いつだったか、ふとしたことで外の博麗神社の存在を知って、私は行ってみることにした。
 何も無いと知りながら、なんとなく行ってみた。だって、本当に何も無いということを、知らなかったから。
 外の世界で、博麗神社にたどり着いた私は、いつものように縁側に降り立った。
 見た瞬間に、違うとわかった。荒れ果てた神社。戸がはずれて外に落ちていた。障子の紙も破れるなり取れるなりで、部屋の中が丸見えだった。腐った畳。溶け落ちたのか何なのかよくわからない電灯。壁はぼろぼろに剥がれ落ちて、そこらに山のように積もっていた。呆然自失で縁側に足をかけると、木が腐っていたんだろう、一発で崩れ落ちた。
 そんな、ぼろぼろの神社が。誰もいない神社が。
 私が置いてきた、見捨ててきたものの成れの果てであるように思えて。
 私はそのとき、外の世界に出て、初めて泣いたのだ。





  『幻想廃墟紀行』





「ふむ」
 遠い昔に住んでいた小さな家を前にして、私はそんな反応を返していた。
 植物の緑色と茶色が壁面から屋根までをほぼ完全に覆い隠し、いや、むしろそれは中にすら入り込んでいるようで、殆ど森の一部と化している。私がここに住んでいたころからその兆候はあったが、いまやかつての比ではない。
 いつだったか、魔法と知識とノリを駆使して家の裏手に茸畑を作ったこともあった筈だが、もはやその面影の一つも感じ取れない。その建物──いや、廃墟と言った方が適切だろう──の周りは、雑草と枯葉に埋め尽くされてしまっている。化け物茸でも育っていてくれたら感動ものだったのだが、当時の私では、この森という自然に対して、後々まで影響を与える術を行使するには足りなかったみたいだ。
 そもそも、いちおうこの家を出るときには、建物に対して、雨風や植物の浸食に抗する魔法をかけていたはずなんだ。
 それがまあ、屋根はところどころ剥がれ落ち、窓ガラスは割れ、そこから木の根の侵入を許している。窓を入り口として侵入した植物どもにとって、この建物はもはや土と同じ、自分達を支える土台のようなものだったんだろう。
 緑色に遮られてよく見えていなかったが、壁はひびが入るどころかちょこちょこ欠損して、部屋の中の姿を外に晒し出していた。いくら雨や風が強かろうと、壁をぶち抜くことはさすがに無い筈だ。とすると、犯人は植物ども。正確にはその根か。
 育つ過程でその根が硬い土を貫き通すように、我が家の壁までも容易く貫いてくれたらしい。まったく自然の力には恐れ入る。


 さて、せっかく来たのだから、入ってみないことには始まるまい。
 記憶に頼って入り口の扉を見つけ出し、そこを閉ざしていた枝葉を魔法で焼ききる。
「おじゃまするぜ」
 そんな言葉が出たのは、もうこの家が私のものではないという意識からだったんだろう。
 扉を開こうとして、しかし何か引っかかっているのか、力をこめて押してもうんともすんとも言わない。実は引くドアだったか、と思い返してみてもそんな覚えは無い。かつてかけた鍵は物理的なものではない、私を承認する魔法によるものだし、そもそも確認してみるとその魔法もとっくに霧散して消えてしまっていた。
 魔法で扉を吹き飛ばすのと蹴りで扉を吹き飛ばすの、どちらがいいかと少し考えて、私は後者を選んだ。肉体強化の魔法。私にそれを教えた奴のことを少しだけ思い出しながら、それはさておき適度に力を抜いて蹴り飛ばす。この建物の強度と私の蹴りの威力を考えると、やはり加減は必要だろう。
 箒を傍らに浮かして、扉を軽く蹴り飛ばしてやる。ばきぃ! と不吉な音を立てて、扉がはじけ飛ぶ。建物自体もみしみしと鳴った気がしたが、幸いにも、そのまま壁面にひびが入って全壊といった事態にはならなかった。


 安堵の溜息をついて中を見やると、うむ、やはりここはもう私のものではなかった。
 私が初めてこの建物を見つけ、ここに住もうと決めたあの時。まあその時点でここは程々に荒れ果てていて、香霖に手伝わせて一ヶ月ほどかけてまともな住居の形を整えたわけだが、それとも比較にならない程度には酷い、なんともカオスな空間が広がっていた。
 外壁だけならまだしも、内部の壁面や床まで、蔦やら根やら枝やら葉やらでびっしりだ。場所によっては床も腐り落ちて、家の中に地面が見えている。一歩を踏み出すたびに、ぱきりだのごしゃりだの五月蝿いので、私は自分の身体を宙に浮かべた。
 だが、すべてが自然に取り込まれているわけでもない。基本的に私は、所有していたガラクタの多くを、そのままここに放置していったのだが。それらがちょこちょこ自己主張していて、『植物に浸食された文明』としての調和すら取れていない。
 パチュリーがうるさかったので本らしきものは全部まとめて紅魔館に寄贈したし、欲しいものがあったら持っていっていいと香霖にも言っておいたが、それで全てがなくなるわけじゃあなかったらしい。香霖の奴め、全部持っていくよう強制しておくべきだったか。


