妖怪に生まれたかったと、常々思っていた。

 私が道を歩くと、他の人は避けて通る。それは最初は、私についてくる死霊を不気味に思ってそうしているはずだったけど、いつのまにか、他の人が距離をとる対象は死霊というよりも私自身になっていた。当然かもしれない。普通なら、いつも周りに死霊を漂わせている人に、わざわざ近づこうとは思わないだろう。

 死霊を見る、ということにはそれほどの才能はいらない。むしろ、見ることのできないほうが少数派といったくらい。
 ただ、姿かたちが不定の霊を、はっきりと識別できる者となると、ほとんど希少と言って良いくらいらしい。私は、その希少な人間だった。それが死霊を惹きつける要因であるようだ。多くの人間に区別がつけられない幽霊は、自分たちを見分け、認めてくれる者のところに集まろうとする。それ自体は霊に限ったことではないかもしれないけれど、正直、集まられる身としてははた迷惑この上ない。

 寄ってくる死霊をただひたすらに嫌がっていたのは、まだ幼かった時。
 慣れもあったんだろう、そのうち適当にあしらったりする術を覚える頃には、どうやら私は死霊を識別するに留まらず、操ることもできるようになっていたらしい。それに気づいた時は、これで死霊にまとわりつかれずにすむと喜んだものだ。
 でも世の中そんなにうまくはいかず、どうも私の死霊を操る能力は、彼らが自分たちを識別してくれる相手──つまり私に寄せる、いわば信頼や忠誠心に基づくものだそうだ。「忠誠を誓った相手から離れる道理は無いし、離れたとしてもその場合すぐに信頼は失われてしまうだろうから、結局は元の木阿弥ね。残念でした」とは友人の言で、要は、私が死霊から解放されることは無いという結論だ。まったくもって腹立たしい。

 結果として、みんな──霊を漂わせていただけのそれまでなら、何事も無く接していたはずの人たちまでもが、私から離れていった。普通の人と最後に会話をしたのは、半年ほど前にお手伝いの人に暇を出したのが最後かもしれない。
 今や私がまともに関係を持っているのは、ほとんど三人だけ。半分人間が一人と、妖怪が一人と、妖怪なのか人間なのかよくわからない──おそらくは妖怪寄り──のが一人。寂しいかといえばそこまででもないけど、まったく寂しくないといえば嘘になる。空しいと言った方が近いかもしれない。なにせ私には、純粋な人間の友達は一人もいないのだ。


 妖怪に生まれたかったと、常々思っていた。

 もしも私が妖怪だったならば、寂しい思いを抱くことも無かったと思う。だって、基本的に妖怪は、人間と敵対するものだ。人間の友達ができないことを哀しむことも無いだろうし、身の回りに人間以外しかいないことに、複雑な気持ちになることも無いだろう。そもそも、人間の女の子に死霊を操る力など与えて、神様は何をしろというのか。この能力だって、恐い妖怪が持っていた方が、いくらかそれっぽいだろうに。私に与えられたところで、宝──かどうかは疑わしいけれど──の持ち腐れだ。


 そんなことを考えながら、とぼとぼと道を歩いていて。
 ふと足を止めたのは、道の真ん中に、私の歩いていく先に、誰かがいたからだ。こんなことは、久しぶりだった。
 女の子だった。秋の稲穂のような黄金色の髪が、けれど川の水のように透き通った光を放っている。それはおそらく人間ではありえないけれど、それにしては、薄い布を継ぎ合わせて作られている質素な服はあまりに人間じみているようにも思う。妖怪なら変な服を着ている、とも限らないけど、少なくとも私の友人の一人は、およそ普通ではありえないような服を着ていたから。

 彼女が、こちらに目を向ける。同時に、信じられないものを見て、私は息を呑んでいた。
 私が死霊を識別する方法、つまり見分けられる理由というのは実はごくごく簡単で、それは、私には死霊がそれぞれ固有の色を持っているように見えるというものだ。幽霊はそれぞれがそれぞれの色を持っていて、形や姿が変わっても、それが変わることはない。私が諦め半分ながらも死霊との共存を受け入れているのは、夜空や湖、山々を背景に、死霊を操って好きな色を貼り付けていく──自然を紙、死霊を色とりどりの墨として絵を描く、そのちょっとした趣味のようなものをいくらか気に入っているからだ。

 色づいて見えるのは、死者の霊だけではない。
 生霊かあるいは魂か、生きている者にも何かの色が見えることが、たまにある。友人の意見も聞いた結果、それは気質の色なのかもしれないと私は推測している。私はこれまで、生きている者にしろ死んでいる者にしろ、そうやってたくさんの色を見てきたのだ。

 けれど、目の前の女の子の色は。
 それは、今までに見たことも無い、吸い込まれそうなくらいに深い深い、黒。
 女の子の空虚な目は、その黒の中に、彼女の心の中には何も存在していないかのような印象を与えてくる。だけど私はそれに魅入られていて、じっとその中を覗き込もうとするように、目を離すことができずにいる。自分のすべてがそれに集中していて、全身から力が抜けていく。他に何一つ混ざっていないその黒色は、信じられないくらいに、そう、美しかった。

 不意に、私の視界が少し低いものになり、膝に衝撃がやってくる。
 両足が身体を支えきれずに膝をついたのだと気づいた時には、もう、地面が近づいていた。







    『妖怪になりたかった女の子のお話』







 気づくといつもの天井と、布団や枕の感触があったから、すべては夢だったのかと思いかけた。それを止めたのは、障子に映りこむ夕陽の光。いくらなんでも、こんな時間まで寝ているなんてありえない。
 身体を起こして、自分のいる場所を改めて確認する。戸の位置、物の配置、そして空気の匂い。住み慣れた我が家であるのは間違いない。道端で倒れたはずの私が、どうしてここにいるのか。まさか、あの女の子が運んできたのだろうか。
 あの澄んだ黒色を見て、いかに惹き込まれたとはいえ、どうして意識を失うまでのことになってしまったのかはわからない。ただ少なくとも、彼女とは初対面どころかあの時もまともに言葉を交わしてすらいない。この家を彼女は知らないはずだから、彼女が私を運んできてくれたというのは、ありえない。なにかの事情でこの場所を知っていたとしても、やはり彼女の細腕では私を運んでくることは不可能だろう。

 普通の人は、私のことを避ける。普通でない知り合いのうち、二人はこの家を知らない。そうなると、心当たりは一人。
 思っていると、廊下から足音が響いてくる。近づいてくるその足音の具合は、まさに考えたとおりの相手だ。
 戸をこころなしか静かに開ける、彼の名は魂魄妖忌。父の知り合いだった人、もとい幽霊で、両親を亡くした私のことを何かと気にかけて、ちょこちょこ私を訪ねてきてくれる。ずいぶんと厳しいお爺ちゃんで、嫌いではないけど少しだけ苦手だ。それでも私に普通に接してくれる少ない相手の一人なので、私自身、ふとした時に頼ってしまうことがある。今回も、迷惑をかけてしまったらしい。

「調子はどうかな」
「大丈夫。ごめんね、手間をかけて」
「儂は何もしとらんよ。大事無いなら、客間で待ってくれているから、友達に礼を言っておくといい。君をここまで連れて来てくれた」

 それだけ言うと、妖忌はさっと扉を閉めてどこかへ行ってしまった。君、と呼ばれることに、少し心がざわめく。幽々子ちゃん、と呼ばれるのがなんとなく恥ずかしかったから、少し前にちゃん付けをやめるよう頼んでみた、その結果が、どうやらそれらしい。幽々子、と呼んでくることを私は想定していたんだけど。妖忌らしいと言えば妖忌らしい。あのお爺ちゃんは、私があんまり彼に頼り過ぎないように、適切に距離を置いてくれている──これは、友達の分析なのだけど。

 ふう、と一息ついて、そろそろ布団から出ることにした。妖忌の言葉の中にあった異常には、もちろん気づいている。
 倒れて寝かされていたというのに、着ているものに変わりはない。妖忌の気性を考えると、よほどのことがない限り、彼が私の服を換えることはないだろうから、少し気絶しただけなら、まあ、こんなものなのかもしれない。現に、身体にも精神にも特に異常は無いと思う。
 それにしても、私に友達なんていないことくらい、知っていてもおかしくないだろうに──二人ほどをあえて差し置いて恨んでみるけれど、なるほど冷静になってみると、外で倒れていたとはいえ、自分で私のことをここまで運んでくれるなんて、それこそ友達と言えるような存在しかありえないかもしれない。普通の人ならほとんどが無視、妖忌に知らせてくれたらまだ良い方だ。

 廊下を渡り、客間の戸を開くと、やはりと言うべきだろう、あの女の子がいた。ただ、さっきのように彼女の姿に黒色を見ることはなかった。近づいてくる私に気づいていただろう彼女は、既にこちらを向いて姿勢を正している。一応の恩人に、けれど不信感からか、私の口からは強い言葉が出てしまっていた。

「あなた、何者? 人間? それとも妖怪?」
「人間でも妖怪でも、ないと思います」

 答えは、肩の下まで流れる彼女の髪がそうであるように、透き通った声。ああなるほどと、私は納得してしまっていた。
 混じり気が無いのはもちろんのこと、赤や青といった原色ですら程遠い。それは、他に何も無い美しさ。すべてを飲み込むようなあの黒色は、それ以上無いほどに彼女を表現していたのだ。

「どうして私を運んでくれたの?」
「あなたが急に倒れたから」
「あなた、私が恐くはないの?」
「恐がる理由がないです」
「……そう。変なこと訊いてごめんなさいね。それに、私を運んでくれてありがとう。何かお礼がしたいんだけど……」

