思えばその日の八雲紫は珍しいことに、まだ陽の高いうちからやって来たのだ。
 これまた珍しいことに高級茶葉と茶菓子の土産まで持って、「え、なにこれ、すごく高いやつじゃない? いいの? ほんとに? 何か裏があったりしないわよね? 食べるよ? 食べるわよ? ほんとにいいの?」と涎を堪える博麗霊夢に微笑をたたえた。実際に口に入れる霊夢を邪魔することも無く、ただただにこにこと邪気の無い笑顔を浮かべて、部屋の隅に行儀よく正座していた。
 珍しいを通り越してもはや怪しいと霊夢も思っていたから、夕暮れ時になって出てきたその予想外の言葉は、ある意味予想の内でもあった。

「今日は、霊夢が作るご飯を食べたいわぁ」

 相変わらずの笑顔で、ちょこんと置物のような正座のままで、けれど口調だけは甘えるように紫は口にした。さあ始まったぞ、と霊夢は内心毒づく。
 こいつをさてどうやって追い出してやろうか、いやむしろ退治してやろうかなどと思いながら、しかし貰った菓子と茶葉を合わせれば一週間か二週間ほどは生活できるという事実も頭の隅から離れない。

 ──そのくらい、いいんじゃない?

 おっとりした笑みで、しずしずと、ただ一飯だけを望まれてしまうと。
 冷静に考えてみて、それすら拒否するのは、いくらなんでも狭量に思えるのだ。
 霊夢の逡巡の隙を突くように、紫は続けた。

「明日、結界の細かい調整をしなくちゃいけないのよ。すごく疲れるから、今日はここで休みたいなあって」
「……家に戻ればいいじゃないの。慣れない場所で寝ると疲れるでしょ」
「ご飯が出ないわ」
「式神が作ってくれるんじゃないの?」
「明日は藍にも頑張ってもらうから、代わりに今日はお休みをあげたのよ」
「……あんたならいちいちご飯なんて食べなくても問題ないんじゃないの?」
「霊夢のご飯が、食べたいのよ?」

 結局、その日は、霊夢が折れる形になった。「霊夢の仕事を全面的に肩代わりしてるんだからね。先代は結界の調整もしてくれていたのになぁ……」などと紫がぼやき始めたのがとどめとなった形である。
 かと言って夕飯を何かしら奮発するということも無く、普段と変わらぬものを二人分にしただけ。茶碗一杯の白飯に、大根を入れた味噌汁。にんじんやらキャベツやら玉ねぎやらを適当に炒めて、鳥の肉を適当に焼いてやった。
 少しばかり力を入れてやろうかと最初は思ったけれど、そうしたら手がうまく動かなかったものだから、いつのまにか湧いて出ていた苛立ちに任せてまったくいつもどおりに作ってやった。

 質素な食事と霊夢のぶっきらぼうな態度に文句一つ言わず、紫は霊夢の向かいで幸せそうに料理を食べ、「美味しい」と言葉にして霊夢をたじろがせた。
 夕飯を食べ終えた紫は、それ以上を求めることも無く、ありがとうと一言を残して、静かに神社から消えた。
 なんとなしに違和感を感じながらも、いなくなってしまっては仕方ない。霊夢はその後も普段通りに過ごして、夜も早い内に布団に入った。独り布団の中で、結界の調整かぁ、と思いを馳せ、そして眠りについた。

 ──それが、昨日のことになる。




  ◆  ◆  ◆




 既に朝陽と言うには程遠い太陽の光が差し込んできて、霊夢は目を覚ました。布団から身体を起こして、目をぱちくりとさせる。
 最近の霊夢が目覚めているこの時間は、寺子屋に子供達が集まり始めるくらいの時であるらしい。寺子屋にも縁が無く、巫女の仕事といっても殆ど気分に任せている霊夢には、起床時間など子供より少し遅いくらいでも問題は無い。
 ただ不思議と、早朝に目覚めた時よりも、少し遅い時間に目覚めた時のほうが、頭がぼんやりしている。

 だから霊夢は、差し出された熱い手拭いを、特に疑うこと無く顔に当てた。
 頬で暖かさを感じ、目元を拭ってやり、口元にも熱を分け与えて、最後に顔全体に手拭いを当て、しばらくぼうっとする。
 そのままで口元に少し隙間を空け、ほうと息を吐き出しているうちに、ふと状況に気づいた。手拭いを受け取る前に見た顔が、手拭いを渡してきた者の頭に浮かぶ。吐く息を「ほう」から「はあ」に変化させて、霊夢は顔を空気に晒す。

