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「お父さん、お帰りなさい!」
 ただいま、と父が言う前に、ソニアはその腰に抱きついていた。父の革靴が地面を打ち鳴らす音の癖やリズムを耳が覚えているのか、父が扉を開く前からソニアは彼の帰宅を感じ取り、扉の前で構えていたのだ。
「お父さん、今日はどんなお仕事をしたの? アイスの当たり棒の偽造?」
「甘いな娘よ、今日はただ当たり棒を偽造しただけではない……聞いて驚くな、今回は『あたり』を作るだけでなく、手書きの『あたれ』を混ぜておいたのだ! 不運続きで人生のどん底にいる奴が僅かな希望を抱きながら拾ったりしたら、死にたくなること請け合いだぞ!」
「わー、お父さんすごーい!!」
 父がマフィアとしては才能の無い、単なる小悪党に留まる存在だとは気づいていた。当然ながらその収入も少なく、ソニアと父は小さな部屋で質素な生活を強いられている。幼かったソニアが貧乏な二人暮らしに不自由を感じることは、決して少なくはなかった。
 だが、ソニアは父が好きだった。父が自分の手を取りながら仕事の話をしてくれるこの時が、ソニアは大好きだった。小さな悪事を誇らしげに、楽しげに語ってくれるこの時間が、どうしようもなく好きだった。
 贅沢さの欠片も無いこの生活に不自由は感じても、不幸を感じたことは無かった。
 父と暮らしていたあの頃、ソニアは間違いなく幸せだったのだ。



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「ね、ねえ、昨日借りたのもう見ちゃったんだけど、他に何か新しいお勧めとか無いの?」
「え? ああ、ちょっと待ってくれな……」
 無意識にきつくなってしまう自分の口調に少しの苛立ちを感じながらも、ソニアの視線は、カウンターから出て棚を物色するワタルから外れることは無い。
 この店を最初に訪れてからおよそ一年、この光景を目にした回数は既に三桁を軽く上回る。ワタルを目的としたこの訪問の頻度は段々と増して、今ではほぼ毎日のように通う始末だ。この店の店員兼ワタルのメイドである貴嶋サキからの刺さるような視線を受け止めるのも、もう慣れたものだ。
 いつの間にこんなふうになってしまったのだろうか。ソニアはふと思考する。
 橘ワタルのことは、実際に会う前から知っていた。三千院家への復讐を成し遂げることに全精力を傾けていた頃、その周辺を調査する過程で彼についてのデータも手に入れていた。しかし三千院家の人間ではない彼のデータをソニアは重要視せず、その時は彼に興味も、関心も持つことは無かった。こうして毎日のように顔を合わせるようになるなど、考えもしなかった。
 かつて至上目的とした復讐は、未だ為されていない。多くの邪魔が入ってしまったことで一度失敗し、そして、それ以降ソニアは何の行動も起こしていない。
『復讐とか忘れるくらい面白いDVDを…オレが貸してやるからさ!』
 その約束を、ワタルはきっと守っている。今もまた、ソニアのためにお勧めのDVDを選んでくれている。
 だが、果たして自分は、復讐を忘れたのだろうか? 自身を復讐に走らせた感情は、父を失った時の悲しさは、胸の内から消えたのだろうか? ──答えは、否だった。
 暗い感情が薄らいでいる、とは思う。それはきっとワタルの気持ちが通じているからで、このまま今の状況が続いていけば、自分の中の毒はさらに薄められていくのかもしれない。そして、それを否定し、拒絶しようという気は、どうしてか起きない──だから、ソニアは今の状況に甘えていた。
 しかしそれでも、何か確固としたものが残っている感触はあった。その何かが、この店に来てワタルと話をしている時に感じる幸せを、父といた時に感じていた幸せにいつの間にか置き換える。かつての幸福が無くなったことへの悲しみを、それを奪うきっかけとなった対象への憎しみを、思い出させるのだ。
『あなたは、どうして若に近づいているんですか?』
 ソニアがワタルと仲良くなるのが面白くないといったものとは別次元に真剣な表情のサキに問い詰められたのは、数日前のことだ。
 サキは、ソニアの過去──父を失い、三千院家に復讐しようとした顛末を知っていた。綾崎ハヤテからそれを聞いたらしく、そして、ある種当然とも言える疑問を持っていた。
 ワタルを利用して三千院家に近づき、再度復讐の機会を狙っているのではないか。
 自分達の日常に突然現れた闖入者、その原因をソニアの過去と結びつけたのだろう。追及するサキは、どこか納得したような、確信が垣間見える口調だった。
 簡単に否定できるはずのそれを、しかしソニアは笑い飛ばせなかった。
 まだ、忘れられていない。
 このまま、ワタルと仲良くなっていけば。朧気に思い描いた仮定。おそらくは幸せであろうその道筋には、しかしどこかに小さな分岐もあった。
 三千院家に近しいワタルと親しくなっていけば、彼を通して信頼されるようになれば、今度こそ寝首を掻けるかもしれない。
 ほんの一瞬見えた暗がりの道。目を背けられない、かつて自分が歩んできた、その続き。自分の中の何かに負けて、ワタルを傷つけてしまう可能性。
 その忌むべき未来をどうしても消せないままで先延ばしにし、居心地が良いからここに居続ける。
 それが、ソニアの現状だったのだ。



