「いやあああああああああああ!!!!!!!!」
 本当にいきなりのことだった。
 夕食後、僕がお嬢様に付き合わされて格闘ゲームの相手をしていた時、突然その声は響き渡った。
 明らかに女の人の悲鳴。この屋敷にいる女性は二人──そのうち一人は僕の隣にいる。つまり、この悲鳴の主は……
「マリアさん!?」
 僕はお嬢様と一緒に部屋を飛び出した。
 マリアさんはこの時間は確かお風呂に入っているはず。お屋敷が広すぎてそこまでいくには少し時間がかかるので、僕はお嬢様を抱えて全速力で走った。あのマリアさんがあんなに大きな悲鳴を上げるなんて、ただ事じゃないに違いない。
「あ、マリアさん!」
 大浴場の入り口の前で、マリアさんは見つかった。何が起こったんだろうか、顔色が悪い。心なしか足元もふらついてる。
「マリアさん! 一体何があったんですか!?」
 マリアさんの両肩を掴んで、僕は尋ねた。後ろではお嬢様も心配そうにしている。
「……です」
「え、なんですって?」
 マリアさんの声が聞き取れなくて、僕は顔を少しマリアさんに寄せた。髪の毛が湿っていて、ほのかな香りがする。
「……ないです」
「え?」
 けれど、マリアさんの言葉は、僕の予想外のものだった。
「なんでもないです」
「そんな! だってあんなに大きな悲鳴……」
「なんでもないんです。いいですか、ハヤテ君。なんでもないんです」
 繰り返すマリアさんから妙なプレッシャーを感じて、僕はつい後ずさってしまった。
 なんだろう……触れてはいけない匂いがする。
「さあ、ナギ。今日はもう寝ましょう。明日も早いんですから」
 にっこりと笑うマリアさん。なんだかとてつもなく違和感を感じるのは、気のせいじゃないと思う。マリアさんを前にして震えているのは僕だけじゃないんだから。
「ハ、ハヤテ……マリアに何かしたのか?」
「い、いえ……僕は何も心当たりは……」
 今のマリアさんは鬼気迫っている感じがする。お嬢様にも何かした覚えは無いみたいだから、どうしてこんなことになっているのかわからない。できれば何があったのか訊きたいけれど、これ以上踏み込むと命の危険がある気がする。
「そうそう、ハヤテ君」
「は、はひっ!?」
「明日からは私達二人の朝食と夕食は私が作りますから……いいですね?」
「え? でも……」
「い い で す ね ?」
「はい」


 その日は結局それで終わって……翌日からマリアさんのおかしな行動が始まった。
 朝はお嬢様の朝食作りで忙しいはずなのに、僕と自分の分の朝食作り。
 遠くへのお使いも、今までは僕がやっていたのにマリアさんがやるようになった。
 それに、マラソン大会の季節でもないのに三千院家の運動競技場を開けたり、果てはお屋敷備え付けのプールまで使用しているらしい。
 極めつけとして、たまに咲夜さんや伊澄さん、ヒナギクさん達が遊びに来た時、お嬢様も含めたみんなをじっと、睨みつけるように厳しい視線で見ていたりもした。


 そんなマリアさんの奇行が始まってしばらく経つ。
 マリアさんのことも気になるけれど、ちゃんと仕事もこなさなくてはいけない。
 そう思って、僕がいつものように掃除をするためにお屋敷の中を回っていると、ある部屋の前に差し掛かったところでマリアさんの声が聞こえてきた。
「だって私は、四十……のはずなんですよ!? こんな……こんな……」
「マリア……人は、変わるんだ……」
 大きな声で叫んでいるマリアさんの声に混じって、小さい、やけに冷静な声が聞こえる。どうやらこの部屋には、マリアさんだけでなくお嬢様もいるらしい。
「いつまでも同じわけじゃないんだ……」
 僕がつい聞き耳を立てていると、誰かがドアの方に向かってくる気配がした。とっさに物陰に隠れる。間一髪のタイミングでドアが開いて、中からお嬢様が出てきた。そのままドアを閉めたところから見ると、マリアさんはまだしばらく中にいるらしい。
 今なら、ここ最近のマリアさんの行動について答えが得られる予感がした。
「お嬢様……一体、何があったんですか?」
 僕が訊くと、お嬢様は「ああ、ハヤテか」と疲れた声で言った。そして、
「マリアが私や伊澄たちをじっと見ていたのは……羨ましかったかららしい」
「え?」
 いきなり突拍子も無いことを言い出すお嬢様に、僕はそんな反応しかできなかった。さらにお嬢様は続ける。
「なあ、ハヤテ。出会った頃から比べて、私の背は伸びたよな?」
「え?……まあ少しは伸びたような……」
 言ってから僕は「しまった!」と呟いた。こんな言い方では、背が低いことを気にしているお嬢様が怒ってしまうに違いない。
 ……と思ったのだけど。お嬢様は何も気にした様子は無く、窓の外の空を見上げながら、ゆっくりと、味わうように言った。
「そうだな……私達だって変わっていく……当たり前のことなんだ」
 お嬢様はそこで言葉を切って、ふっ、とどこか大人びた笑いを見せた。
「マリアは油断したんだ……一巻のプロフィールでは四十二だったからと油断して、自己の管理を怠ったんだ……一度公式に発表されたもんだから、もう変わらないだろうって……その代償が、これだ……」
 この意味不明の言葉の中にマリアさんの奇行についての答えがあるのだろうけれど、僕には何を言っているのかさっぱりわからなかった。
 でも、マリアさんがお嬢様に事の次第を教えてくれたのなら、僕にも教えてくれるんじゃないだろうか。そう思ったら、お嬢様が僕の考えを先読みしたかのように、
「今回のことについて、マリアにはもう何も触れてやるな……それが情けというものだ」
 そうやって釘を刺されたのでマリアさんに訊くこともできず、しかもいつのまにか咲夜さんやヒナギクさん達は何があったのかなんとなくわかっているようで、僕だけが何があったのかわからないことになってしまった。ヒナギクさん達もお嬢様と同じように、ただ黙って首を横に振るだけで何も教えてくれない。
 そうそう、何故かみんな何かを恐怖しているみたいで、「私も気をつけないと……」とヒナギクさんが呟いていた。何を気をつけるのかと訊いたら、やっぱり教えてくれなかったけど。
 とりあえず、そんなよくわからない状況で、マリアさんの奇行は未だ続いている。



 おしまい。


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