 秋の朝の冷たい空気が霊夢の頭をこれ以上無いほどに覚ましてくれて、だからすっきりした視界が捉えた者にも間違いなどあろうはずは無い。八雲紫が、昨日と同じようにちょこんと正座して控えていた。
 控えていたと、霊夢はその言葉を思った。その感覚に答えを出しながら、霊夢は首を傾げる。
 紫の様子は、たとえば十六夜咲夜や魂魄妖夢のような──どこか、従者という単語を連想させたのだった。

「で、なんであんたは今日もうちにいるの? 結界の調整は?」
「もう終わったわよ? 日付が変わってから、霊夢が起きるまでの間に。その辺が私の本来の活動時間ですから。お疲れ様ってことで今はひとときの休息を」
「ひとときの休息を、何故うちで取る」
「さあ、なんでかしら」

 くすくすと、楽しそうに紫は笑う。その傍らに自分の巫女服が畳まれていることに、霊夢は気がついた。
 霊夢の視線に気づいたのか、紫は笑みを止めて、巫女服を手に取る。

「望むなら、私が着替えさせてあげますけど」
「……いや、いいわ。自分で着替える」
「そう、それは残念。朝ご飯もできてるから、早く着替えていらっしゃいな」

 事態が飲み込めず、まったく普通に答えてしまったことに霊夢が気づいたのは、紫が寝室を出て行った後のことだった。何を考えているのかよくわからない相手ではあるが、今回は殊に意味不明な状況だ。紫の言葉を飲み込むにも時間がかかった。

「……朝ご飯?」

 そういえば、と今さらのように、漂ってくる良い匂いに気づく。何かを火にかけているような、ぱちぱちという音もする。
 自分以外の誰かが、生活の一部としてここにいるという違和感。
 慣れない感覚に戸惑いながら、霊夢は腹の虫を鳴かせた。




  ◆  ◆  ◆




「霊夢に、飼ってもらいたいなぁって」

 口に入れた米を吐き出しかけて、すんでのところで押し留める。
 うっすら涙を含んだ目で、何言ってんのよ、と霊夢は紫を睨みつけた。
 紫の目に人をからかう色がまったく無かったと言えば嘘になるだろうけれど、穏やな笑みは、どこかしら本心をも含んでいるように感じさせた。そう感じておきながら、霊夢は言った。

「食事中に冗談はやめてよね」
「冗談じゃないわよ?」
「うるさい」

 この妙な行動にはどんな意味があるのかと、紫に問うた返答がそれだった。
 飼うってあんたは私のペットか、などと思いながら、同じような不意打ちに備えて少なめに米を取って口に入れる。

 紫の作った朝食は、茶碗一杯のご飯に豆腐を入れた味噌汁、それに秋刀魚の塩焼きであった。
 特段おかしなところの無い、質素な、けれど紫の腕と気配りの賜物であろうか、美味しいと、つい漏らしてしまうような食事。
 状況を把握できないながらも、霊夢は流されるように食べさせられてしまっていた。そして一度口に入れると、箸が止まるようなものではなかったのだ。

「結界の調整って、すごく大変なのよ」

 これはどちらかというと自分が餌付けされてるのでは、などという方向に流れそうになる霊夢の思考を、紫の言葉が遮った。

「幻想郷の妖怪はだんだん増えてきてる。外で忘れられる物事も増えてきてる。両方から圧迫される結界に、常識だとか非常識だとか、いろんなことを考慮して、適度な力を注いであげなくちゃいけない。適度な力を抜いてあげなくちゃいけない。霊夢には想像もつかないくらい、たくさんのことを考えなくちゃいけない。それはもう、この私が計算に疲れるくらいに」

 口元には微笑が浮かんでいるけれど、紫は、笑っているようには見えなかった。少なくともその目は、笑っていなかった。
 霊夢には最初、紫の眼の中の光は、寂しさであるようにも、悲しさであるようにも思えた。違うのだと、すぐに気がついた。
 言葉通りだ。紫の眼は、疲れに揺れていた。

「こう見えて、私はいろいろ考えているのよ? 妖怪の賢者なんて呼ばれてますからね。頭を使うのが仕事ですから。でもね、たまに、何も考えなくて良い立場はどんなに楽かって、思うこともあるのよね。賢者なんかじゃなくて、兵隊だったら、何も考えずに済むのに。絶対的な誰かに従っているだけで良い……藍や橙が、少し羨ましくなることがあるわ。私も誰かの式神だったら、私より遥かに巨大な誰かの式神だったら、ただ付き従うだけで安心できるのに」

