夢を見ていた。
 懐かしい、遠い日の夢だ。

 長い時を経て色が失われたはずの記憶が、そこでは活き活きと動き回る。
 巫女がいた。魔法使いがいた。数え切れないくらいの妖怪がいた。誰も彼もが無駄に強い力を持っているくせに、弾幕決闘などというお遊びに慣れ親しみ、競い合い、楽しんで、この幻想郷という小さな世界で生きていた。
 妖怪は気まぐれで異変を起こして、人間はそれを解決して。一種の信頼関係すら生じていた、ずっと続くかに思えていた、穏やかで優しい場所。

 懐かしい、遠い日の夢だ。





  ◆  ◆  ◆





 幻想郷と呼ばれる空間の、その、外の世界。
 広い広い屋敷に、八雲紫の声がこだまする。布団の中から「藍? 藍ー?」と、式神の狐を呼んでいる。
 冬眠明けの彼女は、少しばかりして、それをやめる。悪い癖だ。長く眠ると、夢を見る。夢を見ると、思い出してしまう。夢の中の世界が未だ続いていると、錯覚してしまう。
 その殆どは、既に失われたというのに。

 寝ぼけ眼で式神の名を呼んでいた紫が現実へ引き戻されると、屋敷の中に音を発するものはいなくなる。
 紫は、冬眠明けとはいえ懲りずに式神を呼んでしまった自分への自己嫌悪か、あるいは他の何かからか──両手で髪をかきあげて、はあと息をついた。
 八雲藍も、既にいない。紫が彼女を最後に見たのは三年前、冬眠に入る直前のことだ。

 幻想郷。あの場所の外に出て暮らし始めてから、およそ十年。
 彼女の力が、殆ど存在を維持することすら難しいほどに痩せ細っていたのは知っていた。冬眠の間に消えてしまう可能性があることも、理解していた。それが彼女との別れになるかもしれないと、そう気づいていながら紫が冬眠に入った理由は、単純にして明快。紫自身、年に一度の冬眠によって力を蓄えなくては存在が危ぶまれるほどに、妖怪としての能力を減じていたのだ。

 注げる限りの力を、彼女に付けた式に注ぎ込んで。
 どうか、自分が目覚めるまでは生きていてくれと願って。
 そうして冬を越え、春を迎えた時。紫の傍に、彼女の姿は無かった。

 苦しくはなかっただろうか。哀しくはなかっただろうか。彼女自身の式神も失って、だから紫が冬眠している間、彼女は独りきりだった。
 生きてまた会うと彼女は言ってくれたから、そうやって別れたままだったから、結局、長い間付き従ってくれたことへの礼もできないままだった。八雲紫は彼女に甘えっぱなしで、ついにその最期すら、紫の都合で決めさせてしまった。

「……お腹が空いたわ、藍」

 言ってみて、けれどそれも、何も生み出してはくれない。
 何処で間違えたのか、そもそも自分は間違えたのだろうか。
 さんざ自問した問い。閻魔、神、吸血鬼、鬼、亡霊──彼女らから、幾つもの答えを貰った問いだ。
 残るは、蓬莱人。永遠の民は、今のこの世界に、何と言うだろうか。
 実際のところ、既に問いに結論は出ている。ただ、この時まで残った彼女達に、会ってみたかった。あの時代をすごした者と、最期に話をしたかった。

 冬眠の直後にもかかわらず、自身の力は流水のように急速に身体から抜けてゆく。どうやら冬眠の甲斐は無かった。八雲紫という器そのものにひびが入っている。皆がそうであったように、紫にも、終わりの時は近い。
 だから。古い友人達との、おそらくはこれが、最後の邂逅になる。










  ◆  ◆  ◆










「さて、どうしましょうかね、八雲紫」

 幻想郷に初めて滅びの気配が満ちてきた頃、紫は四季映姫の元を訪れていた。
 閻魔は事態を理解していた。紫も事態を理解していた。それでいて閻魔は、選択を迫っていた。

 きっかけが何であったのか、今となっては判然としない。あるいは守矢の二柱が推し進めた核エネルギーがそうであったのかもしれないし、単純に、時間の経過がそうさせたのかもしれない。
 ただ事実として、幻想郷は、過去の歴史を繰り返しつつあった。
 数千年前、妖怪や神々、あらゆる不思議なものが、外の世界の人間達の心から居場所を失っていったように。
 少しずつ近代化し、少しずつ時を積み重ねていった幻想郷の人間達も──幻想郷の人間達ですらも──また、闇に隠れる不可思議な隣人達のことを、心の中から追い出していったのだ。