「……だが、まあ、幻想郷の廃墟というのはこういうものなのかもしれないな」
 と、言ってみると、妙な納得がある。
 もう少し生活の名残など残っているのも廃墟の醍醐味かもしれないが、なんせ、魔法の森だ。外の世界の廃墟とはいくらか違ってしかるべきだろう。
 特に、私の家だ。ここを出てからどれくらいの年月が過ぎたのかもわからない。三百、いやそろそろ四百年程度はいくのか? むしろそれを考えてみると、この建物がここまで保たれていることこそ奇跡のようなものかもしれない。若き日の私の保存の魔法もそうだが、どうもこの家を取り巻き、寄り添うようにしている植物達こそがその奇跡の要因であるような気がして、私はなんともいえない感慨を味わっていた。


 これがアリスの家ならどうだろう、と少しばかり興味が湧く。少なくともここよりは、自然に対抗しているのではないだろうか。
 あいつは私よりも長く幻想郷にいたはずだ。頻繁に住居を移すわけでもない……とは言い難いが、まあ少なくとも、私が幻想郷を出たそのときにはまだあそこに住んでいたわけだし。連絡を取ってないからわからないが、もしかしたら、幻想郷大転移の直前あたりまでいた可能性だって無いわけではない。いや、必要以上の馴れ合いを好まなかったあいつなら、あるいは今も──ということは、さすがに無いだろうが。


「まあ、元々あいつのところも行ってみるつもりだったしな」
 私は外に出て、もう一度かつての住処を振り返ってから、箒に跨った。もちろん箒なんぞなくても十分な速さで飛べるが、そこは一種の郷愁だろうか、どうにも、こうしていたくて仕方ない。
 もう此処は幻想郷ではないけれど、やっぱり私にとっては、此処こそが幻想郷だから。世界を股に掛ける大魔法使い、霧雨魔理沙様の、始まりの場所なのだから。
 私はいま一度記憶を呼び戻しながら、かつての友人の家を探して箒を走らせた。




  ◆  ◆  ◆




 かつて、人間であった頃の私が住んでいたこの幻想郷が幻想郷でなくなったのは、確か数十年ほど前のことだったと思う。
 なくなったと言っても、何かしらの理由で滅びただとか、そういうことではない。単純に、別の場所へと幻想郷が移っただけだ。
 というのも、幻想郷へと流れ込むものが、この小さな地の許容量を超えたのである。


 幻想郷は、実在する土地を媒介に、結界によって創られた仮想の空間だ。
 実在する土地を媒介にしているがため、仮想の空間といえど、その広さ、許容量には限度がある。
 しかしそれは逆に言うと、媒介にする土地如何では、その限度をより大きくできるということでもあり──つまり、日本という国の小さな土地よりももっと広く、文明から遠い場所に、幻想郷は転移されたのだ。幻想郷大転移と呼ばれている。


 さて、今になって私がここを訪れているのは、この幻想郷が本当に無くなるらしいという噂を小耳に挟んだからだ。この地に住んでいたすべてのものが新たな幻想郷へと移動を終えたとのことで、もう今日のうちに、この空間は完全に消滅するとか。
 つまり幻想郷に住む全ての人妖が新天地へと移住するのに、数十年もかかったらしい。面倒くさい奴ら、と言ってしまうのは酷だろうか。そもそも幻想郷を出て外の世界で数百年を過ごしていた私には、言う資格も無いのかもしれないが。


 ともあれ、霊夢と紫に無理を言って幻想郷を飛び出した手前、なんとなしにここに帰ってくることを避けていた私も、さすがに最期とあっては、懐かしさに惹かれて戻ってきてしまったというわけだ。避けていたというか、ここ最近、滅亡寸前になって結界が揺らぐまでは、帰ろうとしても帰れなかったわけだが。管理者もいなくなったのか、今の状態なら、私の独力で結界を超えられる。今すぐに幻想郷が崩壊しても逃げられるという算段だ。


