「マリアさん……僕、このままでいいんでしょうか?」
「へ?」
「執事として……もっとこう、やらなくちゃいけないことがあるんじゃないかと」
「……何かあったんですか?」





      『方向性』





「お嬢様! どこですか!? お嬢様!」
 白皇学院の敷地内、とある場所にて。
 少しだけ息を切らしながら、綾崎ハヤテは走り、そして主の名を呼んでいた。
 木に覆われた森の中からでも見ることのできる時計塔。それをちらりと確認する。もう時間は無い。
「お嬢様! 出てきてください!!」
 実際のところ、この近くにいるのかすらわからない。だがそれでも、呼びかける以外にない。
「お嬢様、もう時間が……!!」

 りーん、ごーん。

 だが無常にも、ハヤテが聞いたのは主の返事ではなく、授業開始を告げるベルだった。
 それはすなわち、ナギを見つけられなかったという自分の敗北を意味する。

 ナギのサボり癖については重々承知している。だからハヤテは、学院内ではほぼ常にナギの傍にいる作戦を取り、彼女が授業をサボることの内容に見張っているはずだった。
 だが、今のベルで始まったはずの、自分達の次の授業は体育だった。さすがのハヤテも男女別の更衣室の中までは潜り込めない。
 ナギにちゃんと着替えるように言って自分も更衣室に入り、そして出てきた時には、もうナギは逃亡した後だった。
「ごめんね。ハヤ太君のご主人様逃げちゃった(はぁと)」
 逃げるのをわかっていながら引きとめた素振りがまったく無い自分のクラスの委員長を見て、このクラスにあの真面目な生徒会長がいてくれれば、と嘆くしかなかった。
 そして必死の追跡もむなしく、授業は始まってしまった。逃げられた、というわけだ。
「はぁ……」
 体育での軽い運動すら拒否する主と、安々と逃げられる自分について考えると、自然とため息が出てしまった。