 人間でも妖怪でもない。それに引っ掛かりを感じないわけではないけど、とりあえず人間でないならその他妖怪でひとくくりだ。目的がわからないけど、私を食べようというわけでもないのは、私がいまここにいるというだけではっきりしている。
 そして、人間ではないなら。
 妖忌の言葉を、つい思い出してしまう。初対面の妖怪にこんなふうに思うなんて、人間としては、いくらか外れてしまっているんだろうけれど。
 だって、同じように私のことを変に特別に思わなかったのが、今の私の友人たちなのだ。

「……あの、それではお願いが」
「何かしら? 多少のことなら聞くわよ?」
「……私は、そう、帰るところが無いので、しばらくここにおいていただけないでしょうか」

 私は彼女の申し出に、眼を瞬かせていた。「駄目でしょうか」とこちらを見つめる彼女に、首を大きく横に振る。「部屋なら無駄にいくらでもあるから、好きに使って」少し早口になってしまったそれに、彼女は「ありがとうございます」と頭を下げた。
 友達になって欲しい、なんて面と向かって言うのは恥ずかしいし、かといって婉曲的な言い方にしたところで、顔が赤くなってしまうのを抑えられる気はしなかったから、それは私にとっても都合の良い話だったのだ。

「ねえ、まずは名前を訊いてもいいかしら。私は西行寺幽々子。あなたは?」
「あ……」

 この家に住みたいというならば、それほどおかしな質問ではない、むしろ当然と思ったのだけど。
 彼女はか細い声をあげて、目を伏せた。「どうしたの?」と訊くと、また顔を上げて、そして言う。

「ごめんなさい、私、名前というものが無いんです」





 ◆ ◆ ◆





「あなたは私の中身を覗いて、それにあてられたようだったので、今は私の能力で見えないようにしているんです」
「そんなこともできるの? あなたの能力って……」
「いろいろなことができるんですけど……一言でまとめるなら、境界を操ることができます。物質に限らず、概念的なことにも、それぞれに存在する境界を、ある程度自由に」
「なにそれ、すごいじゃない。あ、とりあえずここがあなたの部屋ね。好きなように使っていいから」

 示された部屋にしずしずと入り込む様は、どこか小動物めいていて、私の中の母性を呼び起こしてくれているような気がする。一言ずつはっきりと口にするその喋り方が、なんとなしに小さな子供を思わせるけれど、子供というには、少し感情や情緒の面で落ち着きがありすぎるかもしれない。欠けていると言ったほうが、印象としては近いか。

 彼女に家の中を案内するうちにほとんど陽は沈みかけている。本当は出かけたい先が無いわけではなかったけれど、それは明日に回すことにした。
 結局、彼女の正体についてはわからなかった。隠している面も、あるのだろうとは思う。いくつか質問をしたけれど、彼女の返答は、はきはきとした答えか、何も言わず口をつぐむかのどちらかだったから、その部分については何か言いたくないことだったと考えて間違いないだろう。嘘をついているという印象をまったく受けなかったのは、彼女に見た目の覚めるような黒色を含めた、私の中の彼女へのイメージが原因なのかもしれないけれど。

 名前が無いというのも、教えたくないというなら私にはどうしようもない。別にそれを使って呪ったりするわけでもなし。彼女のことを呼ぶのはやや不便だけど、仕方が無いだろう。
 名前を持たないということが本当にあるのかは、わからない。ただ、この地に溢れる妖怪や、そこらを飛び回る妖精のすべてが固有の名を持っているのかと考えてみると、もしかしたら名前が無いということもあるのかとも少しは思えてくるけれど。

 まあ、総じて言うと、怪しい奴。普通の人ならお引取り願うところだろうけれど、でもあいにく、私は怪しい連中との付き合いに慣れてしまっている。怪しい連中としか付き合えないという認識は、切ないので考えないようにする。

「すみません、布団は、どこにあるのでしょうか」
「ああ、それなら押入れの中にしまってあるから」

 訊くが早いか、私が指した押入れから彼女は布団を引っ張り出し、ぽかんとする私をよそに、瞬く間に寝床を作り上げてしまった。「これから夕食にするけど、いらないの?」もしも人間ならばそうはいかないだろうけれど、やはり彼女は、おそらくは人間以外だ。「はい、食べなくても大丈夫なので」予想通りの答えは、じゃあ寝ないのは大丈夫じゃないのかなと思わせたけれど、一応の家主を気にすることなく布団に入り込むのを見ていると、それもどうでもよく思えてしまった。見た目や仕草に反して、意外と図太い性格なのかもしれない。

 食事を共にできないことはほんの少し残念だったけれど、ならば明日の朝が勝負だ。両親を亡くし、お手伝いの人がいなくなってからはや数ヶ月。たまに妖忌に手伝ってもらうこともあるけれど、自分の食事はほとんど自分で作る。今の私の料理の腕はそこそこのものと思って問題ないはずだ。食べ物の力で彼女を引きずり出してやる──そんなふうに思っていると、餌付けという単語が脳裏をかすめる。たぶん、それほど間違ってはいない。



 そして半日後。少し身体が重かったのは、やはり一応は外で倒れてしまったことが影響しているのか。それを気合で振り払って、腕によりをかけて朝食を作ったはいいけれど、当の彼女はなかなか起きてこなかった。大声で何度か呼んでもまったく反応がなく、彼女の部屋に足を運んでみて、その理由が判明した。彼女が安眠しているのを守るように、薄い結界が張られていたのだ。なるほど、結界は向こう側とこちら側を隔てている境界といえるのかもしれない。
 音や気配を遮断するのだろうか、私がこの部屋に入っても彼女が眠りから覚める様子はなく、そして困ったことに、私にはこの結界を破る力なんて無かった。私にあるのは、せいぜい、死霊を操る程度の能力なのだ。

 死霊をぶつけたら結界に打撃を与えられるか、とも思ったけどそこまでする気も起きない。
 二人分の朝食を一人で食べることはさすがにできず、いくらか残ってしまったのを見ると勿体なく思えたけれど、仕方がないのでとりあえず昼の分にすることに決めて、どうせ彼女は今しばらく寝ているだろうとの予感のもと、私は無用心と知りつつ出かけることにした。たとえ彼女がそういう類だったとしても、別に盗られて困る物は無い。

 ──しかし、私がいざ外に出ようとすると、それを待っていたかのように、彼女は起きてきた。

「どこかに行くのですか?」

 屋敷の入り口の扉を開こうとする私の後ろに彼女は当たり前のように立っていた。「うわあ!」と叫んでしまったのも、仕方ないと思う。

「それなら、私も付いていって良いでしょうか? できるだけ、あなたと一緒にいたいのです」

 それがたとえば異性からの言葉なら私は顔を真っ赤に染めているんだろうけれど、いや、だけどやっぱり顔に熱がのぼっている気がする。純真無垢といった第一印象はどうやら間違っていなかったらしい。これから会いにいく予定の友人はそんなのとは無縁のひねくれた奴だし、会えるかどうかわからないもう一人にしたって、こんなにも直接的な言葉を使うことはない。そうか、私って、好意を真っ直ぐ向けられることに弱かったんだ。

「いいけど」

 彼女の手を、強く掴む。彼女の言葉にすぐに目を逸らしてしまったから、いま、彼女がどんな表情でいるのかわからないけれど。少なくとも、街中を歩いても問題のない服を着ていたのは確認したから、そのまま引っ張って、履物だけ準備させると、屋敷の外に出た。抵抗することなく、彼女は付いてくる。

「あ」
「どうかしましたか?」
「いや、結局無駄になっちゃったなって……まあいいわ、昼も夜もあることだし」

 朝食が意味を成さなかったと再認識したのは、もう屋敷を離れてしばらく行ったところだったから、今さら戻って食べてもらおうという気は起きなかった。それに、少し思ったこともある。

「ねえ、明日以降はもっと早く起きてほしいって言ったらどう思う?」
「えっ……」

 それは、彼女にとっては食欲よりも睡眠欲の方が遥かに大きいのではという予想だ。案の定、彼女は少し困ったような顔を見せる。「冗談よ」とひとこと言うと、あからさまにほっとしたようだったから、おそらく正解だろう。

「もしかしてあなたって、睡眠時間は長い方なのかしら」
「普段は、朝早くから夜遅くまで眠ります」
「模範的な妖怪ね」
「……妖怪ではない、と思いますけど」

 それは、昨日も何度か聞いた言葉だ。
 彼女は自分を、妖怪ではないと言う。だったら何なのかと訊いた答えは、簡潔に一言。
「式神、だと思います」主張する彼女に、あまり説得力は感じなかった。式神というなら主は誰なのかと訊いた時に答えなかったのもその一因だけど、式神だというなら、「だと思います」などと曖昧な返答は無いだろう。そもそも、式神だって基本的には妖怪か人間のどちらかだ。
 そのあたりのことを説明すると、彼女は少し悲しそうに俯いてしまったから、私もそれ以上を追求しようとはしなかった。要は素性不明であることに変わりは無い。彼女が嘘をついているようには相変わらず思えなかったから、間違った知識を持っているか、それとも自分のことがよくわからないのかもしれない。おとなしい子供を相手にしているような感覚が、その考えに符合する。
 とりあえず、人間でないことは間違い無さそうだったから、私は彼女を、内心では妖怪と思っている。今のは、だからつい口を滑らせてしまったのだ。

「そう、あなたは式神さんだったわね。じゃあ、怠惰な式神ね」
「そうでしょうか」

 他愛ない話に、彼女は付き合ってくれた。
 基本的に彼女は様々な分野の豊富な知識を持ち合わせているらしい。彼女が漂わせる幼さ、あるいは世間に不慣れな印象からは、それは不釣合いに思えたけれど、知識に傾倒して、物事に実際に触れるということをあまりしないんじゃないかと勝手に思ってみたら、不思議と納得がいった。百聞は一見にしかず、という言葉を私は正しいと思っている。

