姉の背に揺られていた頃を、憶えている。

 その日々にはまだ母が父がいて、さとりという妖怪が種族として成立するくらいには数を保っていて、思い出の印象は、その頃が自分にとってもっとも幸せな時期だったと訴えてくるのだけど、長い年月を経て記憶に失われた部分があるのか、あるいは感動というものとの付き合いが乏しくなって久しいからか、何がどうして幸せに感じていたのか、その実感がいまいち湧いてこない。

 思い出そうとしてまず浮かぶ記憶は、姉の背に揺られてうとうとしている時のもの。今ではすっかりインドア派になってしまった姉が、けれど昔は自分を連れていろんな所を回ってくれた。それは、幼い自分を人間や他の妖怪から守るという意味合いもあったけれど、それ以上に、姉も自分と過ごす時間を楽しんでくれていたから、なにひとつ遠慮することなく、毎日のように姉を連れまわしていた。
 だから、疲れた自分を姉がおんぶして帰るというのも、眠気に負けて閉じかけた目で捉える姉の笑みも、欠かさず繰り返された記憶になったのだ。

 だけど、たとえば今、同じように姉の背に抱きついてみたとして、姉があの頃のように優しげな笑みを浮かべてくれるのかと思うと、ほんの少し自信が無い。
 何が変わってしまったのかというと、母も父もいなくなって、種族を示す『さとり』の名称がほとんど姉を指す呼び名になってしまうくらいに妖怪さとりの数が少なくなったということもあるけれど、それよりもきっと、自分が第三の眼を閉ざしたことに意味があるのだろう。



 姉が、心を閉ざした自分を見た時のことを、憶えている。

 心を読む妖怪は、それだけでたくさんのものに嫌われた。姉も自分も、それが悲しくて仕方なかった。
 程なくして、『さとり』が嫌いになった。自分が嫌いになった。その頃は、姉が地霊殿を管理するための諸々の手続きや顔見せに忙殺されていてほとんど会うこともできなかったから、こいしはその孤独にひとり取り残されたように感じていた。そのうちに、自分たちを嫌う者の心が読めてしまうということを、自分達に向けられる悪意に直に触れてしまうことを、何よりも恐ろしく思うようになったのだ。
 第三の眼を閉ざすのは簡単だった。自分が『さとり』じゃなければよかったのに、こんな眼がついてなければよかったのに。そんなふうに強く強く思ったら、意外なほど簡単に、辺りに満ちる心の声はなくなった。

 これでみんなに嫌われないのかな。抱いたはずの安堵は、けれどすぐにぼやけていった。
 そんなことは、どうでもよかった。みんなに嫌われようが好かれようが世界はとても静かなまま。たしかに嫌われるよりは好かれる方がいいのかもしれないけれど、だから何が変わるわけでもない。そういうことが、不思議なほどに気にならなかった。
 自分の中の何かが変わりつつあることに、こいしは気づいていた。自分の中に集め積み上げられてきたものが曖昧になり、どろりと溶けて身体の外に出てゆくようだった。それは、少しだけ何かを喪うような感覚も与えたけれど、そのうちにすべてが流れ出してしまうと、心も身体もとても軽くなったように思えた程度で、それまでと何が変わったのかは、結局わからなかった。はっきり違うことといえば、世界がいやに静かになっただけ。

「こいし」と聞こえた声は、だから心の声ではなかった。
 振り返ったそこにはいつのまにか姉がいて、どこか呆けたようにこちらを見ていた。

「あ、お姉ちゃん。見てこれ、第三の眼って閉じられるんだね」

 これでみんなに嫌われないね──そんな言葉は、浮かんだだけで形にはならなかった。声にするほどの価値を見出せなかったのも間違いないけれど、それよりも、胸に落ちてきた言い知れない不安が言葉を切らせた。
 きっとその不安は、自分を見る姉の目が、まるで恐怖や絶望の色に染まっていくようだったからだと、古明地こいしは思っている。







    『世界で一番幸せな妖怪』







 桜の威容に圧倒された、記憶がある。
 いつか眺めていた薄紅色の夜桜。隣には姉がいるから、その地上の景色は、きっと遠く昔のもの。
 さあと風が吹いて、ほんのり紅をまとった桜は、闇の中を瞬くように舞って散る。「きれい」思わず漏らした言葉を聞いていた姉は、くすと笑って、目を閉じた。



 【桜の色】



 冥界の桜が咲いたといっても、こいしをはじめとした地底の妖怪にまでわざわざその知らせがやってくることはない。地上との行き来が増えたお燐やお空、あるいはこいし自身しか、地上の情報を得ることができる者は未だいないから、こいしがその宴に参加できたのは、ちょうどよい時期にして時間に博麗神社を訪れたという幸運があったからだ。
 お燐やお空といった姉のペット達を差し置いたことに欠片ほどの罪悪感があっても、姉に対して同じように思わないのは、宴会があると知ったところで姉に限って地上に出てくることはないと知っているからだ。地上の人間が地霊殿に踏み込んで、地上と地下の交流がほんの少しながら始まってからいくらか経つけれど、姉は根を生やしたように地霊殿から動こうとしない。これまで数百年そうだったのだから、今さらそれをどうしようとも思わなかった。

 酒を呑むことに慣れはないけれど、特に抵抗もない。ちびちびと杯の中身を減らしながら、こいしは周囲に目をやった。
 他者へ興味を示すようになり始めている自分を、こいしは自覚している。手に持っている酒も、皆があんまりにも美味しそうに呑んでいるのを見ているうちに、自分も呑んでみたいと思ったのだ。
 顔見知りの鬼が酒を勧めてくることは以前にもあり、実際に口にしたのもこれが初めてではない。その結果としてこいしが得た結論は、不味くはないけれど美味しいというほどではないというもので、特に進んで自分から酒を呑もうとは思わない程度の感想だった。
 けれど、この場においては、自分から酒を呑みたいという気持ちになったのだ。そうして口にした酒を美味いと感じたことは、もしかしたら単純に、皆が楽しそうにしているその輪に入ることができたからというだけのものかもしれない──そんなふうに思いつくと少しむずがゆくなったから、味覚が大人になったのだろうと、こいしは思うことにする。

 何かの拍子に弾幕ごっこを始めたのは、まだ話したこともない少女たちだ。背に羽を生やした少女は、血のように零れ落ちる緋の弾幕を解き放つ。夜を背景にしてなお煌めく黒髪、それに着物をまとった美女が弾の隙間を正確無比に通り抜ける様は、無意識に従うこいしにも真似をできるかは言い切れなかった。
 冬に手合わせした人間と同等か、それ以上か。ぞくりと震える背筋は、けれども、地上にはまだまだ彼女らと同等の実力者がいるということを伝えてくる。少なくともこの宴会に集った者だけで、両手に余るだろう。
 私もやりたいなあ。思いながら、近くから聞こえてくる会話にも耳を傾ける。