「おやおや、そんなことでは執事失格だね」

 背後からの声。それを聞いてさらに気分を滅入らせながら、ハヤテは振り向いた。
「ネクタイの君」
「ヒムロだよ」
 その傍らでは、名乗りはしないが彼の主人もヒムロのコートの右のすそを握り締めている。タイガといったかな、と記憶を探った。
「主を良い方向に導く責務が我々にはあるというのに……その主にまんまと逃げられてしまうとは」
「うっ……」
「そんなことでは、主を導くことなんて出来ませんよ」
 薔薇の花を手に、囁くようにヒムロは言う。
 ハヤテの胸の内にあったのは、最初は反省だった。ヒムロの言うとおり、今のままではいけないと。
 そして次に浮かんできたのは、ちょっとした疑問だった。
 今までに何度か、彼と彼の主人とは顔を合わせている。だが、どうもわからない。
(野々原さんならなんとなくわかるけど……)
 この人はどうやって?
 なんとなくそれに興味が沸いた。
「あの……ネクタイの君は……」
「ヒムロだよ」
「ネクタイの君は、どんな風にしてその子を良い方向に導いているんですか?」
 訂正することなく、ハヤテは尋ねた。ヒムロもそのことを気にした様子は無く、ふっと笑って「簡単なことさ」と語り始めた。
「坊ちゃんは朝起きるとまず僕の朝食を作ってくれる。熱いコーヒーもつけてね。それから僕の服を換えて、後はここに来て授業を受ける。帰ってからは……そうだね、僕の部屋を掃除したりもしてくれる。そして……」
「あの……ちょっと待ってください」
「何かな?」
 まず何を言うべきかハヤテは迷った。あなたは質問の意味をわかっているのかそもそもご飯を作ったり掃除をしたりというのはむしろ自分達の仕事であって主従が入れ替わっているのではないか……などなど、突っ込みどころはたくさんある。
 とりあえず疑問に思ったことをハヤテがすべて伝えると、ヒムロは「わかってないな」とでも言いたげに肩をすくめた。
「僕と出会ってからは、坊ちゃんは僕のために美味しい料理を作ることが出来るようになった。美味しいコーヒーも淹れられるようになったし、そうそう、早起きも出来るようになった。部屋を上手に掃除することも出来るようになったね。僕に対していろんな気配りをするようにもなった」
 ヒムロはさらに、タイガが出来るようになったということを一つ一つ挙げていく。
 嬉しそうにするタイガを見ながら、ハヤテにも、ヒムロの言いたいことがなんとなくわかってきた。タイガの出来るようになったことというのがすべてヒムロの世話に直結しているという事実が玉に傷だったが。
(でも、そうか……ネクタイの君はネクタイの君なりにあの子を成長させているんだ……)
 だったら自分は、とふと意識をそらしたとき、
(……ん?)
 ヒムロが、右手を素早く動かしたように見えた。ちょうど視線をそらした時だったので確証が持てない。ヒムロはというと、先程と何一つ変わらず語り続けている。
(気のせい、かな……?)
 そのまましばらく喋り続けてひとしきり言い終えると、ヒムロはハヤテに向き直り、
「さて、君のお嬢様は君が執事になってからどのくらい成長したのかな?」
 すっと目を細めた。
 咄嗟に答えが浮かばない。その情けなさに、ハヤテは何一つ言い返せなかった。
 ヒムロはまた、ふっと笑って、
「さあ、行きましょうか、坊ちゃま」
 くるりと、ハヤテに背を向けた。タイガも、それに続く。
 その時だった。ヒムロが右手から、何かを静かに落とした。ちょうど左側にいるタイガには死角になっているのか、気づいた様子は無い。
(やっぱり気のせいじゃなかったんだ……)
 近寄って、ヒムロが何を落としたのかを見て、ハヤテは一瞬意味がわからなかった。
「……毛虫?」
 そこに見たものの名前をハヤテが呟くと、タイガがビクッと反応して、おそるおそる振り返った。
「え? どうしたんですか?」
「坊ちゃまは、毛虫が嫌いなんですよ」
 やはり薔薇を片手に、ヒムロが答える。
 そういえば、とハヤテは思い出していた。
 ヒムロの右手が動いた軌道。上から毛虫が落ちてきていたと仮定すると、それはおそらく、タイガの頭の上に落ちていた。
(もしかして、あの子を守るために……? 全然回りを気にしてる素振りは無かったのに)
「さあ坊ちゃま、行きますよ」と歩き出すヒムロが、神々しく見えた。

 りーん、ごーん。

 先程も聞いた鐘の音が、今度は授業の終了を告げる。そこで、初めて気がついた。
「……あれ? そういえば、今って授業中……」









「……なるほど。体育のあった日にしてはナギが元気だと思ったら、そういうことだったんですか」
「ええ、まあ……」
「そして、結果的にハヤテ君も授業をサボったと」
「あ……はい、すいません」
 ダメですよ、と指を立てるマリアに、ハヤテはつい顔を染めてしまう。
 マリアは楽しげに笑って、「それに」と付け加えた。
「ナギだって、ハヤテ君のおかげでちゃんと成長していますよ」
「え……?」
 自信なさげに「そうですか……?」と訊くハヤテ。マリアは空を見つめ、何かを思い出すように、
「ええ……ハヤテ君が来る前と後では大違いです」と感慨深げに言った。
 マリアは、一歩、二歩、とハヤテに背を向けて歩く。ハヤテはそれを黙って見つめていた。
「例えるなら、ハヤテ君は……的のようなものなんです」
「的……ですか?」
「そうですよ。ナギはその的を撃ち抜くために、他の人に先に撃ち抜かれたり、壊されたりしてしまわないように一生懸命なんです」
「はあ……よくわかりませんけど、それでお嬢様はちゃんと成長しているんでしょうか?」
「ええ。きっとそのうち、今よりももっと魅力的な子になりますよ」
 振り返って、マリアはまた笑顔を見せた。
「だから、ハヤテ君はこのままでいいんです。それがきっと、ハヤテ君のやり方なんです」
 まるで子供に言い聞かせるようなマリアの口調に、釈然とはしないながら、ハヤテもつられて笑った。


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