「あなたが霊の色を識別できるのは、視神経と霊的な回路が特殊な形で結びついているからと思います」

 そんなふうにいくつかを話した中でも、彼女がこころなしか得意げに語ったその知識は、私にとって貴重と言えるかもしれないものだった。

「人間の中には、たまにそういう人がいるのですよ。音に色を感じたり、視覚に触覚を覚えたり。あなたは、その特殊なものと思われます。霊的な視覚で捉える気質に、色を感じているのですよ」
「へえ……ちなみに、あなたの能力なら、私のこの、体質? を治せたりしないのかしら」
「今となっては、難しいです。あなたのそれはもはや体質ではなくて、魂に刻み込まれてます。転生したところで欠片が残るかもしれません」

 これも気づいたことだが、この子は、わりとはっきりと物を言う。
 しかし、昔だったらできたのだろうか。思ったけれど、今できないというのであれば、その先を聞いても仕方ないか。

「人間の中には、って言うけれど、妖怪の中にはいないの? そういうのは」
「おそらくは、いないと思います。あなたのような存在が転生したなら、わかりませんが。けれど、そうやっていたとしても人間のそれとは根本的に原理が違います。魂に能力が刻まれてるというだけですから。本来、いま話した能力は、異なる感覚が普通ではない形で結びついたためのものです。それは妖怪よりも肉体に依存する人間ならではですよ」
「ふうん」

 その答えを聞いて、私は、続けようとしていた言葉を呑み込んだ。
 境界を操ることのできる妖怪、自称式神。言葉通りに受け取るならば、人間と妖怪の境界をも操作できるのではないか。霊を識別する能力を取り去れないというのだから、可能性は薄いかもしれない。けれど彼女なら、もしかしたら、私を妖怪に変えられるのではないか。

 ──そう、思っていたはずなのに。
 霊に色を見ることが、妖怪になったらできなくなる。それが惜しいと思えるほどには、私はこの能力に慣れ親しんでしまったらしい。
 少しの躊躇が、その話題を先送りにさせる。どうせ目的地は近いのだからと、気持ちを入れ替えることにした。
 目的地を埋め尽くす黄の色が、視界に入り始める。多少の疲れを感じながら、私はさらに歩を進めた。

 溢れんばかりに咲き誇った、向日葵の畑。そこがいま現在の、妖怪、風見幽香の領域だ。




 相変わらず変な服に日傘を携えて、だけど何かの花のいい匂いを漂わせて、幽香はいつものようにそこにいた。

「あら、連れがいるとは珍しい」

 近づいてゆく私たちの姿を認め、幽香は目をぱちくりとさせる。自分の周りにある花が無闇に傷つけられると幽香は必要以上に苛立つので、優しく手で避け、踏むことの無いようにとの注意を式神さん──式神を自称してかつ名前がないというのだから、とりあえずこの呼び方でいいだろう──に言い聞かせるのも忘れない。
 彼女は、幽香に興味深げな視線を向けている。強力な妖怪である幽香のことが気になるのかなと思ったけれど、よくよく見てみると、彼女の見つめる先には、正確には幽香ではなく、幽香が持ち歩いている日傘があるような気がする。

「ええ、あなたとは違って友達が多いもので、紹介してあげようかと思って」
「……へえ」

 私が人間としてわりと特殊な能力を持っていることは疑いないけれど、それは戦闘能力とは結びつかない。そして幽香は、無力な人間に対して敵意を抱くことはない。足元を這う蟻に殺意を抱くほどには、幼い妖怪ではないのだ。そんな幽香に私が張り合える舞台といったら、舌戦の他にない。顔を合わせば嫌味と皮肉の応酬で、そこに手が出ることはない。もちろん、私から出すことなど万に一つもありえないけれど。
 そんな私たちだが、それでもたまに、幽香はふと四季の花をくれたりする。そのあたり、私と同じように、この関係を心底悪いものとは思っていないということなのだろう。傍から見ると歪んだ関係なのかもしれないけれど、私はこの付き合いを楽しんでいる。少なくとも、たとえば彼女が不意にいなくなったりしたら、いくらかの喪失感を覚えるだろうくらいには。私と彼女には、いろいろと似ているところがあるのだ。


 以前、私がいつものように幽香のところに向かおうとした時のことだ。
 私を引き止めた妖忌は、風見幽香について、「あれほどに危険な妖怪はない」と評していた。

「皆はあの妖怪の本質に何一つ気づいていない。よいか幽々子ちゃん、あれは『花の妖怪』なのじゃ」
「わかってるわ、妖忌。ところで、そろそろちゃん付けはやめてほしいんだけど」
「いいや、わかっとらん。奴は桜の妖怪でもなければ鈴蘭の妖怪でもない、まぎれもない『花の妖怪』なのじゃ。よいか幽々子ちゃん、猫の妖怪や兎の妖怪はいても、『動物の妖怪』などというものはいない。それは動物という枠組みすべてを含み持った、途轍もない存在ということだからじゃ。そんなものがいてしまっては、猫や兎ではもちろん、ほとんどの妖怪は太刀打ちできん。だが、風見幽香は、いわばそれと同じなのじゃ。多くの植物を象徴する、花という実体と概念すべてをその身に秘めた、つまり植物を根源とする中ではおよそ最強の」
「もーう、早く行かないと日が暮れちゃうじゃない。それじゃあ、行ってきます。あと、そろそろちゃん付けはやめてほしいわ」


 妖忌は、私のことを心配してその話をしたのだろう。でもそれは、幽香と私を会わせないようにするためというなら、逆効果だった。私はそれを聞いて、幽香が何を思っているかについてほとんど確信を得たのだから。そもそも妖忌だって、『花の妖怪』のことは私よりも知っていたみたいだけど、風見幽香については何も知らないだろうに。

 つまるところ、陳腐な結論かもしれないけど、幽香も孤独を抱えていると思うのだ。猫の妖怪なら同じ猫の妖怪が、兎の妖怪なら同じ兎の妖怪がいくらでもいるんだろうけど、でも幽香は違う。なにせ、最強。最も、強い妖怪。並び立つ者はいないし、考えてみれば『花の妖怪』という分類も、幽香以外がそれを適用されたことはない。
 私みたいな人間とは、精神の構造が違うのかもしれない。同じように寂しく感じているなんてことは無いのかもしれない。でも少なくとも、幽香に仲間と呼べる存在がいないのは確かなんじゃないかと思う。だからこそ、能力という点で僅かではあれ共通項を持った私と、なんだかんだで付き合っているんだろう。

「こんな嫌われ者の友達になるなんて、酔狂な子ね。見たところ、人間ではないみたいだけど」
「式神、らしいわ。主はわからないけど」
「何それ。……じゃああなた、名前は?」

 幽香が、式神さんを見やる。少しぶっきらぼうな口調は、人間だったら、それだけで震え上がってしまうかもしれない。幽香に注意しようかとも思ったけど、どうやら式神さんは、幽香のことをこれっぽっちも恐れてなんかいないようだ。どこかあどけなさを感じさせる目を幽香に真っ直ぐ向ける様は、私を相手にしていた時のそれとまったく変わらない。少しだけそれに安心したから、彼女の視線が相変わらず幽香でなく幽香の差す日傘に向いているような気がするのは、考えないでおくことにしよう。
 式神さんは、ゆっくりと口を開く。

「名前は、ありません」
「名前が無い? そりゃ随分とおかしな話……」

 言葉の途中で幽香は、驚いたように目を開いた。かと思うとすっと細め、険しそうな顔で式神さんを見つめたかと思うと、そのまま私に視線を移す。疑念を込めて私も見返すけれど、やはりというべきか、幽香は特に動じもせずに私を見続けた。やがて、また式神さんに向き直る。

「……まだ名乗ってなかったわね。私は風見幽香。妖怪よ。それで、あなたに一つ訊きたいんだけど」
「なんですか?」
「彼女に、何かした?」
「いいえ、何もしていません」
「じゃあ、あんたは一体……」

 流れるような会話の意味を私が把握したのは、幽香がまた、私をちらと見ていたからだ。彼女、というのは私を指している。そうすると、幽香がそんなことを式神さんに訊く理由というのも当然あるはずで。それがわからないから、私はつい、式神さんを見つめてしまっていた。信頼しているわけではなく疑っているというほどでもないけれど、出会って昨日の今日、素性もわからない怪しい相手に変わりはない。
 けれど、幽香はそれ以上何も言わなかった。「……そういうこと」つまらなそうにひとこと言って、それに私が戸惑っているうちに、花の束を一房その手に生み出す。その中に含まれているのはすみれであったり、木蓮であったり、相変わらずまったく節操がない。人間の作る花の秩序に、幽香はとことん無関心だ。

「ごめんなさいね、変なことを訊いて。少し変な中身だから気になっただけよ」

 幽香はたまにこうやって、私が帰ろうとした時に花の束を渡してくる。それだけが目当てというわけでもないけれど、それを目当てにしてないということはない。そう、私は今日、春の花を幽香から貰えないかと思ってここに来たのだ。
 そしてそれを渡そうとすることは、今日はもう帰りなさいと、幽香が遠回しに告げているということでもある。普段は、それは私が帰ろうとする頃合いとぴったり合っていたから、そんなに気にならなかったけれど。式神さんのことがそんなに気に入らなかったんだろうか、あるいは──変な中身、という言葉からすると、やはり幽香も、式神さんのあの黒色を目にしたんだろうか。何か特殊な効果があるのかわからないけれど、人間の私が卒倒したのだから、妖怪に何か影響を与えるということも考えられるかもしれない。