「幻想郷の人間達は、夜の闇を忘れてしまった。妖怪達にとってもはやこの世界は、外の世界となんら変わらない」
「……ええ」
「座して滅びを待つか、あるいは新たな楽園を創りあげるか。妖怪の賢者達や、郷の主要な妖怪達とでも話し合って、決めれば良いでしょう。もしも新たな楽園を創ることを選ぶのなら、その場における閻魔は私が担当してあげるから、安心なさい」
「……ありがとうございます」


 外の非常識を内の力として流し込む、博麗大結界。
 それが存在してもなお幻想郷が、人間を排した、妖怪だけの楽園となることが無かったのは──やはり、必要だったからだ。

 幻想郷の中の、僅かな数の人間とは言え。
 妖怪の存在を認め、信じ、共に在ろうとする想いが。
 妖怪というものが存在するために、必要だったのだ。


 ──それも今、失われつつあるけれど。
 八雲紫は、思う。遠い遠い過去に、思いを馳せる。


 かつて、楽園が在った。
 遥か昔。幻想郷が結界によって区切られるよりも前。それは、ここではない、違うどこか。あるいは、世界のすべてがそうだったのかもしれない。
 そこでは、夜の闇にまぎれるものたちが当たり前のように人間達の意識の中に在って、当たり前のように存在を許されていた。認められていた。

 けれど、その楽園は。
 人間達とは切っても切れない、忘却という名の泥棒に、いつの間にか盗まれていたじゃあないか。

 幻想郷。
 楽園の時代を模して創った、自分達の居場所。
 それもまた、あの大泥棒に、盗まれつつあったのだ。


「……紫様」
「……大丈夫よ」
 その頃にはまだ、出来た式神が傍にいてくれたから。憔悴した肩を支えてくれる従者がいたから。
 自分達が滅びるなんて。幻想郷が、滅びるなんて。
 それを認めるなんて、考えられなかったから。
「創りましょう。新たな空間を切り取って。外の世界と、今の幻想郷の非常識とを常識へと変えて力を流し込む、新たな結界で覆って。未だ不可思議を信じることのできる、幾らかの人間を攫って。──新しい幻想郷を、創りましょう」



  ◆  ◆  ◆



「ああ、貴方、まだこんなところにいたのですか。もうとっくに新天地へ旅立ったかと思ってました」
「それを言うなら貴方……いや、貴方達こそ」
「私達はいいんです。ここに残ることにしました」


 もはや幻想郷と呼ばれることが無くなった場所へ。紫は、守矢の三柱の元を訪れていた。
 出迎えたのは、かつて東風谷早苗という風祝であった、神。日課のように境内を掃除する彼女に、そんなものは巫女に任せればいいだろうにと思ったが──ふと気づいてみると、現在のこの神社に巫女はいない。だからこそ、早苗が昔のように、箒を左右に動かしているのだろう。まだ人間とも呼べた頃に比べて存在そのものが大きく変わったはずの彼女であったが、不思議とかつての初々しさに似た何かを残していた。


「何故? そもそも貴方達はかつても、信仰が得られなくなるのを避けるために幻想郷に来たはずだと思ったけれど。たしかに、こっちに残った者もいたけれど……貴方達は、行くと思っていたわ。新たな幻想郷へ」
「それは……」
「早苗に反対されちゃったからね」
 聞き耳を立てていたのか、物陰から不意に現れた、小柄な神。洩矢諏訪子は、早苗に抱きつくようにして言う。
「神奈子は行こうって言って、私はどっちでもよくって、でも早苗が嫌だって言ってね」
「す、諏訪子様……」
「いろんな思い出があるこの場所を捨てたくないって。この場所を見捨てて、新しい幻想郷で楽しくやるなんてできっこないって。一人でも残るなんて言い出しちゃったからさ」


