「ウワアアアアアアアア!!!!」

 レミリア・スカーレットは発狂した。
 もう限界だ。耐えられないのだ。過剰なほどの従者の愛に耐え切れないのだ。
 名前を呼んだらいつでもそこにいる。いつでもそばにやってくる。そんな従者はたしかに頼もしい。頼もしいのだが、度が過ぎる。

「だめ! もうだめ! 私ここにいられない!」
「なっ……何を言うのですかお嬢様! 私というものがありながら!」
「むしろ! あんた! がっ! いるからっ!」
「はなれ! られないっ! ──ああ、考え直していただけたのですね」

 超解釈にぐぎぎぎぎぎと歯を食いしばるレミリアであるが、そもそも十六夜咲夜に日本語は通じない。

「吸血鬼に水浴びは危険ですので、私が身体を拭きますよ。全身くまなく」
「やめて」
「着替えは全部ちゃんと暖めておきました。──ええ、もちろんドロワーズも」
「やめて」
「すみませんが他に食材が無いので、今日のおゆはんは私です」(満面の笑みを向けながら)
「…………」(『従者のメシがまずい』仲間のかぐや姫を想って生きる気力を絞り出しながら)
「お嬢様は冷え性なようなので、私が抱き枕になります。抱いて」
「だかない」

 これまでのことを思い返すまでもない。
 通じない。通じないのだ。


 幼き吸血鬼の言葉は
 従者の正気を取り戻すことが出来るのか?
 盲目の従者の脳は
 主の嘆願を理解することが出来るのか?

 出来ぬ

 出来ぬのだ


「やだー!!!!」

 紅魔館の数少ない窓ガラスの一つにレミリアは突進し、外へと踊り出た。
 あっれこれ太陽出てたら死ぬんじゃね? と外に出てから思ったが、日頃の行いが良いのだろう、お日様はしっかり隠れている。やはり悪魔でも一日一善は大切だ。
 空を一面に雲が覆いつくしている。吸血鬼にとっては、日中ではこれ以上の好条件は無いだろう。

「お嬢様……!!」
「追ってこないで!」

 ガラスが無くなった窓から自身も飛び出ようとした咲夜、それをレミリアは一睨み、強い声で止める。
 わかっている。こうやって家出まがいをしてみたところでいずれ帰ってこなくてはならない。だがほんの少し休暇が欲しい。従者の愛に隙間は無い。パターンも無い。避けきれない。殺しにきている。嘘避けで頑張ってきたがそろそろ残機がゼロだ。
 この重すぎる愛を受け止めるための残機が。ガッツが欲しいのだ。

「咲夜、命令よ! 追ってこないでえええええぇぇぇぇぇぇーーーーーーー!!!!!!」

 叫びながらレミリアは羽を動かした。ぱたぱたぱたぱた必死で動かした。咲夜の方を見ながら羽だけ動かして後ろ向きに飛んだ。
 えええええぇぇぇぇぇぇーーーーーーー!!!!!! と残響だけをその場に置いて、紅魔館が、咲夜がどんどん小さくなっていく。

 飛びながらずっと見ていたが、咲夜は追ってこない。館の中から動いていない。えぇぇぇ……と声を止め、レミリアはふうと息をついた。もう紅魔館も遠く、咲夜の姿は吸血鬼の眼を持ってしてもぎりぎり捉えられる程度だ。
 しかし早く隠れなければ時を止めて追ってくるかもしれない。場所が割れている限り、完全な従者に対して距離は無意味。

 じっと見ると、案の定、咲夜はポンと手を叩き、窓から身を乗り出そうとしていた。
 あのメイドは何を考えているのか。レミリアの予測はこうである。




レミリア「さて、これで咲夜も振り切ったし……とりあえず神社にでも行こうかな」

     ぱたぱたぱた。

レミリア「おーい、霊夢、いるー?」
  咲夜「あらお嬢様……奇遇ですわね」
レミリア「……咲……夜……!?」
  咲夜「ああ、お嬢様を追ってきてはいませんわ……私は私で、神社に用事があっただけで」