 まあ仕方ないかと思って、私は花束を受け取るため手を伸ばそうとする。けれど、私の手に花の束が乗せられることはなかった。幽香はそれを、式神さんに渡したのだ。

「悪いけれど、今日は帰ってもらえるかしら」

 少し奇妙に思ったけれど、言葉にまでされては、この場を辞さないわけにもいかない。
 片手に花束を持った式神さんの空いた手を引き、私は真っ直ぐ向日葵畑の外に出た。途中で一度だけ振り返ったけれど、幽香はこちらに背を向けていて、どんな顔をしているのかも、わからなかった。




 精神的には幽香の妙な様子を変に気にして疲れていて、肉体的にもなんとなくいつもより疲れを感じていて、私の足取りは、普段に比べるとだいぶ重かったんじゃないかと思う。
 そろそろ人の行き来も多くなってくる時間だ。道にはそれなりに多くの人がいて、私たちの周りの空白はより目立つ。遠くから何かを囁かれている感じが、常に付きまとう。慣れているとはいえ、平静でいるのは辛い。今日は式神さんの存在もあってか、より多くの視線がこちらを捉えているようだった。

「風見幽香……あの妖怪も、気質を見るのですね」
「うん、花は魂の質を表す植物だから、花という概念を支配することは、魂を支配することにも繋がるんだってさ。いま、私にはあなたの気質は見えないけど……幽香に見えたのは、似ているといっても正確には私と力の系統が違うからかもしれないわね。私のは気質、あいつのは魂の質」
「そうすると、彼女には私の魂の質が見えたのでしょうか?」
「たぶんね。変な中身って言ってたけど」

 隣を歩く式神さんは、彼女のほうからいろいろと口を開いてくれていた。少しは打ち解けてくれたのか、あるいは気を使ってくれているのか。どちらにせよ、ありがたかった。
 結局、幽香の反応を見る限り、式神さんを近くにおいていても特に害は無いということで良いのかもしれない。いくつか気になることはあったけど、結果として、幽香は何もしなかったのだから。幽香といえど妖怪だし、そもそも幽香だし、あまり信頼しすぎるのもどうかと思うけど。

 そうして歩いているうちに、式神さんはいつのまにか、私の服の袖を小さく掴んでいた。これは手を繋いでほしいということなのだろうか、思って彼女の顔を見ると、こちらに向けられていた彼女の視線にぶつかった。

「……幽々子に尋ねたいことがあります」
「……何?」

 彼女が私を幽々子と呼んでくれたのは、これが初めてだった。でもその嬉しさを口に出さなかったのは、一日に満たない付き合いであるけど、初めて彼女からある種の必死さを感じたように思えたからだ。

「あなたも、私の気質を見たのですよね? 初めて会って、あなたが倒れた、あの時に」
「……ええ、見たわ」
「では。──それは、どのようなものだったのでしょうか?」

 考えてみると、おかしな話だったかもしれない。帰るところが無いと言った時も、屋敷においてほしいと言った時も、彼女がこんな雰囲気をまとうことは無かった。たしかに自分の気質がどのようなものかが気になるのもわかるけど、彼女は私の能力を知っているから、その答えなんて、たかが何かの色を一つか二つでしかないと理解しているはず。
 彼女が妙に真剣だったからか、それとも特に大事な話には思えなかったからか、もしかしたら両方からかもしれないけれど、私はただ、見たものをありのままに話すことにした。

「黒よ。吸い込まれそうなくらいに綺麗な黒。他に欠片も混じっていない、純粋な、美しい黒色だったわ」
「……黒。そう、ですか」

 特殊なことといえば、黒色というもの自体、私が気質に見たのは初めてだったということが挙げられるかもしれない。ただ、それにしたって、非常に珍しいという以上の意味は無いと思う。どちらかというと良いイメージの色ではないかもしれないし、私が気を失ってしまったのにも何か特別な要素が関係しているのかもしれないけれど、それとは別に、私はたしかにあの黒色を、彼女の色を綺麗だと思ったのだ。だから、落ち込んだように元気の無い相槌で俯かれるのは、少し気に入らなかった。

「凄く綺麗だったんだから、誇ってくれたほうが嬉しいんだけどなあ」

 困ったような表情で彼女がまた俯いてしまうのを見て、ちょっと意地悪だったか、と遅まきながら気がついた。
 それが、せっかく続いていた会話の流れを打ち切った。変に真面目な雰囲気で話を繰り出したのは向こうだ、そんなふうに思ってみてもどこか言い訳じみていて、実際に言い訳でしかない気がする。うまい言葉が出ないまま、とぼとぼ歩く。式神さんの手はいつのまにか私の袖から離されていて、だけど何も言わずに付いてくる。やりずらい空気の中で、見慣れた影を見つけたのは、幸運以外のなにものでもなかった。

 彼女はいつものようにぼろ布をまとい、それで頭までを隠し、道端に座り込んでいた。その周りでは数体の人形たちが、まるで小人のように動き回っている。あれがすべて彼女自身が操作しているものだと聞いた時は、素直に驚いた。動き回る人形たちの服は、着物とは少し違う、なんだかひらひらしたものだ。海の向こうのものだと、彼女は言っていた。よくわからないけれど手間がかかっているようで、そんなことをするなら自分の服をどうにかした方がいいと思う。
 私たちが近づいていくと、私の隣を歩く式神さんに彼女は少し驚いているみたいだったけれど、やがて笑みを向けてきた。

「こんにちは。隣の子は、友達かしら?」
「うん、昨日から一緒に住み始めたのよ」

 彼女は、幽香のような捻くれ者でもなければ、妖忌のような頑固者でもない。その柔らかなおっとりとした雰囲気に、母親の微かな記憶が私の中に浮かび上がる。私を子供扱いするのは他の二人と変わらないけれど、どうしてか彼女だけは気にならない。私も、甘えてしまっているところがあるのかもしれない。
 私はまず、人形に関心を示している式神さんに、彼女を紹介することにした。

「この人は神綺。私の友達よ。……神綺、この子は、どこかの誰かの式神さん。名前が無いって言うから、適当に呼んであげて」
「……名前が、無い?」

 神綺は式神さんを見つめて、不思議そうに首を傾げる。それは、さっきの幽香の反応を思い出させるけれど。

「名前が無いって、やっぱりおかしなことなの? 妖怪とかだともしかしたらよくあるのかなと思ってたけど」
「そんなことはないわ。どんな妖怪も、知能あるものならまず名を持っている。持ってないように思えるとしたら、それは人間が知らないだけよ」
「でも妖怪って、必ずしも親がいるとは限らないんじゃない?」
「親がいなくても、名前は自分でつけるわ。自己を現す、最初の定義なんだから」

 私たちが話している間も、人形は変わらず追いかけっこを続けている。いつものことだけど、本当に神綺が全部操作しているのか、疑わしく感じる。
 話題にされている式神さんは、呆けたように人形たちの姿を追っていた。幽香の日傘しかり、もしかしたら、気に入ったのだろうか。

「まあ、親に値する存在がいなくて、自分で名前をつけようとも思わない例外が、いないとも限らないけれど」

 気に入ったというのならば、人形の戯れをじっと見つめている式神さんをこそ、神綺が気に入ったのかもしれない。彼女はたまにこうやって道の隅で人形を遊ばせているけれど、それに寄って来てくれる相手は、本人曰く、ほとんどいない。むしろ、私以外にいるのかと問いたいくらいだ。見栄を張っている、と私は睨んでいる。
 人間の子供が近づいてくることも以前はあったようだけど、ぼろきれをまとった怪しい人形遣いの噂が広まってからというもの、彼女を見かけたらすぐに逃げるようにと、子供たちはよく言い聞かされてしまったらしい。
 かくして、いまや彼女の人形劇の観客は、死霊を従える嫌われ者の女の子一人だけ。……というのが、私の推測だったのだけど。どうやら、二人目ができたようだ。名前を持たない相手をそれ以上追求することもなく、神綺は嬉しさを隠さないままに、式神さんを見つめている。

「あなた、人形に興味があるの?」
「いいえ、ただ……この人形は、あなたが動かしているのですよね?」

 だから、神綺の問いに答える式神さんが、いつのまにか少し暗い顔をしているのには少し驚いた。表情が動いたのは、人形を神綺が動かしているのかと問うた時。その気持ちは、わからないでもない。神綺一人がいくつもの人形を操っているというのはたしかに凄いけれど、それよりも見たままに、人形たちが自分の意思をもって動いているという方がもっと凄い。
 式神さんがそう思っているなら、それは、かつて私が感じたのと同じ気持ちだ。だから、神綺の答えは、かつて私にしたものと同じなのだろう。

「ええ、たしかに、今は私がすべて操っているわ。まだ修行不足だから。でも、いつかはそうじゃあなくしたい。いいえ、絶対にするわ。操り主のいない、魂の宿った、自立する人形。それが、私の第一の夢」
「第一の夢?」
「そう。その自立人形の身体を限りなく人間に近づけて……人間のような存在を創るのが、第二の夢。それをたくさん生み出して、どこかの空間をちょっと捻じ曲げて、最終的には世界を一つ創っちゃおうってのが第三の夢よ!」

 強く言い切ると、神綺は一瞬だけこちらを見て、片目を閉じる。
 以前と一語一句違えなかったのは、どうやらわざとだったらしい。私のときはこの後に、「どうしてそんな夢を持つようになったの?」「だって、夢があるじゃない。神様になるなんて」と答えになってるのかどうなのかよくわからないことを聞いたりもしたけれど。いま思うと、なるほど、神綺という名前が彼女の自己を現す最初の定義だというなら、以前よりかは納得できるかもしれない。
 式神さんは、人形を一体捕まえて、抱き上げる。彼女の持っていた花束に顔をうずめられ、人形がじたばたともがく。そこに何を見ているんだろうか、式神さんは、人形の小さな瞳を覗き込んでいた。

