──ああ、またか。
 マリアに半ば叩き出される形で学校へと向かい、数日ぶりに教室の扉を開けた三千院ナギがその光景に抱いた感想は、起床時から引き継いだ沈鬱な気分を更に悪化させるものだった。よくこう何度も、と呆れながら、自分の席へと向かう。
「おはよう」
「おはよう、ナギ」
「おはようございます、お嬢さま」
 ナギの挨拶に返事をしたのは、桂ヒナギクと綾崎ハヤテの二人だ。窓際の最後尾にナギの席があり、ナギの一つ前にはヒナギクが、隣にはハヤテが座っている。今のナギにとっては、何の因果かと思ってしまう席組みだ。しかし二人にとっては、授業中に寝ているナギを起こすことができるのも含めて、都合良いことこの上ないらしい。
 そのようなほぼ隣同士である席で、いつもならば世間話に熱中しているはずの二人が、今日は静かなもので、互いに正反対の方向を向いている。改めて見ると、その様は小さな違和感を感じさせた。おや、と思いながらナギは席に着く。
「ハヤテ、ヒナギクと何かあったのか?」
 折角久しぶりに学校に出てきたというのに、こんな雰囲気の中で過ごしていてはたまったものではない。とりあえずの話を聞く対象としてナギが選んだのは、隣に座る少年だ。普段は人当たりの良い前の席の少女は、しかしこのような状況に限って、驚くほどに意固地になる。
「別に、綾崎君とは何も無いわよ」
 だから、このように割り込んでくるのも予想できたことではあった。ナギが何かを言う前に、「ええ、桂さんとは何も無いですよ」とハヤテも平坦な声で応じる。二人共に名前の呼び方が変わっていることに、やはり珍しいパターンだなとナギは軽く目を見開いた。
 この二人の喧嘩自体は見慣れたものだが、その大半はヒナギクからの一方的な折檻または言葉攻めであり、その原因はハヤテの、主に女性に対しての無自覚な行動にある。
 しかし、そのようにしてヒナギクに何度も焼餅を焼かれているうちにハヤテも成長したのか、最近はヒナギクに詰め寄られると、自身が無自覚な行動を取り、それをヒナギクが意識しているのだということを自覚するまではできるようになっていた。そのためハヤテは、ヒナギクの怒りを受けるとその理由を察して、事態が悪化しないうちに機嫌を取るといった方針を取っている。事後の反省ができるようになっただけで根本的な解決には至っていないが、それでもこれによってハヤテ及び周囲の被る被害は確実に減少した。
 しかしそれは、今の状況にそぐわない。ハヤテがヒナギクに向けるのは許しを請う視線ではなく──そもそも視線を向けてすらいない。ヒナギクももちろん同様であり、今回は焼餅などではない、実に珍しいことであるが、純粋に喧嘩をしているのだろうとナギは察していた。



 ハヤテは自分のことを好きではないと、薄々感づいていたからであろうか。ヒナギクは自分よりもあらゆる面で優れているのだから、何もおかしくないと意識していたのだろうか。
 ハヤテがヒナギクのことを好きだと知った時に感じた、納得が混ざり込んだ孤独感。その正体が何であったのか、ナギには未だに理解できていない。
 人前で泣くことは無かった。ただ、それを知った夜、マリアを寝室から追い出して一人きりでベッドに入り、枕に顔を押し付けた。暗闇に一人きりだとは意識しないようにした。それでも体は震えて、いっそう強く目を瞑った。マリアが部屋から遠ざかる足音が聞こえないと気づいていたから、声を出してしまわないようにと、ずっと歯を噛み締めていた。自分の歯がぎりぎりと嫌な音を立てるのを、ナギはその時、初めて聞いた。
 失恋という事柄に際して、自分が何がしかの行動を起こしたのは、その一夜限りのことであるとナギは記憶している。いくらか胸に残っているものはあったが、思いを抱いていた年月に比して、それはごく小さなものであるように思われた。これならきっとすべてを受け入れて、ハヤテとヒナギクにも変わらず接することができる。ナギはそう思っていた。
 何かが変わったと言うのならば、自分以外のすべてがそうだった。自分の前ではばつが悪そうにしているハヤテとヒナギク。知人に会う度に向けられる、どこか気遣うような目。自分の様子を伺うような、慎重な態度。
 不愉快で仕方ないそれらを打ち払うために、ナギは、自然な振舞いを強調した。過剰に心配する友人には冗談交じりで返し、意地の悪い笑みを浮かべて、ハヤテとヒナギクの仲をひやかした。その言動が説得力を持たなかったのは最初の頃だけだった。時の経過はすべてを薄めていき、いつしかハヤテとヒナギクも、ナギの前で、恋人同士としてあるようになった。二人の間に問題が生じた時、ナギがそれを仲裁するということにもなった。
