──我が親愛なる主がいくらか自虐的だったころの昔話を、少しばかり。




 /猫


「にゃあ」
「にゃーにゃーにゃー」
「んにゃああああ!」
「しゃー!」
 猫、猫、猫の声が、二つ三つ四つと重なって大きくなって、屋敷を埋め尽くすんじゃないかというくらいに拡がります。
 その発生源には、十数匹の火焔猫が、暴れ、他を押しのけ、ひしめき合っています。これがもし人化していたならばたいそう暑苦しい光景でしょうけれど、幸か不幸か、わたしたちの中に人化できる者は今のところありません。猫は猫として、猫たるままに、ぬくもりを求めて今日も争いを繰り広げているのです。
 地上ではそうでもないようなのですが、わたしという例外を除いて、基本的に地下の猫はすべて黒っぽい毛並みです。だから火焔猫の山も、真っ黒な何かが幾つもうごめいている不気味なものに見えてしまいます。あの中にもしわたしが入っていったならば、一人だけが白くて、さぞかし目立つことでしょうね。


 わたしたちが暮らしている、地霊殿というこの屋敷は、灼熱地獄跡に蓋をする形で建っているとかなんとかで、ようするに下の方ほど熱源に近いのです。
 だからここの床はいつもほんのりと温かみを帯びていて、ぬくもりが大好きな火焔猫どもときたら、こたつで丸くなる代わりに床にべったりと張り付いていたりします。かく言うわたしもつい先ほどまでは、床にべったりしてる一団の構成員だったのですけども。
 しかしこの床ぬくぬくには一つ問題がありまして、床の暖かさは申し分ないのですが、何を隠そう空気に触れている部分がやや寒いのです。床にくっつく表面積を少しでも増やそうと、ムササビのように身体を広げるほどに、空気にふれる面も大きくなるのです。
 温まりたいのに温まりきれない。こんなジレンマを抱えたまま、わたしたち、古明地さとり様のペットであるところの火焔猫は、ひとまずの策として他の猫と寄り添ったり、適当な布を身体にかけるなどの処置を取っていました。


 しかしそれも昔の話。このジレンマを克服する画期的な方法を、お燐と呼ばれる一匹の火焔猫が編み出してしまったのです。彼女は賢く力も強い猫で、人間の形を取るのも近いだろうと言われています。
 さてその方法というのは、既に床べったりをしている他の火焔猫と床との間に入り込むというもの。下からは床でぬくぬく、上からは他人(他猫?)の体温でほくほくというわけです。他の火焔猫を毛布代わりにしてしまうわけですね。
 毛布代わりにされた方も、下にいる猫の体温でぬくぬくできることに変わりは無いのだから、けっきょく誰も損をしない画期的な方法だ。
 ……と、お燐は当初そうやって他の猫を言いくるめていたわけですが、いくらお燐が他より頭の回る猫で、他がお燐より頭の回らない猫だと言っても、そんな理屈がいつまでも通用するわけありません。


 ちょっと待て、下にもぐりこんだやつだけ得をするなんてずるいじゃないか!
 ……とまあ、そんな話になるわけですね。ひとの不幸は蜜の味。同様にひとの幸せは熱湯の味です。
 熱湯がもしも美味しいならば、一瞬の熱を我慢して口に入れようという勇気ある猫もいるかもしれません。けれどもちろん熱湯は無味無臭ですので、猫舌に大打撃を受けるだけです。美味しくもなく熱いだけ、熱湯の味とはつまり猫用語で、とても嫌だという意味ですね。


 そういうわけで火焔猫たちの間では、下へ下へと潜っていく陣取り合戦が見られるようになったのです。
 人間様のようにお利口であれば、順番を決めてその通りに良い場所と悪い場所を交代してはどうか、なんて提案がなされたのかもしれませんが、わたしらは本能に忠実な猫ですので、そんな小賢しいことを考えるのはわたし一人しかいなかったわけです。
 ただ、わたしはじっさいに人間様を見たことはないのですが、人間様というのは、集団で在ることによって、個々の力では敵わない妖に対抗するなどの噂を聞いています。そうすると、人間様のように小賢しく、だけど集団に溶け込むのに苦労して、いまもなんとなしに陣取り合戦から離れているわたしは、いかにも中途半端な存在じゃないかと思ってしまうのですけど、これもあんまり考えると寂しくなってくるのでこのくらいにします。


