「……さん……大丈夫……?」
「……過ぎたみたい……上で……」
ふらつく足とぐらぐら揺れる頭。何がなんだかわからなくなりそうな中で、そんな声が最後に聞こえた気がした。
夢だと信じたいようなお話
「……さん……起きてください……」
「ん……」
私は……どうやら眠っていたらしい。目を開けると……あ、ハヤテ君だ。
なんだか暗い。今は夜なの? それに頭が重い……。
「ヒナギクさん。目が覚めましたか?」
「あ、うん……」
ようやく視界がはっきりしてきた。薄暗いけれど、ここは私の部屋だ。
慣れたお布団の感触。私は自分のベッドで今まで寝ていたみたい。何故か普段着のままで。
そして目の前にはハヤテ君がいて、私のベッドの縁に座って──
え?
「ね、ねえ、ハヤテ君……」
「はい?」
「なんだか、こう……近くない?」
そう。近い。半身を起こしている私に、ハヤテ君はほとんど体を密着させるくらいに近づいている。
これは人に見られたらまずい……というよりも、それ以前の問題でまずい気がする。
「近いってぇ……何がですかぁ?」
あれ? 今のハヤテ君の喋り方、なんだか違和感が──って! 今度は顔が近いわよ! これじゃまるで……!!
「ヒナギクさん……」
「な、何?」
「僕、このままヒナギクさんを抱きしぶっ」
……やっちゃった。木刀正宗の一振りでハヤテ君は床に倒れこんでる。
でもこれはハヤテ君は悪い。悪いったら悪い。歩という子がありながら私をたぶらかそうとするなんて、男の風上にも置けない。
私の胸がどきどきしてるのは、いきなりのことに驚いたからで、それ以外の理由は無い。絶対に無い。
というかどうしてハヤテ君が私の部屋にいるんだろう。
床に倒れたハヤテ君を見てみると、どうやら気絶しているというよりも眠っているみたいで、静かな寝息を立てている。
「ん?」
ハヤテ君の傍に、くしゃくしゃの紙切れが一枚落ちている。
ベッドから手を伸ばして取って、広げてみると、そこには「抱きしめる」と書いてあった。
どういうことだろう。そういえばハヤテ君がさっきそんなことを──って、あれ?
なんだかとても眠くなってきた。体から力が抜けて、気がついたら私はまたベッドに倒れこんでいた。
頭が動かせない。だんだんまぶたが下りてきて……。
…………。
誰かが何かを喋っている気がする。
「……綾崎……しっぱ……次……」
ずるずる。きい。ばたん。
音が聞こえる。
何か、歓声のような声が聞こえる。
誰かの気配を感じる。
「……さん……ナさん……」
がくがくと体を揺さぶられて、私は目を覚ました。
頭に鈍い痛みがある。体が少しだるい。
薄暗い部屋。普段着。ぼんやりと記憶がよみがえってきた。半身を起こして部屋を見回してみる。
「あれ?」
すると、さっき私が倒したはずのハヤテ君が見当たらない。綺麗さっぱり消えている。そしてその代わりに、
「あはは〜ヒナさ〜ん」
歩が私の足元に立っていた。なんだかとろんとした目で、ちょっとふらついている。
さすがに、何かおかしい。もしかしたら、これは夢なんじゃないの?
そんなことを考えていると、
「えへへ〜〜」
歩が私にしなだれかかってきた。というか抱きついてきた。むしろ絡み付いてきた。
「ちょ……歩、一体どうしたの!?」
「ん〜〜」
ごろごろと、まるで猫か何かのように私の胸に顔を寄せる歩。
話もまるで通じない。ちょっと独特のテンションを持っている子だとは思っていたけど、ここまでではなかったはず。
それにしても、さっきまでハヤテ君がこの子と同じようなことをしようとしてたんだと思うと、なんだかちょっと複雑。歩はハヤテ君のことが好きなのに。
あれ、でも確かにそこで寝てたはずのハヤテ君がいつのまにか消えているし、それを考えたらあれはやっぱり夢? 今、歩がここにいるのだって冷静に考えたらおかしいし……。
ちう。
へ?
えっと……何?
とりあえず、ほっぺたが暖かい。歩の顔が目の前に、本当に目の前というかすぐそこにあってはっきり言って私の顔にくっついてる。
これはつまり……キス?
「って歩!? 何してるのよ!?」
今まで目を瞑って私のほっぺたに……その、キスしていた歩が、私の声で目を開けた。
私を見ていながらどこか遠くを見ているような目がそこはかとなく不気味だ。
そのままじっと私の目を見たかと思ったら、にへらと笑って、
「失敗かな? かな?」
何が、と私が言う前に、両手を私の首に回したかと思うと、そのまま顔を近づけてきた。
ちょっと待って! この軌道はまずいでしょ!?
さっきのはほっぺただったけど、このままいくと、今度はマウストゥマウスになっちゃう……!!
え!? もしかして失敗って、そういうことなの!?
私は両手の力を振り絞って、近づいてくる歩を押さえつけた。
どうやらやや私の力の方が勝っているみたいで、歩はそれ以上近づけなくなる。
「い、いきなりどうしたの!? こんな……!!」
まさか歩にはそっちの趣味が……と思ったけど、歩はハヤテ君のことが好きで、その気持ちは本物だから、そんな趣味がある訳ない……ああもう、いっそのこと全部夢だって言ってくれたらいいのに!
「……嫌ですか?」
「へ?」
「ヒナさん……私のこと嫌いですか?」
え、何? 私が歩を押さえつけてるのがそういう話になるの?
