不思議そうな、顔をしていた。
 それも当然かな。あんな風にいきなり渡したりして。ああいうのに上手な渡し方みたいなのがあったとして、それができたとは思えないし。
 ただ必死で追いかけて、呼び止めて。何を理由にしたかも覚えてない。いつもお世話になってるから? 誕生日のプレゼントのお返し? あれ、クッキーのお返しだったっけ?
「あらヒナちゃん、お帰りなさい。晩ご飯もうできてるけど、すぐ食べる?」
「うん、そうする。お昼から何も食べてないから、もうおなかぺこぺこなの」
 台所から、カレーの匂いが漂ってくる。今日は、ちゃんと食べることができそう。一ヶ月前は、夕飯前にはお腹一杯だったから。
 お義母さんの鼻歌が聞こえてくる。階段を登りながら、私も同じ歌を口ずさむ。今日一日、結局誰かから何かを貰うことは無かったけど。私は今、とても良い気分だ。
 ポケットの中には何も入ってない。クッキーも、チョコレートも。誰かに渡しそびれたものなんて、今日は何一つ無い。
「ヒナちゃん、ご飯入れたわよー」
「すぐ行くー」
 あ、でも。
 自分はいらないからなんて言ってくれたけど、やっぱりあの子には、機会を見て何かお返しをしなくちゃいけないと思う。
 別にひねた気持ちからでなんかない。純粋に、素直な気持ちから、とてもいい子。考えてみたら、とても強力なライバル。あの子が背中を押してくれなかったら、これからはライバルだって笑ってくれなかったら、きっと私は今、こんな気分じゃいられなかった。
「はい、ヒナちゃん大好物の甘々カレー」
「なんでそこを強調するの? ……いただきます」
 何日前だっただろうか。たしか、私の誕生日の少し後だったはずだけど。
 夢を、見た。起きてからも、学校へ行ってからも、こうして何日も経っても忘れられない、夢を見た。
 その夢の中で、私は彼と一緒に道を歩いていた。あたりは暗かったから、きっと夜。歩いているうちに、見た覚えの無い記憶を、たぶん夢の中の設定みたいなものとして思い出した。
 どこだろう。どこかはわからないけど、みんながいた場所。あの子や、泉、美希、理沙、お姉ちゃんも。みんながどこかに集まってた。そのどこかは、とても楽しかった気がする。私と彼は、そこから帰る途中だった。
「どう? 美味しい?」
「うーん……ちょっと甘いかも」
「そう? でも甘くないとヒナちゃん怒るでしょ?」
「う……まあ、ね……」
 その楽しかった場所でのことを、私と彼は話していた。
 何を話していたんだろう。例えばあの子のことだとか、お姉ちゃんのことだとかを話していたのは思い出せるけど。たぶん夢の中のことだからだと思う、そういうことを話していたって事実だけは思い出せるんだけど、その中身の記憶は無い。私と彼はその会話の中でいくつもの言葉を交わしていたはずなんだけど、思い出せる言葉は、たった一つだけ。
「ごちそうさま。美味しかったわ、お義母さん」
「……あれ、ヒナちゃんもう上に行っちゃうの?」
「うん、今日はあまり面白いテレビも無いしね」
「そう……ところでヒナちゃん、さっき今日のはちょっと甘いって言ってたわよね? どう? これを機にヒナちゃんも次回からは辛口デビューを」
「それは結構よ」
 覚えてる言葉。それが夢の最後。
 細かいところが不鮮明で、忘れられないけど覚えていない夢の中で、そこだけがはっきりしている。
 声をかけて彼が振り向くと、私はその顔をまっすぐに見つめた。でも何故か、その時彼がどんな顔をしていたのかはわからない。
 ただ、不思議なことに、私自身は笑っているという確信があった。その時の感覚が残っているわけも無いのに、それだけはどうしてか、そうなんだとわかっていた。
 緊張も恐怖も無かった。それを言うことがとても嬉しいことみたいに、私は微笑んで、穏やかに、でもはっきりと言った。
 夢は、そこで終わった。彼がどんな反応をしていたのかもわからない。もちろん、返答だって得られていない。どうしてかそれがとても不安に思えて、私はその夢のことを、あまり思い出さないようにしていた。
 けれど、今なら。あの夢を不安の源じゃなくて、目標にできる。
 いつかあの夢を現実にして、今までの私には叶わなかった、夢の続きを見ることを。
 だからこれは、その予行演習。この部屋には私一人きりで、もちろん返事なんて返ってこないけれど。この言葉を決意にしたいと思った。
 暗い中でベッドに横になって、天井を見据えて。心が落ち着く気がする。今の私はあの夢の中のように笑っているんじゃないかと、なんとなく感じた。
 すっと目を閉じて、夢の光景をリプレイする。声をかけて、彼が振り向いて。私はいつかきっと、笑顔でこう告げる。
「あなたが、好きです」


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