     ──そう、咲夜が先に到着している以上、『追いかけて』きてはいないというわけだ。




 ──ああ。
 時を操るとは、なんと反則な能力なのだろう。
 というわけで。

「命令そのにー!! 私が戻るまで時を止めるの禁止いいいぃぃぃぃ!!!!」

 ぴたりと、咲夜の動きが止まる。
 これで勝った、とレミリアは笑みを浮かべた。

「命令一つ破ったらあんたとはしばらく口聞かない!! 二つとも破ったらクビだからねーー!!」

 ──まあ。
 自分がいない間に咲夜も、弾幕ごっこやら何やらで時を止める必要に駆られることはあるかもしれない。
 最悪、命の危機に瀕した時など、自分の命令が咲夜を縛ってしまっては困る。なので命令一つだけ破った場合には逃げ道を残しておいた。仮にそのような状況で命令を破っても、『しばらく』はせいぜい数分程度で終わることだろう。
 もっとも、破った方の命令が一つ目である場合は、その限りでは無いが。

 要するにレミリアは、『時を止めて』『追ってこられる』という事態を避けたいのだ。
 咲夜も所詮は人間。時を止めることなくしては、吸血鬼の速さになどとても追いつけない。つまり、ただ追ってこられても、簡単に逃げられるのだ。

「ふふ、この状態で追ってこれるものなら追ってきなさい……」

 ガラスの割れた窓から動かない咲夜を見やって、レミリアは呟く。
 あの抜け目なく図太い従者を丸め込んでやったのが、愉快で仕方ない。

「さて、これで咲夜も振り切ったし……とりあえず神社にでも行こうかな」

 咲夜をまんまと封じ込めたことに気を良くしたレミリアは、「まっててれいむー」と、上機嫌で神社へと羽をはためかせるのだった。










「おーい、霊夢、いるー?」

 言いながら、けれど人の気配がしないということくらいは感じ取っていた。社交辞令というやつである。
 いないなら勝手に上がっていいわよね、とレミリアは縁側に降り立つ。神社には基本的に、留守でも鍵などかかっていない。無用心であると言えばそうなのだろうが、むしろあの巫女のもとに泥棒に入ることの方がある意味無用心に過ぎる、といったところで衆目は一致している。この郷で巫女の対して盗みを働くなど、彼女のことを知らない無知か、報復を恐れぬ無鉄砲か。
 そうでなければ友達だ。あの魔法使いのような。

 ──レミリア・スカーレットって吸血鬼も友達よね。うん、きっとそうだ。たぶん。

「私は霊夢の友達、友達、ともだち、ともだち、とーもだち、とーもだち……」

 ぶつぶつ呟きながら戸を開ける。やはり誰もいない。
 ──と、卓袱台の上で一枚の紙が自己主張しているのがまず目に入った。その紙には、『魔理沙の家に出かけています。夜までには戻ります。ご用の人間はお賽銭を入れてお待ちください。四半刻待ったらまた入れて、私が早く帰ってくるようお祈りしてください。たぶん善処します。さらに四半刻経っても帰ってこない場合はまた入れてお祈りしてください。何度繰り返していただいても結構です。妖怪はお賽銭を入れて帰ってください』と書いてあった。

「…………」

 見なかったことにした。
 しかし見なかったことにしても現実にこの紙は在る。レミリアは少し考えると、紙の裏に『三日もすれば帰ります。お願いだからほっといてください。あとこの紙は厳重に処分してください。レミリア』と血で書いた。
 そしてその紙を折った。折って折って紙飛行機を作った。外に出て、ちょっとばかり力を注いでやって強化した紙飛行機に自身の一部、蝙蝠をオプションで組み込んで翼まで生やしたかたちで、「そぉい!!」と紅魔館に向けて放った。紙飛行機は空に直線を描き、やがて蝙蝠の羽ではばたき始めた。