 白黒の魔法使いが、亡霊とその付き人を相手になにやら話している。魔法使いは数少ない知り合いの一人だったから、ふらりとその席に立ち寄って、話を聞いてみた。
 それは、春が終わらない異変の話だった。「実に迷惑な騒ぎだった」とわざとらしく頷く魔法使いを、けれど首謀者であるらしい亡霊はどこ吹く風、余裕の笑みで付き人に新たな料理を運ばせている。「いいじゃない、綺麗な桜も見れたんだし」むぐむぐと口を動かす亡霊が咲き誇る桜に向ける目は、どこかそれよりも遠くを見ているように思える。
 自分の知らない話しか語られないその場は、もっと聞いていたいとこいしに思わせる。それは、自分の知らない話だからこそなのだろう。対して自分に語る話の持ち合わせがないのは、少しばかり残念だったけれど。

 ぱぁん、とはじけるような音に、こいしは弾幕ごっこへと意識を戻す。同時に被弾したらしい、共に墜落していく二人をほとんど誰も気にする様子がないのは、羽を生やした少女はもちろん着物の美女も真っ当な人間ではないということなのだろうけれど、被弾とともに二人の弾幕が砕けて散り、花火のように夜空を彩る様に、意識を奪われているという面もあるのかもしれない。舞い散る花びらが光に当てられ、ほんの一瞬白色をまとう。まるで雪のようなそれから、こいしは不思議と目を離すことができなかった。
 ひときわ強い風が遅れてやってくる。桜の花びらを伴ったそれが吹き飛ばそうとする帽子を、こいしは押さえていた。花びらがまた薄い紅を取り戻しているのを認識することで、こいしは意識を覚醒させる。自分はいったいどうしたのかと思いながら、その手が帽子を押さえていることに初めて気がついた。
 花びらが肌を叩き、風は帽子や軽い荷物を吹き飛ばし、髪をひどく乱れさせる。そこかしこから聞こえる悲鳴が、けれどそれすらも楽しむ気持ちを含んだものばかりだったからだろうか。自然に緩んでいる口元を自覚して、楽しいなと、こいしは改めて思った。

 そもそも花見というのも思えば久しぶりで、特に誰かと一緒に花を見たことなど、それこそ遥か昔、まだ自分が地下に潜る前、姉と共に見たのが最初で最後ではないだろうか。
 その時のことを思い返そうとしてみるも、どうにも曖昧で断片的な記憶しか返ってこない。ただ、無意識に押さえることで結果として意識にのぼったその帽子を、風の力で張り付いた花びらを払うために手に取ったとき、そういえばこの帽子は姉に貰ったものだったなと思い出せたことは、少し嬉しく思えた。だからこそ、昔のことをうまく思い出せないのは、より残念に感じる。

 今でこそ特別となってしまった、妖怪さとりとして、地上で過ごした日々。結果として一年に満たなかったそれは、だけどその頃の幼い自分にとってはあまりにも当たり前な日常の一端にすぎなくて、そのすべてを記憶に留めておこうなんて殊勝な心掛けは、だから当然持ち合わせていなかった。
 記憶が定まらないのも、そもそも無理はない。こいしはそう理解しているが、けれど、過去のことをうまく思い出せないのには、どうやらもう一つ理由があるらしい。こいしは帽子についた花びらを払いながら、肩に乗せた第三の眼を見つめた。


 第三の眼を閉じたことは、その詳細こそわからないにせよ、こいしの記憶の領域にもたしかに変化を及ぼした。
 第三の眼を閉じるよりも前の、記憶。そこからは色が抜け落ちてしまったかのように、事実だけが、淡々と頭の中にある。両親と死に別れたことを憶えているし、それをひどく悲しんでいたことも事実として憶えているけれど、事実としてしか憶えていない。それらを思い出したことで、いま再び悲しくなることはない。
 事実は頭が憶えているけれど、感動は心が憶えているものである。他者の心に触れることがなくなったから、心の動きが鈍くなったのではないか──とは、姉の分析だ。

 心の感動が取り除かれた記憶は、たとえ記憶と言えたとしても、記録にはなりえない。こいしはそれを、知っている。
 六十年。どうやら他の妖怪は、その年月を境にして、その妖怪の『記録』──非日常であった一部を除いて、どんどん『記憶』──日常のつまらない物事を忘れていくらしい。
 少し前にそれを姉から伝え聞いて、そのとき既に数百年生きていた自分にその意味がわからなかったのは、『記録』を残していく感覚というものを知らなかったためだ。何か昔のことを思い出そうとしてみて、地下に潜る以前のことしか頭に浮かばなかったときは、さすがにいくらか驚いた。
 それも心を閉ざした、感動を忘れた影響なのだろうかと、姉は言った。閉ざされた心は、日常と非日常の区別をつけることもないのだろうか、と。そうして姉は、「昔のことをいつまでも憶えているのは、新たに心に残すことが無いからなのでしょうか」と、少し複雑そうにしていた。


 かつて地上で、姉と花を見た記憶。
 それは、固く固く錆び付いてしまったモノクロの思い出。
 忘却という名の風化に、いくらか持っていかれた部分もあるかもしれない。どこまで取り戻し、鮮明に色をつけられるかもわからない。けれど、せっかく思い出したいと思ったのだから、こいしはそれに従ってみたくなったのだ。

 帽子を被りなおし、夜空に枝を伸ばす妖怪桜を再度目に映す。現在の桜を基点にして、過去の桜のイメージを再構築する。

 あの日桜を見たのは、昼だったろうか、夜だったろうか。
 自問して、夜だったと答えを出すのに時間は要らない。いかに曖昧な記憶といえども、その程度のことはどうやら憶えていた。

 その時の空は、今のように、晴れていただろうか。
 それもまた、苦労のない問いだった。雲ひとつない夜空に舞う桜の光景を詳細に記憶していたわけではない。ただ、思い出の中にある鮮やかさのイメージは、濁った曇天を背景にしていたようには思えなかった。

 あの時見た桜は、どんな色だっただろうか。
 思い出そうと奮闘してみて、それがどうやら難しいということに気づく。自分の中のイメージが、一定しないのだ。
 いま見ているものと同じくらい薄い紅色を真っ先に思うが、何か違う色だったようにも感じる。それよりもさらに薄い、雪のような白がイメージに割り込んでくるのは、先ほど見た光を受けた桜が、あまりにも美しかったからだろうか。


