「う〜、気持ち悪い……」
「もう少しだから歩け」
まったく、どうしてこんなことをしてるんだ、といつものように思う。
酒を飲みすぎて潰れた幼馴染に肩を貸して、学校まで送る。毎月毎月、給料日が来るたびにこうしているのがどうにも馬鹿らしい。
彼女──桂雪路は学校に寝泊りしているので、本来なら学校まで送ってやるのだが、今日に限っては少し遅くなったため、それが難しい。おそらく門は既に閉ざされてしまっているだろうし、聞いたところ鍵は宿直室においてきてしまったとの話だ。
仕方なく彼女の妹に電話し、状況を話して、その家に向かっているわけである。幸運にも、先程まで飲んでいた居酒屋からほとんど距離が無かったので、歩き始めて五分も経たないうちに到着した。
「ほら、着いたぞ」
「…………」
返事が無い、かと思いきや、耳を凝らすと規則正しい呼吸音が聞こえる。
「寝てやがる……」
軽く殺意を覚えて一発殴ろうかとしたところで、玄関先での気配に気づいたのか、その少女──桂ヒナギクはドアを開けた。
風呂に入っていたのだろうか、わずかに湿った髪を夜風にたなびかせたヒナギクは、崩れ落ちそうになっている姉を慌てて支えると、その傍らの男に頭を下げた。
「すみません、薫先生。いつもお姉ちゃんがご迷惑をおかけして……」
「いや、まあ、慣れてるからな。……あれ、ところで」
「あ、お義母さんなら、今日は仕事でいないんです」
ふと生じた疑問を薫が言葉にする前に、ヒナギクが説明する。
薫は「そうか」と頷くと、ヒナギクと二人で雪路を抱えて、家の中へと入っていった。
「……ここに来るのは久しぶりだな」
雪路が椅子に寝かされている横で、薫はひとりごちた。
ここ数年、少なくとも教師になってからは、この家の敷居をまたいだ覚えは無い。
姉にかける毛布を探すため、ヒナギクが階段を上る、その音が聞こえてくる。ばたばたと音を立てて階段を上り下りする少女──そんな過去の記憶を呼び起こして、薫は苦笑した。昔はそれを落ち着きが無いとたしなめられても知らぬ顔をしていたというのに、今の彼女には、年相応の落ち着きがしっかりと備わっている。
「……生徒会長までやってるんだからな。当然か」
しばらく見ないうちに、強く成長していた少女。あの頃から何一つ変わっていない幼馴染。実の姉妹だなんて信じられない、と初めて会った時に持った印象は、今も変わっていない。
「まあ、似てるところも確かにあるけどな」
そもそもこの姉妹と活発に交流するきっかけになったのは、高校のクラスメートだった雪路がコーヒーショップを経営して親に押し付けられた借金を返すと言い出したことだった。
『いや、無理だろ』
実際の借金額を聞いて薫は言ったが、雪路は一切聞く耳を持たなかった。絶対に返済できるからと、まるでそれが当然のことのように言い放っていた。
そしてその話を聞いているうちに、あろうことか、
『そうだ、あんたも手伝いなさい』
『は?』
以上、二言のやり取りにより、薫は零円の時給をもらいつつコーヒーショップ経営の手伝いをするはめになった。
もちろん薫は拒否したが、雪路の頭の中ではそれは既に決定事項となったようで、放課後には抵抗の甲斐なくその手を雪路に引きずられることになった。
『ここよ!!』
そう言って、寂れた印象のコーヒーショップを指差す雪路。
渋々ながらもそのドアを開けると、中には、桃色の髪の少女がいた。
少女は薫を見ると、慌てて姿勢を正し、幼く緊張の混じった声で──
「薫先生、何かお飲みになられますか?」
すぐ近くで発せられた声に、薫は意識を戻した。見れば、雪路には既に毛布がかけられていて、ヒナギクがその横で自分を見上げていた。
「あ……いや」
「いいですよ、遠慮なさらなくて」
お姉ちゃんがお世話になってますし、と雪路を見下ろすヒナギク。
薫は目を閉じて、なんとなしに、そう言っていた。
「コーヒーを一杯、淹れてくれ」
「どうぞ」
待たされること、少し。慣れた手つきでヒナギクはコーヒーを淹れ、「熱いですよ」と言い添えて薫に手渡した。