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「はっはーん……それはズバリ恋だね」
 いやまあそうなんですけど、とつい切り返すそうとするのを堪えながら、ソニアはこの少女に悩みを吐露したことを後悔し始めていた。
 かつて三千院ナギを罠に掛けるために利用した少女。ワタルの店の常連でもあり、彼と話をするために店に居座っているうちに、何度か顔を合わせたことがある。一応は見知った関係ではある、しかしそれだけの間柄。
 今日も同じようにワタルの店で、借りていたビデオを返しに来た彼女と鉢合わせた。だが軽く挨拶を交わす程度のはずの相手は、店を出たソニアを追ってきて、その腕を掴んだのだ。
『ワタル君のことで、何か悩んでませんか?』
 彼女によると、ソニアのためにビデオを探すワタルの背を、ソニアはどこか思いつめたような表情で見つめていたらしい。そんなにあからさまに態度に出してしまうなんて、と後悔する間も無く、少女はソニアに詰め寄った。
『話すだけでも少しは楽になれるかもしれませんよ? もちろん、秘密は誰にも言いません』
 淑やかに笑う少女が妙に頼もしく見えて、ソニア自身にも誰かに聞いてもらいたいという気持ちがどこかにあったのだろうか、近くにあった公園のベンチに並んで座ると、まるで懺悔をするかのように、ソニアは自分の心の内を、ある程度をぼやかしながらも、ぽつりぽつりと語っていた。
 だが、最初はじっと聞いていたはずの少女は、ワタル──ソニアは話の中では『少年A』とおいて譲らなかったが──の登場と共に、もどかしそうに身体をむずむずと動かし始めた。訝しがりながらもソニアは話し続け、そしてそれが終わった瞬間、訳知り顔で、それは恋だと宣言したのだ。
「……仮にそうだとして……」
 彼女にした話の中では、少年に向ける感情を具体的に記述してはいない。だが、彼女の言は間違ってはいないと思えるほどには、ソニアは自分の気持ちを認識していた。
 少女の言葉を受け止めて、そして、思う。
 だからどうしたんですか、と。
 ソニアはそれを認識して尚、袋小路に迷い込んでいる。復讐を忘れられないことを、ワタルを傷つけてしまうかもしれないことを、恐れている。それに気づいて尚、この居場所を捨てられない自分に失望しているのだ。
「……あなたは、ワタ──少年A君のことが大好きなんですよね。だったら、きっと大丈夫ですよ」
 そう言って笑う少女とは対照的に、ソニアの視線が鋭さを帯びる。知ったようなことを、と苛立ちが募る。
 だが、それを。
 武術に覚えがあり、荒事にも手を染めた、並の精神力の持ち主であれば睨んだだけで屈服させられると自負しているソニアの視線を、少女は正面から受け止めて、穏やかに微笑んでいた。
「好きだから悩んでるんですよね。それならきっと大丈夫です。それさえ忘れなければ、何を選んでも、間違っていたなんて思いませんよ」
 それを悩まなくなるのは、最悪の道が消え失せるか、最悪を最悪と思わなくなってしまった時。
 その気持ちを忘れない限り、悩み続けている限り、だからこそ最悪の結果に辿りつくことはない。
 そして、悩み続けた末の、好きな相手の幸せを考え続けた果てにある結末は、きっと清々しいものだからと。
 少女は一息に告げて、立ち上がった。
「私もそうでしたから、信じてくれて大丈夫ですよ」
「──え?」
 最後の一言に、ソニアは驚きながら、しかしどこか納得していた。確信に満ちた口調。綺麗事だと思いながらも、何故か信じてしまいそうな言葉。ソニアの中で、抱いていた疑念が形を取ろうとした時、少女は腕に付けた時計を見やって声をあげていた。
「あ、もうこんな時間! すみません、私、友達と約束があるのでこれで……」
「え? あ、」
 ソニアが何かを言う前に、少女は既に駆け出していた。
 小さくなっていく後姿を、追いかければ捕まえられると知りながら、しかしソニアは動かなかった。
「まったく……」
 好きに聞き、好きに語り、そして行ってしまった。
 だが、彼女の話を聞くことで、ソニアの中の何かが──少なくとも、次に会った時には今日のお返しに彼女の実体験を絞れるだけ絞り出して、その上で今日の彼女の話をどう捉えるか判断してやろうと思えるくらいには──確実に変わっていた。
 ふう、と息をついて、ソニアは腰を上げる。
 帰ったらいつものように、ワタルが勧めてくれたDVDを観るとしよう──そんなことを、思いながら。


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