「い、いや、別に嫌いってわけじゃないけど……」
今はそういう問題じゃない気がするけど、涙まで浮かべる歩を見て、私の力は弱まってしまったらしい。
「え? あっ!?」
油断した、と思った時にはもう遅かった。今まで半身を起こしたところで抵抗していた私は、気がついたら完全にベッドに押し倒されていた。
歩が笑いを顔に浮かべながら近づいてくる……!
…………。
とさ。
……あれ?
すうすう。
胸元で聞こえる規則正しい寝息。
おそるおそる目を開けてみると、歩は私の上にかぶさる形で眠っていた。
ふー……と思わずため息をついてしまう。実際今のは危なかった。
それにしても、これはいったいどういうことなんだろう。本当に夢ならいいのだけど……いや、夢なら夢でこんな夢を見る私って一体……。
「ん?」
と、なんとなく部屋の床に目を向けると、見覚えのあるような無いような紙切れが落ちている。もしかして、この紙切れにも何か書いてあるんじゃ……。
「ヒナさん……もう飲めないよ……」
寝言を言う歩の下から抜け出してその紙切れを見ると、思った通り。「キスする」と書いてあった。
まさかとは思う。でも、もしかすると、ハヤテ君も歩もこの紙に操られたんじゃないだろうか。
前に鷺宮さんもなんだかよくわからないお札を使っていたみたいだし、それと似たようなものだったりして。ハヤテ君がいなくなった理由はよくわからないけれど……。
その紙をじっと眺めてみた。特別おかしなところは無い、見る限りは普通の紙だ。こんなもので人が操られるなんて思えない。
「そうよね……こんな紙切れ一枚で……」
ぎしっ
その時、小さな音が聞こえた。
本当に微かな音だけど、長年この家に住んでいる私にはわかる。誰かが階段を上ってきている。
ぎしっ……ぎしぎし……
音がだんだん大きくなってくる。この感じ、上ってきているのは一人じゃない。おそらく、二人。
私は木刀を握り締め、ベッドに潜り込んで寝ている振りをした。歩がまた抱きついてきたけど、今は振りほどいておく。
そのままで待っていると、少しして扉が開いた。中を伺う気配がする。
私がベッドの中で息を潜めていると、誰かが足音をほとんど立てずに入ってきた。
思ったとおり、一人、二人。うち一人がベッドの前までやってきた。私と歩がいるのを確認しているんだろう。
すう、すうと呼吸して寝ている様を演出していると、その人達が口を開いた。
「ありゃ〜、これは失敗?」
「いやいや、案外上手くいったのかもしれないぞ? 少なくともハヤ太君よりは」
「うーん、でもこれだけじゃ物足りないわね……よし、第三回ヒナを弄ろうゲームいくわよ!!」
……聞き覚えのありすぎる二つの声を聞いたときの私の心情を何と表現したらいいだろう。
私はすっくと立ち上がって、何か叫んでいる二人を無視してドアを開け、階段を下りた。
居間には、散乱する缶ビール、日本酒、ワイン……顔を赤くしてテーブルに突っ伏す泉と美希。ソファで寝てるのはナギとハヤテ君。
そうだ。思い出した。
今日はテスト終了祝いに、帰る途中に会った歩も引き込んでみんなでこの家に集まって、そうしたらお姉ちゃんがそこにお酒をたくさん持って乱入したんだった。
そんなに難しいテストじゃなかったと言ったら、みんなに私ばっかりが飲まされて、ふらふらになったところで二階に運ばれたのよ。
──その後のことはわからないけれど、
「ねえ、理沙。それにお姉ちゃん?」
後ろで震えている二人に聞けばわかること。
「ヒナを弄ろうゲームって楽しそうね……一体どういうゲームなの?」
テーブルの上には、直径十センチくらいの穴が開いた箱が二つある。くじ引きという単語が頭をよぎった。
試しに片方の箱に手を入れてみると、中には丸められた紙が入っている感触がする。一つ取って広げると、「泉が」と書いてある。
もう一つの箱にも手を入れて中の紙切れを出してみる。こっちには、「服を脱がす」と書いてあった。
「○○が××に△△する」という文章のそれぞれの部分をくじ引きで決めて実行する、というようなゲームの存在を聞いたことがある。
なるほど……つまり、そういうこと。「××に」の部分はあらかじめ決まっていたみたいだけど。
「ハヤテ君と歩を酔わせて無理やり参加させたわけね……」
「あ〜……いやあ、二人とも結構乗り気で」
「問答無用!!」
「ごめんなさい……」
「ごめんなさい……」
お姉ちゃんと理沙が床に倒れながら何か言ってるけど、とりあえず放っておこう。急所は外してるから大丈夫でしょ。
「ん……」
あれ、ソファで寝ているハヤテ君も、何か言っているみたい。
……まさか私のことじゃないわよね? もしそうだとしたら……うん、まあ……べ、別に何もしないわよ。うん、何もしない。まあ、ずりおちてる毛布くらいはかけてあげるけど……そ、それよりも少しは歩のことを気にしてあげなさいよ。今日はお酒のせいでおかしくなってたけど、普段はあんなにハヤテ君のことを追いかけてるんだから……。
「う〜ん……マリアさん……」
ピキッ
私は漫画とかはよくわからないけれど、もしこれが漫画だったなら、そんな効果音が入ったんじゃないだろうか。
なんだかわからないけれど、無性に腹が立つ。
「まったく……」
「制服……似合ってな」
「この、女たらし!!」
ずり落ちていた毛布を思いっきり投げつけてやった。
おしまい。