 顔を赤くして俯く早苗に何を感じたのか、紫自身わからなかった。それは感謝や、あるいは羨望に近いように思えたけれど──紫はそれを、明確に汲み取ろうとは思わなかった。
 楽しそうに早苗の背を叩く諏訪子を見ていると、彼女達が何も変わっていないのだと実感できる。それは、彼女達が幻想郷にやって来たその時から。長き時が経ったところで、早苗が完全なる神になったところで、何も変わらない。早苗は諏訪子のことを、諏訪子様と呼んだのだ。
「諏訪子様、申し訳ありません……私のせいで……」
「いやいや、何を今さら。ここまで来たら一蓮托生でしょ」
「そういうこと」
 諏訪子に同意する声は、三人目の神のもの。「久しぶりだね、八雲紫」傲岸不遜な態度はそのままに、八坂神奈子はその場に顕現すると、早苗の頭に手を置いた。

「もう記憶の彼方にぶっ飛んじゃってるかもしれないけどさ。この世界、幻想郷に来た時、早苗は外の世界でのすべてを捨てて、私達に付いて来てくれた。早苗は幻想郷に対して興味があるみたいだったけど、それでも、今までのすべてを捨てるなんて簡単にできることじゃないよ。そのうえ神にまでなって、今も私達に付き合ってくれている。早苗がこの場所を見捨てたくないように、私達だって早苗を見捨てるなんて考えられない」

 はにかんで笑う早苗の肩を叩きながら、諏訪子は懐かしげに目を細める。

「そうそう。それに思い返してみると、この場所もわりと悪くなかったしね。昔のことほど記憶が強いってのも変な話だけどさ。あの適当な巫女」
「それにお調子者の魔法使い。吸血鬼のところは、死んだのは従者だけで他のはまだなんとか生きてるんだっけ? 天狗もすっかり見なくなったねぇ……」
「ああそうだ、あの鴉も消えちゃったんだよね、地霊殿の連中と一緒に。あいつらもここに未練があったクチみたいだよね。まあ、あの鴉はほんと、長い間ご苦労様だったよ。バカだけど憎めない鴉だったね。しかし、神を飲み込んだあいつですら消えたんだし、私達もそろそろかな?」
「いやいや、まだまだわたしゃあと百年は生きるよ」
「神奈子様、なんだかちょっとお年寄りくさいですよそれ」
「なっ……早苗、もうちょっと言い方ってもんが……」
「あはははは、いやぁ早苗も言うようになったよねぇ……」


 雑談を始める三人を見ているうちに、紫の中で、何かが形を成し始める。
 それは、疑問だった。わからない、けれど、その答えを自分も既に持っているような気がする、そんな疑問。
 なんで。どうしてそんなに楽しそうに、笑顔で終末を待つことができるんだろう。
 それは、もう一つの疑問も。
 自分は何かを間違えてるんじゃないかという問いも、喚起するけれど。
「そういうわけで、私達は、ここにいようと思います。私達の生きた地は、ここですから」
 それを紫が口にするよりも前に、早苗が満面の笑みでそう言ったから。
「そう。……それでは、さようなら」
「ええ、さようなら」
 紫は逃げるようにして、隙間をくぐった。浮かんだ疑問は、自分は彼女達とは違う──幻想郷という場所を、生き残らせなければならない──との念で、上書きした。
 それが、八雲紫が彼女達の姿を見た、最後だった。



  ◆  ◆  ◆



 忘却は、どんどんと速度を増して、人を侵しゆく。
 それは、逃避にも似ていた。妖なるものが存在しないという常識から逃げるようにして、八雲紫は、多くの妖怪は、旧き幻想郷を──かつて巫女や魔法使い、そしてメイドが闊歩した思い出の地を、捨てた。新たな幻想郷を創り、そこに移り住んだ。
 けれど忘却の浸食は、誰が思うよりも早かった。
 そも、幻想郷という空間ができた時代。博麗大結界が張られるよりもさらに前、幻と実体の境界によって紫が幻想郷を隔離した時代には、まだ、幻想なるものは外の世界にも生き残っていた。世界そのものが、幻想の存在を受け入れていた時代だったのだ。


 今は違う。外の世界──旧き幻想郷を含めた──は勿論、新しい幻想郷の中すら、科学文明が既に入り込んでいた。
 新しい幻想郷を創るにあたって囲い込んだ人間達は、たしかに、未だ不可思議を信じることのできる者達だった。それでも、文明のタネが彼らの内に蒔かれていたことには、違いは無かったのだ。
 新しい──第二の幻想郷は、数百年ほどで、第一の幻想郷と同じく、崩壊の危機に直面することとなった。


