んーっ、と。
 勉強に一区切り付いたのか、背筋を伸ばしてあくびをする霊夢に、たまには外で食べましょうかと声をかけてみた。
 ん、と霊夢は眠たげに頷いて、眼を揉み解す。愛用の白いコートを持っていってやると、子供みたいに手を水平に上げて、着せてくれと意思表示。脳裏をよぎる懐かしい何かを振り払って、ふかふかしたコートに腕を通してやる。これまたお気に入りの赤いマフラーを首にかけてやって、巻くのは自分でやりなさいと言って自分のコートを取りにいくと、霊夢は、ん、と返事して、その場にごろりと転がった。
 仕方ないわね、と両脇に手を入れて引きずり起こす。

「紫、眠い」
「はいはい、ご飯食べて帰ってきたら、いくらでも眠っていいですからね」

 柔らかなコートの感触。その下にはセーターの毛糸があるはず。もう寒いからと、着込むように言ったのは自分だ。ふと感じる寂しさを、だから紫は心に押し込める。

「……別に外じゃなくて、うちで食べればいいじゃない」
「……今日はちょっと準備忘れてて……」

 半眼で見上げてくる霊夢から眼を逸らし、「ほら行きましょう、でないとご飯抜きよ」と腕を引く。んー、と不満げに呻く霊夢を玄関の外に押し出し、ガスの元栓や消灯、戸締りをチェック。すべて確認し終えると、霊夢の手を取って、紫は歩き始めた。紫と繋いだ反対の手を、霊夢はポケットに入れていた。手袋を持っているのか訊くのを忘れたけれど、何も言ってこないから、これでいいかと思う。
 陽が沈みかけて、空は赤から黒へと変わりつつある。昼と夜の境。紫には、もうそれを操ることは出来ない。紫に操ることが出来たのは、幻想郷という小さな世界の、小さな夜。もっと広く大きな世界の夜は、操るにはさすがに力が足りなかった。
 随分と寒くなったけれど、まだ雪は降っていない。だから二人の足音は、硬い靴が硬い路面を叩くもの。閑静な住宅街を抜けて、人通りが増し始める。けれど他人の声は聞こえず、二人には二人の足音だけが響く。そんな中、霊夢が口を開いた。

「で、どこ行くの?」
「決めてないのよねえ」
「帰って寝ていい?」
「だめよ、ちゃんと食べなくちゃ」
「コンビニでいいじゃないの」
「たまには外で食べましょうよ……ん、霊夢どう、あれなんて」
「……おでんの屋台? あ、もしかして」
「ふふ、ここではお酒は我慢よ。あと二年くらい」
「お酒も飲まないのにああいう屋台に入るってどうなの?」
「まあいいじゃない。こういうところって意外と高いんだから、チャンスがあるうちに行っといた方がいいわよ?」

 だったら別のところにすればいいんじゃ、ともごもご呟く霊夢の手を引く。しかしよく見てみると、空いている椅子は一つしかない。湯気の向こうに見える年配の親父さんに「二人なんだけど、座れるかしら?」と声をかけると、奥から丸椅子を一つ引っ張り出してくれた。ありがとうと一声かけて、霊夢に席を促す。
 霊夢は既に、メニューに目を通しているようだった。どうやら、酒のところで止まっている。

「あんたもお酒飲まないんでしょうね」
「霊夢に我慢させといて、そんな目の前で飲んだりなんてしないわ。ちゃんと霊夢の見てないところで飲むわよ」
「おじちゃーん、とりあえず熱燗二合……」

 言いかけた霊夢の口を紫が手でふさいで、親父さんと苦笑を交わす。「すみませんねえ、この子ったらお酒を飲まないのは子供だとか思ってるみたいで……」
 言いながら、同時に霊夢の耳元でも呟く。

「残念でした、私は能力を使って少しばかり大人に見えるようにしてるけど、霊夢はそうしてないの。見たまんまの十代少女よ」
「外見弄ってるって、ぜんぜん変わってないように見えるけど」
「霊夢には、変わらず若い姿の私を見ていて欲しいのよ?」
「……あー、はいはい」