 芳しくない成果にやや肩を落とし、記憶の走査を中断する。
 感じる寂しさや喪失感は、きっと、思い出を失くしてしまった切なさに由来するのだろう。けれど、妙な悪寒が背筋を這い上がってくるのには説明がつかなくて、こいしはなんとなしに辺りを見回した。

 皆が、桜を見ている。妖怪桜に、それが創り出す光景に酔いしれている。
 何かおさまりきらない気持ちを胸に秘めたまま、こいしもまた桜を見やる。多少なりと目を、意識を離したところで何が変わるわけでもない。相変わらずの、薄紅色だった。







  ◆  ◆  ◆







 太陽に別れを告げた、記憶がある。
 これが最後に浴びる陽の光なのかもしれないと、その時は思っていた。
 妖怪さとりがいつの間にか散り散りになってしまって、しかし幸運なことに、それでもこいしが姉と離れることはなかった。だから住み慣れた場所を離れ、地下に移住することになっても、二人ともに恐怖は無かったのだ。



 【太陽の色】



 地上に出た当初は麓の神社でごろごろすることが常だったけれど、そのうちに自分を邪魔扱いした巫女は、ちょうど桜が散った頃、厄介払いをするように他の場所を紹介した。
 行くべきところを増やすことで神社に長居させないその策が有効だったのは、花見をきっかけにこいしが地上への興味を今まで以上のものにしたことも一因だったのだろう。白黒の魔法使いの家は、当の魔法使いが頻繁に家を空けているからすぐに飽きた。しかしその次に紹介された紅魔館には、結果としてこいしは入り浸ることとなっている。花見の時に弾幕を披露していた吸血鬼と手合わせできることも嬉しかったけれど、それよりも、友人と読んでさしつかえないであろう相手ができたことが、その大きな理由だ。

 フランドール・スカーレット。この館の主にそんな名の妹がいると教えてくれたのは、たしか門番を名乗った妖怪だったように思う。もっとも、この館を最初に訪れた時には、自分の存在を彼女が意識することは無かった。顔を合わせたのは自分が客人として館の主に認められたその後だから、順序は逆だ。
 地霊殿を治めているのは古明地こいしの姉なのだと聞いて、館の主、レミリア・スカーレットにも妹がいるのだと彼女が話を繋げたのは、「あ、いえなんでもないです忘れてください」と続けたのを見ると、口を滑らせてのことだったのかもしれないけれど。

 もちろん、言葉どおりに忘れることなど不可能だった。館を訪ねた時に館主やメイドが出かけていたならば、勘に従ってまだ見ぬ部屋を探索するということを繰り返した。
 そのうちに見つけた、地下への階段。それを下っていくにつれて、この先にいるのだという予感は強まっていき、果たしてその通りに、彼女はそこにいた。

 こいしと彼女が意気投合したのは、お互いが妹という立場の妖怪であり、それぞれ姉に対する愚痴や不満──互いに姉を嫌ってはいないようだったが、褒め合いにならないのには不思議と違和感がないとこいしは思う──を気兼ねなしに語り合える気性にして間柄だったからだろう。彼女と馬が合うのはそれだけが理由でないようにも感じたけれど、それ以上は考えてもたどり着くところはなかった。



 その日もこいしは紅魔館を、吸血鬼の妹の部屋を訪れていた。彼女は、一人分にしては大きな──その気になれば、三人ほどは川の字になれるだろう──ベッドの端に腰を下ろし、こいしは木作りの小さな椅子に背を預ける。いつものように姉の悪口で笑いあい、今日は向日葵畑に寄って来たなどとこいしが放浪の楽しさを語ると、対抗するように吸血鬼は引きこもりの楽しさを語り始めた。曰く、何もせずとも美味しい食事が出てくる。曰く、この部屋の範囲内で好きなことをできる──ぽつりぽつり口にするごとに、彼女は口を尖らせていく。やがて「うーん、私の負けだわ」と肩をすくめた。

「あなたの話を聞いてると外に行きたくなってくるのよねー。たまには出かけてみようかなあ」
「今日は止めた方がいいと思うわ。雲一つない快晴だもの」
「えー、残念。にっくき太陽め」

 尖らせた口もそのままに、吸血鬼はベッドの上をごろごろ転がった。
 吸血鬼は、太陽の光に弱い。彼女の姉が昼間に日傘一本で外出する姿を目撃してもいるけれど、それにしても、今日は珍しいくらいに晴れた日である。いくらか慎重になっても、それほど悪いことではないだろう。
 思いながら、メイドが差し入れた甘いジュースを吸う。それが半分ほどになったところで、転がりながらベッドの端から端へ往復運動していた吸血鬼が、ぴたりと仰向けに止まった。何か考えるように数瞬視線を宙に固定したかと思うと、首から上だけをこいしに向ける。

「ねえ、太陽ってどんなの?」
「え、太陽は太陽よ?」
「私、見たこともないのよ。絵で見たことはあるけど、実際に見たことはないの。宿敵なのに」

 言いながら吸血鬼はベッドから降りると、部屋の隅に転がっていた色鉛筆とスケッチブックを手に取った。何が描かれているのか判然としない数枚をめくり、まっさらな一ページを表に持ってくると、おもむろに何かを描き始める。
 こいしはその様子を黙って見ていた。三十秒もかからなかっただろう、「こんなのかしら」と彼女はできあがった絵を向ける。
 それは、ある意味基本に忠実な太陽のイラストに思えた。大きな赤い円があり、棘のような三角形がその周囲に配置されている。円の中に顔が描かれているのは、彼女なりの冗談なのだろうか。

「まず、顔はついてないかなあ」
「あ、やっぱり? これだから絵本は嫌よね。それじゃあ形はこれでいいかしら? 色は?」

 あら、とこいしが肩をすかされているうちに、吸血鬼はくすくす笑いながら、より強い赤で円の中の顔を塗り潰す。そうして再度向けられた絵を前に、こいしは小さく唸った。
 丸いのは問題無いように思える。だが棘はあくまで視覚的効果の表現であり、太陽の一部ではない。色も違うかもしれない。赤も無いわけではないだろうが、それだけということでもないはずだ。たとえば夕陽なら、いくらか近いかもしれないけれど。