 ──第二の幻想郷を創った時と同様に、第三の幻想郷を創ろう。けれどそれではまた同じ結果だ。何か策を考えねば。
 賢者と、有力な妖怪達が集まって話し合っていたその場で。八雲紫が、その集まりの結末を予想して、頭を抱えていて。それ以上に、どうにもならない終焉の予感に絶望を覚えていた最中。
 話を振られた吸血鬼は、当たり前のように。


「行かないよ、私達は」
 それはたとえば、宴会への不参加を告げるような軽さで。
 自身の滅びを、宣言した。


「……貴方は、いえ、貴方達はこの地に骨を埋めると?」
「そうそう。うちの連中はもうみんな納得してるよ。妖精メイドが一部逃げたけど」
「何故」
「何故って、言われてもね。いいじゃない、もう。あんなに楽しかった時間を、薄めるような真似は。存在したからこそ、無くなるものでしょう?」
 紫が意図せず冷たい口調になってしまうのは、きっと、彼女達が始まりだったからだろう。
 博麗霊夢。死んでから数千年はゆうに過ぎたのに、未だ名前を、姿を、立ち振る舞いを、小生意気な口調を、感情豊かな表情を──すべてを憶えている。忘れられるはずも無い、楽園の巫女。
 その楽園を維持する根幹となったシステム。命名決闘法案。
 それが劇的に広まったのは、吸血鬼、レミリア・スカーレットが起こした紅霧異変がきっかけだ。
 あの紅い夜こそが、懐かしい楽園の始まりだったから。楽園を始めた彼女がいなくなるのは、哀しくて、赦せなくて──心細くて仕方なかったのだ。


 そんな八雲紫に、吸血鬼は。
「もうね、先が視えたのよ」
 運命を見通す吸血鬼は、寂しげな微笑を浮かべる。


「この集まりの結末が、私には視えている。八雲紫、貴方もわかっているんじゃないの?」
「……それは」
「ね? だからさ。なんだかんだで私も、フランもパチェも美鈴も、あいつらのことが嫌いじゃなかったのよ。ああ、咲夜はもちろんだけどね。それ以外の奴らのこともさ。幻想郷も、私達が慣れ親しんでしまった甘ったるいルールも、全部失われてしまうんなら……もう、このへんでいいんじゃないかなって思うのよね。こうやって第二だか第三だかの幻想郷を創っていってもいずれ滅びに追いつかれるって、うちの知識人も言ってるし。だから、私達はもういいわ。もしもまだ続けるというなら、せいぜい達者でね。八雲紫」


 長き時代を生きた、友として。
 あの時代を想い続ける、仲間として。
 レミリア・スカーレットは笑んで、その場を後にした。


 八雲紫は、何も言えなかった。彼女こそが正しいのではないかと、思ってしまったからこそ何も言えなかった。それは、紫には──幻想郷という場所を滅ぼしたくないとの一念で動いている紫には、赦されない考えだったから。紫は自身を押し込めた。
 否定も、同調もせず。殆ど投げやりになって、それでも彼女くらいに割り切ることはできず、まだ縋っていた。事態をひっくり返す幻の希望、奇跡を願って──奇跡を起こす神は、とうの昔に、旧き幻想郷と運命を共にしたのだと思い出した。




 程なくして、第二の幻想郷はうち捨てられ、一部を除いた多くの妖怪達は、第三の幻想郷へと移り住むことになる。
 その際、同じ轍を踏まぬようにと、幻想郷内のルールに、ある変更が加えられた。その一つが、弾幕決闘だった。

 弾幕決闘は、実際に妖怪に触れ合う人間を限定させ、妖怪という存在の忘却を促進してしまうだろうとの意見により、禁じられたのだ。
 代わりに推奨されたのは、人に忘れられない、最も効率の良い方法──人を所構わず襲い、喰らい、適度に生かすあるいは逃がすことで、人に妖怪の恐怖を刻み込むというもの。減った分は『外』から補充すればよいとの考え方だった。

 こうして、八雲紫が考えていた通りに、そしておそらくは、レミリア・スカーレットが視ていた通りに──彼女達が最も大切にしていた時代の、幻想郷の面影は、すべて喪われた。



