「う〜ん……」
 ちらりと、店内にかけられた時計を見やる。先ほど見た時から、まだ五分も経っていない。
 コーヒーに口をつける。ミルクも砂糖も入れはしない。この苦味こそが美味しいのだと、無糖派であることを知られた際に、そんなものを飲む人の気が知れない、イメージとは違うなどと散々揶揄された記憶を思い起こしながら、泉は思った。
 学校帰りの喫茶店。生徒会にも部活にも顔を出す気が起きなかった場合は、そのまま友人二人と共に来ることが多い店。泉は今日も、ある二点を除いてはいつもとまったく同じように、この店でブラックコーヒーを嗜んでいた。温かいコーヒーをゆっくりと口に含み、その香りと味をじっくりと楽しむ。常よりもその動作に時間をかけていると、泉自身気がついている。
 ある二点。
 一つは、まだ何度と話していない、通う学校の異なる友人と待ち合わせていること。
 そしてもう一つは、仲が良いとはいえその多忙さゆえに普段は一緒にここに来ることは無い友人が、今日に限ってはここにいること。彼女が長を務める生徒会に特に今日は仕事が無く、所属する剣道部も練習日ではない。待ち合わせている友人とは彼女自身が友達同士であることもあり、それならば、と彼女のことも誘ったのだ。
 コーヒーカップを静かに置いて、また時計を見る。三分と経っていない。
「歩ちゃん、遅いね〜」
「そうね……」
 目の前に座っている友人に話しかけても、返ってくるのは素っ気無い返答。もしや自分達が生徒会の仕事をあまりに適当にやっているために怒りを溜め込んでいるのではないか、との懸念を最初は持ったが、どうやらそういうわけではないようだった。
 これは泉の直感だったが、席についてから自分からは一言も話すこと無く、頬杖をつき、物憂げな表情でただ窓の外を眺める桂ヒナギクは、まるで何かを悩んでいるように感じられたのだ。
(ヒナちゃん……何悩んでるのかな?)
 そして、自分の直感を疑うという機能を持たない泉の中では、ヒナギクに悩みごとがあるというのは確定事項となっていた。
 それについて、気にならないわけではない。話を聞いて、できれば力になりたいという気持ちもある。だが、普段は滅多に見せない表情をしているヒナギクにこの話をするには、まだ知り合って日が浅い友人と待ち合わせをしているという状況は少々適さなかった。もしも話が変に長引いてしまったら、ここで待ち合わせている相手に気まずい思いをさせてしまうかもしれない。泉はそう考えて、好奇心をぐっと抑えた。ここは空気を読むべき場面だ、ヒナギクに話を聞くことはいつでもできる、と。
 だが。
「ヒナ、恋煩いだな」
「……え?」
「……へ?」
 空気を読まない素質を人一倍持ち合わせているのが、泉の友人の短所であり長所だった。
 泉は冷や汗が垂れるのを感じながら、歩が来たら三千院家の執事とのことをネタにして弄り倒してやろうと、自分達を無視してひたすらに作戦を練っていたはずの二人、朝風理沙と花菱美希に顔を向けた。同時に、ヒナギクの様子がおかしいことに二人も気づいていたということ、気づいていながらも二人だけで話し込むことで、気まずい空気を作る自分とヒナギクを意図的に無視していたということに思い当たったが、「ひどいよ〜!」と文句が口から出る前に、泉の頭は理沙の言葉を咀嚼しようとしていた。
「ヒナちゃんが、恋煩い?」
 自分達の年齢を考えたらそこまでおかしなことは無い、しかし泉の中ではヒナギクにはイメージし難い単語を、意表を衝かれて呆けた頭で泉が復唱する間に、ヒナギクも自分を指して何と言われたのか飲み込めたらしい。
「ちょ、何言ってるのよ理沙! わ、私が、こここ恋煩いなんて」
「ヒナこそ何を言うか。その表情、その仕草、そしてさっきから何度もついている溜め息!! 恋煩い以外に何がある!?」
