しいと口を動かしていた。
 安っぽくて、作りが荒くて、その上使い古されてぼろぼろだと。
 ひとしきり文句を言って、そして、気に入ったと言ってくれる。
 頭に浮かんでくる、過去の思い出と交錯したイメージが今ここでも現実のものとなることを、理由はわからないが、心のどこかで間違いなく望んでいた。

 だが、ナギは、
「大丈夫。私は寒くない」
 首を横に振って、ナギは、そうしなかった。
「──寒くなんか、ないから」
 言って、ナギはまた微笑む。




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