 ついに酒を諦めたのか、霊夢は紫の手から逃れると、おでんのメニューを見通し始めた。「値段は気にしなくていいのよね?」「ええ、大丈夫よ」霊夢は一通り見て、はんぺん、卵、ちくわ、竹の子を頼んだ。紫はというと、豆腐、しいたけと油揚げ。
 いただきます、と声を合わせてしまうのは、もう二年以上にもなる共同生活の賜物か。一瞬目を合わせて苦笑すると、霊夢は卵、紫は豆腐を口に含む。

「ふぁ、ふぁふ、ふぁふふぁふ……」
「ふぁらふぃふぁいふぁへ、ふぇいふ……」

 口の中で少し転がして、熱を拡散させながら、飲み込んでいく。身体が温まる感覚。「味がよく染み込んでて美味しいわねぇ」紫は一足先に飲み込んで、未だ悪戦苦闘中の霊夢を見やった。また何か、懐かしいものが脳裏をよぎる。猫舌で、熱いものを食べられない誰かを、見守った記憶だ。
 やっとのことで卵の欠片を飲み込んだ霊夢は、何か言いたげに紫を見やった。紫が目をぱちくりとすると、「あんたさぁ」と据わった眼で因縁を付けるようにすごむ。

「さっきの『この子ったら』って言い方もそうだったけど……あんたが大人に見えて私がそのままだってなら、なんだか私があんたの子供みたいじゃない」
「え、違うの? ……いやいや冗談よ。見た目を弄ってるったって、せいぜい姉妹か何かに見えるくらいよ」
「似てない姉妹もいたものね」
「複雑な家庭の事情があったのかしらねえ」

 はあ、と溜息を吐いて、霊夢はちくわを齧る。はふ、はふ、と相変わらず熱がる霊夢に目を細めながら、紫も油揚げに口をつけた。心の中に押し込めていた何かがまたよみがえろうとして、けれど何とか押さえ込む。これを好物としていた式神も、熱い食べ物が苦手な式神の式神も、もういないのだから。



 二年。
 幻想郷がなくなってから、もう二年が経った。
 幻想郷という場所が外の人間の知るところとなり、幻想が幻想でなくなり、境界は溶けるように消えていき、そして、幻想郷の外と内は、同じものになった。小さな小さな内側は、大きな大きな外側に、飲み込まれた。

「……紫、どうしたの? そんな辛気臭い顔して」
「ん……ちょっと、油揚げがあんまり美味しくて」
「そうなの? じゃあ一口ちょうだい」
「あ、ばか、そんな一気に口に入れたら……おじちゃーん、お水あるかしらー?」

 あの楽園がなくなってもうまくやっていけるなんて、思いはしなかった。事実、紫はなんとかしてまた同じような場所を作り上げようとしていた。
 けれど、どこかで気づいていたのかもしれない。紫はそうも思っている。長年連れ添った式神を、この世界に来てすぐ解放したのは、きっとそういうことなのだろう。
 幻想郷を再び創ることなどできない。そうする意味が無いのだ。

「まったく、油揚げには汁が染み込んでるんだから、一息に噛んだらそうなるに決まってるでしょ? お水ここに置いとくから、後で飲みなさい」
「はふ、はひゅ……」
「霊夢が熱がっているうちに竹の子もらうわね。……うん、美味しい」
「ひょっほゆひゃひ、ほへふぁふぁふぃふぉ……」

 幻想郷。忘れられたものが流れ着き、生きていくための場所。
 忘れられるものが無くなれば。何もかもが憶えていてもらえるなら。
 その場所が存在する必要性は、無い。
 紫はそれに気づいていて、けれど認められなかった。認めたくなかった。

 紫が自分の気持ちに答えを出すことが出来たきっかけは、霊夢だった。
 この世界に来てから、一ヶ月経ったくらいの時期。霊夢がこの世界に慣れ始めていると言って──それは幻想郷のことを忘れ始めているというように聞こえた。
 幻想郷の外に放り出されて一人で途方に暮れていた霊夢を拾ったのは、素直に見捨てたくない、見守っていたいという気持ちもあったのかもしれない。けれどそれ以上に、霊夢は紫にとっての、幻想郷への道しるべだった。既に過去にして、しかし未来に築くべき楽園の象徴だった。
 紫は我を失って、霊夢のことを傷つけた。それは本当に酷い行為で、きっと一生消えない傷だった。霊夢がそれを忘れているはずはないのだけど、けれど霊夢はなんでもないみたいに振舞って、傷つきながらも笑って一緒に理想を追ってあげると言った──。