 あー、と霊夢は声に出しそうになった。昨日の不自然に高価な土産について、ようやく合点がいった。あれはやはり、迷惑料の前払いだったのだ。
 紫は卓袱台に両手で頬杖をついて、上目遣いで、媚びるみたいに、甘えるみたいにして、猫撫で声で口にする。

「ねえ霊夢ぅ、私を飼ってみてくれないかしら? こんなに綺麗で料理も上手だし、お得よ? こう見えてご主人様にはすごく忠実だし、おはようからおやすみまできっちりサポートしてあげる。私が控えてる限り、何の不便も無いわ」
「狩ってあげたりなら今すぐにでもしてあげるけど。それとも刈って欲しい?」
「うん、買って欲しい」
「却下」
「えー」

 不満げな表情が、ほんの少しばかり本気にも見えるのは、きっと八雲紫の、幾百年幾千年を生きてきた妖怪の巧妙な演技に違いないと、霊夢はそう思うことにする。
 けれど一方で、心の中に疑問も立ち上がるのだ。

 ──こいつは、私が頷いたなら、どうしていたんだろう。

 演技なのだから、きっと彼女は、ぷっと吹き出して、何言ってるのよ冗談に決まってるじゃない、なんて笑うのだろうと。そう思おうとするのだけど、どこかしっくりこない。
 答えの出ない、出すはずの無い疑問が、霊夢の胸の片隅に広がりつつある。

「……なんで私なの? 魔理沙とかなら、助手みたいなのも欲しがってると思うけど」
「だって、霊夢がいいわ」
「だって、って答えになってないじゃない」
「そうねぇ。……まず、あんまりひどい命令をしないだとか、そこそこ大切にしてくれるだとか、それなりに信頼できる相手じゃないと、下になんてつきたくないでしょ? それに、霊夢は、なんだかんだで幻想郷を大切に思ってるから。私の大切なものを大切に思ってくれている相手なんだから、いろんな利害も一致するでしょうし」

 屈託無く笑う紫に、何か上手い皮肉でも返してやりたいところだったが、思いつかなかった。
 こんなにも直接に信頼を告げられたことが無くて。顔がひどく熱を持つのを感じて。
 けれど一方で、ほんの少し残っていた冷静な部分が、言葉のどこかに違和を覚えていた。細い糸のようなそれを、勘か理性かわからないがともかく手繰り寄せているうちに、霊夢は「じゃあ、もう一つ質問」と口にしていた。

「そんなに疲れるなら、どうして、今みたいにしてるのよ。妖怪の賢者なんてやって、いろいろ気にかけて、結界の調整なんてして。あんたが自分で、やりたいからやってることじゃないの?」

 紫は。
 それまでの屈託無い笑みは霊夢にとってどこか見慣れないものだったけれど、霊夢の言葉を聞いて、それを変えていた。紫が小さく息をつくと、いつのまにか、魔法が解けたみたいに、移り変わっていた。
 悪戯が成功させた子供のようでいて、けれど子供を見守る大人のような優しげな微笑。霊夢が見慣れた、紫の表情だった。そうねぇ、と紫は人差し指を顎に当て、宙を見やって何かを考えているようだった。数秒置いて、その視線が霊夢に戻される。

「ねぇ霊夢、恋をしたことはある?」
「……はぁ?」
「たぶん、無いのかしらね。あなたは誰を嫌いになることも無いけれど、でも、それは誰もを好いているというよりは、誰もに無関心であるのに近そうだから。『好き』の反対は、『嫌い』じゃなくて『無関心』なのよねぇ」

 意地悪い笑みで言い放つ紫に、霊夢は返す言葉を持たなかった。自分が他者に対してどうこうというよりも、そもそもその手の話題に対する免疫が無くて、凍りついてしまっていた。

「霊夢、恋はね、気をつけたほうがいいわ。結局、惚れてしまった方が負けなのよ。恋した相手のためなら、我が身を削ることであろうと、とても煩わしいことであろうと、どうしてでしょうね、むしろ喜んでやってしまうのよ。奴隷みたいに尽くすだけで、自分を捧げるだけで、喜びになるの。それで相手が少しでも嬉しがってくれるなら言うこと無しってね。ああ、霊夢は簡単には誰かに惚れそうに無いけど、一度惚れたら意外と純情っぽいから心配だわ」
「ちょっと待った。誰が純情よ」
「あら、そこは誇っていいのよ? 弱点にもなりうるけど、立派な長所だわ」