「びかーっと光ってるって言ってもわからないよね……」
「うん、それじゃあわからないわ」

 太陽。
 どんなものかと思い出そうとしてみても、そもそも太陽をそんなに見つめることなど普段はしない。
 太陽をしっかりと目に捉えたこと。それが記憶にあるのは、たった二度。どちらも最近というわけではない。
 時間が近いのは、地下から外に初めて出た時。あの時は、久しぶりの太陽がなんだか懐かしくて、めいいっぱいにその光を浴びた。けれどその時は日光浴に熱心で、太陽の姿を憶えていようなどとはもちろん思わなかった。

 だからきっと、地上での最後の景色を目に焼き付けようとしたあの時が、地上の光景を、太陽の有様をまるで一枚の絵画のように捉えた、唯一の記憶なのだと思う。
 そう言ったこいしへの吸血鬼の返答は、スケッチブックと色鉛筆だった。

「じゃあそれを描いてみてよ」
「うーん、ちょっと難しそう……」

 渋々ながら受け取ってみるも、無茶には変わりない。心の中の絵画を現すには、まず技量が足りない。
 そもそも、その時の記憶すら揺らいでいる。第三の眼を閉じるよりも前のことは、たしかにこいしに宿り続ける記憶だが、それほどに鮮明なものではない。
 そして、おそらくはそれ以上に。地上を後にする時に見た景色は、地上での最後の光景には、ならなかった。いま自分はほとんど自由に地上へと赴き、毎日のように新たな風景を見て歩いている。太陽の光も、空に雲が描く形も、山々の緑も、常に変わりゆく。それを自身の非日常として強く心に留めるわけではないにしろ、新しいものが古いものを埋もれさせてゆくという絶対の原理には、やはりこいしも例外というわけではないのだ。

 それでも急かされるままに、こいしは色鉛筆を走らせる。まずは空を描いて、雲を描く。次に山の連なりを描いたのは、結局ぴんとこない太陽の描き方から意識を逸らすためだったのかもしれない。何をしたところで、彼女の求めるような、正確な太陽の再現などできはしない。どんなに迷えど、描いては消して、描いては消してを繰り返すのみだ。

 ──こんなことをしなくても。

 心の中に不意に湧き立つものが苛立ちだと、こいしがそう気づくには、いくらかの時間が必要だった。
 こんなことを、しなくても。いつのまにか形になっていたその思いがどこからやってきたものなのか。
 それがわからないのは、無意識という領域を支配するこいしに、強い違和感を覚えさせる。何かがどくんと鼓動を鳴らしたように感じる。その源に、こいしは感覚をたどって、なんとなしに見当をつけた。それは間違いなく自分の一部なのだけど、遠い昔に切り捨てた、無意識の対極にあるもので──そこに吸い寄せられようとする視線は、視界を埋め尽くさんばかりに近づいていた吸血鬼の顔面に遮られた。

「大丈夫? なんだか様子が変よ?」
「……ごめん、ちょっと調子が悪いみたい。今日はこれで帰るね」

 既に、鼓動は止んでいる。平静に戻った身体を、こいしは逃げるように部屋の外へと歩かせる。「そりゃ残念、また今度ねー」と笑う吸血鬼に、力無く手を振った。
 閉じられているはずの第三の眼。それを、まともに見ることができない。
 他者の心が読めているわけではないから、それが開いているはずがない。そう理解していても、直視することで、また同じような鼓動を感じるのではないかと思ったのだ。これが、硬く閉じられた第三の眼がまた開こうとしている前兆ではないかと感じたのだ。

 それを避けようとするのは、第三の眼が再び開かれるのが悪いことだからではなく──こいしには、それが悪いことなのか良いことなのかがわからなくなったからだ。
 開かれた第三の眼で自分が何を目にするのか。かつて見ていたはずのそれは、思い出そうとしてみると、意外なほどに形を成さない。何を見ていたのか、かつて自分の周りに何があったのかわからない。
 『さとり』に戻った自分を思ってみても、自分の周りに濃い霧が立ち込めているような錯覚しか得られない。無意識に頼れば霧の中でも何一つ気にせず歩いてゆけることをこいしは知っていたけれど、しっかと存在してしまっている意識は、自分の足をそこに縫いとめて放してくれなかった。

 そもそも、どうして自分は第三の眼を閉じたのか。皆に嫌われるのがいやだったからだと記憶は答えてくるが、それすらも実感として何かを伝えてはくれない。そんなに、それが嫌なことか──自問する中で何かがちくりと胸を刺したように思えて、けれど結局掴もうとしても消えてしまった。

 他者への興味が芽吹き始めている自分。しかし、その行き着く先、第三の眼を再び開いた後に、何があるのか。何が見えるのか、どんな世界があるのか。
 間違いなく知っているはずなのに、わからない。感じられないのだ。胸を焦がそうと響く鼓動を、まるで自身の足元に──あるいは、現在の自分自身に──ひびが入る音と錯覚するくらいには、こいしは、既知であるはずの未知の不安に、取り憑かれていた。

 こいしは何も視界に入れないように目を閉じて、行動を無意識に任せる。もう、何も考えたくなかった。
 第三の眼に何か異常がないか、先ほどまで一緒にいた彼女に聞いておくべきだったかもしれない。少し後悔しながら館の中を歩いていると、何かとすれ違った気配がした。

「あら、もう帰っちゃうのね。喧嘩でもしたのかしら?」

 無意識で行動しているこいしは、誰にも気づかれることはない。だから彼女は自分を意識しているわけではなく、何かしらの手段で館の中の、妹の部屋の状況を把握しているだけなのだろう──こいしは、そう思うことにする。もちろん、彼女を振り返ることも無かった。

「他人に無関心な子たちどうし気が合ってたみたいだし、あいつの緩衝材になってくれるかと思ったんだけど」

 だから、まるで嘲りを含んでいるようなその言葉を、彼女はどのような真意で口にしたのか──彼女の表情すらも見ようとしないこいしには、わかろうはずもなかった。







  ◆  ◆  ◆







 秋の模様に魅入られた、記憶がある。
 紅葉、と言葉で表せば紅一色になってしまうのかもしれないけれど、山々に生い茂る木々の色は、種類や、場所や、時間によって、あるいは光加減でも細かく変わるから、それはもちろん一色などではない。刹那に映し出される色彩こそが、秋の色だ。

 それは、こいしが第三の眼を閉じてから、まだそれほど時間が経っていないある日のこと。
 気の赴くがままに地上へと繰り出したこいしの目に入ったのは、紅、黄、褐色、緑、そして青。灰と黒に塗れた地底とは、違いなど多すぎて挙げることもできない。焦熱地獄には赤色もあるけれど、猛々しい赤よりも、優しくあるその赤色のほうがどちらかというとこいしは気に入った。