 殆ど衝動で出てきてしまったので、あれでは家出に思われるかもしれない。
 実際家出なのだけど、それほど心配するようなものでもない。咲夜を除く、紅魔館に仕える者たちに伝えるための紙飛行機だ。咲夜はどうにもならないのでどうにもしない。
 門番が起きていればきっちり紙飛行機を捕獲してくれるだろう。寝ていれば紙飛行機が鼻ちょうちんのガードを破って鼻の穴の奥にまで先端を突き進めるだろう。そういう運命だ。




 忌まわしき紙切れは遠い場所へと飛び去った。
 さて、とレミリアは座布団を引っ張り、腰を下ろす。自分でお茶を入れても不味いものしかできないのだから、霊夢が帰ってくるまで待った方が良いだろう。それに、勝手に茶を飲んだら霊夢は怒る。三日ほどの居候を頼む相手の心証をわざわざ悪くしようとは思わない──あの紙はそもそも存在しなかったので問題ない。
 そう、あれも、今はただの紙飛行機だ。鳥のように翼をはためかせ、自由に空を飛んでいるだろう。最終的にたどり着く場所は門番の手の中か鼻の中であるが──。

「うー……変なこと思い出しちゃった」

 紙飛行機の、躍動感溢れる力強いはばたきは、レミリアに一つの光景を思い出させた。

 あれは、いつのことだっただろうか。
 自分のお気に入りのドロワーズが、空を飛んでいたのだ。
 ばっさばっさと、両脚が入る部分を翼のようにして、まさしく鳥のように、生命あるもののように飛ぶ姿は、どこか神聖さすら漂わせていた。レミリアは敬虔なる使徒のようにひざまずき、神に祈った。夢なら覚めてくれ、と。

 咲夜の仕業だった。
 咲夜が空を飛ぶ理屈は、実はレミリアにもよくわからない。巫女のように宙に浮く能力でもなければ、魔法使いのように魔法を使っているわけでもない。時間を操る力は空間を操ることにも通じるようで、それで空間を歪めてなんとやら、という説明を受けた気もするがすっかり忘れてしまった。

 咲夜はそのとき、全力で空間を操作していた。ドロワーズの周りの空間を操作して、ばっさばっさとはばたいているように見せていた。陰に隠れて、両腕をぐっとドロワーズに向けて伸ばしていた。「ううううぅ……ぬ、ぐぅ……」なんて唸ってた。歯をぎりぎり鳴らして、必死の表情だった。あからさまに超能力的な何かを使っていた。
 レミリアに見つかると、咲夜は事も無げに「ふぅ……」と額の汗を拭った。超能力的な何かが失われたのか、ドロワーズはパサ……と床に落ちた。咲夜は言った。

「いざというときのためです」

 意味がわからなかった。満足げな笑みで汗を流す咲夜も、床に打ち捨てられて微動だにしないドロワーズになにか切ない気持ちを覚えている自分も、すべてまったくもって意味がわからなかった。
 あの子はもう、動くことは無いのだ。自由にはばたくことは無いのだ。黙ってレミリア・スカーレットの両足の付け根に収まるしかないのだ……ん? 付け根に収まるって、アレを穿くの? なんか鳥みたいにばっさばっさやってたドロワーズを? 滑らかな動きを見せていたドロワーズを? ……うん、やっぱり気持ち悪いからもうアレは儚い。いや、穿かない。「いざというとき……いざというときが来ても良い……」咲夜が呟いた。「いざ、よい、さくや」やかましいわ。



 それは、レミリア・スカーレットが一枚のドロワーズに別れを告げた記憶だった。ちなみにあれ以来、ドロワーズが空を飛んでいるのを見たことは無い。いざというときは、まだ来ていないらしい。

「……咲夜」

 ふと呼んでみても、従者は来ない。
 当たり前といえば当たり前のことに、なんとなしの寂しさを覚えないこともない。
 なんせあの従者はどこにもいないくせしてどこにでもいた。どうやって聞き耳を立てているのか、名前を呼んだらすぐにやってきて、「お呼びですか、お嬢様」などとすました顔で口にする。
 いざというときって結局どんなときだろうって、そんなくだらないことを訊くために呼んでみても、ちゃんと来てくれるのだった。──今は、来ないけれど。

