#5

「それはまた……伊澄さんらしいというか何と言うか……」
「まあ、伊澄が迷子になるのはいつになっても変わらないだろうとは前から思っていたがな」
 それぞれの近況についての世間話。
 ハヤテとナギは公園内を歩きながら、そんなことを続けていた。
「そうそう、マリアの奴が最近……」
 寒くなんかない、と。
 思いもしなかった返答に咄嗟に反応できないでいたハヤテに、「そういえば」と、伊澄が最近自分の屋敷に来る際にまた迷子になったということを、ナギが語り出したのだった。
「え!? 本当ですか!?」
「ああ……まあ、さすがに焦り始めたんだろう」
 ナギとの世間話の最中にどうにか頭を落ち着かせたハヤテは、自分が言った「寒くないか」との言葉に対し、ナギが肯定するのを望んでいたのではない、むしろそうすることを信じていた、確信していたのだと気づいて、ナギの話を聞く一方、その理由について頭を悩ませていた。
(僕は執事としてお嬢様のお世話をしていたから、その時の習性で……いや、それともやっぱり……)
 未練。
 いつも考えていたその単語が、また頭に浮かぶ。
 自分の意思が元で屋敷を出ることになってしまったのは否定しない。だがそれは結果的には、すぐに屋敷を出るか、それとも一生ナギに使えるかという極端な問題、零か百かという命題の結果として、だった。
 ずいぶん自分勝手だけど、と前置きながら、ハヤテは思う。おそらく自分が最も望んでいたのは、零でも百でもない、ちょうど中間に位置するような答えだったのではないかと。それは、おそらく数字で表すなら四十か四十五といったところで、ほんの少し百よりも零に近かったから──だから、そうなってしまったのではないかと。
 そう、本当は、本当なら、もう少しだけこの妹のようなご主人様の世話を焼いて──
(……?)
 軽快に展開していたハヤテの思考が、そこで止まった。
 それは、屋敷を出てから、何度も辿った思考だった。一度辿り着いてからは、何の違和感も感じなかった答えだった。
 そのはずなのに、何か引っかかりを感じた。
(──妹?)
 その理由に思い当たって、隣で咲夜についての話をしているナギに思わず視線を向ける。
 そこにいるのは、自分の知らない変化をした、大人びた綺麗な少女。以前のように、「妹のような」と形容するのが不釣合いなほどに成長した少女。
 心臓が、高鳴る感触がした。
 今まで見ていなかった何かを、見てしまったような気がした。
「──なあ、ハヤテ」
「あ……はい」
 ナギの言葉への反応も鈍い。おかしな感覚が体の中を駆け巡っている。
「ハムスターの奴は元気にしてるのか?」
 ──それが、一気に冷めた。
「……はい、とても」
 見慣れた、屈託の無い笑顔が脳裏に浮かぶ。
 そして同時に、彼女に対して自分はとても申し訳ないことをしたような気がして──それが何を意味しているかを考えて、ハヤテはまた自己嫌悪した。
『あのお嬢様が僕ごときを好きになるなんて夢は全然見てませんし……そうなったとしても人として子供に手を出すなんて事は絶対にしませんよ!!』
 いつかの自分の言葉を思い出す。
 けれど、今の彼女は子供ではない──そんな声が紛れ込む中で、そんなことはない、そんなはずはないと、強く思った。
「……じゃあ、ハヤテは今まで元気にしてたか?」
 その問いに対して、胸の中の疑惑を払拭するように、ハヤテは「はい」と答えていた。
 そうすることで、自分の中で崩れそうになっている何かを支えられる気がした。
「……そうか。そうだよな」
 言いながら、ナギはまた視線を前方に戻す。
「本当は、わかってるんだよ」
 囁くような小さな声でどこか寂しげに呟くナギを、しかしハヤテは見ていなかった。
 歩のことを、考えていた。
 本当だったら、今頃一緒にいたはずの彼女。
 自分が屋敷を出るまで、何年もの間想い続けていてくれた存在。
 屋敷を出てから、彼女と一緒に過ごした日々。
 ナギに答えた通り、基本的に金欠であったとはいえ決して悪い思い出にはなりえないその日々を思い出していくごとに、自分が段々と落ち着いていくような感じがした。水面に伝わった波紋が段々と弱くなり、そして消えていく。  今、自分の心の中にいる相手を、ハヤテはそうやってはっきりと確認した。絶対にそんなことは無かったのだと確信し──何故かハヤテは、安心していた。