「この人形が、魂を持つのですね」
「ええ、もう理論はできてる。魔力も足りてる。あとは私の慣れと技術。短期間でどうにかなるものじゃないから、それなりに時間はかかってしまうでしょうけど」

 やがて式神さんは、人形を地面に放してやる。小さな足で主の元へとたどり着く様を見届ける彼女は、すごく穏やかな笑みを浮かべていた。柔らかな表情を浮かべることがほとんど無かった彼女だから、それは不意打ちだ。あんまりにも綺麗な顔に見惚れてしまいそうで、なんだか恥ずかしくて、私は必死で目を逸らしていた。

「……帰ろうか」

 放っておいたら、いつまでもここにいてしまいそうだ。私が式神さんの肩に手をかけると、彼女は今までどおりに付いてきてくれたけど、ほんの少しだけ、抵抗があったように思えた。

「あ、そうだ。幽々子、例の件はまた今度?」

 歩き始めた私たちに、神綺が声をかけてくる。例の件。私と神綺で創る、人形芝居。ただ、少なくとも私の方の準備は進んでいない。人形芝居の題材として、何か適当なお話を創り、書くこと。軽い気持ちで引き受けたけど、あれは存外難しいものだ。試しに一つ創ってみたのはいいけど、いろいろな意味で恥ずかしくて見せられていない。

「もう少しだから、ちょっとだけ待ってて」

 とりあえずの誤魔化しは、少し胃が痛くなる。私をじっと見る式神さんの目がすべて見抜いているに思えて、なおさらだ。神綺は「わかったわー」と簡単に誤魔化されてくれるんだけど。
 神綺の姿が見えなくなって、しばらく歩いていると、案の定、式神さんが口を開く。

「事情はわかりませんが、もう少しというのは、嘘をついている顔だったように思います」

 思わず唸ってしまう。私を見る式神さんの目には、非難の香りがする。彼女もまた、神綺のことを気に入ったのだろうか。限りなく薄いことに変わりはないけれど、それでもだんだん感情表現が活発になってきているように思えるのは、素直に喜ばしいことなんだけど。

 しかし、一つ正さなくてはいけないことがある。さっきの言葉は、まったくの嘘ではない。
 私が何も書けなかったのは、そもそも何を書けばいいのかわからなかったからだ。でも、今はそうでもない。やはり物語には、いくらかの『不思議』な要素が必要なんだろうと、目の前の『不思議』な式神さんを見て思う。例えば彼女を登場させたお話なら、いくらでも浮かんでくる気がする。彼女が来てくれたことで、もう少しで書けるようになったと思えているのだから、あれは嘘ではないのだ。説明すると、式神さんも少し考えて納得してくれたようだった。幽香なんかと違って素直でいい子だ。


 帰り着いてからは、式神さんと話しながら、楽しいお話を想像してみよう。
 じっと見つめてくる彼女を少し笑って、私は、そんなふうに思っていた。すべてがうまく回り始めたように、思っていた。
 だから、すべてはもうとっくの昔に回り始めていて、既に回りきって崩れ落ちる寸前にあって、それが壊れずにいられた最後の時だったなんて、まったく気づかないでいたのだ。





 ◆ ◆ ◆





 また、悪い夢だった。同じように、悪い夢だった。
 私は、どこかを歩いていた。妖忌と、幽香と、神綺と、そして式神さんが、一緒に歩いてくれていた。何かを、話していた。みんなで、話していた。それはなんだかひどく楽しくて、だけど気がつくと、いつのまにか私だけ歩くのが遅れている。少しずつみんなから遅れていて、私は急ごうとするのだけど、足をもつれさせて、転んでしまう。そしてみんなは、私のことなど忘れてしまったように、そのまま歩いていってしまうのだ。

 知っている。わかっている。みんなはどこかしら妖怪めいていて、私は純粋な人間だ。歩む道の長さが元々違うことは、わかっている。私が最初にいなくなることは、ちゃんとわかっている。
 ──どうして。どうして私は、人間に生まれてしまったんだろう。



「起きなさい」

 私が目を覚ましたのはその声のためか、それとも障子が開け放たれて外の光が部屋の中を満たしていたためか。今が昼なのだと認識する前にその声の主に驚いていたということは、前者なのかもしれない。だって彼女は、ここにいるはずのない相手だったから。
 私の枕元に佇むその姿は、間違いなく、花の妖怪。なんとなしに違和感を覚えるのは、この屋敷の中で彼女の姿を見るのが初めてだったからか。

「幽香? どうしてここに」

 私の問いに、幽香は部屋の隅を一瞥することで返す。痛む頭を無理矢理にそちらへ向けると、そこには、昨日幽香に貰った花が活けてある。つまり、花に聞いたということなのだろう。考えてみれば幽香ならそのくらい人に道を訊くのよりも簡単だろうし、だとしたら以前から私の家の場所を知っていたのかもしれない。
 そうやって幽香の答えを理解しても私が花から目を逸らすことが無かったのは、昨日までは美しく咲いていたはずの花が、何か力を失ったように弱っていたからだ。水をやるのを忘れただろうか。記憶をたどるとそんなことはないと思えるけれど、花が弱ってしまっているのは事実。幽香には、謝らなくてはならないかもしれない。

「やっぱり、ね」

 ああ、まずい。これは相当に苛立っている声だ。ごめんなさいのごの字を口に出そうと息を吸い込む。けれど喉に何かが引っかかってしまったみたいで、ごほごほとむせてしまった。情けない。これでは病人だからと同情を求めているみたいじゃないか。
 そうこうしているうちに、幽香が私を見やる。まだ呼吸が落ち着かなくて、私は何も言えない。そして幽香は、本当に、まったくもってつまらなさそうに。

「あなた、近いうちに死ぬわね」

 そんなことを、言ったのだった。



 身体の調子が悪いなと、最初は思った。

 自分の身体のことは、やっぱりよくわかった。朝方、布団の中で目を開いた私は、感じる悪寒と気だるさに、風邪でもひいてしまったかと腐っていた。たしかに昨日は眠たそうな式神さんを引き止め、夜遅くまで紙と筆に向かい合ったけど。せっかくやる気を出した結果がこれというのも、何か他にないものか。悪い夢を見たことも、私の気分を沈ませていた。
 一昨日からの同居人は、必ずしも食事を必要としない。昨日の昼食と夕食は一緒に食べたからそれを断ち切るのも残念だけど、今日は、しばらく寝ててもらおう。私も今日はもう少し寝ていたい。寝ていれば治るだろうから。
 そう思って、私は、目を閉じたのだ。見たものは、また変わらない悪夢だったけれど。



「……私が、死ぬ? どうして?」

 人間の寿命が妖怪に比べて短いとはいえ、私はまだまだ若いつもりだ。それとも、急に重くなったこの身体が、実は深刻な病に侵されているとでも言うのだろうか。
 幽香は答えず、手の中に一輪の花を生み出す。布団から起き上がれずにいる私にはよく見えなかったけれど、どうやら蓮華草のようだ。それを持ったまま私の枕元にしゃがみこむと、花を私の顔に近づけ、頬にその茎をぴたりとくっつける。「……何する気?」私は訊くけれど、幽香は何も言わない。言う必要が無かったのだと気づいたのは、すぐだった。
 天に向かって強く咲いていた蓮華草が、見る間に折れていく。やがて床と向かい合うくらいになると、今度は花びらが落ちていく。枯れ細っていく。蓮華草が灰になってしまうまで、一分もかからなかった。「……うん、やっぱりこれくらい近づけると結界も効果無いか」幽香が、口を開く。

「それじゃあ種明かしね。死霊にまとわりつかれているあなたは、普通にしているだけで、死の領域へと存在が傾いていく」
「何それ、初めて聞いたわ」
「誰も言わないでしょうしね。まあそれだけなら、たいしたことはなかったから。寿命が普通より数年ばかり縮んだくらいかしらね」
「……じゃあ、何が原因?」
「あなたの周りの人間」

 それまで普段と同じように、滞ることなく言葉を繋げていた幽香は、けれどその言葉を口にする時だけは、ほとんど忌々しげにしていた。
 でも、私の周りに人間なんて。寂しさが少し胸をかすめる。よくわからないけれど、何かの原因になるような周りの人間なんて、そもそも私にはいやしない。でも、「……人里の噂話とかはたぶんあなたよりも知ってるわ。暇潰しに花に訊いたりするから」幽香が続けた言葉には、何か得体の知れない不安を感じた。

「死霊を操るあなたは、人間にとって、死の象徴になってる。死霊以上に、恐れられる存在になってる。自分が殺した人間の霊を死後も解放しないでいるとか、近づいた者の魂を抜くだとか。根も葉もない噂だろうけど、多くの人は信じて、恐怖や憎しみをあなたに向けている。それはもはや、一種の呪いだわ」

 ──ああ、なるほど、周りの人間か。
 あんまりにもあんまりで、笑いすらこみ上げてくる。涙が出てくるのは、きっとあんまり笑えすぎるからだ。

 普通の人間との関係を、私はほとんど諦めていた。遠い昔のように気軽に話すことも、同年代の友達と遊ぶことも、もはや無いのだと。
 聖人君子なら、また人と接するために努力を続けたりするのだろう。たしかに、私はそうはしなかった。しかし、だからといって、諦めるということはこんなにも悪い結果をもたらすのか。私は、そんなにも罪深いことをしたのだろうか。

「あなたは、人の手によって、結果的に死の具現として祭り上げられようとしている。でも、人間のあなたではそれを受け止めきれない。人によって死を着せられようとしているあなたは、そのまま死に飲み込まれそうになっているわ」