「そ、それは……」
 理沙の追及にたじろぐヒナギク。もしかして本当に、と泉が思い始めた瞬間、今まで傍観に徹していた美希がぼそりと呟いた。
「たしかに、昔初恋で振られた時のヒナに似ているような」
「…………………………ほえ?」
 五秒間の硬直の後、洩れ出た驚きの声は泉のものだ。
「ヒ、ヒナちゃん!! ヒナちゃんって誰かを好きになったことあったの!?」
「い、いや、そういうわけじゃ……って美希!! その話はしちゃだめって……!!」
「え!? しちゃだめってことは美希ちゃんが言ってるのは本当なの!?」
「あ、え、いや……」
「ねえねえ、相手は? ヒナちゃんの初恋の相手!!」
 自制心を忘れて好奇心の塊と化した泉と、全速力で墓穴を掘り続けるヒナギク。
 そんな二人の声に紛れて、「あの〜……」と声が発せられた。
「ん?」
 それに反応して、泉が振り返る。
「あ!」
 ヒナギクが、救いの天使を見たかのような声をあげる。四人とは異なる制服を着た少女、西沢歩が、片手に鞄をぶら下げてそこに立っていた。
「みなさん、遅れてすみません」
 ぺこりと頭を下げるその姿を見ながら、この場でこれ以上の追求はできなくなったことを知り、泉は肩を落としていた。
 ここに集合してからは、五人で街中をふらつこうということになっている。ヒナギクは押しに弱い。取り乱している今が彼女の初恋について問い詰める最大チャンスであり、この機会を逸して少しでも猶予を与えてしまうと、彼女は平静さを取り戻し、美希を口止めしてこの話を闇に葬ってしまう可能性もあった。
「さ、さあ、歩も来たことだし、そろそろこの店を出ましょう」
 言いながら急ぎ立ち上がろうとするヒナギクだったが、その動きは半ばで止まる。彼女の前に立ちはだかったのは、泉でも美希でも理沙でもない。
「ヒナさん、その前に」
 にっこりと笑う歩。その目には好奇心の光が宿っていた。
「ヒナさんの初恋の話がなんとかって聞こえたんですけど……」
 味方が増えたことに気づいて、泉が笑顔で再びヒナギクに目を向けると、これで助かったと思っていたのだろう、その顔に安堵と喜びの色を残したまま、石になったかのようにぴしりと固まっていた。



「ヒナさんのこともっと知りたいな〜」と歩が猫撫で声で十分間甘え続けた結果、ヒナギクはついに折れた。
 泉の見た限りでは、「ヒナさんも私の初恋のこととか知ってるじゃないですか〜」の一言がクリーンヒットだった。それがヒナギクの真面目さに訴えかけ、自分だけ秘密にするのは不公平と思わせたのだろうと想像できたからだ。
 歩の初恋の相手というのも少し興味が沸きかけたが、「歩君の初恋はハヤ太君か?」と理沙が口を挟んだのに反応したのを見て、どうやら現在進行中のそれが彼女の初恋のようだと納得できたので、とりあえずは触れないことにした。それについては、この先いつでも話ができる。今はそれよりも、ヒナギクの初恋の相手こそが興味の対象だった。
「聞いても面白い話じゃないと思うわよ」
「そんなことないよ〜!! ね〜理沙ちゃん?」
「ん?……ああ、そうだな。ヒナがどんな男に惚れたのか、聞かせてもらいたいものだ」
 理沙が意地の悪い笑みを向けると、ヒナギクは口を尖らせる。期待に目を輝かせる泉と歩。美希は、大量の砂糖を入れた自分の紅茶を一口味わうと、どこか遠くを見つめるような目になった。
「そうだな……あれは、私達がまだ小学生で低学年だった頃ね。私達は同じ塾に通っていてそこで知り合ったんだけど、その頃からヒナはもう有名人だったわ。勉強はできて、スポーツもこなして、逆らう者はめった打ちにして」
「美希、待ちなさい」
