ここに立つと、なんだか不思議な気分になる。
 温かい。昔、私がまだ小さかった頃、母と一緒によくこの場所で時間を過ごした。母のあのちょっととぼけたような声が、思い出せる。私の肩に置かれた温かい手の感触が、よみがえってくる。懐かしくて心地よい記憶が、呼び起こされる。ここにいると、温かい何かに包まれているような気持ちになる。
 冷たい。私がここにいるのは、この場所に来るのは、毎年三月の中旬。この場所が海に近いということもあって、吹きつけてくる風は少し冷たい。でも、それだけじゃない。私にもよくわからないけれど、単純な寒さとは違う気がする何かが背中をぞわぞわと這い上がってくるような、そんな感触がある。ここにいると、とても高くて不安定な場所に立っているような気持ちになる。




      『星と約束』




 毎年毎年、この場所に来ると、なんとなく空を眺めてしまう。
 下田の別荘。今は、一年に一度来るだけの場所。太平洋に臨むバルコニー。昔、母と一緒にいた場所。
 一面に星が瞬いている空。屋敷からいつも見てるのと違うように感じるのは、きっと、その下に真っ暗な海が広がっているからだろう。光るものが空しかないから、余計に明るく見える。
 そして。どうやら私の母は、この数え切れない星の中の一つになったり、都合によってはそれらすべてを包み込む空そのものになって、私を見守ってくれているらしい。
 ただ、ちょっと目を離すことも多いみたいで、ハヤテを付け狙う変態に誘拐されたりとか、間抜けな殺し屋に命を狙われたりとか、静かにひっそりと生きていきたい私としてはあまり歓迎しないことに巻き込まれたりもしている。見守ってくれてるとは言え、あの母なのだからなんとなく納得できる気もする。むしろ、見守ってるというのが本当に見てるだけとかいうオチじゃないかとすら疑ったりもしている。
 ……こんなことを言うと誤解されてしまいそうだけど。母よ、あなたに文句があるわけではないのです。
 たとえ本当に見ているだけだったとしても、その見ているだけで、私には十分なのです。
 何故なら……。
「お嬢さま、そんな格好だと風邪ひきますよ」
「ぬああ!?」
 いきなり耳元で声を出されて、私はつい声をあげてしまった。振り返るまでもない、後ろにいるのはハヤテだとわかる。だが……。
「ハ、ハヤテ、なんでいきなりこんなところに現れるのだ!? いくらなんでも神出鬼没が過ぎるぞ!?」
「いきなりって……一応ノックはしましたけど、反応が無かったのでとりあえず中に入ってみたら、お嬢さまがこんな薄着で外に出ているのが見えたので……」
 やれやれといった感じで、ハヤテが私の肩に上着をかけてくる。うん、暖かい……じゃなくて!
「あたっ! お嬢さま、何をするんですか!?」
「うるさい! まったく! ハヤテはまったく!!」
 よくわからないけれど、とりあえずハヤテを叩いておく。こいつめ、こいつめ。
 何回か叩いているうちに、段々息が上がってきた。もちろん私だけ。ハヤテは息一つ切らしていないし、何回も叩かれたというのにまったく痛そうにもしていない。それもそうだけど。
「……ハヤテ」
 そして、これもよくわからないけれど。
 ハヤテに対してそんなふうにした後は、どうしてか、とてもこんなふうにしたくなる。
「……手が冷たくなってきた」
 いきなり手を差し出した私を見て最初は呆気にとられていたハヤテだったが、理解したようだ。困惑の表情が笑顔に変わったかと思うと、ハヤテも手を差し出して、私の手を握っていた。……うん、暖かい。
 ハヤテの手が大きいのか、私の手が小さいのか。どっちなのかはわからないけれど、とりあえず、ハヤテの手は私のそれよりもとても大きい。包み込まれているような感じがする。
 ……しかし、なんでハヤテは何の抵抗も無く手を繋げるんだ。いや、私達は……その、そういう関係なのだから、手を繋ぐこと自体は別におかしくない。でも、こんなふうに何の躊躇も無く握られたりすると……なんだか私だけが少し緊張してるような気がして、納得できない。
 もう一度ハヤテの頭を叩いてやりたいと思ったけど、繋いでいる手を離すのもなんとなく気が引けたので、今回だけは忘れることにした。手を繋いだまま、もう一度空を見上げる。母はどこだろう。あの星か、それとも向こうのか。もしかしたら、今日は空になっているのかもしれない。
 ……母よ。私はもう大丈夫。あなたがたまに見落としても、その時に私を守ってくれる人は、ちゃんといる。
 思い出せる。あの約束をしてから、いや、する前から、あのクリスマスイブから、ハヤテは私を守ってくれてる。
 そして、あの日。ハヤテは約束してくれた。
 私のことを、守ると。
「星が綺麗ですね〜」
「……ああ、そうだな」
 でも、どうしてだろう。私を守ると言ってくれた、ハヤテのあの言葉が妙に懐かしい気がする。まだ、あれから三ヶ月しか経っていないのに。
 横目で、ハヤテの様子を伺ってみる。私の手を握りながら、でもその意識はハヤテが来るまでの私と同じ、満天の星空にある。
「……なあ、ハヤテ」
 気がついたら、私はそう声に出していた。ハヤテが我に返り、私の方を見る。
 どうして、私はハヤテに声をかけたのか。この後、ハヤテに何を言おうとしたのか。
「……いや、やっぱりなんでもない」
 全部わかってる。私はハヤテに、もう一度あの言葉を言ってもらうように頼もうとした。何故かもう一度聞きたくなった。もう一度聞かないと不安な気がした。
 ハヤテが、私を守ってくれると。もう一度、ちゃんと言葉に出してもらわないと不安な気がした。
「えっと……寒くなってきたとかじゃないですよね?」
「ああ、本当になんでもない」
 ……でも、もう一度言ってもらうなんて、そんなこと出来るわけないではないか!! え? どうして出来ないのかって……あーもうまったく! ハヤテはまったく! 手を繋いでさえいなければ、思う存分叩いてやるのに……!!
「お嬢さま!」
「な、何だ!?」
 ちょ、ちょっと待て! まだ心の準備が……!!
「あの大きく光ってる星、シリウスですよね? やっぱり街中から見るよりも綺麗ですよね〜……」
「…………」
 …………。
 ……………………。
「あいたっ! お嬢さま、何を……!?」
「うるさい! バーカ! ハヤテのバーカ!!」
 ふん、まったく気の利かない奴め……ってあれ?
 ……ああなるほど、そういうことか。
「ハヤテ」
「な、何ですか……?」
「お前がさっき指差したの、シリウスじゃなくておとめ座のスピカだぞ」
「え?」
 冷や汗を垂らすハヤテ。たぶん、今の私はコスプレを始めたマリアに向けるような冷たい目をしているだろう。
 感じていた不安の理由。それがなんとなくわかった気がした。


             
『星と約束』   -fin-




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