 死を着る、か。奇妙な言い方だけど、納得もある。さっきの蓮華草は、私が着ている死に触れ続け、枯れ落ちたのだろう。そうして私も、いま私を包んでいるのだろう死にゆっくりと呑まれ、取り殺されてゆくのか。
 自棄な思考は、回り始めると止まらない。短い人生だったなだとか、お別れをする人は少ないなだとか、式神さんとは出会ってまだ二日なのに、とか。そうしていつも、最後にたどり着くところは決まっている。──どうして私は、人間に生まれてしまったんだろう。
「だから、幽々子」それを断ち切ったのは、幽香の強い一言だった。

「あなた、妖怪になるといいわ」
「……え?」

 何を言ってるのか。それができるなら。
 いくつかを思うけれど、驚きが大きくて言葉にならない。けれど幽香は、あくまで平静だった。

「人間だから、人間たちの呪いのような思いに耐えられない。だったら、妖怪になればいい」
「……方法が、あるの?」
「簡単よ。人間をたくさん殺せばいい」

 幽香はそれを、本当に当たり前のように言うものだから。「人間を、殺す?」その意味を理解しようとする私は、幽香の言葉をつい復唱してしまっていた。幽香は、何かを待っているかのように、じっと私のことを見ている。彼女の楽しそうな顔は、久しぶりに見たかもしれない。

「実際のあなたは、ただ死霊を従えるだけ。今でこそ死にもまとわりつかれているけど、それは後からついてきたもの。人間たちが思うような死の象徴には程遠いわね。だから、取り付く死を背負いきれずに、自らが死んでしまいそうになっている。
 それなら、実際にそうなればいいのよ。死を具現する存在になれば良い。死の領域に限りなく近い今のあなたなら、人を直接、死へと誘うことができる。大量の死霊を操って取り殺すこともできるでしょうね。死に近づいた影響で、あなた自身は弱っているけれど、あなたの力は増しているもの。とにかく人間をある程度殺してやれば、あなたを取り殺そうとしている『死』すらもあなたに従うでしょうよ。
 ねえ幽々子、あなたはもう、ほとんどこっち側にいる。あとは意志一つで、簡単に飛び越えられるのよ」

 どうしてそんな、楽しそうにしているんだろう。そんな益体のないことが意識を占めてほどに、私は混乱していたのか。
 幽香の説明はほとんど頭に入ってこなくて、ただ「人間を殺す」の一言が私の頭の中に漂っていた。
 そうすれば、妖怪になれる。死なずにすむ。普通の人との関わり合いなんて元々無いから、たぶん生活は、今までのものとほとんど変わりないだろう。そして、皆に付いていける未来が手に入る。その代償は、たったひとりの命。まったく関係ない人でも問題ないのだから、こんなにうまい話はない。
 なのに、なぜこんなにも薄ら寒くなるんだろうか。

「それは、困ります」

 凛とした声が響くまで、私は部屋の入り口のあたりに式神さんの姿があることに気づけなかった。扉は開けられていない。何か別の手段を使ってこの部屋に来たのだろうか。
 横になったままでちらと見えた式神さんは、その颯爽とした登場とは裏腹に、寝癖で髪をすごいことにしている。昨日、出かけようとした私の背後に立っていた時はそんなことはなかったから、あの時はちゃんと髪を直してから私の前に現れていたのだろうか。それとも、今はそれを意識することすら無いほどに慌てていたということなのだろうか。

 式神さんの色が、また、見えていた。初めて会った時のままの、鮮やかな黒だ。意識を吸い込まれてしまいそうな魅力も、変わりない。
 ただ、何か。じっと見ていると、黒以外の何かが、ほんの微かに目に入ったような。その正体に気をとられて、私は式神さんの黒色を凝視する。すると、私に色を見られていることに気づいたのだろうか。式神さんが私をちらと見ると、彼女の色はすぐにまた消えてしまった。

 幽香は、私から式神さんへと目を転じる。「いいところに来ちゃうのね」言う幽香は、どうしてだろう、この場に式神さんが現れることを、わかっていたんじゃないかという感じがする。「……ねえ、どういうこと?」式神さんの色のことを心の隅に置いて、二人に絞り出した私の声は、それでもかすれたものになってしまう。式神さんは幽香でなく、私の方を見て、苦々しげに言った。

「そうやって妖怪になるというなら、私は幽々子を殺さなくてはなりません」

 式神さんが何を言ったのか理解するまでに、少し、意識の空白があった。
 たしかに素性の知れない相手ではあったけど、私への害意は欠片も無いと思っていたのだ。それがいきなり「殺す」というのだから、私の動揺も当然のものだと思う。彼女のことだから、きっと嘘や冗談ではないのだろう。「……どうして?」私はさらに問う。なんだか、訊いてばっかりだ。

「そのように、定められています」
「定められてる? 誰に?」
「それは……」

 式神さんは、言いにくそうにする。定められているという言葉は、彼女が自称する式神というものに関わりあっているように思えるのだけど。でもこの反応は、以前、彼女に主を訊いた時と同じだ。その躊躇いは、彼女が嘘をつかないからこそと、私は思っている。

「……具体的には、存在しません」
「存在しないって、主が? 式神なのに?」
「はい。……それでも、敢えて言うならば」

 言いにくそうだったからと、以前はそれ以上先に進むことは無かった問答が、だけど今度は進んでいく。それは、私たちの距離が少しであれ縮まったということなのだろうか。こんな時だけど、私はそれを、少し嬉しく思っていた。
 式神さんは、何か覚悟を決めたかのようだった。瞳に宿る力は、それが無ければこの先を言うことはできないということなのかもしれない。「……私の」たっぷり数秒置いて、式神さんは口を開いた。

「私の主は、この幻想郷そのものです。私は、この小さな地によって創られ、遣わされた、式神のような存在なのです」



 それを言ったことでもう後戻りはできなくなったというように、式神さんは、自らに刻まれた『式』を淡々と語り始めた。

 死霊を区別し、死霊を操ることのできる少女が、近い将来、積もり積もった人々の想念によって死をまとわされるという予測。
 そうなった場合、少女に残された道は、ただ死にゆくか、人々を殺して死を我が物とするかの二つであるという事実。
 後者に際して、優先すべきは一人の少女よりも、この地に住む決して多くはない人間の命であるという判断。
 少女がそれを選んだ時は、排除すべしという決定。また、少女のまとう死が他の者に触れてしまうことの無いよう、監視することの必要性。

 それらが式神さんの意識の根底にあり、彼女の行動を決定する際には絶対の指針となっているらしい。その一つ。私が人を大量に殺そうとしたならば、私よりも他の人の命を優先して、私を排除──すなわち、殺すというものだ。それを実行するのは、当然、彼女なのだろう。この件の『担当』は自分なのだと、彼女は言っていた。まるで他にも同様の存在がいるかのような言い方だったけど、さしあたり興味は無い。
 彼女が私の元を訪れた時には、既に私は死に侵されていたのだという。その時以来、彼女はできるだけ私の近くにいて、私に気づかれないように、私の死が他者へ流れてしまわないための結界を張っていたとか。まったく気づかなかった。
 どうやらまとめると、彼女の役目は一つ。私のせいで誰かの命が失われるという事態を、防ぐことだ。

 すべてを聞いて、私の思考は少し冷えていた。私はもうすぐ死ぬ。人を殺せば助かる。そんな異常の言葉にあてられて、ちょっとおかしくなっていたのかもしれない。
 式神さんの正体に関する好奇心が満たされたことも、関係あるのだと思う。彼女がさらに続けたところによると、この幻想郷という地の意思、のようなものに従って彼女は動いているけれど、普段はせいぜいこの地に害をなす妖怪の退治くらいなもので、生まれてからそれなりの時が経つけれど、人間と関わりあうのは今回が初めてだったらしい。知識はあるけど経験は無い。受けた印象は、そのままその通りだったようだ。親という存在が無く、『式』に従うことで動く彼女には自己の定義も必要ないのだろうから、名前を持たなかったのも道理といえば道理なのかもしれない。
 それで、式神さんの話は終わった。

「……ねえ式神さん、一つ訊きたいんだけど」
「……なんですか?」
「あなたなら、境界を操って、私を妖怪にすることはできない?」

 それは、以前も思った、私の式神さんへの、最後の疑問だ。今の状況に何か抜け道があるとしたら、おそらくもうそこ以外に無い。
 けれど、式神さんの反応は芳しくなかった。「……そういうことをしろとは、命じられてないので」逃げるように呟く式神さんに感じたのが、怒りなのか悲しみなのかは、わからなかった。

「しかし、幻想郷ね。わりと何でも受け入れる世界だと思ってたけど……まあ、命の燃やし合いだから仕方ないか。それで、どうするの? 私はもうすぐ消えるから、妖怪になって生き延びるかそのまま死んでいくか、早く決めて欲しいんだけど」
「……少なくとも、すぐに誰かを殺そうとは思えないわ。……なんだかんだで、私も人間なのね。まあ、このまま何もしないで死ぬのも嫌だけど。……ところで、消えるって何のこと?」
「私は今、ほんとはそこにいないのよ。その花を媒介にして意識と薄い外殻だけを顕現させてる状態。隠密行動といったところかしら。こうでもしなくちゃ、私の本体がそこに行ったら、いくらなんでもその式神さんを出し抜くことはできないもの」

 言いながら幽香は、部屋の隅の花を指す。こころなしか先程よりも弱っているのは、幽香の言う顕現とやらに使われているためか。式神さんの言葉とさっきの幽香の反応を考えると、私からある程度の距離を置いたあの花にまでは私の死は届かないのだろうから、つまり、あの花がしおれたのは私のせいじゃないんじゃないか。謝ろうと思って損した。
 隠密行動の意味も、なんとなく理解する。言われてみれば、ここにいる幽香は、普段と比べて存在感が薄いような気がする。外見的な違和としても、そう、日傘を持っていない。……あれがあったら、それはそれで式神さんの気を惹き付けられたと思うけど。