 まあ、既に全員が移住を終えているということなので、戻ってきてみたところで、残っているのは建物──あるいは私の家のような廃屋だけ、なんだがな。




  ◆  ◆  ◆





 かくして私はアリス邸にたどり着いたのだが、これがなかなかどうして見事な廃墟っぷりであった。
 自身の領域と魔法の森とを区切るように、アリスは自宅の周りに鉄製の柵を立てていた。それがあるものは錆びて朽ち、あるものは中ほどから折れ、またあるものは植物に寄生されるようにしてかろうじて立っている。もはやこの柵が機能していないのは明らかで、それがこの領域の主の不在──いや、領域が人形遣いから自然へと返還されて久しいということを告げていた。
 用を成していない柵を飛び越えるようにして家の前に降り立つ。やはり柵の外と内で、特に変わりはない。人形達によって手入れされていたはずの敷地は荒れ果て、脚の付け根くらいまである雑草が、絡みつくようにして歩行を妨げてくれる。


 また宙に浮かんでみようかと思って、いやそれも味気ないかと思い直す。こうやって茂みを無理矢理にかき分けるのが、むかし胸に抱いていた冒険心のようなものを蘇らせてくれる気がする。
 手と箒で草を押しのけながら、アリス邸の入り口へとたどり着く。
 と、右足が何かを蹴り飛ばした。石かとも思ったが、それにしては感触がおかしい。見てみると、草の緑とも土の茶色とも違う、黒や白や金や赤──何か懐かしい色合いが目に映る。私は草に手を突っ込んで、それを引っ張り上げた。


「……アリスの人形?」
 それは果たして、かつてアリスの手足として動いていた小さな人形であった。
 泥にまみれた服も、アリスや私に似た金髪もぼろぼろで、顔にはひびが入っている。持ち上げると、片方の手から鉈が落ちた。何に使っていたのだろうと思って、ふと、草刈りという単語が頭に浮かんだ。
 魔力の残滓は感じ取れない。完全なる抜け殻だ。
「……お疲れさん」
 私は言って、さてどうしたものかと腕を組んだ。
 アリスは此処にはいない。此処が無くなるまでに戻ってくるかも定かでない。……と言うかあいつ、本当に生きてるんだろうな? 中に入ってみたらあいつの死体が、なんてことはさすがに勘弁して欲しいんだが。
 魔法使いに寿命は無い、なんてことは無い。肉体的には不老だが、精神が磨り減っていって死ぬということはある。まあ蓬莱人じゃないんだし、肉体的にだって、不老ではあっても不死ではない。頭を潰されれば死ぬ。


 まあ、なんだかんだであいつが死ぬというのは想像しがたいので、さておき。
 問題はこの人形だ。埋めるか燃やすくらいならしてやってもいいが──。
「……ひとまず、アリスの死体があるかどうか確かめるか」
 ここで悩んでいても仕方ない。私は人形を入り口の傍に置いて、扉に手をかけた。
 鍵は……どうやらかかっている。魔法によるものだ。認められた者以外の侵入を防ぐタイプ。アリスと、おそらく人形達が、ここで言う『認められた者』だろう。
 仕方ないので無理矢理ぶち抜くか、と思ってみた瞬間、手応えが変わった。ノブに手をかけて押してみると、簡単に回る。
「……解除された?」
 つまり私も、『認められた者』だったということか。
 何か妙な嬉しさが湧いてきて、だけど同時に、「あんただったらこうしないと扉を壊しちゃうでしょ」と溜息をつかれたような気もした。


 中に入った私は、予想外の惨状に、「おお……」と感嘆の息を漏らしていた。
 私の家のように、自然に侵食されているということは無い。無いのだが……。
「なんでこんな散らかってるんだ?」
 それは、アリスらしからぬ散らかりようだった。
 なるほど、窓ガラスもそこらここら割れているから、雨風が室内に吹き込んだりということはあったんだろう。しかしそれにしたって、棚に収められていた食器や、人形の小さな服があたりにぶち撒かれているのは、風にしては悪戯が過ぎるんじゃないだろうか。
 注意深く見てみると、室内にも数体の人形が倒れ伏していた。やはり魔力の反応は無し。と、そこで、人形が食器の欠片を持っていたり服に埋もれていたりすることに気づいた。……どうやらこいつらは、仕事の途中で機能停止してしまったらしい。その結果がこの散らかりようというわけか。
 壁紙が剥がれて落ち、天井の一部であった木材も腐食して折れ、そこらに落ちている。ガラスや食器の破片は、けれど埃や枯れ葉に覆われて光を反射しようとはしない。洋風で少しばかり気取った空間は過去の産物。そこにはもう、灰色の世界しかなかった。