「──ん?」

 回想に浸って心を不安定にしていたレミリア。
 が、嫌な感触が背筋を駆け巡ったため、意識が輪郭を取り戻した。

「……雨?」

 雨の気配。それがすぐ近くまでやってきていた。レミリアの呟きとほぼ同時に、ぽっ、という音が地面を穿つ。ぽっ、ぽっ、と音はすぐに増殖し、やがて途切れを無くす。
 いちおう、レミリアにとって雨は苦手なものの一つである。だからこそ、雨の気配にはもっと敏感に、それこそ降り始める四半刻も前には察知できる程度の感覚を備えているつもりだったが──

「鈍ったかな。まぁいいけど」

 もとよりしばらく帰るつもりは無い。むしろ、霊夢が戻ってきたときにも降り続いてくれているようだったら、ここにいる口実にすらなる。
 さすがに三日間は降り続けないだろうが、一度居座ってしまえばあとは勢いだ。三日くらいなんとかなるだろう。

 ──この時レミリアは、まだ、そんな楽観思考だったのだ。








「……大丈夫でしょうね、この神社」

 しばらくと経たないうちに、レミリアはそんな呟きを漏らしていた。
 いまや神社を襲っているのは雨だけではない。風がごうごうと音を立てて神社を襲い、ぎしぎしという喘ぎに変えている。その間も雨音が途切れることは無い。ぽつぽつ、ぽたぽたと可愛らしい音を立てる時期はとうに過ぎ、ぼたたたたたたた、ずだだだだだだだと殆ど叩くような音が四方から響いてくる。
 強すぎるほどの雨。そして風。これらに対して、紅魔館ほどの頑健さは、この神社には求められないだろう。

「ま、まぁ、大丈夫よね。いちおうちゃんとした家なわけだし。それに最近建て直したはず──」

 ぱりーん! と不吉な音がレミリアの独り言を切った。建物内のどこかのガラスが割れたらしい。室内に風がびゅうびゅう入り込んできて、途端に空気が冷やされる。「欠陥住宅!?」叫んでみて、いやいや窓が割れるのはまあ仕方ない、これだけ強い風なら、と思い直す。そう、レミリアはあくまで冷静なのだ。

 ばきばきばきばきっ!!

「きゃーーっ!!!!」

 冷静さの仮面はどこかに吹き飛んだ。今度のこれはガラスではない、木材が折れて割れる音である。
 ばきばきばりばりバリバリッと音は続く。

「ななななにいまの!? なに!? なんなの!?」

 バリバリ。バリバリ。

「やめて」

 やめてくれない。音は続く。バリバリ。バリバリ。
 風の音が、雨の音が、近い。違う空間で雨が降っているという感触が無い。これはおそらく、先ほどの窓だけではなく、どこかに穴が開くなりして、既に屋内と屋外の境界が完全に失われている。
 音が、なんとなく上の方から聞こえる気がする──思ってレミリアは、天井を見上げた。

「……おぉー……」

 屋根が、持ち上がりかけていた。神社を箱とするなら、まるでその蓋であるかのように。カパカパと開きかけていた。
 壁と屋根の僅かな隙間から、暗い空と雨の線が見える。線の幾筋かが屋内に入り、自分のすぐ傍の畳に濡れ跡を残すに至って、やっとレミリアの頭は回り始めた。

「ままままずいじゃない!! どうするのこれ!? ねぇどうするの!?」

 ──雨は。
 現時点でのレミリアにとって、命にかかわる脅威というわけではない。
 たしかに流水は渡れないことになっている。実際は、頑張れば渡れる。ただし痛い。非常に痛い。雨が一滴肌に落ちるたびに、針で突き刺された程度の痛みがはしる。一滴につき針一本。仮に何もまとわず雨の中に入れば、一分もたずに意識を飛ばせる程度の痛みだ。
 痛いのは確かだが──命に別状があるわけではない。