 仲睦まじい二人を、かつては微妙な立場にいた者として、少し冷めた目で、からかいながらも見守っている。
 現在のナギの立ち位置については皆がそう思っているはずであり、そして、それはナギも同じだった。



「さて、どうしたものか」
 がたがたと机の脚が床を擦れる音を聞きながら、ナギは手に持った箒をおざなりに左右に振った。
 ハヤテとヒナギクはそれぞれが教室の反対側に陣取り、一方は机を、一方は箒を黙々と動かしている。一日が終わろうとしているのに、未だ喧嘩の原因すら知れない。それなりの時間が確保できる昼休みに話を訊こうとしていたが、授業が終わるなり二人ともが弁当を持って別々の方向へと去ってしまい、それもできていない。やれやれと溜息をついたところに、見知った顔が寄ってきた。
「いつも大変だね、ナギちゃんは」
「大変だと思うなら代わってくれ」
 半眼で睨むと、瀬川泉は苦笑を顔に貼り付ける。成り行きを面白がっている花菱美希や朝風理沙とは違い、泉はこの状況を穏便に収めたがっているのだとは、ナギも理解している。だが、二人の喧嘩に彼女が関わると何故か事態が悪化することが多く、ナギが仲裁することが問題を解決するに最も近い道であると経験則で知れた現在となっては、泉はいち傍観者に納まっていた。
「それは無理だけど……喧嘩の原因を教えてあげるくらいはできるかなって」
「え、知ってるのか?」
「うん、えっとね……」
「犬と猫」
 重大発表といった面持ちで手を握った泉に、冷めた声が割り込んだ。
 ナギが声の聞こえた方向を見ると、花菱美希が気だるそうに箒に体重を預けているのが目に入る。
「君は、犬と猫のどっちが好きだ?」
「ん? 私か?」
 美希の目が自分を向いていると気づいたナギは、自分の飼っているペットを一瞬思い浮かべて、
「猫だな」
 それを受けて美希は、「そうか」と一言、ヒナギクに目を移す。遮られた形の泉が何かを言いたそうにしているが、実際のところは彼女自身がそのような冷たい扱いを望んでいるという認識が、ナギたちの間では一般的だ。
「君はヒナと同じだな」
 ん、とナギは小さく呻く。美希は箒に添えていた右手をすっと上げて、ハヤテを指差した。
「ちなみにハヤ太君は、犬が好きだそうだ」
「……まさか」
 そんなくだらないことで、と言い掛けてナギは止める。二人がそんなくだらないことで喧嘩するような人間なのかどうか、ナギはよく知っていた。
「今日の朝、君が来る前に、どっちがいいかって仲良く言い争ってたよ」
 予想外にして予想内のオチに、ナギは、今日何度目かの溜息をついた。
「……まあ、そんなくだらない理由なら、ちょっと遊んでもいいか」
 しかし、肩を落とすのは一瞬。真っ当な喧嘩という、滅多にない事態に対して慎重になっていたナギは、だから、その鬱憤晴らしも込めた解決方法を模索することにした。ふふふ、と笑いを浮かべるナギを、美希は面白げに、泉はごくりと唾を飲み込んで見つめている。
 程なくして、一つ、それを思いつく。
 普段なら、いくつかの案を出して、その中で最も自分が楽しめそうなものを選ぶことにしている。だが、今回思いついた、今日の二人の振る舞いにヒントを受けたそれに、ナギは、得も言われぬ魅力を感じていた。
 他の方法を検討することもしない。理由もわからないままに、それをしようという決定だけがナギの中にあった。夢うつつにあるようなふらふらとした足取りでハヤテの元まで辿りつき、その腕を抱いた。両手の中の腕を通して、ハヤテの狼狽が伝わってくる。「お、お嬢さま!?」と慌てる声を、ナギは聞いていなかった。
「なあ、ハヤテ」
 恋人と二人きりであるかのような、甘い声。こんな声が自分に出せたのか、とどこか冷静に思う気持ちがこみ上げてきて、そしてナギは、不意に夢から覚めた。
 どうしてこんなことをしているのだろう。疑問に思うと同時に、周囲の状況がやっと理解できてくる。
 軽く目を見開いている美希。わあ、と口に両手を当てている泉。あんぐりと口を開けてこちらを見つめているヒナギク。そしてすぐ傍にいるハヤテの視線は、不可解な行動に出た自分の方を向いているようでありながら、ちらちらとヒナギクを気にしていて──ナギは、自分の頭がすうと冷えるのを自覚した。