 地霊殿に戻ると、姉が出迎えてくれた。
 姉は、こいしが第三の眼を閉じたその時こそ少し青い顔をしていたけれども、こいしが地上から戻って来た時にはまったくそれまでどおりになっていたように感じられた。
 こいしの土産話を、二人が地上にいた頃に見ることは無かった秋の景色の話を、姉は黙って聞いていた。目をつむりながら聞く姉は時折悲しそうな表情を見せたけれど、どうしたのと訊いても「なんでもないわ」としか返ってこないから、姉のその理由のわからない悲しみに、それ以上の興味を抱こうとは思わなかった。

 お姉ちゃんも行けばいいのにと締めくくると、姉は「そうね」と、やっぱり少し悲しそうな顔で答えたのだけれど。



 【秋の色】



 こいしが博麗神社を目的地にしたのは、紅魔館に向かうほどには気分が乗らなかったためだ。
 フランドールと太陽の話をしたあの日以来、紅魔館に足を運ぶのに、いくらかの抵抗が生じていた。しばらく間を置けば、移り気な吸血鬼の妹は太陽の話など忘れているだろうし、その姉も特に干渉はしてこないだろう──そう思った通りに、一週間を置き、意を決して紅魔館に向かってみると、案の定彼女は既にお絵描きに飽きていて、館の主もメイド長と話しながら興味なさげに一瞥するだけで、それまでとなんら変わらぬ時間を過ごすことができた。
 だから、こいしが紅魔館へ行くのに多少の躊躇いを覚えるようになったのは、きっと他の誰でもない、こいし自身が原因なのだろう。他人に無関心な子たちどうし──冷静になれば特に普段と変わりない、単なるからかいと取れなくもないあの吸血鬼の言葉を無視できないくらいに、何かを思い、感じてしまったことが。

 その点で言うと、神社は楽な場所だった。巫女は茶を飲むか妖怪にうざったげな視線を向けてくるかのどちらかで、いくらかの図々しささえ持ち合わせていれば、良い意味でも悪い意味でも、何も考えずにいられる休憩所のようなものだったのだ。

「急に冷えたわねえ」

 だからその声を聞くまでは、いつもと同じように怠惰な時間を過ごせると思っていた。

「紅葉が綺麗なのはいいけど、あんまり急に冷えたから、今日中にでも雪が降って散らしてしまうかもしれないわ」

 縁側に座って茶をすするその妖怪を、こいしは何度か見たことがあった。だがそれはすべて宴会でのことで、直接に話した記憶はない。あまり関わりあいたくない相手だと直感が導き出したから、他者に興味を持ち始めていたとはいえ、近寄ろうという気も起きなかった。八雲紫と、その名だけは知っている。境界を操るすきま妖怪、妖怪の賢者だ。
 白い息を吐き出して、彼女はこいしを見やると、にこりと笑みを形作る。こいしにはそれすら、どこか不吉なものに思えて仕方なかった。

「妹妖怪はともかく、あんたは何しに来たの」

 部屋の中から姿を現す巫女がその手に持つ茶は、もちろん自身の分だけだ。たとえば賽銭が入ったりなどで機嫌が良いならともかく、今のように苛立たしげにしている彼女は、客の分まで茶を淹れたりはしない。それでも客が自分で茶を淹れるのには──茶葉が順調に減っているのに変わりはないのに──何も言わないあたりが、こいしは嫌いではなかった。
 だから今日も自分で茶を淹れようと、こいしが神社に上がりこもうとすると、こちらを見やるすきま妖怪の視線に出会う。「このさとり妖怪に訊いてみればいいじゃない」どこかわざとらしい言い方は実際にわざとなのだろう、巫女は顔をしかめる。心が読めないこいしも、この妖怪は、少なくとも今日この時の博麗神社を自分にとっての休憩所にしてくれる気はないのだと、悟らざるをえなかった。

「あんたも知ってるでしょ? こいつは心を読めないんだって」
「そうよ、すきま妖怪さん。お姉ちゃんと違って、私は第三の眼を閉じてるもの」

 生じる不安に強気に正対したいという気持ちが、古明地こいしについて知っているはずの相手に対してあえて説明をさせる。逃げる気が起きなかったのは、このすきま妖怪から逃げたところでまたいつか同じことになるという予感のためなのだろう。
 同時に、この程度で話が終わるはずがないだろうという確信もある。こいしは知らずのうちに、手に力を込めていた。

「第三の眼を閉じてるって、さとり妖怪のさとり妖怪たる所以を失くしてしまって、よくそんなに堂々と言えるものねえ」
「だって、これって名案じゃない? 心を読めたって、何一つ良いことなんかないわ。みんなに嫌われるだけなんだから。だったらいっそ閉じちゃえばいいってね。お姉ちゃんもそうしたらいいのに」

 それは、実際にはおぼろげな記憶でしかない。
 嫌われるのが悪いことだという理屈は頭の中にある。けれど、嫌われることを悲しく思う感情は、心の内にほとんど小さなものとしてしか見つからない。
 すきま妖怪は、あるいはすべて見通しているのかもしれない。その笑みは面白がっているようにも、単に意地の悪いものにも思えた。

「ねえ、霊夢。世界で一番幸せな妖怪って、何だと思う?」

 ──どくりと、脈を打つ感覚が全身に走る。
 両の足がふらつきそうになるのを、こいしはぐっと耐えた。

 世界で一番、幸せな妖怪。
 その言葉に感じた鼓動は、やはり第三の眼がうずいたものか。どこかで同じ言葉を、同じ問いを聞いたことがあるように思えて仕方ないのは、問いの答えがどうしてか脳裏に浮かぶことは、何か関係があるのだろうか。
 それまでの話を、まるで無かったことのように巫女に問うすきま妖怪は、けれど視線をこいしから外さずにいる。「世界で一番幸せな頭をした妖怪なら、私の目の前にいるかもね」巫女の嫌味に反応することもなく、ただ真っ直ぐにこいしを見つめていた。その笑みをこころなしか深めて、彼女は口を開いた。

「答えは──『さとり』、らしいわよ」

 二度目の鼓動に、それは第三の眼だけではない、自分の胸が高鳴っているのだと気づく。
 ふと思い浮かんだ答えそのままだったから、それは意外には感じられない。それでもこいしは、何かに導かれるように、かすれた声で訊いていた。