「私の竹の子……」
「また頼めばいいじゃないの」
「頼むわよ。でもその前に……しいたけ寄越せ!」
「だが隙あり! はんぺんは貰うわ!」

 霊夢と共に理想を追い続ける、そんな道もあったのかもしれない。
 けれどそれは、霊夢がこの世界で生きていく道を、奪うということ。最後の最後でそのことに気づけたのは、僥倖だった。

 少しばかり窮屈かもしれない。何一つ変わっていないというわけではないかもしれない。たまに昔を懐かしむこともある。
 けれど、魔法使いも、吸血鬼も、幽霊も、亡霊も、鬼も、宇宙人も、神も──かつて幻想郷にいたすべては、この世界で生きている。この世界のすべてに想い出されて、存在を認められて。みんな、みんななりにやっているはず。たまに、便りもくる。

 紅魔館の連中は、人目の付かない山奥で咲夜の能力によって見た目小さな家の内部を拡大して、わりと優雅にやっている。そこにはあの大図書館も健在どころか、この世界の本を取り込んでますます拡大中らしい。最近は魔理沙やアリスも転がり込んだことでトラブルメーカーが増え、賑やかな日々を過ごしているとのことだ。
 冥界や彼岸は、この世界ともかつて幻想郷とも違う場所にある。だからこそ幽々子や妖夢は冥界を経由することでどこにでも行けて、それを最大限に活かして、ちょくちょく遊びに来ては、向こう側には無い機械で遊んだり食べたことの無い菓子や料理を食い散らかしていく。天界もまた幻想郷ともこの世界とも違う場所にあるせいか、たまに天人が付いてくる。彼女が来ると、家の中がひどく荒らされる。
 永遠亭の宇宙人たちは、紅魔館と同じような空間拡張を駆使しながら、適当に稼ぎつつ暮らしているらしい。いつだったか訪ねてきた時は詳細を教えてくれなかったけれど、夢を見せる薬やあらゆる病気を治すモグリの医者の噂がインターネット上で広がっているのを、紫は知っている。
 萃香や藍、山の妖怪や地底の妖怪は、この国を離れて久しい。けれどやっぱり、たまに遊びに来る。ふと気がついたら萃香が隣で外国の珍しい酒を美味そうに飲んでいて、藍は橙らを連れて世界を回りながらだいたい三ヶ月周期で顔を見せに来て、空を遮るものは無いから天狗だって風の速さでやって来る。デジカメなんて文明の利器にもすっかり慣れ親しんで、しかも河童の奴等が高性能になるよう活き活きと改造を施してるようだからタチが悪い。
 地霊殿にいた面子は、船や飛行機の無賃乗車の常連だ。彼女らも世界中を旅行するのが楽しくて仕方ないようで、けれど無賃乗車ももうすぐできなくなるかもしれないと、そんなことを古明地さとりは、数ヶ月前に二人のもとを訪れた時に嬉しげに話していった。
 それでも普通の人間にとって、幻想だったものとは距離がある。それを知って、この世界の人間に妖怪のことをより詳しく知ってもらおうと動いているのが、命蓮寺の妖怪たちだ。宝船で各地を悠々と移動する様は、もはやこの国の名物のようなものだ。
 早苗や守矢の二柱は、霊夢と紫がそうしているように、社会に溶け込んでいる。神社も再建した。幻想のものの存在が認められたのもあって、信仰の集まり具合は上々との話。早苗は霊夢の通う高校の、そのクラスメート。同じ大学を目指してはいるが、勉学がいくらか苦手な霊夢が、早苗の後を追う形になっている。

 すべてが認められているわけではない。弾幕などの危険な行為は人のいるところではできない。空を飛ぶのもやめて欲しいらしいが、そこはなんとかねじ込んだ。
 それは、この世界からの、幻想だったものたちへのいくつかのお願い。存在を認めるというのはそういうことで、幻想のものがこの世界に流れ込んで、いくらかの時を経た頃、いくつかの不自由と引き換えにいくつかの自由が約束された。自分たちにとってあまりに有利なそれらの条件を結ぶために背負った途轍もない苦労が、霊夢に対するほんの少しでも罪滅ぼしになればと、紫は願っている。