 どうしてこんなことをしているのか──ハヤテとヒナギクが仲直りするきっかけを作ろうとしているのに、決まっていた。
「いや、ちょっと思いついたことがあってな」
「な……何ですか?」
 頬を引きつらせるハヤテ。ナギは、にいと唇の端を吊り上げる。
「今日はハヤテ、ヒナギクのことを『桂さん』と呼んでいただろう? それで思いついたんだが、ハヤテは私を『お嬢さま』以外の言い方で呼んだことは無かった気がするんだ。理由はわからないが、ハヤテは今、他の人を普段とは違う呼び方で呼んでみたい気分なんだろう? いや、隠さなくていいぞ、そうに違いない。及ばずながら私も協力しよう。特別にしばらくの間、私を『ナギ』と呼ぶことを許可しよう。そら、呼んでみろ」
 ナギが一息に言い終えると、教室の中を沈黙が支配した。
 誰もが呆気に取られている気配。その中でナギは、こほんと一つ咳をする。
「どうした、早く呼んでみろ」
「え、あ……ナ、ナギ……お嬢さま?」
 おそらくは反射で答え、慌てて『お嬢さま』を付け足したのであろうハヤテに、ナギは、くすりと笑う。
「違う違う、『ナギ』だ。『お嬢さま』はいらない」
「えっと……ナ、『ナギ』……」
「ほら、もっと愛を込めて」
 泉と美希の噛み殺した笑い声が聞こえてきたあたりで、ナギは、背後に人の立つ気配を感じた。ハヤテが、あ、とそちらに目を向ける。振り返るまでもない。桂ヒナギクがそこにいる。
 所在なさげに俯くハヤテ。自身の──自身が現在受けている行動に照らし合わせて、ヒナギクの怒りを呼び覚ましてしまったのだと思っているのだろう。そんなハヤテの心情を推し量りながら、ナギはちらとヒナギクに顔を向ける。ヒナギクが怒りに身を任せているのではないことは、その目を見る前からわかっていた。
 苛立っているような、申し訳なく思っているような。ヒナギクは、自分がどうしてこんなことをしているのか承知していて、だからおそらくその両方なのだろうと思いながら、ナギはくつくつと笑い、視線でハヤテを指す。ヒナギクはそれを、たしかに汲み取った。
「ねえ」
「あ、う、……ごごごごめんなさいすみません、ヒ……桂、さん……」
「ヒナギクと呼びなさい」
「……へ?」
「いいからヒナギクと呼びなさい、ハヤテ君」
 人前でこんなことをする羞恥からだろうか、ヒナギクの顔は赤く、体も小刻みに震えている。ハヤテが「あ……」と呟き、「ヒナギクさん」と呼ぶに当たって、泉と美希の笑い声が響いた。
「なーんだ、もう終わりか」
 ナギはハヤテの手を離し、その傍を離れて自分の席まで行くと、鞄を手に掴む。そのまま教室の扉まで歩きながら、
「それじゃあ私は帰るからな。ハヤテ、掃除は任せたぞ」
「あ、お嬢……」
 ハヤテがかけた声が途切れる。その理由を理解して、ナギは、ハヤテがもう一度呼びかけてくる前に、振り返り、素知らぬ顔で言い放つ。
「いつもと違う呼び方をする期間はもう終わったんだろう? 私のことはこれからも『お嬢さま』でいいよ」
 呆気に取られるハヤテを残して、ナギは教室を後にした。



 教室を出たナギが向かったのは、白皇学園の敷地内にある森の中だった。
 ベンチに腰掛けて、木々の合間の空を見上げる。学園の敷地の外には、SPが車を用意して待っている。一人きりになるこの時間を、今日はどうしてか、ゆっくりと過ごしたかった。
 ──そういえば、名前で呼んでもらったことは無かったんだよな。
 綾崎ハヤテと共に過ごした、それほど短くはない時間。思い返してみても、そこに、彼が自分を『ナギ』と呼んだ記憶は無い。もしかしたら一度くらいは、と考えても、思い出されるのは、自分のことではない。『ヒナギクさん』『マリアさん』『西沢さん』『咲夜さん』『伊澄さん』──『お嬢さま』。
 あの頃に呼んでもらっていたら、どう思っていたのだろう。
 少しだけ見た、夢。ハヤテは、ヒナギクにしたように、自分のことを名前で呼んでくれている。そういう関係になっている。ヒナギクに対しては『桂さん』がそうであるように、『お嬢さま』は、意地を張って使う呼び名になっていたのだろうか。自分も意地を張って、ハヤテを何か別の呼び名で──そこまで思って、自分がそれ以外の名で彼を呼んだことが無いのだと気づいて、ナギは、一度だけ目を擦った。



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