「『さとり』、って私たちのこと?」

 ──ええ、私たちのことですよ。

 答えたのは、すきま妖怪ではない。頭の中に響く姉の声をいつどこで聞いていたのか、思い出そうとするうちに、どくんどくんと胸の高鳴りが増していく。

「らしいって何よ」
「ずっと昔に会ったさとり妖怪がそう言ってたのよ。懐かしい思い出だわ」

 そう、と頷きそうになるも、口がうまく動かない。声が出ない。
 それは、ずっと昔のことなのだ。おそらくは、姉と共に地下に潜るよりも前。

「で、どうしてさとりが世界で一番幸せなわけ?」

 訊いた直後に巫女がこちらを見るのが、視界の端に映る。「ちょっと、どうかしたの?」と怪訝そうに声をかけてくる。
 それに反応して、こいしは我に返った。無意識を表面化させることと意識をどこかに飛ばすことは、同義ではない。思考が己の手を完全に離れるということにはほとんど経験が無かったから、速い動悸と冷や汗は、当然のものだったのかもしれない。
 こいしのその様子にすきま妖怪は満足したように、ますます笑みを深める。「具体的に聞いたわけでなないですけど」言いながら、木々と空の境の辺りを指差した。

「霊夢、あの木が見える?」
「どれよ」
「あれよあれ、左から二番目の、高い……」
「ああ、あれね。あれがどうかしたの?」

 こいしをちらと見やりながら、巫女はその指の先を探す。それを追いかけると、そこには一本の高い木が、秋の一部として葉を染めて在る。

「うん、あの木の葉っぱ、何色かなって」

 続くすきま妖怪の言葉といえば、それだけだった。巫女が不審げにすきま妖怪を見つめ、またその木に視線を向ける。
 雲の切れ目から指す陽光が、色づいた葉を輝かせている。ちらと見て「橙色」とこいしが口に出すと、それは巫女の「黄色かしら」と重なった。きょとんとする巫女に、すきま妖怪はくすくすと笑った。

「残念、あれは山吹色よ」
「何が残念よ。だいたいあんなの見方によっても人によっても違うじゃない」
「ええ、その通りよ霊夢。同じものを見ても、たとえ山吹色と概念で表したとしても、それが主観である以上、私たちには真実それを共有することも分かり合うこともできない。──つまり、そういうことなのでしょうね」

 そうしてまた、すきま妖怪はこいしを見据える。何がそういうことよ、と巫女は呆れるようにしているが、その目が伝えようとすることを、けれどこいしは理解していた。
 一つ思い出して、二つ思い出して、曖昧だった記憶が、霧が晴れていくように、途端に鮮明になっていく。胸に抱いていた幸せ。それをもたらしてくれた出来事たち。心に取り返していくものに、まだ足りない、こんなものじゃないと物足りなさを感じることすらもが、いくらかを取り戻したがゆえなのだろう。

 かつて姉と見た桜は、ほのかな薄紅色でもあり、雪のような白色でもあったのだ。
 絵に描けない太陽の姿も、誰しも異なる秋の風景も、自分たちならば──。

「ねえ、一つだけ訊いていい?」
「ええ、どうぞ」
「どうして、こんなことをしてくれるの?」

 今まで関わらないようにしていた相手だったから、友情も義理も無い。
 この話を自分にすることに、この妖怪にとって何の意味があるのか。気まぐれなどと言われたら仕方ないにせよ、少なくとも人情などで動くようには見えない。興味本位の質問というやつだった。
「恩を売っておくのもいいかなと思って」少しの時間を置いて、巫女をちらりと見やりながら彼女は答えた。

「ほら、さとり妖怪って心が読めるから。味方にしておけば、友達の腹の底とか教えてくれそうじゃない?」

 それは必ずしも納得のいく理由ではないけれど、きっとそれ以上を言う気はないのだろうと思ったから、それ以上を訊く気も起きない。「ふうん」とこいしが気のない返答をする一方で、巫女が渋い顔をしていた。「その友達も災難ねえ」と忌々しそうに首を振る。少しの安堵を覚えたのは、それが妖怪さとりに対する悪意ではなかったからなのだろう。ふっと頬を緩めながら、他人事だからかもしれないけど、とも小さく思う。

「霊夢の心の中も調査依頼しようかしら」
「やめい」

 だから、すきま妖怪の次の言葉は自分の心の内を推測してのものなのだろうと、こいしは半ば確信していた。本当は、この妖怪も心を読めるんじゃあないか──想像は、「いいえ、あなたがわかりやすいだけ。心を読むのはあなたたちの専売特許よ」と即座に否定される。
「あなたが他者に興味を持たないからといって、あなたに興味を持つ他者がいないとは限らないのよ」すきま妖怪が呆れるようにしているのを見て、こいしはやっと、ぽかんと開いていた自分の口を閉じた。

「でも、あなたの閉じた眼は簡単には開かれない。『さとり』ではない私にもそのくらいはわかるわ。
 だって、あなたはいちど自分を否定し、自分を捨てたのだから」

 一息に言うと、すきま妖怪は茶に口をつける。
 突き放すような言い方には、どこか苛立ちのようなものが含まれているように思える。それを否定する気も無いのか、少し険しい目つきでこいしを見据えながら、すきま妖怪は立ち上がり、こいしの耳元に唇を近づけた。

「以前私が会ったさとり妖怪ですけど、随分と無様でしたわ。たった一人の仲間がいなくなってしまったと言ってたわね。地上すれすれまで追ってきたけれど、心を読めないから見失ってしまったとかで。自分も第三の眼を閉じてしまおうかなんて言うくらいに取り乱して。地下にもまとめ役がいてもらわなくては困るから、説得して、思い留まってもらいましたけど」

 息を呑むこいしを見て、巫女は不思議そうな顔をした。すきま妖怪は身体をこいしから離し、また縁側に腰掛ける。
 それで話は終わりだと態度で示していたから、こいしが深く頭を下げてその場を辞そうとすると、巫女に袖を引っ張られた。巫女は、どこか憮然として、ぶっきらぼうに言った。

「さとりに言っときなさい。こういう変な奴に頼まれても、人の心を読んで他人に教えたりするなって。……妖怪の心の中を言いふらすのは、別にどうでもいいけど」
「ひどいわ、霊夢」
「うるさい。人間はあんたらより繊細なのよ」

 彼女が、誰かの心の中を他者に吹聴することを禁じていても、心を読むこと自体にはそこまでの嫌悪を示さないことも。
 それが、こいしの背中を力強く押してくれたということも。
 楽しそうに巫女にじゃれつくすきま妖怪は、あるいはすべて理解していたのだろうか。