  ◆  ◆  ◆



「ほんと、くだらない。私達はいったい、何をしてるんだろうね」

 不味そうに酒を飲む鬼の言葉は、八雲紫の心中を代弁していた。
 第三の幻想郷は、三百年ほど経って、やはり文明と忘却に浸食され、役目を終えようとしていた。以前と同じように第四の幻想郷への移住が計画されたが、今度は、人間の機械や学問といった、文明を抑制しようという動きが出始めている。
 文明を否定してやれば、夜はまた、闇に戻る。結界で隔離された場所で一度失われてしまえば、再び取り戻されるまでには長い時間がかかるだろう──それは、八雲紫と伊吹萃香が反対したものの、他の大多数の賛意を得て、採用が決定された。
 次の幻想郷では、人間は──ただ、妖怪という存在を認識するためだけのものとして、飼い殺しにされるのだ。


 紫と萃香。それに、幻想郷とはまた位相の異なる空間の主であるとして、たいした発言力を持てなかった西行寺幽々子。
 冥界の桜を見ながら、古くからの友人、三人で集まっての酒。全霊となった魂魄妖夢や、式神すらをも外に追い出した、三人だけの酒。それがこんなにも美味しくないのは初めてだと、紫はぼんやり思っていた。
 紫も幽々子も、何も言わない。ただ萃香だけが、いつも以上に酒を煽りながら、ぶつぶつと愚痴を漏らしている。そのうち萃香は歯をぎりと鳴らし、瓢箪を床に強く打ちつけた。


「私はさ、一見くだらなくてもこういうことを続けてるうちにね、妖怪と人間が昔みたいな関係を取り戻せるんじゃないかって、ほんの少しは期待してたのさ。それがどうだ。これじゃあまるっきり人間牧場じゃないか。妖怪どもときたら、どいつもこいつも、生きるためだけに生きてる。なんてつまらない場所になっちゃったんだろうね、幻想郷は」


 この鬼が、伊吹萃香が。
 数千年の付き合いの中で、自棄酒をするのを見るなんて初めてで。泣きながら酒を飲むのを見るなんて、初めてだったから。


「ごめん紫、私はもう降りるよ。次の幻想郷には、行かない」


 どこかその言葉も、予想していた。予想できてしまっていた。
 そう、と答えて黙る紫を、萃香はどこか、哀しそうに見つめた。何かを言いたげにして、迷うみたいにして、結局飲み込んだようだった。萃香はしばらくの間、ただ俯いて、瓢箪の中身を流し込んでいた。


「……ねえ、紫。貴方は、次の幻想郷へ行くの?」
 重苦しい空気の中、それまで何も言わずにいた幽々子が口を開く。
 紫が黙っているから、萃香も静かにしているから、幽々子はひとり、続ける。
 いくらかの迷いと、いくらかの決意を込めた眼で、紫を見やる。
「私は、紫に生きていて欲しい。幻想郷が滅びても、冥界が滅びることは無いから。私が滅びることは無いから。『今の幻想郷』に縋っている多くの妖怪達にも、貴方は必要でしょうね。……でも、今の紫は、見てて辛いわ。生きるのが、この幻想郷に付き従うのが、苦しくて仕方ないように見える」
「……私は」


 漏れ出た言葉に、紫はけれど何も続けられなかった。
 妖怪の賢者だから。境界の担い手だから。ずっと、幻想郷と共に在らねばならない。それに、幻想郷という場所を、滅ぼすわけにはいかない。
 頭の中には、そんな言葉が浮かんでいるのに。
 何をしたいのか、何を望んでいるのか。未練が、思い出が、胸の中を荒らし回って、形を成してくれない。諦めるのか、と自分の中の何かが問うてくる。取り戻すことを放棄するのかと、詰問してくる。


 楽園が、在った。
 八雲紫が望んだ楽園は、遠い昔、確かに、存在していたのだ。
 存在、──していた、のだ。


「……今日は、もう、終わりにしましょう」
 幽々子の一声に、萃香は無言で、その場から散る。
 紫も足元に隙間を生み出し、自身の屋敷へと繋げて、入り込もうと一歩を踏み出した。
 異空間の中、隙間を閉じる寸前、紫は幽々子の寂しげな声を聞いた。


「紫、貴方はどうして、幻想郷を創ったの?」
「それは……」
「ねえ、わからないなら教えてあげるわ。貴方に、直接それを聞いたことはないけれど。貴方が、何に最も心を砕いていたか。幻想郷の何を、最も愛していたか。そのくらいはわかる。貴方が最も求めていたことは……人と妖が、共にいるということだった」