「ヒナ、どうかした? ……あ、ごめん、喧嘩には強いけど実は悪口とかの精神攻撃には弱い泣き虫だったって言い忘れて」
「いいから口を閉じなさい。ね?」
「ヒナちゃん、怖い……」
 笑顔で美希に詰め寄るヒナギクに、泉は素直な感想を洩らした。歩も同意見らしく、顔を引きつらせている。今の美希の話にはある意味初恋以上に気になる部分があったが、それについて口にすることには本能が警鐘を鳴らしているのでやめておこう、という会話を歩とアイコンタクトだけで交わす。まったく、とヒナギクは溜め息をついた。
「ここからは美希が口を開くのは禁止よ。私が自分で話すわ」
「おお〜」
 ぱちぱちと拍手をするのは美希と理沙。泉と歩は、口止めするということはもしかして美希の言っていることは本当だったのだろうか、いやしかし現在ならまだしも小学生時代にそんな、と目でやり取り。
 それぞれ違う形で馬鹿にされつつあると気づいたのか、ヒナギクは「要するに!」と声を荒らげてテーブルを叩いた。
「小学生の頃私と美希はある男の子に出会ったの! しばらくの間その子と私達は三人で一緒に遊んだりしてたんだけどその子はある日急にいなくなっちゃって理由もわからないままそれっきりってわけ!」
 はいおしまい、といつのまにか浮いていた腰を椅子に下ろし、ぷい、と窓の外へと顔を向ける。
「……………………えーと」
 四人から顔を背ける形になったヒナギクに、歩が声をかけた。
「それだけですか?」
「そうよ」
「その人の名前とかは……」
「知らない」
「え……?」
 ヒナギクの返答を聞いて、歩はぽかんと口を開ける。しばらくの間一緒に遊んでいた初恋の相手の名前を、忘れたのならまだしも、知らない。おそらく歩と同じ疑問を泉も抱いていると、「ああ、彼は最後まで名乗らなかったわね」と美希が引き継いだ。
「名乗らなかったって……それじゃあ、その人を呼ぶ時とかはどんな風に呼んでたんですか?」
「あびゅー」
「は?」
 あびゅー。その単語を美希が口にすると、ヒナギクの肩がびくりと震えた。
「美希ちゃん……あびゅーって何?」
「その人に私達が使ってた呼び名よ。ちなみにヒナ命名」
「……ふむ。ちなみに、どうしてあびゅーなのかな?」
 テーブルの上に置かれたヒナギクの拳がわなわなと震え始めたが、理沙はそれを知ってか知らずか、くっくっと笑って先を促す。美希も笑いを堪えるようにしながら、ヒナギクにちらりと視線をやった。
「ヒナがその子に最初に名前を聞いた時に……名前自体は教えてくれなかったけど、ヒントを出してくれたのよ。自分の名前をひらがなで書くと最初の文字は『あ』で、漢字で書くと『風』っていう文字が入ってるって。それを聞いたヒナが、風はびゅーって吹くから、『あ』と『びゅー』であびゅーって……ぷ……くくく……」
「な……何よ!? 文句あるの!? 名前にはわかりやすさが大事なんだからね!?」
「あんまりわかりやすくないだろう、それは……」
 もはや笑いを隠そうともしない美希と理沙、そして二人に突っかかるヒナギクを苦笑しながら眺め、そのままなんとなしに、歩へと目を転じる。
「……え?」
 泉の声に反応する者はいない。じゃれあっている美希と理沙、そしてヒナギクには、その小さな声は聞こえていないだろう。だが、その輪から外れている、泉の声を聞き取れているであろう歩も、何一つ反応を示さない。
 今までのやり取りからして、おそらくは自分と同じような表情でいるだろうと思っていた隣に座る少女は、その表情を強張らせていた。彼女が見つめる先には顔を赤くしたヒナギク。泉に見られていることなどまったく気づいていない。美希と理沙の存在も目に入らないかのようにヒナギクに視線を固定しながら、だがその一方、泉はまるで彼女が何も見ていないかのような印象を受けた。