 反射的に言い返しながら、解凍された頭で、霊夢は紫の言葉を咀嚼する。
 明確すぎるほどに、答えは示されている。つまり、紫は。

「あんたは、恋を、してるんだ」
「ええ。でも私の相手はね、私がどんなに尽くしても、みんなに平等に、ほんの少しずつ愛情を注いでるから。偶にね、少し疲れちゃって。欲しくなっちゃうこともあるのよ。もう少しちっぽけな、愛情のやり取りみたいなのが」
「……浮気はよくないわよ」
「大丈夫よ、浮気失敗しちゃったから」

 何気なく。
 少なくとも霊夢が見たところ、あんまりにも何気なく紫が言うものだから。

「浮気成功したら、どうしてたのかしらね」

 霊夢も、その問いを、できる限り何気なく口にしたつもりだった。
 紫は遠い目で、天井を見るようにしていた。その先にはきっと、『もしも』がある。

 浮気が成功していたら。
 博麗霊夢が、頷いていたら。

「……どうしてたのかしらねぇ。今まで成功したことは無いんだけれど……浮気相手も同じ相手に恋してるんだから一緒にいるのかもしれないし。でももしかしたら、浮気相手さえいれば他に何もいらないなんて思って、二人でどこか遠くへ逃げちゃうこともあったのかもね」

 ふうん、と霊夢は中身の無い相槌を打った。
 盲目的な信頼。その相手さえいれば他に何もいらないという世界は、きっと楽なのだろうと思う。基準があんまりにも明確だ。誰かへの強い依存。その誰かを一番に置いてしまえば、その恋の奴隷になってしまえば、およそあらゆる取捨選択から解き放たれるに違いない。

 けれど紫は、少しばかり難儀な相手に恋をしている。
 そいつへの恋は、楽じゃない。様々な思考を、選択を求めてくる。
 楽じゃないけれど、惚れてしまっているのだから紫の負けだ。
 従わなくてはいけない。従いたくて仕方ない。そうすることが歓びなのだから。

 だから、その浮気というのは、紫の強い恋慕のちょっとしたほつれ。もう塞がってしまった、小さな隙間だった。
 浮気相手と、二人で。
 二人だけの世界に行ってしまうということも『あったのかもしれない』。
 つまり、そういうことには、ならなかったのだ。

「逃避行かあ。なんか、さ。そういうのって、いろいろ問題あるけど、ちょっと夢もあるのかもね」
「あら、霊夢もなんだかんだで女の子ねぇ。ほんと、駆け落ちはロマンだわ」
「なんだかんだって何よ、なんだかんだって」

 言って霊夢は頬を膨らますけれど、ころころと笑う紫を見ているうちに、いつのまにか同じように笑い始めてしまっていた。
 二人で少しの間笑って、どちらともなく止んだ。紫が、置物のような正座を崩して立ち上がった。

「ありがと、愚痴に付き合ってくれて」
「まったくだわ。お酒も無しにこんな茶番に付き合ってあげたんだから、感謝しなさいよね」
「ええ、今度来る時は、美味しいお酒を持ってくるわ」

 そうして紫は静かに、隙間の向こうに消えた。




 静寂。
 慣れ親しんだはずのそれに、妙な違和感が、何かが欠落してしまったような感覚が付きまとって離れない。
 あのくらいで人恋しくなったわけでもあるまいに、と霊夢は内心で苦笑した。

「たぶん、相性が悪いのかなあ」

 呟きは、神社に張った幾重もの結界を注意深く何度も確認し、間違いなく自分一人きりだと確信してのもの。
 誰かに聞かれるわけにはいかない。なのに声に出してしまう、そういう類のもの。

「誰かの上に立つなんて面倒な真似、するわけないでしょ。逆の方がまだいくらかしっくりくるっての。いちおう巫女って、まあどんなのかも知らないけど神に仕えてるわけだし。いちおう規律だってあるんだから。誰かを従えるんじゃなくて、どちらかというと従う方なのよ、巫女は」

 はあと溜息を一つついて、味噌汁のお椀に手をかける。冷めてしまったかと思いながらだったが、触ってみるとまだ意外なほどに暖かい。
 そのまま口をつけてみると、「美味しい」との言葉が、意識せず漏れていた。
 
 
 
 <了>





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