受け取った薫は、それを少しだけ口に含み、
「美味いな」
その呟きを聞いて、ヒナギクがふと口の端を緩めた。
「初めてですね」
「ん?」
「薫先生が、私の淹れたコーヒーを美味しいって言ったの」
「……そうだったか?」
「そうですよ」
コーヒーを飲みながら、薫は記憶を辿る。
かつて何度か飲んだ、あの店でヒナギクが淹れたコーヒー。思い返してみれば、それらはどれも、温度が熱すぎたり、ヒナギクが勝手に砂糖を入れ過ぎたりなどの理由で最早コーヒーとは呼べるものではなく、美味しいと言う以前に、
「私が昔淹れてたのは、飲む方が難しかったかもしれませんけど」
そう言って、ヒナギクはばつが悪そうに笑う。
「まあ、確かにな。……でも、これは美味いぞ」
半分ほどに中身の減ったカップを、ヒナギクに示す。それを見て、ヒナギクは顔を輝かせた。
「……嬉しそうだな」
「はい、昔からの目標でしたから。私の淹れたコーヒーで『美味しい』って薫お兄ちゃんに」
言わせてみせるって、という語尾は、それまでの自信に満ちた声とは裏腹に、段々とかすれ、しぼんで、消えた。代わりにヒナギクはその顔を真っ赤にして、口に手をあてている。
その呼び方を最後にされたのはいつだったか、と思い出してみると、おそらく桂姉妹との交流が最も活発だった時期の終わり、借金返済に伴ってコーヒーショップを閉店した時のことが頭に浮かぶ。
今まで懸命に営業してきた店、そして、両親が唯一残したもの──そこから離れることがあらゆる意味で悲しかったのだろう、堪えながらも涙を抑えきれないでいたあの時のヒナギクは、確かに自分のことをそう呼んでいた。
だが、次に会った時、友人の妹、姉の友人という関係ではなく、教師と生徒という関係の中で再び出会った時から、ヒナギクは自分を「薫先生」と呼び、自分も彼女のことを「桂」と呼ぶようになった。
それは教師と生徒として、当然のように、確認すらないままに、そうなっていた。
「あの、薫先生……」
「あ、ああ……」
「えっと、その、今のは忘れてください……」
だけど、と薫は思う。
この少女のことを指して「桂」と呼んでいた時、心の中ではどうだっただろうか。
かつての呼び名を思っていたことは無かっただろうか。
教師としての面子や、そんなことをしたら彼女だって困るという思いから、間違っても心の中の呼び名を口には出すまいと、意識したことが無かっただろうか。
考えてみて、あまり自信は無かった。
「いいじゃないの!! 人の目なんてぇ……!!」
薫とヒナギク、二人が無言でいる微妙な空気の中で、その声は突然発せられた。
声の主は確かめるまでも無く、
「お……お姉ちゃん?」
「人にどう思われても関係ないの! お酒は美味しいの!」
「何言ってんだ……って」
椅子の上で横になっている雪路の様子を見るが、目を覚ましている様子は無い。ごろりと寝返りを打って、「お酒……」と呟いている。
「寝言かよ……」
ふう、と二人でため息をつき、ふと時計を見ると、そろそろ日付が変わろうとしている。自分だけではない、ヒナギクも明日いつも通りに学校へ行くのだと考えると、これ以上時間をとらせるのは悪いように思えた。
「もう遅いからな、オレはそろそろ帰るよ」
そう言って、荷物を掴んで玄関へと歩く薫に、「お見送りします」とヒナギクも続く。先程と比べると、冷静さを取り戻しているようだった。
玄関で靴を履き、ドアを開ける。
冷たい夜の空気を感じながら、薫はもう一度振り返り、そして言った。
「じゃあヒナちゃん、また明日」
「はい、また、あし……た……」
かつてコーヒーショップの手伝いをしていた頃、仕事が終わって帰る時にヒナギクにかけていた言葉。
それをつい口に出してしまったことに気づき、あ、と呟きながらも、薫は見てしまった。
ヒナギクが顔を赤く染めて、うつむいていく様を。
「あ……えっと、また明日」
「はい……また、明日……」
自分でもわけがわからないままに周りを見渡し、誰もいないのを確かめると、薫は逃げるように駆け出した。
おしまい。