「初恋……」
 その歩が、口を開く。
 三人が騒ぐのを止め、「ん?」と歩に向き直る。
「……それが、ヒナさんの初恋だったんですか?」
 ヒナギクだけを見つめて、絞り出したかのような声で歩は問うた。その雰囲気の異様さに、泉はごくりと唾を飲む。
「ああ、そう言えばヒナはちゃんと認めてないな」
「たしかにそうね。男の子と昔出会って、その人がいなくなっちゃったとは言ったけど」
 それが初恋だったとは認めてないな、と詰め寄る二人。それほどにこの話が楽しいのだろうか、歩の様子がおかしいことには気づいていないらしい。この話が面白いのではないだろうにしろ、他に意識をやる余裕が無いのはヒナギクも同様で、歩の違和感に気づく余裕は無いようだった。
 助けを求めるように自分を見つめてくるヒナギクに、泉には困惑気味に視線を外すことしかできない。泉による救助を諦めたのか、最後の情けをとばかりにヒナギクは歩を見たが、その真剣な眼差しにぶつかって観念したのか、力なくうなだれた。
「そうね……たぶん、そうだったんだと思う。初恋だったんだと思う」
 おお、と声をあげる美希と理沙。ぴくりと肩を震わせる歩。空になったカップだけを見つめているヒナギクには、そのどれも見えていないのだろう。
「……美希は知ってると思うけど」
 どこか自嘲気味に続けるヒナギクは、泉が見たことの無いくらいに弱々しかった。む、と美希も真面目な顔になる。
「私、男の子に避けられてたでしょ? 規則を破ってる人を注意したりしてたら……その、あんな真面目な奴鬱陶しいって。私の方も、私は何も間違ったことはしてないと思って一歩も譲らなかったから……」
 それは彼女にとってもあまり良い思い出ではないのだろう、美希が眉をひそめる。理沙も茶化すようなことは無く、黙ってヒナギクの話を聞いていた。
 ヒナギクが男子に避けられていた。現在の状況からは想像もできない事実に泉は混乱しかけたが、小学生の頃、と思い浮かべると、少しだけ納得できてしまった。
 現在でこそヒナギクは男子にも圧倒的な人気を誇るが、それはヒナギクの人格的な部分に対する人気だけでなく、異性として見られた場合の人気による面もあるであろうことは容易く理解できた。
 だが、小学生、それも低学年という年齢では、異性としての人気によって男子の支持を得ることは期待しにくいだろう。人格的な面にしても、その年齢では、ヒナギクのような真面目な人間は、鬱陶しいと見られることの方がたしかに多いかもしれない。
 そう考えると同時に、泉は、ヒナギクがその少年を好きになった理由を理解し始めていた。
 つまり、ヒナギクにとってその少年は。
「でもあの子は、私に唯一普通に接してくれた男の子だったの」
 顔だけならまるで女の子みたいな男の子だったけど、とその後に付け足して、ヒナギクは頬を緩める。
 それ以上、聞かずともわかった。ヒナギクにとって、それがどれほどの救いであったか。どれほど嬉しいことであったか。
「……結局、何も言わずにいなくなっちゃったんだけどね」
「ヒナ」
 おそらくそれで結ぶつもりだったのだろうヒナギクの言葉に、即座に反応したのは美希だった。だが、言葉を選んでいるのか、何かを言おうとする様子は見て取れるが、何も言わない。美希がそうしているうちに、先に口を開いたのはヒナギクだった。
「ああ、言っておくけど、今はもうなんとも思ってないのよ? むしろ、今頃いきなり現れたりしたらただじゃおかないんだから」
「…………」
 ぐ、と言葉を飲み込む理沙。茶化すでもなく、ただそれだけで何も言わない理沙と、何一つ口を挟まない歩と、おそらく同じような気持ちなのだろうと泉は思った。ぎくしゃくと笑って言い放つヒナギクに、何を言えば良いのかわからなかった。