 さらに言うと、それも、『肌に』雨が落ちるたびであるため、なにか適当に引っ張ってきて厚着すれば、わりとしのげる。落ちてくる水は流水であるが、服に吸い取られた水はただの水分なのだ。

 だからレミリアの最善手は、衣類が収められている場所を見つけ出し、適当に身にまとって、雨の影響の少ない物陰に隠れるといったところだったのだろう。
 しかし混乱したレミリアは、それを逃した。慌てふためいているうちに屋根が完全にはがれ、暗い空へと吹き飛んでゆく。

「きゃーーっ!!!!」

 レミリアは即座に部屋の隅に陣取る。前後左右のうち、これで二方向は壁が完璧に遮ってくれる。
 そして咄嗟に座布団と卓袱台をひっくり返して、上空への盾にした。
 できるかぎり肌の露出面積を少なく! 両腕には盾を装備! あとは限界まで縮こまれ!
 自身に言い聞かせた結果のそれは、レミリア史上最高の、渾身のしゃがみガードであった。

 ばりばり、ばりばり!!

 しかし、まだ音は続く。上の方から聞こえてきていた音が、今度は横からも聞こえてきている気がする。
 レミリアはうっすら眼を開いて、腕と盾の隙間から外を見た。
 ちょうどよいところだった。ちょうど、ぎぎぎぎぎ……ばたーん!! と、神社の外壁がサイコロの展開図のように外側にぱったり倒れるところを目撃できた。
 それは視界の前方だけでなく、背中の後方からも感じた。自分が寄りかかっていた、頼りにしていた後方の壁が、二つとも、外側に向かってゆっくり倒れていった。後ろの首筋にちくりと針の刺さるような痛みを感じ、反射的に羽がピンと伸びる。

「いたたたたたたた!!」

 伸びた羽は、雨の格好の標的だ。電撃にも似たむずがゆい痛みは、しかしレミリアに電撃的な閃きをももたらしていた。
 座布団と卓袱台を投げ飛ばし、目の前の畳に爪を埋め込む。そのまま持ち上げると、レミリアは自分と畳の位置を入れ替えるようにして、畳の下に寝転ぶように入り込んだ。たたみガードである。

「ふ……ふふふ……私を甘く見てもらっては困るわね……」

 余裕をにじませた笑みは、だが一瞬後には驚愕に変わっていた。
 畳という、表面積が大きなものを、風が持っていこうとする力は非常に大きい。もちろんレミリアは風なんぞに力負けするつもりは無いが、肝心の畳が両者からの力に耐えられないというように、ぶちりぶちりとちぎれ始めている。

「く……! ここまで、なの……!?」

 数秒後、レミリアが爪をかけたところがちぎれ飛び、畳が風に奪い去られた──。


 吸血鬼の動体視力は、雨の粒一つ一つを捉えていた。
 数百、数千、数万の流水の粒。
 ああ、これらすべてが私を突き刺していくんだ──レミリアは、諦めに眼を閉じようとして。


 閉じられなかった。
 それを視界に捉えて、反射的に見開いていた。
 信じられないものを見た。




 ドロワーズが。
 恐ろしい速度で幾つも飛んできて、雨の粒を追い越した。
 その一つはレミリアの右腕を覆い隠した。別の一つは左腕を。両脚を、腹を、背中を、顔を覆い隠した。
 一瞬遅れて全身に雨が突き刺さる。しかしドロワーズはそれらすべてをがっちり吸水し、流水をただの水分へと変えていた。当然、レミリアに痛みは無い。

 視界は、ドロワーズ越しでもちゃんと世界を把握していた。
 暗い空、数え切れないほどの雨の線。風に翻弄され飛び回る神社の破片。
 そこに、一人の人間が。見慣れすぎるほどに見慣れた従者が。彼女の銀色は、暗い中でいっそう輝いて。