 この人形達は、いつごろまで動いていたんだろう。アリスはどのくらい前までここにいたんだろう。いずれアリスに会うことがあれば、わかるかもしれない。今はわからない。
 アリスが何処かに──あるいは、新しい幻想郷に──行ったのだとしたら、何を思って人形達をここに残したのかも、謎でしかない。ただ、私が思うに、アリスはそのうちここに帰ってくるつもりで、最低限の掃除等をする人形を残していったんじゃないだろうか。
 まあアリスは、気が向かなかったなら、これらの人形達を放置したまま、もう此処には戻ってこないという可能性も考えられるが。
 あいつは人形に感情移入しない。人形を人形として、あくまでその用途にのっとって大切に扱い、愛している。ここの人形達を回収しに戻ってくることがあっても、それは「可哀想だから」なんて理由でないことだけは確かだ。だいたいあいつは人形を爆弾扱いする奴なのだ。


 思いながら、人形の保管庫を覗いてみる。
 人形は殆どいなくなっているようだった。私がいた当時、ここには千体程度の人形が保管されていたが、それが今は、せいぜい三十体程度か。
 隊列を組むようにして棚に並んでいた人形達は、多くが床に落ちて、虚ろな目で天井を見上げていた。
 ここも、窓が割れている。人形の上にガラスの欠片が積もり、吹き飛んだカーテンがそれを覆い隠して、さらにその上から埃と木片が積もっている。
 なかなかに物悲しく、おぞましい光景だ。
 この人形達がまるで生きているように動く様を見ていた者としては、まるで死体を見ているかのようだ。
 私は息を吸って吐いて、この人形達を『物』と認識するべくイメージを強固にした。
 こいつらは、物。
 物でしかない。
 廃墟の一部。アリスの生活の、名残……。
 眼を閉じて、そしてまた開く。おぞましさを逃がすことに成功した私には、物悲しさだけが残っていた。


 私はもう一つ息を吐いて、研究所の方にも足を運んでみた。
 アリスの研究所はそれまでと違って、窓が割れていなかった。カーテンも閉められていて、暗闇の中、静かに佇んでいた。
 外気から守られた部屋は、書物が詰め込まれた本棚にも、木造りの椅子にも、人形の服のためだろう机に広げられた布にも、どこか昔の面影を残しているようで。
 ふとすると、椅子に腰掛けたアリスが、人形に紅茶を運ばせ、自分は書物をめくりながら新たな人形を創る、そんな過去の情景を幻視しそうで。
「……さて、そろそろ他所に行くか」
 私は少しの名残惜しさを覚えながらも、その部屋を、アリス邸を後にした。
 部屋で、廊下で、そして外で停止している人形達に、触れることは無い。おそらく、壊れてしまったこの人形達も含めて、残っている全てが、証なのだ。この場所に、アリス・マーガトロイドという人形遣いがいて、人形達はそいつに遣われて、それなりに平穏な日々を過ごしていた、その証。少なくとも、私がどうこうするようなものではあるまい。
 入り口に置いた人形を、一度だけちらりと見やって。
 私は再び、懐かしき幻想郷の空へと飛び出した。




  ◆  ◆  ◆




 幻想郷を出て以来、私はあの慣れ親しんだ神社に行っていない。
 一度訪れて以来、私は向こう側の寂れた神社にも行っていない。


 思って、想って、泣くことはあったけれど。




  ◆  ◆  ◆




 人里や香霖堂も回って。ここが朽ち果てた、うち捨てられた世界なのだと理解して。
 私が最後にやって来たのは、やはりこの神社だったのだ、が。
「……なん、で」
 空から神社を視界に捉えて、その時点で違和感を感じてはいた。
 実際に降り立って、目の前にしてみると、ついつい呟きが漏れ出る。驚きによるものだ。
 いやに、綺麗だ。
 人の気配は無い。誰もいないのは間違いないのに、まるで、今でも人がいるかのような。
 高鳴ろうとする胸を、押さえつける。
 ここに来る前、実家が無くなってるのを見たり、香霖堂が半壊してるのを目にしてきて……私は、ここに来るにあたって、少しの諦めと、覚悟を持ってきた。
 私達が過ごしてきたあの時間の痕跡は、もう殆ど残っていないんだろうなって。アリスの家があのくらい残ってたのが、本当に奇跡だったんだなって。
 だから、まあ。
 この状況は、少しばかり嬉しいわけなんだが。
 この場所をまた見られるとは、思ってなかったから。