「ヒナ。……えっと、これだけは知っておいてほしい」
 ただ一人、美希を除いては。
「あいつもたぶんヒナのことが好きだった。聞いたわけじゃないけど、私はそうだと思う。いや、絶対にそうだ。いきなりいなくなったのは……きっと、何か理由があったんだよ。仕方ない理由が……」
「……ありがと、美希」
 仕方ない理由、の中身については何も言えない美希を手で制し、ヒナギクは立ち上がる。
「ごめんね、こんな話しちゃって。……ちょっと外すわね」
 美希と理沙の後ろを通り、ヒナギクは通路に出る。
「……好きになったから……」
 ヒナギクが横を通り過ぎる時に呟いた言葉の意味は、泉にはわからなかった。



「……ふう」
「まさかヒナの奴、あそこまで気にしてたとはな……」
 ヒナギクが席を外したことで緊張から解放され、理沙と美希、そして泉は溜め息をついた。
 だが、歩だけは一言も喋らない。思い詰めたような表情で、テーブルの上をじっと見つめている。
「歩君、どうした? そんなに衝撃的だったか?」
「……いえ……えっと……」
 言いながら、歩は顔を上げる。その先にいたのは、美希だった。
「その……あびゅー君もヒナさんのことを好きだったと思うって……本当ですか……?」
 その質問に美希は理沙と顔を見合わせ、一瞬の後に、笑いながら答えた。
「まあ、なんだかんだで本当なんじゃない? さすがにあいつも、そこまで天邪鬼じゃないと思うし」
「……そうですか……」
 歩の表情が曇る。彼女を除く三人が訝しがっていると、歩はふっと天井を見上げ、どこか投げやりに呟く。
「さすがヒナさんだなあ……そんなの反則だよ……」
 その様子に、どういうことだろうと泉は美希と理沙に問いかけるが、二人は、わからないとでも言うように首を横に振るのみ。
「えっと、歩ちゃん? どういう話なのかわからないんだけど……」
「……ハヤテ君なんです」
「え?」
 歩は天井に向けていた顔を戻し、まだ中身の残るカップを手で包み込む。
「その男の子、きっとハヤテ君です」
 ぐっと両手に力を込める歩に、泉は何も反応できなかった。先ほどの話の少年、ヒナギクの初恋の相手が、実は歩の追いかけているクラスメートだった。あまりにできすぎた話に、その根拠を問うことも忘れ、泉は歩を見つめていた。
「……いやいや、それは無いんじゃないか?」
「そうね、それはさすがに……」
 呆気にとられていた美希と理沙が、数秒の間をおいて我を取り戻す。二人の言葉を聞いて、反射的に泉も「気にしすぎだよ」と励ましてみたが、効果は得られなかった。
「ハヤテ君の名字は『あ』から始まりますし、それにハヤテ君の名前って、漢字で書いたら『風』って文字が入ってるんです」
「……え」
「……そうだっけ?」
 引きつった笑いを顔に貼り付ける二人を見ながら、泉は思い出していた。
 以前目を通した学級名簿に書かれた、綾崎ハヤテの名。そこで見た、ハヤテと振り仮名を振られた漢字は、立の字を左に書いてその右に風の文字。
「それに、その男の子はまるで女の子みたいな顔つきだったんですよね」
「た、たしかにヒナはそう言ってたな……」
 歩から目をそらす理沙。歩が何を言いたいのかは理解できたが、泉がいつものように「そうだよね、ハヤ太君って女の子みたいだよね〜」と茶化すには、場の空気が重すぎた。
「ハヤテ君だったら、急にいなくなっちゃったのも説明がつくんです。ハヤテ君が前に話してたんですけど、昔は借金取りから逃げるために……その、いろいろなところに引越しを繰り返してたって。ヒナさんの前から突然いなくなったのもきっと……」