「うん、わかった。伝えておくね」

 話の中に出てきたさとり妖怪のことを、考えないようにしたわけではない。
 ただそれでも、二人に背を向けるとき、こいしは笑うことができていたのだった。







  ◆  ◆  ◆







 雪景色に、恋焦がれた記憶。
 姉の背に揺られたもっとも古い日の思い出が、蘇ってくる。

 その頃にはまだ母が父がいて、さとりという妖怪が種族として成立するくらいには数を保っていて、取り戻した思い出は、それからが自分にとってもっとも幸せな時期だったと訴えてくるのだけど、さとりであることすら捨ててしまった自分には、感じていた幸福の残滓しか嗅ぎとることができない。
 記憶がはっきりと色づき始めるのは、はじめて姉の背に身体を預けた時のこと。今ではすっかりインドア派になってしまった姉は、けれど昔は自分を連れていろんな所を回ってくれていて、その日はそうしているうちに、雪が降ってきてしまったのだ。

 それは初雪で、特に備えもしていなかったから、頭に雪を積もらせて風邪をひかないようにと、姉は自身がつけていた大きめの帽子を被せてきた。それはあんまりに大きく頭を隠し、視界を遮られてふらつく自分を、姉はその背におぶろうとした。素直に従った自分は、帽子と姉が視界をほとんど塞いでしまって、それはとても暖かく気持ち良いのだけど、初めての雪を僅かにしか見ることができないのだと気がついた。
 ちらちらと降る雪は、地面に落ちてすぐに溶けてしまう。そんなのは嫌だと帽子をはずして雪を見ようとする自分を、けれど姉は止めたのだ。

「ねえ、こいし。世界で一番幸せな妖怪って、何かわかる?」



 【雪の色】



 地底世界に陽の光は届かない。周りを冷たい岩壁に覆われた限られた世界だから、地下は、地上よりも寒い。
 灼熱地獄という地底の太陽は、その管理者の力が増大してからいくらか強さを増したけども、地上の人間に灸を据えられ、管理者もだんだんと力の制御に慣れていったから、今となっては以前とさほど変わらない、穏やかな熱源となっている。
 地上で雪が降ってもおかしくないくらいに冷え込んでいたなら、地底では実際に雪が降っている。そういうものなのだと、こいしは学んでいた。

 帰り着いた地霊殿でふと窓の外を眺めていると、旧都が深々と降る雪に染められていくのが目に入る。
 姉が背後から近づいてくる気配がしたから、少しだけ脇に避ける。姉は空いた場所に入り込んで、自分と同じように雪が降るのを見つめた。
 地底の初雪を自分が眺めていると、姉が隣にやってくる。それが地底にやってきて以来、何度も繰り返されてきたことだったと気づくのに、今のこいしに時間は要らなかった。昨年も一昨年もそれ以前も、ずっと同じようにしてきたはずなのにまったく気づくことがなかったのは、つまるところ、他者への興味が欠片ほども無かったことに由来するのだろうけれど、それにしても驚きすら感じさせる。無表情な姉の横顔に既視感を覚えるのは、それすらも繰り返しの一部だったということなのだろうと、こいしは思った。

「ねえ、お姉ちゃん」
「なに?」
「第三の眼って、また開けたりするかなあ」

 姉が、息を呑む。無表情が驚きに塗り潰されていくのを、こいしはじっと見つめていた。それはこいしが声をかけたことに対してでもあり──なにせ、これまでの繰り返しの中にそんなことは無かったのだから──その質問の内容に対してでもあるのだろう。

「……わかりませんね。閉じたことは無いですから」
「そうだよねえ。最近少しずつ感覚戻ってきてるから、もう少しかなあと思うんだけど」
「長いあいだ眠らせていたから感覚が鋭敏になってるだけかもしれませんよ。いずれにせよ、他者に興味を持つのが近道と思いますけど」

 答える姉は自分と目を合わせることなく、また窓の外を眺めている。
 それがまるで妹に対する興味を持っていないかのように思えるのは、他人を知り、心を察しようというこいしの気持ちが足りないからか、それとも。
 ささやかな恐怖が、心を冷やしていく。姉はもう、自分に興味が無いのではないだろうか。見捨てられてしまったのだろうか。そんなことないと否定する理性が、力を持たない。もしも今、心を読む能力を取り戻していたとして、何の躊躇も無く第三の眼を姉に向けられるかどうか、自信がなかった。

「恐いですか? 相手のことがわからないのが」

 いつのまにか、姉の目が向けられていた。
 壁についた手で身体を支えるこいしは、きっと誤魔化しは効かないのだろうと、素直に頷いた。姉は自分の心を読むことはできないはずなどということは、思考の外にあった。何よりも、安心があった。自分の恐怖を理解しているということは、やはり先ほどの態度は芝居だったのか。安堵の溜息は、続く言葉に遮られる。

「こいしがそうしたいというなら、もちろん私は協力しますよ。でも、第三の眼を開いたら、すべてがわかってしまう──それは、理解してますよね? たとえ私があなたに興味を持っていなくても、それすらわかってしまう」

 どこか必死さを帯びる強い眼差しの中にたしかに優しさもたたえ、姉は覚悟を問うていた。
 その瞳が絶望に染まったことを、こいしは憶えている。かつて自分が心を閉ざした、遠い日のこと。生半可な覚悟では、また第三の眼を開いたとして、同じように閉ざしてしまうのではないかと、きっと姉はそれを恐れているのだ。それはひょっとしたら姉の絶望、トラウマなのかもしれないと、こいしは思う。だからその問いを、口に出す。

「ねえ、お姉ちゃん。世界で一番幸せな妖怪って、何なのか知ってる?」

 その意味を理解している。
 こいしはそう、自分を信じていた。

「あなたには昔、言ったかもしれないけど……『さとり』ですよ。妖怪の、ね。あなたは『さとり』であることを捨ててしまったから、今は私一人でしょうか」
「不正解だわ、お姉ちゃん。今は、そんなのはいないっていうのが答え」

 不意を突かれたように、姉が目を見開く。それを少し小気味よく思っても、笑うことなどできなかった。
 今の姉は、薄紅色の桜を見ることはないのだ。

「だって私たちは、心を重ねることができるんですから」

 こいしの言葉に、今度こそ姉は、驚きをあらわにする。「憶えてたの」口に手をあてる姉に「思い出したんだよ」と苦笑を返した。


「ねえ、こいし。世界で一番幸せな妖怪って、何かわかる?」
「うーん、何それ。わからないわ、お姉ちゃん」
「ふふ。答えは、『さとり』なんですよ」
「え? さとりって、私たち?」
「ええ、私たちのことですよ。──だって私たちは、心を重ねることができるんですから」