 いつになく必死に告げる幽々子から──紫は逃げるようにして、隙間を閉じた。




 それでも紫は自身の行く末に答えを出せないまま、第四の幻想郷へと移り住んだ。
 伊吹萃香は、それまで生き残っていた数々の鬼達や、命蓮寺の妖怪達のような、人と妖怪との関係に希望を持っていた連中と共に、滅びゆく第三の幻想郷に残った。
 その後、紫は彼女達の姿を見ていない。










  ◆  ◆  ◆










 第四の幻想郷は、無事に成った。
 人間の文明を破壊するという策は、思った以上に効果があるようだった。消えて滅ぶ寸前だった妖怪達の力も少しずつ戻り、全盛期にはまったく及ばないにしろ、生きることには問題が無い程度には回復していた。
 一部を除いて殆どの妖怪が、第四の幻想郷を、妖怪をいつまでも生かす、幻想郷の完成形を讃えた。その一部といっても、ごく僅か。そのような『反乱分子』は既に多くが、旧き幻想郷に残るなどしていた。今の幻想郷には、もとよりいないのだ。
 だから、八雲紫は、第四の幻想郷にいる、殆ど唯一の『反乱分子』だった。


「……私は、どうしたらいいのかしらね」
 紫が自分の言葉を認識したのは、口にしてしまってからだった。
 式神は、八雲藍は、主の弱音に少し驚いたようにして紫を見やった。
「生き残ることは、できるかもしれない。今やっているように、人の在り方そのものを強く制御すればね。だけど、それは……」


 自分がどうして、何を言葉にしているのかわからなくて、何を求めているかもわからなくて。
 あるいは式神に、ただ聞いてもらえばよかったのかもしれない。慰めてもらえればそれでよかったのかもしれない。
 今の幻想郷の在り方を認めたくないなんて、そんなことは我が儘でしかないのだから。境界の妖怪なのだから。妖怪の賢者なのだから。新たな幻想郷の創造においても、大きな役割を担っている存在なのだから。


 けれど、紫の隣で、すべてを共に歩いてきた式神は。
 静かに紫の、華奢な身体を抱き締めた。
 主を慈しむように。愛しむように。


「貴方の想うように」


 涙が零れるのを、自覚した。「でも」と絞り出した声も震えている。
 紫がもしも、自分の気持ちに従ってしまえば。第四の幻想郷が滅びる時に八雲紫がいなくては、その先は、無い。
「そうしてしまえば、貴方だって」
 それを藍は、笑みで返した。仕方ないなあ、と苦笑した。
 面倒な命令を投げた時に、八雲紫が何度も見てきた笑み。だらしのない主に、八雲藍が何度も見せてきた笑み。
 それは、藍の紫への親しみと。二人が歩んできた長い時間の、証だった。


「今さらですよ、紫様。何処だろうと、何だろうと付き合いますから」
 あ、ぐ、あ、と何もかもが声にならなくて、紫はただ、泣いた。主としての恥も外聞も無いくらいに、強く強くその身体を抱いて、泣き叫んだ。すべての喪ってきたものたちを想いながら、泣き続けた。
 もしかしたら、それが伝わったのかもしれない。
 藍は紫の頭を撫でながら、苦笑するみたいにして。


「それに、今だから言いますけど──私もけっこう、あいつらのことが好きだったんですよ」










  ◆  ◆  ◆










「あら、久しぶりね、八雲紫。なんだか今にも死んでしまいそうだけど」
「お久しぶりね、蓬莱山輝夜。それに八意永琳。ずいぶん探したわ。貴方達はご健勝のようで何より」
「そうでもないわ。既に殆ど神秘の力は使えない。もう私達は、ただ死なないだけの人間よ」


 永遠亭は、第四の幻想郷の外側にあった。
 紫の記憶の中では、彼女達は第四の幻想郷に移動したはずだったが、いつの間に移動したのか。
 おかげでもう殆ど時間が残ってないじゃない、と紫は内心で呟く。まあ、消えてくれてなかっただけマシなのかな、とも。


 屋敷は、ひどく閑散としていた。
 縁側に座る姫君と、その隣に控えて一言も話さない従者、その妙な力で、新たな幻想郷に移っては建て直されてきたはずの永遠亭。しかし今、中に住んでいたウサギ達はいない。彼女達と共に幻想郷の外側に移動することで消滅したのか、あるいは内側に残ったのか。
 紫のふとした疑問を悟ったように、「ウサギ達は、月生まれの以外、結界の中に残ったわ。今頃は精力的に人間を襲ってるでしょうね」などと八意永琳は言うと、面倒くさそうに溜息をついた。彼女の主、蓬莱山輝夜はそれを見てくすと笑い、そのまま笑みを紫へと向ける。