 ここに至って、泉も話が飲み込めてきていた。ヒナギクの初恋の少年についての手がかりは、状況証拠にしかすぎないにしろ、すべてがその相手をハヤテだと指している。さらに、その初恋にまつわるヒナギクの孤独な過去を聞き、そしておそらくその相手もヒナギクのことを好きだったとまで言われては、現在彼のことを追っている者としては心中穏やかではないだろう。
 もちろん、その相手がハヤテだと確認されたわけではない。手がかりは揃っているにせよ、現実的に考えてそうである可能性は非常に低いはず。
 だが、その物語の主人公が、他の誰でもない桂ヒナギクであるからだろうか。真面目で努力家、かつ奥手な現在の彼女と、先ほど聞いた過去の話を照らし合わせているのも理由の一つかもしれない。彼女が初恋の相手と数年越しで再会するという情景が、まるで少女漫画のワンシーンのように容易くイメージできてしまうのも事実だった。
「いや……でも、それは無いと思うわよ?」
「ああ、私もそれはありえないと思うぞ」
 美希と理沙は、そのようなイメージを抱くには至っていないらしい。泉は思ったが、それがわかったところで、おそらくこのイメージを、自分と同様に既に心に住み着かせてしまっている歩に何を言えばいいのか、見当がつかない。
 顔を伏せたまま、何も反応しない歩。その様子を見つめながら美希と理沙はひそひそと言葉を交わしていたが、やがて「まあいいか、このままだとかわいそうだし」との美希の一言を合図にしたかのように、二人は歩に向き直った。
「歩君、君が不安に思うのもわかるけど」
「ヒナの初恋の相手がハヤ太君なんてことはありえないのよ。だって……」
 言葉を預けるように、美希がちらりと理沙を見やる。理沙は右手の親指を立て、びっと自分自身を力強く指した。
「その少年とは、私のことだからな!!」
「…………………………ほえ?」
 およそ三十分ほど前。ヒナギクが初恋を経験済みで、しかも振られたと。そう聞いた時と同じだけの時間を硬直して、泉は声を発した。歩も顔を上げて、意味がわからないといった表情を理沙に向けている。
「……私はヒナと知り合う前から理沙とも友達同士だったんだけどね。理沙にヒナのことを話したら自分も会ってみたいって言うから、待ち合わせをしてその場所にヒナを連れて行ったんだけど……まあ、自分のことはヒナには言わないように、待ち合わせてるってことも秘密で、偶然を装って会いたいなんて言うから、何か企んでるんだろうなあとは思ったけど」
 ふう、と美希はそこで溜め息を一つついて、核心を口にした。
「まさか、男の子の振りしてくるとは思いもしなかったわよ」



「……えっと、じゃああびゅーって言うのは……」
「おや歩君、私の名前を忘れたのか? ならもう一度自己紹介しよう。朝『風』理沙だ。ちゃんと『あ』から始まってるだろう?」
「……というか、なんでそんな中途半端にヒントを出すなんてことを……?」
「いや、名前は教えなーいって言ったら怒り出したヒナが面白くて。適当にヒントを出してみたら出してみたで、こんなのわかるわけが無いのにヒントを基にして真面目に考えるヒナが面白くて。ついでに言うと、わからなかったからってヒントの分を無理やり使ってあびゅーなんて呼び始めたヒナが面白くて面白くて」
「……突然いなくなったのは……」
「まあ、さすがに騙すのが面倒になったんで」
「というか私たちも最初は全部教えてあげようと思ってたのよ。でも、さっきの話を聞いてたらわかると思うけど……なんだかんだでヒナの落ち込みようは結構なものだったから」
「雰囲気的にドッキリだったとはなかなか言い出せないまま、現在に至るというわけだ」
「…………」
 がっくり、と。心配事がなくなったにもかかわらずテーブルに倒れ伏して動かない歩。