 唇が、手が震えるのを自覚する。小走りで縁側に回ってみると、やっぱり、あの頃とまったく変わらない。
「おーい、来たぜ、霊夢」
 できるかぎり気安く、あの頃みたいに、口に出してみる。声が振動していないか、自信は無かった。
 戸に手をかけて、引いてみると、滑るようにして開かれた。床に手をあててみても、埃の一つも落ちてない。そうだ、あいつの仕事といえば妖怪退治と茶飲みと掃除の振りだ。茶飲みで腰掛けるこの場所に埃が積もっている道理が無い。
 霊夢。
 博麗霊夢。
 あいつは私を送り出したあと、どんなふうに生きて、どんなふうに死んだんだろう。
 私は、魔法使いになった。魔法使いになって、更なる知識を求めて、広い世界を求めて、好奇心にも従って、幻想郷を出た。それは、人間をやめる気が無かったあいつとは違う道を選んで、あいつを置いていく選択だった。後悔は無いつもりだった。後悔しないようにと思った。思い続けてきた。後悔するなんてあいつに失礼だと思ったから。
 私の決断を聞いたとき、「ふーん、頑張って」って無関心そうに笑ってくれたことも。最後の最後、私が幻想郷を去るとき、少しだけ泣いてくれたことも。全部を裏切らないように、何一つ後悔しないようにしようと思った。
 でも、だめだった。
 だって、外の世界の博麗神社は、忘れられて荒れ果てた、まさしく廃墟だった。


 いつだったか、ふとしたことで外の博麗神社の存在を知って、私は行ってみることにした。
 何も無いと知りながら、なんとなく行ってみた。だって、本当に何も無いということを、知らなかったから。
 外の世界で、博麗神社にたどり着いた私は、いつものように縁側に降り立った。
 見た瞬間に、違うとわかった。荒れ果てた神社。戸がはずれて外に落ちていた。障子の紙も破れるなり取れるなりで、部屋の中が丸見えだった。腐った畳。溶け落ちたのか何なのかよくわからない電灯。壁はぼろぼろに剥がれ落ちて、そこらに山のように積もっていた。呆然自失で縁側に足をかけると、木が腐っていたんだろう、一発で崩れ落ちた。
 そんな、ぼろぼろの神社が。誰もいない神社が。
 私が置いてきた、見捨ててきたものの成れの果てであるように思えて。
 私はそのとき、外の世界に出て、初めて泣いたのだ。


「……ふう」
 私はしばらくの時間を、そこで過ごした。
 縁側に、ただ腰掛けて過ごした。あの頃のように。過ぎ去った日のように。
 隣に一人分のスペースを空けて、眼をつむっていると、そこに、あいつが居るような気がした。私を差し置いて、お茶を楽しむような吐息が。声が、聞こえたような気がした。

「茶が出てこないのは不服だが……まあ、仕方ないか。そろそろ行くかな」

 ──そうそう、早く行きなさい。あんたがここを出たら、この幻想郷は無くなるから。

「なんだ、待っててくれたのか。そりゃ迷惑をかけたな」

 ──幻想郷だからね。あんたが失くして忘れられなかったものを幻想にして、それが最期よ。

「私が、失くしたもの」

 ──忘れないでいてくれたもの、よ。まったく、すっかり外の人間になっちゃって。

 あいつは、笑っていた。穏やかに、笑っていた。「そっか」私は呟いていた。

「……そっか。そう、だな。幻想郷、だもんな」

 ──そうよ。さっさと行きなさい、ばか。私だって、行かなくちゃならないんだから。

「ああ。……ああ。悪いな、待たせて」

 ──まったく、あんたは相変わらずしょうがない……。

 眼を閉じたまま、私は立ち上がった。箒を呼び寄せて、右手で掴み取る。

 ──それじゃ、

「また、な」

 世界が崩れる感覚。幻想郷という廃墟が、無くなってゆく。新しいものに、移り変わってゆく。
 箒に跨って、崩壊の波を超える。世界の垣根を飛び越える。
 そうして私が目にしたのは、外の世界の空。
 寂れた博麗神社の、上空だった。


「……しかし、考えてみたら、よく残ってるもんだな。こいつも」
 ぼろぼろの神社に苦笑を投げながら、私は世界が閉じる音を聞いた。
 幻想郷は、消滅した。
 私の家も。
 アリスの家も。
 博麗神社も。


 笑顔を作るのに、無理な力は要らなかった。
 あいつが笑ってたから、私も同じように笑っただけだ。
 新しい幻想郷はどこだっただろうか。海を渡った、大陸のどこかと聞いた憶えがある。


 ──それじゃ、また次の幻想で。
 
 
 
 
 




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