「……何だこれは?」
 本来ありえないはずのその書き出しを見て、ナギの思考回路は一瞬間停止した。
 ナギが手に取っているのは自分の執事の日記であり、それは当然ながら、自分を含め他の者が見ることは想定していないはずのものである。だがその始まりの文章は、明らかに自分、三千院ナギに向けられていた。
 そのページの一番上には、一ヶ月前の日付が記されている。そして日付の下には、他の人は比べ物にならない量の文章がぎっしりと書き込まれていた。
 お嬢さまへ。
 その一言から始まる、一ヶ月前の日記。妙な胸騒ぎを感じながら、しかしそれを読み進める以外の選択肢は、好奇心に駆られたナギには存在しなかった。





 お嬢さまへ。
 できることなら、お嬢さまがこの日記を読むことが無いように願います。
 僕はこれから後に記す行動を取り、そして僕が間違っていたとわかった場合は、すぐにこのページを百八の紙片に分解して、タマの餌に混ぜ、すべてを無かったことにすると決めています。だから、僕が間違っていた場合は、お嬢さまがこの日記を目にすることは無いはずなのです。
 でも、万が一僕の身に何かあった場合は、この文章は抹消されることがありません。お嬢さまが偶に僕の部屋に忍び込んでいるのは知っていました。だから、お嬢さまがこれからもその行動を続けているのならば、いつかきっとこの日記をみつけることになるだろうと思って、僕の知ったことと、考えてしまったことをここに書き記します。
 お嬢さまに直接渡す勇気の無い僕を、どうかお許しください。本当のところ、僕もここに記す内容を信じてはいない、信じたくないのです。僕の考えていることはまるっきりの妄想で、僕はこれからマリアさんにちょっとだけ怒られて、でもいくらなんでも命はあるはずなので、怒られたその後にすぐにこの日記帳を、お嬢さまが必殺技の奥義書にしたように一瞬で焼却して、それで終わればいいと思っています。

 まず最初に、お嬢さまには受け入れ難いかもしれませんが、このことを知っておいてください。
 タマは、タマではありません。
 僕がこのことに気がついたのは、つい先日です。夜も遅かったのでお嬢さまは眠っていたのでしょう、なんとなく寝付けなかった僕がお手洗いに行って帰ってくる途中、空き部屋から漏れてくるマリアさんの声を聞きました。「今日もお疲れ様でした、タマ」とマリアさんは言っていました。マリアさんもタマの声を聞く境地に達したのか、それとも話す相手がいないのでタマに語りかけてるだけかと悩んだ僕は、とりあえず影に隠れて、マリアさんの様子を伺いました。
 その部屋の窓辺に佇むマリアさんの隣にいたのは、タマではありませんでした。いえ、ある意味ではタマだったのかもしれません。
 そこにいたのは、タマの着ぐるみを着たごく普通のおっちゃんでした。ちょうど頭の部分の着ぐるみを取った格好です。身体はタマで、頭はおっちゃんでした。開いた窓からタバコをぷかぷかふかしながら、缶ビールを持っていました。よく見るとマリアさんもワイングラスを手にしていて、どうやら二人で飲んでいたようです。
 タマには中の人がいました。そしてマリアさんも、それを知っていたんです。

 僕はその翌日、マリアさんにことの次第を問い質しました。どうしてタマの中に人がいるのか、本物のタマはどこへ行ったのか、マリアさんがどうしてタマが本物ではないと知っていたのか。マリアさんに直接訊くのは危険すぎると、僕の本能は警鐘を鳴らしていました。でも、タマはお嬢さまの大切なペットです。僕には見て見ぬ振りをすることはできませんでした。マリアさんがワインを飲んでいたことは、マリアさんの年齢を考えるとおかしなことなのでとても気になりましたが見て見ぬ振りをすることにしました。そうして僕がタマの中の人を見てしまったのだと話すと、マリアさんは「知ってしまいましたか」と溜め息をつきました。
 それからマリアさんは、お嬢さまには秘密にしておくようにと前置いて、タマのことについて話してくれました。三年前、タマは病気で命を落としたということ。その病気は、タマが虎にあるまじき贅沢な生活をしていたために発症した、人間でいうところの生活習慣病のようなもので、前例の無い症状にさしもの三千院家医療班もタマを救えなかったこと。そして、タマが死んだという事実を、お嬢さまには伏せておくように決めたこと。これは、タマが死んだと知った時にお嬢さまがどれほどのショックを受けるか考えた結果、そうすることに決めたとのことでした。
 そしてその時から、お嬢さまにタマの死を悟られないために、タマに似せた着ぐるみが急遽作られ、それに人が入ることでタマが生きているようにお嬢さまに見せるという計画が始まった、そうマリアさんは言っていました。
 くれぐれもお嬢さまには内密にと念を押すマリアさんに、僕は考える間も無く頷いていました。お嬢さまがこれを知るととても悲しむだろうと思ったのはもちろんですが、タマのことを話すマリアさんは今まで僕が見たことも無いくらいに悲しみに沈んでいるようで、タマがそれだけお嬢さまやマリアさんにとって大切な存在だったんだと否応無く理解してしまったのも、お嬢さまには話すまいと僕が即座に決断した一要因だったんだと思います。
 この時僕は、目を潤ませながらタマの思い出を話したマリアさんのことを、一片たりとも疑いもしませんでした。僕がタマと初めて出会ったあの日、マリアさんの家庭菜園場をめちゃくちゃにして怒られたあの後、三千院家のペットは喋るんですねと話していたことを、お嬢さまは覚えているでしょうか? お嬢さまは信じませんでしたが、僕ははっきりとタマの声を聞きました。マリアさんの話を聞いて、僕は長年の疑問に答えが出たかのような気分になっていたんです。マリアさんがワインを口にしていたことも含め、僕はすべてを心の奥に封印しておこうと決めました。