「……不毛な戦いだったわ」
「……そうね」
「霊夢、次は何にする? 私は大根とさつまあげ」
「んー……あ、ロールキャベツあるんだ。じゃあこれと、あとつくねと、昆布」

 街中に住んでいる霊夢や早苗は、もうほとんど空を飛ぶことは無くなった。かつて幻想だったものとして、そのような力をひけらかすと、社会で生きるには面倒だ。
 けれど、それでも、二度と飛べないわけじゃない。学校が大きな休みの時、守矢の連中と連れ立って、どこか遠くへ旅行をしたりする。人のいない遠くへ。
 そこで霊夢は、早苗は空に舞い上がって、笑いあって、弾幕ごっこに興じたりする。紫や神々も加わって、前もって連絡していたみんなが集まってきて、魔法使いは魔砲で空を両断して、吸血鬼は空を赤く染めて、鬼は内包する百万鬼を空に映して、鴉が昼日中みたいに空を明るくして、みんなで花火みたいに空を彩って、そうして相変わらず、みんなでバカみたいな量の酒を飲んだりする。

 ふとした時に昔を思い出しながら、けれどみんな、いま自分たちがこうしているように生きている。
 この場所で、生きている。

 ならば、ここが。
 こここそが、幻想郷の、自分たちの現実の続きなのだ。

 忘れられるものが無いなら。誰もがここで認められて生きていけるなら、それでいい。

 幻想にされてしまうものが無いのなら。

 幻想郷は、いらないのだ。

「ああ、もうお腹いっぱい……」
「そうね。おじちゃーん、お勘定おねがーい」
「眠い……」
「ほら霊夢、立って。こんなところで寝たら風邪ひくわよ」
「風邪ひいてもいい……」
「何言ってるの、もう」

 お金を払い、椅子からずり落ちそうになっている霊夢を背中に背負って、紫は屋台を後にする。もうすっかりあたりは暗くなっていて、冷たい空気が顔を撫でる。けれど背中は暖かい。霊夢の息があたる首筋はもっと暖かい。
 他人に見られないように隠れて能力を使えば、すぐにでも家に、二人のアパートに戻ることは出来る。それを躊躇って、家まで歩いて戻りたくなったのは──幻想郷があのままであれば、こんなふうに眠りかけた霊夢を背負って歩くなんてこと、無かっただろうと思えたからだ。
 心地よい重みを、出来る限り揺らさないように、紫は歩く。その途中、紫の首に回された霊夢の両腕が、ほんの少し力を帯びた。

「……紫」
「あら、起きてたの? 眠ってていいのに」
「さっき、思い出してた? 幻想郷のこと」
「……少しね」
「……ねえ、紫。私、紫が望むなら」

 霊夢の声が悲しみの色を持つ。普段ならそれを止めるために頭を撫でてやったりするんだろうけれど、今はあいにく両手が塞がっている。だから紫は、少しだけ頭を後ろに倒して、こつんと自分の頭で霊夢の頭を叩いた。

「望まないわ。望みようが無い。だって、すべてがここにあるもの。何一つ、誰一人忘れられず、すべてがここに在る。たまに、少しだけ懐かしくなることもあるけど、居心地が悪くなったと思うこともあるけど、でも、本当に大事なものは何一つ失ってはいないのよ」

 詠うように、口ずさむように言葉を紡いで、あなたはどう? と霊夢に問いかける。
 よりいっそう強く回される両腕と、こくりと頷いたような感触が、答えだと信じた。

「あ、そうだ。じゃあ、霊夢に言っても詮無きことかもしれないけれど、一つだけ望もうかしら」
「……なに?」
「すべての幻想が幻想じゃなくなったことで、忘れられゆく場所のこと。幻想郷っていう場所があったことを、忘れないでいて欲しいなあ」
「……あ、はは。お安いご用過ぎるわよ、そんなこと……」

 霊夢の声が、くしゃりと歪む。霊夢はしょうがないわねぇ、と紫は楽しげに笑った。楽しくて、嬉しくて、暖かくてしょうがない。
 かつりかつりと硬質な音を立てながら、二人は夜の道を、街灯に照らされた道を、ゆっくりと歩いていった。


 <了>
 
 
 
 



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