「あらお嬢様……奇遇ですわね」
「……咲……夜……!?」
「ああ、お嬢様を追ってきてはいませんわ……私は私で、神社に用事があっただけで」

 完全で瀟洒なメイドが、大地に悠然と立っていた。
 彼女は、すました顔を苦笑に崩して、

「……と、言いたいところですが、嘘です。心配で追いかけてきちゃいました。命令破り一つですね」

 何を叫ぼうとしたのかわからない。けれどレミリアは、たしかに何かを叫ぼうとしたはずだった。それは顔にびったりくっついたドロワーズに遮られて、妙な呻き声になってしまったけれど。
 一瞬の安心。それは、隙を待っていたかのように訪れた。レミリアではなく、咲夜の油断を。

 神社という建物の一部が、風に剥ぎ取られ、分解され、そこらじゅうを飛び回っていた。まるで竜巻の中にいるみたいに、神社の跡地を中心としてぐるぐる回っていた。
 それは、小さな小さな破片。拳大の木の破片だった。大きなものなら咲夜も察知していたはずだ。けれど背後、死角から、ごくごく小さなそれが、風によって速度を得て飛んでくるのに、咲夜は気づけなかったのだろう。

「──あ」

 ごっ、と鈍い音が、風に混じって聞こえた。
 咲夜の体が前方に傾いて、なんとか踏みとどまった。でも、咲夜は人間だ。あんな速度の木片が頭に当たって無事なわけが無い──レミリアの絶望を、咲夜は裏切った。

 前に。
 一歩ずつ彼女は、前に向かって歩いていた。
 風など無いかのように振舞っていた、完全かつ瀟洒な姿は既に無い。
 先ほどのような致命的な一撃が無いとはいえ、歩く間に、身体には何度も木片の直撃を受けている。
 それでも必死に、前へ。
 レミリア・スカーレットのもとへと、足を進めていた。


 ──なんで。

 なんで、時間を止めないの。そうすれば、せめて木片からは──。
 頭をよぎった疑問に、答えを出すには一秒とかからなかった。
 
 ──命令破り一つですね。

「ざぐやぁ!!!!」

 レミリアは。
 今度は叫んだ。ちゃんと名を呼んだ。
 ドロワーズの隙間から力いっぱい声を出した。何を言いたかったのか、結局レミリアにはうまく言葉にできなかったけれど、咲夜にはわかっていたみたいで、だから従者は、笑顔で頷いていた。

「お呼びですか、お嬢様」

 だからまたたきの後には、彼女はレミリアの隣にいて、心配そうに幼き身体を見て回るのだ。
 頭から血を流していて、一筋が頬を伝って流れている。だけど表情に苦痛は無くて、ただただ、優しい笑みが。「あらあら、水浴びですか?」とおどけてみせる。

「吸血鬼に水浴びは危険ですので、私が身体を拭きますよ。全身くまなく」

 ふと気づくと、水分に湿らされた身体が乾いていて。

「着替えは全部ちゃんと暖めておきました。──ええ、もちろんドロワーズも」

 ふと気づくと、びしょびしょに濡れていた衣服と下着が暖かなものに取り替えられていて。

「すみませんが他に食材が無いので、今日のおゆはんは私です」

 ふと気づくと、舌の上の甘酸っぱい血液が、心と身体を癒してくれていて。

「お嬢様は冷え性なようなので、私が抱き枕に……」

 いえ、これはだめですねと、咲夜は自身の身体を見渡して苦笑する。どこか抜けた従者は、主の服は持っていても自分の服を持っていないのだ。
 濡れそぼった身体は、せっかく乾いたレミリアの服をたちまち濡らしてしまうだろう。それに咲夜自身も冷え切っているはずで、暖かい抱き枕役なんて、やれそうにない。

 ──だから。

「ううん。いいよ。やってよ、抱き枕」

 レミリアは、咲夜の身体に手を回した。冷え切ったその身体を、決して離さないように。
 雨はいつのまにか、あがっていた。
















 信じがたいほどの風雨をもたらした厚い雲は、まるで元から無かったかのように消失し、遮るものの無くなった夕暮れが、紅い館をさらに紅く染めていた。出て行ってから一日も経っていない紅魔館は、だけどずいぶんと久しぶりな気がした。
 咲夜と共に帰ると、門の所には門番だけでなく、紅白と白黒の二人が見えた。