 それは、初雪の日に姉妹が交わした会話。
 姉は妹に大きな帽子を被せ、そのまま背負う。雪が視界に入らない妹は、だけど文句を言うこともなく、夢見心地で姉の背にしがみついていた。
 妹が第三の眼で見ていたのは、いつもよりも少し目線の高い世界。姉の見ている雪景色。色も光の加減も自分の見ているものとは少しずつ違っていて、あんまりにも新鮮なそれに気を昂らせて、姉の身体に強く手を回す。身体に押し付けられる暖かさは、姉が背中を暖かく感じているから、より暖かかった。

「私が心を閉ざしたから、お姉ちゃんは、ただ心を読むだけの妖怪になってしまったんでしょう?」

 幸せを重ねて、不幸せを分かち合う。異なる感性を共有するから、世界は仲間の数だけ存在する。そうやって生きていた妖怪さとりは、きっと散り散りばらばらになることで、他の妖怪には想像もつかないくらいに弱くなっていったのだろう。
 自分よりもいくらか長く生きていた姉は、それを理解していたのだ。だから姉にとっての妹は、妹にとっての姉よりも、絶対的な希望として残されたただ一人の仲間だったのだ。

 俯いて黙る姉に、こいしが抱いたのは、どのような感情だったのだろうか。

「ねえお姉ちゃん、地上のすきま妖怪ったら、すっごく嫌味ったらしいのよ。世界で一番幸せな妖怪を自称してた種族のくせに、自分から心を閉ざしちゃって、みっともないったらありゃしないって! 実際そう言ってたわけじゃないけど、そのくらい心を読めなくてもわかるわ。見返してやらなくちゃって思うの!」

 抱き締めたいという気持ちも、謝りたいという衝動も、いろいろなものがごちゃ混ぜになって、そのうちに、こいしの口は勝手に動いている。言わなくてはならないことは、もっと他にあるはずなのに。
 姉が、顔を上げる。姉はもうほとんど泣きそうになっていて、それを見ると、心が繋がっているというわけでもないのに、どうしてか、こいしの目も潤む。姉の涙というものを見るのは、初めてかもしれなかった。

「どうしてでしょうね。あなたがまた第三の眼を開く時を待っていたはずなのに、いざとなるとこんなになるなんて。
 ……ねえ、こいし。私はあなたが恐かった。あなたの心だけはどんなに頑張っても読めなくて、あなたのことがわからなくて。いつかまた心を開いてくれるって信じたかったけど、どうしてあなたが第三の眼を閉じたのかもわからなかったから、もしかしたら、そんなことはないと思ったけど、心を読む私をみんな嫌ったから、あなたも私に心を読まれるのが嫌になったんじゃないかって。どんなに待っても、あなたは第三の眼を開こうとは思わないんじゃないかって。私は、ずっと一人きりなんじゃないかって。いっそ、全部投げ捨ててあなたと同じように第三の眼を閉じようかと思ったこともあって……。
 こいし、馬鹿な姉を許してください。私はあなたを、そんなふうにも見ていたの。せっかくあなたが第三の眼を開いてくれる気になったのに、それで私を見たら、そういうものも全部読み取ってしまう……」

 その絶望は、心の中を見ることができなくとも、十分過ぎるほどに伝わってくるものだった。
 きっと悪意すら混じった、姉の本当の心。善意に誰よりも近い妖怪は、だけど悪意にも誰よりも近い。それはともすれば、心を読むと嫌われてしまうということ以上に多くを占めた、こいしが心を閉ざした理由。

 それでも、躊躇いは一瞬。
 さとりとして過ごした日々も、さとりとしてでなく過ごした日々も。陽だまりのような善意も、心を切り裂く悪意も、何もかもがすぐ近くにあった頃を。何一つ持たずにいたから、何一つ失うことのなかった、今までを。
 すべてを、思い返す。

 おそらく、そういうものなのだ。他者の心を読むというのは、時と場合によっては負の感情にしか触れられない行為なのかもしれない。
 けれど、きっとそれだけではない。姉は心を閉ざした自分を心配して、いつでも地霊殿で待ってくれていて、たとえばペットを飼うようにも言ってくれて、そうしていつか、また心を重ねられる日が来たらいいとも思っていたのだと。姉は自分をそんなふうにも見ていたのだと、強く思えるから。

 心を読める自分たちにしか、得られない幸せ。もしかしたらまた誰かに嫌われることになるのかもしれないけれど、誰かの暗い感情に触れることもあるかもしれないけれど、たとえそんなことになっても、十二分にお釣りがくるくらいの得難い幸福。深くて冷たい負の感情すらも通じ合って、それでも失くさずにいられる繋がりがあるのなら。
 それを信じてみようと、こいしは思うのだ。

「ねえお姉ちゃん、今度、一緒に地上に行こうよ。もう少ししたら雪が降るから、一緒に見よう?」

 姉を強く、強く抱き締めて、耳元で囁く。姉はびくりと震えたかと思うと、妹に負けまいとするように、強く手を回してくる。
 地底でも地上でも、また二人で雪を見て。時が過ぎたら、今度は桜を見に行こう。地上に出ない姉に太陽の光をたっぷり浴びせてやるのは楽しいに違いない。山の木々が色づくのを一緒に見るのは、そういえば初めてだ。
 二人の体温が溶け合うくらいの時間を置いて、こいしは続けた。

「またお姉ちゃんにおんぶしてもらいたいなあ。すごくあったかかったから」
「……あなたも大きくなったから、昔みたいにはいかないでしょうけどね。わかりました、ちょっと体力づくりをしておきますよ」

 姉の苦笑を感じながら、いったん手を解いてみる。こいしは隙を見て姉の背後に回り、その背に飛びつく。姉は驚きながらも両手でこいしの足を掴み、なんとか体重を支えていた。「お姉ちゃんの背中、やっぱりあったかいなあ」こいしは姉の首に頬を擦り付けながら、その後ろ顔を見ていた。頬は緩み、唇は笑みを形作る。目を閉じたその幸せそうな表情を見て、「まったく、」と何か言いかけたその口を、こいしは反射的に手で塞いでいた。

 それを思いついたのは、姉のことをじっと見ていたからなのだろうから。
 やり直すことを決めて、他者に興味を持つのがその近道だというなら、姉を──古明地さとりを最初と意識するのも悪くない。ここが、妖怪さとりとしての古明地こいしの、再出発点だ。

「『まったく、こいしはいつまでたっても甘えん坊ですね』でしょ? お姉ちゃんったら、ほんとにわかりやすいもの!」



 <了>



index      top



inserted by FC2 system