 これが良かったのか悪かったのか、泉にはわからない。ただ、空回った歩と気の毒なヒナギクに、苦笑いするしかなかった。
「まあ、もしかしたらかえって良かったのかもね。ヒナ自身もあれ以来は、ちょっとは男の子とも仲良くしてみようだとか、もう少し女の子らしくしてみようだとか思ってるみたいだし。たぶんそれもあって、今のヒナは老若男女問わず大人気だし」
「じゃあヒナちゃんにももう教えちゃっていいんじゃない? ずっと秘密なんてかわいそうだと思うけど……」
 無表情に、思い返すように宙を見つめながら話す美希に、泉は一応言ってみる。美希と理沙の答えはわかりきっていて、その答えを口にしたのは理沙の方だった。
「冗談。さっきヒナも言ってただろう? 今頃現れたらただじゃおかないって。まあいいじゃないか、初恋は実らないって言うし」
 一人納得して、うんうんと頷く理沙。
「ほぉ」
 その頭が、がしりと掴まれた。
「ねえ理沙、なんだか面白い話をしてるみたいね。私にも聞かせてくれないかしら?」
 理沙の背後に立って左手でその頭を掴み、にっこりと笑うヒナギク。理沙の頬を冷や汗が流れるのを見ながら、泉は心の中で黙祷を捧げた。
「ヒ……ヒナ……どこから聞いてたんだ?」
 声に怯えを含ませて後ずさる美希。だが、その頭を残った右手で掴まれ、その場からの逃亡は果たせない。
「別にどこからでもいいじゃない。あなたたちが、これからゆっくり全部聞かせてくれるんでしょ?」
「や……やっぱり私も?」
「うん」
 語尾にハートマークをつけてしまいそうなくらいに、愛情溢れる返事。泉と歩に「ちょっと待ってて」と一言告げると、右手に美希、左手に理沙を掴み、二人を引きずりながらヒナギクは店の外へ出て行った。
 店の自動ドアが閉まる。二人の悲鳴が聞こえたように思えたが、気のせいということにする。
「……ねえ、歩ちゃん。ヒナちゃんの今の顔、見た?」
「え? ……いや〜、ちょっと怖くてまともに見れなかったというか……」
 たはは、と笑う歩に、「ヒナちゃん怒ったら怖いよね〜」と話しながら、泉は考えていた。
 店を出る直前、ちらりと見えたヒナギクの顔。二人を引きずりながらヒナギクがその顔に浮かべていたのは、おちょくられていたことに対する怒りでもなければ、初恋が幻だったことに対する悲しみでもなく。
 まるで救われたかのような、安心しているかのような表情。さらには、嬉しさや喜びのような感情までもがあるように、泉には見て取れたのだ。
「……ねえねえ、さっきのヒナちゃんが実は怒ってるんじゃなくて喜んでたんだって言われたら、歩ちゃんは信じる?」
「え? いや、それはたしかに笑顔でしたけど……ちょっと、あれが喜んでるとは……」
「だよね……」
 困惑気味に答える歩。その答えが間違っているとは泉にも思えない。
 じゃああの時見たのは何だったんだろう、と考えているうちに、またもや二人の悲鳴が微かに聞こえてきた。
「あっ……」
 その瞬間、電撃的な閃き。この状況における、ヒナギクの喜び。その正体が何なのか、泉の本能が一つの解答を提示した。
「そうか……そうだったんだね!!」
「な……なんですか?」
「歩ちゃん、聞いて! ヒナちゃんは実は……!!」
 緊張した面持ちの歩を前に、すう、と息を吸い込む。
「いじめるのとか大好きだったんだよ!!」



 十分後に三人が、正確には一人が二人を引きずって戻ってきてからは、喫茶店を出て当初の予定通り街をふらつくこととなった。
 ただその際、ある少女の挙動に対していちいち異常なまでにびくつく者が一人、そして少女のことを暖かい目で見つめる者も一人いたのだが、それはまた別の話となる。


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