「……あれ、霊夢と魔理沙?」
「……ええ、お嬢様が出て行った後で、遊びに来たんです。ちょうど帰るところみたいですね」
「なんだ、霊夢ったら入れ違いになったのね」

 ふうんと頷きながら、とりあえず顔でも合わせておくかと思ったあたりで、何か忘れているような気もした。

「あ、レミリア。あんたどこに行ってたの?」
「あなたの神社よ、霊夢。まったく、入れ違いになるなんて」
「何言ってるのよ。紅魔館側から招待してきたのに、入れ違いも何もないでしょ」
「え……?」

 紅魔館側から招待した。
 レミリアの脳裏に浮かぶのは、あのはばたく紙飛行機。あれを見て、咲夜か誰かが二人を招待した……?
 妙な感覚がある。自分には知らされていない何かがあるような……。
 だがレミリアの思考を遮るように、魔理沙が声をかけてくる。

「だいたい、館の主がホイホイ神社なんぞに出かけてしまっていいのか?」
「ん? まあ、いいのよ」
「その結果、館には門番と妹しかいないわけだが」
「え、咲夜はともかくパチェもいないの?」
「いなかったぞ。まあ、おかげで今日も大漁だが」
「もってかないでー……こほっ」

 噂をすればなんとやら。魔導書を手にしたパチュリーが、ふらふら飛んでやって来た。
 彼女が飛んできた方向は、レミリア達と同じ──

「神社の方から……?」
「ぎくっ」
「パチェ、何か隠してる?」
「う、ううん、何も隠してないわ」
「そう。……ねぇパチェ、それにしても疲れてるんじゃない? 降雨の魔法ってそんなに難しいの?」
「うん、まあ、今回は暴風の魔法も同時使用して効果を見る実験込みだったから。それで、これがまたなかなか面白い相乗作用が見られてね……」

 レミリアは、にっこりと笑った。
 パチュリーは、だらだらだらだらと冷や汗を流した。その手が滑らかに動いて、人差し指がメイド長を指す。

「この人に脅されてやりました」
「ちょ、パチュリー様! 言いがかりはやめ」
「さーくーやー」
「あー、なんだかわからないんだけど私ら帰っていい?」
「というか、帰るぜ」

 飛び立つ霊夢と魔理沙を見て、やっぱり何かを忘れている気がして、「おっ賽銭っ。入ってるっかなー」と機嫌よく口ずさむ霊夢を見て、何か大変なことから目を背けているような気がするけれど。
 ひとまず目を背けたままにして、このメイド長をどうしたものかとレミリアは首を傾け──まあいいかと、結論するのだった。

 結局のところ、自分もこいつが可愛くて仕方ないのだ。有能なだけで飼っているのではない。有能で可愛いから飼っている。
 こんな手の込んだ真似までして主の気を引こうだなんて、愛い奴じゃあないか。考えてみると、何事もなく三日間過ごせたら、こいつがおとなしく従って館に引きこもっていたなら、それはそれで拍子抜けだったかもしれない。

 おそらく。
 レミリア・スカーレットも、十六夜咲夜が何らかの方法で追いかけてくるのを、心の底では待っていたのだろう。
 そういう予想外や、自分で生み出せない刺激をこそ求めているから、レミリアは咲夜を従者にしている。

「まあ、お仕置きはお仕置きでちゃんとするけど」
「えっ」
「……なんで嬉しそうなのよ」

 ──まぁ、もう少しまともになるよう教育してやってもいいかもしれないけど。

 思いながらレミリアは、楽しげに、溜息をついた。

















「お嬢様への愛が溢れてこうなりました」(十六夜咲夜、犯行供述の最初の一言)

「どういうことなの……」(博麗霊夢、神社だったなにかを前にして呆然と)




index      top



inserted by FC2 system