「気が変わったらいつでも言ってね。その式神さんが邪魔だったら、私が抑えてあげるから」
「あ、わかった。なんでいろいろ教えてくれるのかと思ってたけど、あなた、この子と戦いたいだけでしょ?」
「いやねえ、そんなわけないじゃない、ともだちでしょ?」

 見事なまでの棒読みで、いっそ清々しい。それだけ言って消えるあたりも、私の苛立ちをより煽ってくれる。
 まあたしかに、式神さんには基本的に幽香と戦う理由が無いから、こういう特殊な状況でもない限りは拒否されるか逃げられるかで終わりだろう。幽香と違って、好戦的なようには見えないし。式神さんが幽香のお眼鏡にかなうことには、特に疑問の余地は無い。力の底を見たわけではないけど、少なくともその辺の妖怪じゃあ相手にならない程度なのは、いくら私でも感じ取れる。

 式神さんはというと、さっきから、ずっと黙っている。元々そこまで口数が多いわけではないけれど、でもそれは、私への申し訳なさから来ているようにも思えて、少し嬉しくなる。
 わかっているのだ。私はこの地に、この小さな世界に、死ねと言われたようなもの。それに強く反発せずにいられるのは、彼女に、私を殺す責を負わせたくないからなのだ。たとえ死が間近に迫っていても、彼女とは友達になりたい──あるいは、友達でいたいのだ。私の命は、彼女の使命と競合する。この幻想郷の、彼女の主である意思とやらが、もしもそこまで計算しているというならば、感服せざるを得ない。

「……ねえ、紙と筆を持ってきてくれる?」

 幽香のせいで、目は完全に覚めてしまった。何か食べるものを作ろうかと思ったけれど、あいにく身体は動かない。他に何かできるかと思って、一番最初に浮かんだのがそれだったから。一度浮かぶと──それが何かを遺すということに繋がるからかもしれない──それをしたいと強く思えたから、私は式神さんに手伝ってもらって、昨夜の続きを、神綺の人形芝居の脚本作りをすることにした。

「あ、先に寝癖を直してからでいいわ。せっかく綺麗な髪なんだから」

 私の言葉にびくりと反応して部屋を出ようとする彼女に、一言付け加えて笑いかけるのも。
 彼女の素性を知って、その目的を、私を確実に死なせるためにいるのだということも知って。それでもなお、そうしたいと思えたからだった。





 妖忌が訪ねてきたのは、その日の夕方になってからだった。
 あの子の料理の腕はわりと絶望的で、私が動けない今、まともな食べ物が得られずほとんど飢えかけていたので、正直なところ助かった。彼女は料理に関して一応の知識は持っていたようだが、やはり知識だけではどうにもならないこともあるのだ。

 私は、もうすぐ死ぬらしい。それだけを妖忌には話した。
 人を殺すことで生き残れる可能性があるというのを話さなかったのには、妖忌がいちおう半分は人間であるということは、おそらく関係なかった。ただ私には、それを聞いた時に苦悩するであろう妖忌の姿が幻視されて、それを思うと、とてもじゃないけど話す気にはなれなかったのだ。ただでさえ、私が死ぬであろうことを話した時の妖忌の愕然とした顔は、私の胸を締め付けた。妖忌は、頑固で真面目だから。幽香のように適当で、死にたいなら死ねばとあっさり言ってくれるような相手の価値に、私はこの時はじめて気づいたんだと思う。

 しばらく妖忌には、屋敷に滞在してもらうことにした。これが最後になるかもしれなかったし、何より、彼がいないと食事にありつけないのだ。『死』よりも先に空腹に殺されかねない。それはいくらなんでもかっこわるかったし、私が頼む前から、妖忌もその心積もりだったようだ。彼にしたら、私が死ぬ以外の未来の可能性を知らないのだから、当然といえば当然なのかもしれないけど。

 妖忌との話を終えた頃には私はすっかり疲れ果ててしまっていて、そのまま眠りについた。そして起きた。眠ったことの実感はほとんど無くて、なぜなら身体の気だるさはより増していて、起き上がるのも難しいのに変わりは無かったからだ。悪夢こそ見なかったけれど、本当に眠ったのかどうか逆に疑わしかった。
 起きると妖忌を呼んで何か食べ物を作らせて、あの子を呼んで私が考えたお話を紙に綴ってもらって、妖忌を呼んで何か食べ物を作らせて、あの子を呼んで私が考えたお話を紙に綴ってもらって、妖忌を呼んで何か食べ物を作らせて。
 そんな日を、三回ほど繰り返した。
 その間に、いくつかのお話が形になっていて。妖怪になるか、死を選ぶか──私も、決断を下すことができていた。



 私が床に臥せってから、五日目。さすがにそろそろ限界が近いみたいだったから、私は朝食の後、妖忌に、やたら小奇麗な人形をいくつも連れているくせに自分はぼろきれを着ている変人を探してくるように頼んでおいた。
 運が悪ければ、探し当てるのに数刻はかかるかもしれない。少し懸念はあったけれど、それに反して意外なほど早く、神綺は見つかった。戻ってきた妖忌は珍しく肩で息をしていて、神綺も何がなんだかわからないままに連れてこられたようだったから、もしかしたら、死にゆく者の最後の頼みとでも思われたのかもしれない。少し笑いながら妖忌を追い出して、あの子にも、少し席を外してもらった。「大丈夫、変なことは考えないわ」幽香とのことを思い出していたのだろう、少し躊躇っていたけれど、最後にはその一言に従ってくれた。

「どうしたの? 死にそうな顔してるけど」
「いや、まあ、死ぬらしいんだけどね」

 数日振りの神綺とは、そんなとぼけた挨拶から始まった。神綺にはどうやら、私の身体に取り付いているらしい『死』は見えていないようだ。
 神綺は、どちらかというと人間とは違う存在じゃないかと私は思っていた。だから、人間混じりの妖忌とは違って、私が死ぬということに対してそれほどに過剰な反応は示さないんじゃないかとも。比較的、人間は死というものに敏感なんじゃないかという推測がその根本にあるんだけど。

「たぶん、あと数日内じゃないかなあ」
「え、本当に言ってるの?」
「本当よ、もちろん」
「……そう、なんだ」

 結論を言うと、その通りだった。残念がって、悲しんでくれてもいるけれど、仕方ないことだと受け入れているような認識が見え隠れする。彼女が人間以外で正しいならば、私と付き合いを持った時点で、私との死別はほとんど確定事項だ。覚悟みたいなものを、既に持っていたのかもしれない。

「今日は、さ。約束してたものを渡そうと思って」
「うう、なんだか形見みたいね」
「実際、ほとんど形見だけどね。そこの戸棚に入ってるわ」

 違う引き出しをいくつか間違えて開けながらも、神綺はなんとか目的のものにたどり着く。一枚一枚をめくり、目を通している。
 それは、ある神様のお話だ。誰よりも偉い神様のくせに、創り上げた子供たちに愛情を注ぐばかりで自らのことを省みない、神様らしくない優しい神様と子供たちの、平和な世界の、いくつかの穏やかな日常を綴ったものだ。
 そういうことに慣れの無い私とあの子が創ったものだから、拙いものであるのは否定できないかもしれない。けれど、神綺は。「……素敵な、お話ね」何一つを否定することなく、読み終えたそれを閉じると、静かに胸に抱いた。「ありがとう」神綺は言って、涙をひとすじ零す。それほどに感動してくれるとは思っていなかったけれど、込められた想いの大きさを考えると、もしかしたら、それでちょうどよいくらいなのかもしれない。

「ほとんど、あの子のおかげなのよ」
「あの子って、あの式神さん?」
「そう。神様や子供達の人物造形は私だけど……子供たちが神様のことをどんなふうに思っているかとか、子供たちがどんなに幸せかとか、大事なところを考えてくれたのは、ほとんどあの子なんだから」
「ちょっと意外ね。言い方は悪いけど、そんなに感情が発達してない子なのかと思ってた」

 そう思っていたのは私も同じだから、責めることはできない。でも、短い付き合いの中で、そうでもないのだと知ることができたのは、本当によかったと思う。表すことに慣れていなかっただけで、彼女はちゃんといろいろなことを思い、感じているのだと、今は確信できる。
 用は済んだと、告げる。「あなたに見せられないのが残念だけど」神綺はそれだけ言って、部屋を出た。これがおそらく最後だろうとわかっていたから、「今までありがとう」と一言乗せた。幽香ほどにさばさばしてはいないけれど、妖忌ほどに悲しみを前面に押し出したりはしない。神綺らしかったし、これはこれで心地よかった。

 一人になった部屋で、ほうと息をつく。
 これで、心残りは無い。やるべきことは、一つを残してすべて終えた。

 思い出すのは、昨日の朝のこと。あの子は何らかの方法で私が彼女の色を見ないようにしているみたいだけど、どうやらうっかりしたところがあるらしい。死に近づいて力が増したのだろう、私はまたあの黒を見ることができるようになった。あからさまな反応は見せないようにしたから、いまだにばれていない。
 そうしてちらちらと見ているうちに、ふと感じた違和感。一つ気づいて、もしかしたらと思ったことがあったけれど、それを試して確かめるには、今の私ではどうやら足りないようだった。