 そうしているうちに、気がつくとナギは数歩先を歩いている。
 いつの間に、と思いながら横に並ぶと、ナギは唐突に話し始めた。
「実は……ちょっと行き詰まってるんだ。ここに来たのも、ハヤテと最初に会ったここに来れば、屋敷で考えてるよりは何か考えつきそうだと思ったからなんだよ」
「……行き詰まっているって、何にですか?」
 何故自分と最初にあった場所に来れば何か考えつきそうだと思ったのか。ナギの話を聞いていていくつか疑問はあったが、とりあえずそれを訊くのが先決に思えた。
 天を見上げるナギの視線を、ハヤテも追う。遠くの空には星も見えるが、真上にかかる白い雲からは、依然として雪が降り続いていた。
「漫画のラストにだよ」
 聞いて、ハヤテは反射的に右手のビニール袋に視線を向ける。がさりと音を立てたそれを、ナギは初めてその存在に気づいたかのように見て、「あっ」と声をあげた。
「えっと……もしかして、これの続きですか?」
「ん……ああ」
 ナギは言って、ビニール袋から視線を戻す。
「ハヤテは……どうなると思ってた?」
 この漫画の先の展開が、という言葉を省略して、やや躊躇いがちにナギは訊く。
「僕は……ちょっと予想は出来ませんでしたけど、ヒロインと主人公がハッピーエンドで終わってくれたらいいなと……」
 そこで、ハヤテは言葉を切った。
 否、ナギによって切らされた。
 ナギが何か口を挟んだわけではない。出来の悪い弟に向けるような視線で、ナギはハヤテをただ見つめている。
「本当に、ハヤテは変わらないな」
 だがハヤテには、どうしてか、ナギがその暖かいはずの視線の奥に堪えきれないほどの悲しみを抱えているように思えて──そう感じた瞬間、ハヤテはそれ以上言葉を続けることが出来なくなっていた。
 そんなハヤテを見て、まったく、とナギはおかしそうに笑った。
 ひとしきり笑い終えると、何がそんなにおかしいのだろう、と呆気にとられるハヤテを尻目に、笑いすぎたせいか目に浮かんだ涙をナギは拭った。
 そしてビニール袋からわずかに覗く雑誌を一瞥して、ぽつりと呟く。
「ちゃんと、決めてたつもりだった……いや、決まってると思ってたんだよ」
 白い息を吐いたナギは、いつの間にかその表情を変えている。そこにあるのは、もう見たくないと思った、あの微笑み。
「私だって主人公とヒロインは一緒になると思ってたさ」
 そこまで聞いて、ナギの言っていることがどうもおかしいとハヤテは気がついた。
『決まっていると思っていた』
『私だって主人公とヒロインが一緒になると思っていた』
 それはまるで、話を作っているのがナギではないような言い方。
(他に原作者がいて、お嬢様は絵の担当とか……でも雑誌にそんな記載は無いし……)
 そのことについてハヤテは尋ねようとしたが、その前に、ナギが既に口を開いていた。
「なあ、ハヤテ。一つだけ教えてくれ」と、真剣な、どこまでも真剣な瞳に射抜かれていた。
 ハヤテはその様子に面食らいながら待つが、ナギはなかなかその続きを口にしなかった。ナギの顔はそのまま段々とうつむいていって、ハヤテにはその表情が見えなくなった。
 コートの端を強く握り締めた両手。体全体が心なしか震えているように思える。一体何を訊こうとしているのか。ハヤテも緊張が高まった。
 そしてナギは、覚悟を決めたのか、まるで感情を絞り出すかのように、震える声で、ゆっくりと言葉をつむいだ。
「元々の理由は借金だったかもしれないけど……お前は最初から最後まで私の執事でしかなかったけど」
 そうして、一旦口を閉ざした。
 質問の文面が途中なのは明らか。どうやらこの先に進むには更に勇気が必要らしい──そう察して、ハヤテも黙って待った。
 ナギの言葉を聞いて、自分の中に再び泡のように浮き上がってきた何かを否定して、黙って待った。
 ナギが、顔を上げる。開いた目は、涙に潤んでいる。
 胸の前で手を組んで、まるで祈りの言葉を口にするかのように。
「ハヤテは……私といて楽しかったか?」
 発せられた質問は、ハヤテが想像をめぐらせたものよりも遥かに簡単で、
「……はい」
 答えを出すのには考える必要すら無かった。
「とても楽しかったです。……ナギお嬢様」
 それを聞いて、ナギは握り締めていた手を緩めて、「そうか」と安心したように呟いた。
 ほう、と白い息が漏れた。緊張でこわばっていたナギの顔が緩む。
「それは、勘違いじゃないんだよな」
 目に涙を溜めながらナギはそう言うと、その顔をハヤテの胸に押し付け、体を預けてきた。
 反射的に手を回そうとして、ハヤテはそれを止めた。自分の胸元から、ナギの小さな声が聞こえてきた。それは「だったら」と、言ったように聞こえた。
「お嬢様?」
「やっぱり、私のわがままで変えちゃだめだよな」
「え……?」
 だが、ハヤテが何かを言うより先に、ナギは小さく笑ったかと思うと、
「寒いな」
 短く呟いて、ハヤテのコートを脱がせにかかっていた。
「お……お嬢様!?」
「やっぱりこのコート、借りておくよ」
 どこかいたずらっぽさを感じさせるような声でそう言ってハヤテから体を離したナギは、既にハヤテのコートに袖を通して、公園の外に向かって歩き出していた。
 公園から出ようとすることが、この時間は終わりだと暗に言っているように思えて、ハヤテは後を追えなかった。 何故か、追う必要が無いように感じた。
「やっぱり、ハヤテのコートは暖かいな」
 ナギは一度だけ振り返り、その金髪を雪明りに煌めかせて、言った。
「そのうち返しに行くから……じゃあ、またな」
 無邪気で、どこか子供っぽい、いつか見ていた懐かしい笑顔が、そこにあった。

 しばらくの間、呆けたようにそこに立ち尽くしてナギの去った方向を見ていたが、ポケットが振動したことでハヤテは我に返った。
 慌てて携帯電話を取り出して確認してみると、メールの着信が一通。差出人は歩であり、予定が思ったよりも早く済んだため、これから会える、一時間後にハヤテの自宅に向かうという内容だった。
 ハヤテはナギの歩いていった方向をもう一度見つめると、携帯電話をポケットにしまい、振り返って歩き出した。
 ナギといた時に感じていた違和感は、氷が水に溶けていくかのように、段々と小さくなり、そして消えていった。



 数ヵ月後、三千院ナギの初作品である漫画は、主人公とヒロインの離別という最後で完結した。
 最後のページを飾ったヒロインの笑顔は主人公との別れを乗り越えた結果としてのものであり──その笑顔はどこか、ナギのそれと似ていた。



いつかと同じ、雪空の下で───fin


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