「……で、死にかけの貴方は何をしに来たの? まさか、幻想郷への勧誘ってわけじゃないでしょう?」
「だったらどうするの?」
「もちろん、お断りよ。あんなつまらない場所、もう興味ないわ。……それに、私達と同じように、未練がましくこんなところまで来てしまったみたいだけど……貴方だってもうわかっているのでしょう?」
 ころころと、輝夜は笑う。そのまま辺りを見回して、「広くなったわねぇ」と呟く。


「ねぇ、憶えてる? 貴方があの巫女と連れ立って、この屋敷に殴り込んできた時のこと。この場所はね、あの時に動き出したのよ。それまでは、何も変わりなかった。『永遠』の場所だった。でもあの時から、そうじゃなくなった。たぶん幻想郷っていうのは、そういう場所だったのよ。『永遠』の似合わない、時が滞りなく流れゆく、楽しい楽しい場所……」


 輝夜は懐から、一枚のカードを取り出す。そのカードは色とりどりの光を発しているけれど、あまりに弱々しくて、今にも消えてしまいそうで。
 その光を、輝夜はしばし見つめていた。うっすら微笑んで、目を閉じた。


「あの場所は、永遠ではなかった。変わらない、つまらない世界じゃあなかった。だからこそ滅びるし、だからこそ幻想郷だった。──貴方も、もうわかっているんでしょう?」


 『幻想郷』という名を冠したその場所は。
 第二、第三、第四と、続いているけれど。おそらくは、これからも続き続けていくけれど。
 紫もまた、目をつむる。
 何処で間違えたのか、そもそも自分は間違えたのだろうか。
 間違えていた。間違えきっていたのだ。


 ──紫、貴方はどうして、幻想郷を創ったの?


「私が──私達が愉しみ、大切にした楽園は、もう、無い。妖が生きるための逃避場所ではなく、人と妖が共に在るための場所を『幻想郷』と呼ぶのなら──幻想郷は、もう、とうに滅びていたのでしょうね」


 よくできました、と言うように輝夜は双眸を緩める。
 永琳もまた、小さく息を吐いた。苛立たしげに、続きを口にする。


「それだけじゃあないわ。『幻想郷』という名に取り憑かれて、あんな紛い物を幾つも生み出して……人と妖の関係は、もう取り返しのつかないくらいに爛れてしまった。あるいはこの後、永き年月を『幻想郷』は生き残るのかもしれないけれど……あの場所に、もう、変化は無い。ただ、生きるためだけの場所。『永遠』の名を冠するに相応しい場所になってしまった。──私達は、『永遠』でない世界を選んだのだから。最初の滅びが訪れたあの時に、それを受け入れるべきだった」


 それは八雲紫だけでなく、自身にも言い聞かせているようで。
 だからこそ、紫は、言葉を継いだ。自分達の過ちを認めるために。かつて確かに存在した楽園を、認めるために。


「そう、あの時に既に、幻想郷は無くなっていた。限りある刹那を、人間との至福の時間を、私達は使いきっていた。続きなど、あるはずがなかった。だから、あの時にきっちり、間違いなく──幻想郷は、滅びるべきだったのです」










  ◆  ◆  ◆










 屋敷に帰りついた紫は、幽々子の元へと式神を飛ばした。
 背中を押してくれたことへの感謝と、彼女を置いて消え去ることへの謝罪。長き友だ。それだけが伝わればいい。そも、それ以上を伝える力も残っていない。

 もちろん、計算はできていた。帰り着くだけの力と、式神に与えた力とで、ちょうどすべて。
 指先が、身体のそこかしこが砂のようになる感触。世界に溶けてゆく感覚。
 崩れそうになる身体で、紫は、つい先ほどまで冬眠していた布団の中へと足を滑り込ませた。布団がじんわりと熱を持ち、身体を暖めていく。

 幸せな夢を見たいと、紫は願った。
 失くしたものは、夢の中に在る。夢の中にこそ在る。たしかに存在していたその世界だからこそ、いつだって思い描ける。

 そこにはきっと、誰もがいるのだから。

 また神社で宴会でもやりたいなぁと、笑みを浮かべて。
 紫は、おやすみなさいと目をつむった。



 <了>



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