 恐怖が無いと言えば、嘘になる。
 だけど私は、あの子の心からの笑顔を見てみたくなってしまった。あの子の不安を取り除いてやりたくなってしまった。

 そうだ、私は友達のことを。彼女のことを、肯定してやりたいのだ。
 そして、彼女の中の真実を、見てみたい。

 ──だから。私が死ぬのは、もう今日でいい。





 ◆ ◆ ◆





 西行妖、という桜がある。
 幻想郷の自然を愛した父は、死期を悟ると、この桜の下で眠りに付いたのだという。満開の桜の下で眠るというのが、なんだか羨ましく思えて、私も死ぬ時はこの桜の下で死にたいと思ったものだ。
 まさか、それがこんなに早くやってくるとは思わなかったけど。

 黄金色の髪が、頬を撫でる。私は、あの子の肩を借りて、桜の元へと歩いている。最初は妖忌がその役を受け持とうとしたけれど、今の私が彼に触れるのはおそらくまずい。丁重にお断りして、この子と二人で桜を見たいから、半刻ほどしてから来てくれと言い含めておいた。たくさんの人をその下で眠らせた妖怪桜だから、いくらか不安に思っていたみたいだったけど、もうしばらくは生きてると思うから大丈夫と何度も念押しして、屋敷に残ってもらった。申し訳ないとは思う。最後の最後で嘘をついてしまった。

 ゆっくり歩いて桜の下にたどり着くまでに、既に四半刻は経っていたかもしれない。あの子は自分が力を使えばすぐに移動できると言ってくれたけど、これもお断りしておいた。まったく彼女も、いくらかまだ足りないところがある。そんなの、風情が無いじゃないか。

 桜の根元に腰を下ろす。手招きすると、彼女も、同じようにする。
 全身から、力が奪われていくように感じる。西行妖は、人の魂を惹きつける、死の魅力を持つ桜。元々死の際にいる私は、桜にとって、優秀な栄養候補なのだろう。それは正しい。私はいまこの時、少しでも死に近づくことと引き換えに、この命を引き渡してしまうつもりなのだから。
 隣に座る彼女を見つめる。その黒色は、だけど黒色ではない。絡み合い混じり合ったそれらを、私は解くことができていた。
 西行妖の根元。いくつもの命を飲み込んだ、ある意味私と同じ、死の具現。考えたとおりに、この場所でしか見られないものは、たしかにあった。

「実は、昨日からまたあなたの気質が見えてるのよね」

 私が言うと、彼女は驚いたように目を見開く。可愛いなと思いながら、「隠さなくてもいいわよ」と続ける。

「それでね、どうやら私、嘘をついちゃってたみたいだから。最初は黒にしか見えなかったんだけど、死に近づいたからかな、もっともっと深いところまで見えるようになってきて」

 鮮やかな、吸い込まれるような黒色。昨日、その中に赤色を見たように思えた時は、気のせいだろうと片付けてしまったのだけど。少し時間を置いて緑を見て、また時間を置いて青を見て。私は何かを勘違いしてるんじゃないかと、やっと気づき始めた。

「黒の中に、他の色も見えるようになってきたのよ。赤とか、青とか」

 それを、誰に聞いたのかは憶えていない。もしかしたら、いつだったか自分で気づいたのかもしれない。
 思考が曖昧になってきて、だから私は最後まで手放さないように、必死に言葉を紡いでいた。

「あなたの気質の色は、黒じゃあない。ねえ、知ってる? たくさんの色を混ぜると、どんどん黒に近づいて見えてくるのよ。いつだったか、あなたは自分の気質が黒だってことに落ち込んでたみたいだけど。違うわ。あなたはもっともっと、たくさんのものを持ってる」

 吸い込まれるような黒は、まるですべてを受け入れるように。
 生と死の境界で、私はそれを見ていた。その黒色を構成するのは、嘘のように編みこまれた色の嵐。そのすべてに名前を付けるなんてことは、絶対にできやしない。夢のような、幻のような大きな世界を、私は、彼女の中に見ていた。
 赤色が織り成す炎があった。緑色が創り上げる木々があった。青色が広がる空があった。黄金のように強い光を発するものもあった。それぞれの色が昏さを帯びていたり、透き通っていたりした。様々な色が重なり合う奥に、いっそう輝く何かが見えた。

 黒色の世界から、意識が戻ってくる。妖怪桜は、私の死を養分にしてか、さっきよりも多くの花を咲かせ、花びらを舞わせていた。
 今の私では、ここが限界のようだった。まったく、情けない。もう少し先を見ることができたらよかったのに。
 手にも足にも力が入らない。なんとか首を傾けて、傍らの彼女の表情を捉えようとする。視界が、だんだん暗くなってゆく。こうやって死ぬなら、それはそれは安らかな死だと思う。ついに樹に身体を預けることもできなくなって、ずるずると地面に倒れこむ。
 倒れこみながら見えたのは、少しだけ。一瞬だった。じいと眺めたわけではなかった。彼女はたしかに。困ったような、寂しそうな笑顔を浮かべていた。

 ──やっぱり、ね。

 まだだ。まだ、ここでは終われない。これだけでは、きっと彼女に残るものは何も無いのだから。

「……なんて、言うとでも思った?」

 地面にほとんどうつ伏せで、今の私はたいそう無様だろう。でも、これでいい。言葉を伝えられるなら、それで。

「たしかに、あなたの黒色の中にはたくさんの色があったわ。でも、それはあなたのものじゃない。幽香が言ってたわね。すべてを受け入れるのは、あなたじゃない。あなたの主、幻想郷でしょう?」

 彼女が息を呑む音が聞こえる。死を間際にすると、逆に感覚が研ぎ澄まされるのだろうか。もう、よくわからない。ただ、伝えるだけだ。
 すべてを秘めたあの黒は、たしかにこの世のものとは思えないほどに美しかったけれど、でも、違う。あれは、彼女の色ではない。幻想郷、この地に漂う何かの意思によって彼女が生み出されたというのは、おそらく真実なのだろう。そしてこの小さな世界にも意思があるというなら、その気質というものもきっとありえないものではなくて、それが、あの色なのだ。夢を見ているような、あの世界なのだ。

「私はここで死ぬわ。それは間違いない。だから、手前勝手なお願いだけど、私が死んだら、幽霊でも亡霊でも妖忌みたいな半人半霊でも何でもいいから、私が蘇るための手助けをしてほしい。──もう一度、あなたの中身を見る機会が欲しいの」

 幻想郷の気質は、あまりに大きく、あまりにすべてを否定しない。黒色の中に吸い込まれ組み込まれた世界は、あまりに広い。
 私は思うのだ。その中のどこか、もしかしたら深いところに、彼女の色はたしかにあるのだと。私は、ただ諦めて死のうとしてるのではない。それに触れるために、命を懸けたのだ。

「……それは」
「問題は、無いでしょう? 私は誰を殺すこともなく死ぬ。蘇った私に能力が受け継がれていても、既に人間じゃ無いから大丈夫だろうし。むしろ多少は受け継がれて無いと気質が見えなくて困るわ」
「でも、私は、そういうことをしろとは……」
「命じられてないって、今さらね。自分の色に興味を示すのも、幽香の傘を内心欲しがったりするのも、神綺の自立人形が羨ましかったりするのも、全部、あなたがそうしたかったからでしょう?」

 手足の感覚が、もうほとんど無い。ただ口だけが、もしかしたらこの数日で最も、動いている。それでいい。手や足が動いたところで今の私には何の意味もない。言葉にすることが、今ここで、私が生きている唯一最大の意味なのだから。

「あなたは、式神じゃあない。幻想郷、なんてわけのわからないもののために走り回るただの傀儡じゃない。
 あなたは、妖怪よ。間違いなく自分自身を持った、妖怪なのよ。
 だから、一度だけでいい、私を信じて。きっと、あなたをみつけてみせるから」

 言い切って、もう本当に口を開くことができなくて、ああ、これが私の最期の言葉なんだなと、悟った。
 妖怪さんは、驚いた顔をして。
 そして。今度こそ、笑ってくれていた。それは寂しさなんか欠片もなくて、私の命なんかを吸って花を咲かす桜とは比べ物にならないくらい綺麗だと感じて、だけど少し泣きそうになっているようにも見えて、今だったら、泣いてくれても悪くないなあなんて思った。

 ──私の命なんか、か。悪い癖だ。人間に生まれたくせに人に溶け込めない、強がってるけれどほんとは寂しくてたまらない自分を、ついつい卑下する悪い癖。
 でも、もう最後になってしまうけれど、そんなものとはおさらばだ。ねえ、妖怪さん。それもあなたのおかげなんだよ。人の気質を色に見るこの目は人間にしかありえないと、あなたが教えてくれたから。こうしてあなたと出会って、あなたの気質を見て、あなたの主の黒色の世界の中から、あなたを見つけ出すことが。
 それが私の人間としての生の意味だったんだって、信じられたから。今までの寂しいことも哀しいことも、全部、意味があったんだって思えたから──。

 ああ、だめだ。満足感が後押ししたのかな。もう、今度こそ、私は死ぬ。
 暗くなっていく。何も見えなくなっていく。
 妖怪さん、少しのあいだ、さようなら。また逢えたら、嬉しいな。










  ◆  ◆  ◆






















 ──私の名前の由来?

 ……いやいや、そんな薀蓄は必要ないのよ。
 それがどんな意味を持つかは問題じゃないの。そこにどんな意味を見出すが重要なのよ。

 他者が決めた意味に自身の存在を委ねるなんて、まったくもって我々らしくない。
 自身が信じた意味に委ねてこそ、我々──妖怪、というものでしょう?


 私の名前の由来なんてのは、たぶんあなたには理解できないんでしょうね。
 でも、私には、それが何よりも強く私という存在を表してくれているように思えるわ。


 え、肝心の由来? そうね。

 ある女の子と出会った時に、女の子が私を見て、「わあ、綺麗な紫色!」って言ってくれたこと、かな。






index      top



inserted by FC2 system