 僕がマリアさんの説明を疑い始めるようになるまでは、それから少しの時間が必要でした。よく考えてみると、マリアさんの説明だと、納得できない部分があったんです。
 お嬢さまが僕に女装させようとするのは実はとても楽し、いえそうではなく残念なことにそれは今や日常茶飯事となってしまいましたが、それを初めてした時のことを、お嬢さまが僕に初めて女装の歓びを教えじゃなく女の子ものの服を着せてくださった時のことを思い出してみてください。お嬢さまとマリアさんが一緒になって僕をネコ娘姿にしてくださった直後、タマが僕に飛びかかってきました。あの時のことはとてもよく覚えています。むしろ忘れられません。僕にのしかかってきたタマの重さまで、鮮明に思い出せます。
 僕が七歳の頃でしょうか、足りない手足の長さは心意気で補えと言われながら、着ぐるみの中に入って子供に夢を与えるというバイトをしたことがあります。無邪気に寄って来る子供達をとても羨ましく思いながら遊園地で風船を渡したりしていたのですが、その時の感触を思い返しても、僕にのしかかってきたタマは、着ぐるみにしては重過ぎました。そう、あの時僕にのしかかってきたタマの重さは、間違いなく虎のそれだったんです。
 マリアさんは僕に嘘をついている。少なくとも三年前にタマが死んだというのが嘘だとわかると、他の部分も怪しく思えてきました。そして、マリアさんがどうして嘘をつくのか部屋で考えていた時、不意に思い出したんです。いつだったかマリアさんが首にかけて暖かそうにしていた、まるでタマの毛皮のようなマフラーのことを。
 当時の僕はそのマフラーのことを、ただタマの体毛と柄が似ているマフラーとしか思いませんでした。何故なら、その時タマにはまったくおかしな様子が無く、皮を剥がれたようにも見えなかったからです。でも今は、同じようには思えません。思い返せば、中に人がいるんだからタマが喋るのも当たり前だったんですねと僕が言った時のマリアさんの態度は、どこか不自然だったような気がしてならないのです。

 僕はこれから、マリアさんをもう一度問い質してきます。きっと、僕が想像しているようなことは無いのだと思います。きっと僕はどこかで誤解していて、それをマリアさんにたしなめられて、それで終わりになるのだと信じています。マリアさんに謝った後、僕はすぐに部屋に戻って、この文章を日記ごと破棄する予定です。

 僕は自分が嫌いになってしまいそうです。こんなふうにマリアさんを疑っている僕自身が恐ろしくてなりません。きっとこの件がストレスになったのでしょう、僕の心も荒んで、ちょっとおかしくなっている気すらします。これが済んだら、マリアさんに謝ります。それできっと全部元通りになるはずです。こんなふうに疑ったことも、いつだったかコートをだめにしたことも改めて謝ります。ワインを飲むその仕草がとても手馴れたものだと思ったことも謝ります。面白い人扱いしたことも謝ります。じゅうななさいというのは嘘じゃないかと疑っていることも謝ります。

 マリアさんごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。きっとすべては僕の勘違いだと、信じています。





「は……はは……ハヤテの奴め、タマは猫だと言っているだろう……」
 すべてを読み終え、日記帳を閉じたナギは、知らずのうちに笑い出していた。
 ショッキングな内容ではあった。幼い頃からの付き合いであるペットが、実は自分の知らぬところで着ぐるみと入れ替わっていたというのだ。それに気づかなかったことも含め、ナギにとってあまりに衝撃的ではある。だが、それ以上に気になることがある。その想像はあまりにも恐ろしい。ナギは背筋が冷たくなるのを感じた。
 廃棄されるはずが、今もここにあり続ける日記帳。ナギが一ヶ月前のことを思い出してみても、マリアがハヤテに対して怒っていたという記憶は無い。ハヤテはその間も何も変わらず自分の傍にいて、そして今日も。
「お嬢さま〜!! 居たら返事してくださ〜い!!」
 突如響き渡った声に、ナギはびくりと震えて日記帳を床に落とした。気づかれたかと動揺したが、部屋に入ってこないところを見ると、ハヤテには聞こえなかったらしい。ナギはほうと息をつき、それと同時に、ナギにとって最も馴染み深い声が部屋の外から聞こえてきた。
「う〜ん、こっちにもいないとなると、おそらく入れ違いになったんでしょうね。きっともう寝巻きに着替えて、私が部屋に来るのを待っていると思います」
 マリア。
 ナギは呟いて、部屋のドアと、手にした日記帳を見比べる。
「だから、あなたはもう部屋に戻って休んでくださって結構ですよ」
 ナギは思う。まさか、いくらなんでもそんなことは無いはず。きっとハヤテが、マリアのプレッシャーにちょっぴり精神をやられてこの日記を処理し忘れただけだ。それに、結局ハヤテが部屋に入ってくるならみつかってしまう。自分を驚かせた罰だ、ここはこの日記の内容を暴露して、マリアにハヤテをお仕置きしてもらおう。
「ええ、大丈夫ですよ。それでは……」
 恐怖を振り払うように笑って、ドアのノブに手をかける。ナギがその言葉を聞いたのは、そうして扉を開け、ハヤテとマリアの名を呼ぼうとしたその瞬間だった。
「今日もお疲れ様でした、ハヤテ君」


index      top



inserted by FC2 system