 そうしているうちに、わたしの眼前で執り行われていた陣取り合戦が終了していました。陣取り合戦には制限時間があるのです。もっとも、それがなければ、ぬくぬくポジションを求めていつまでも争いが続いてしまうのでしょうけれども。それはあまりに不毛というものです。
 戦の後に残るのは、猫の山です。今回参加したのは、ひいふうみいの十二匹。十二匹分の山の表面にいる子たちは一様に悔しそうに「にゃぁ……」とうなだれています。
 山の中心、尻尾だけがちょろんと覗いているあたりそこに一匹いるのでしょうけど、そこから「んにゃあああああご!!」と勝ち鬨が上がっています。聞き間違いでなければ、お燐の声でしょう。押しつぶされてくぐもっているので、敗者の声と言われても信じてしまいそうなところがありますが。


 闘争の終結を目の当たりにしながら、わたしは独り、床にべったりとくっつきました。戦争中に床にひっついていると、それだけで戦いの参加者とみなされてしまうのです。迷惑なものです。
 前半身が、床の、ちょうど良いあんばいの熱をいっぱいに感じ取ります。この床は、熱いのではなく、温いのです。まるで猫の体温にあわせて調節されたかのようで、こうしていると、身体がゆるくなって、とろけて、床に同化していくような気がするのです。
 けれどそうやって意識までも溶けていきそうになった頃に、風がひゅう、と背に吹き付けられるのもいつものことです。このお屋敷はずいぶんと広いので、屋内とはいえふとしたことで風が吹いてしまうのです。身体がぶるっと震えて、わたしの意識は床からべりっとはがされ、覚醒するのです。
 目の前には猫の小山がありまして、あの中心にいる今日の勝者はさぞかし気持ちよく眠れているのだろうなあと少しばかり羨ましく思って、それでわたしのお昼寝の時間は終わりです。正確なところ眠ってはいないのですけど、まあ、こたつで眠ると風邪をひくのと同じく、床で眠っても風邪をひいてしまうわけです。このくらいが止め時なのです。


 普段ならこれから外に出るなどして散歩を楽しむのですが、今日はそうはいかないようでした。
「メイ。メーイー」
 さとり様の呼ぶ声です。はいはいここにいますよ、と思い返しながら、わたしは「にゃあ」と一声あげました。そうしながら既に、ひたりひたりと近づいてくるさとり様へと向かって駆け出しています。ちなみにさとり様の来訪にもかかわらず、背後の猫山に動く気配はありません。さとり様に対してみんな畏敬の念を抱いているのは確かですが、この程度の戯れで何か言うほどに狭量ではないだろうと、信頼もしているのです。
 たったかたったか床を蹴り、わたしはさとり様の胸の中に飛び込みました。あまり速度をつけてしまうとさとり様の小さな身体が衝撃に負けてしまうので、もちろんそのあたりは調整しています。さとり様は「わふっ」と声をあげてわたしを受け止めます。
 すると、バチリと嫌な感触、少しの痛み。「あたっ」とさとり様が手をびくつかせます。申し訳ないことですが、そこらへんでゴロゴロしている猫には静電気が溜まりやすいのです。それにしても可愛い反応です。まるで子供みたい。
 わたしがそのままさとり様の胸に身体を擦り付けていると、子供のように、と思ったのが読まれたのでしょうか、ぱちんとおでこを弾かれました。
 にゃあ、と反射的に声が出ますが、それほど反省してないのもさとり様にはまるわかりです。だからなのでしょう、さとり様は、わたしを見て、はあと溜息をつくだけでした。


「まあそれはともかく。よかったわ、まだ散歩に出てなかったのね。ちょっと頼みたいことがあるの」
 むう、頼みたいことですか。
 正直なところ嫌な予感がするので、今からでも散歩に逃げたいところなのですけれど。
 わたしが思うと、さとり様はくすくす笑って、
「駄目ですよ。いろいろ考えたけど、たぶんペット達の中では、あなたが最も適役なんですから」
 ペット達の中で、適役。
 よくわからないことです。火焔猫の中でも、わたしは特に目立つ存在ではないはず。それこそお燐なりに頼めば、力も社交性もわたしなどより遥かに上ですし、なんでもこなしてくれると思いますが。
「お燐だと少し難しいでしょうね。何度でも言うけど、あなたが最も適しているのよ。なんてったって、あなたくらいにひねくれた猫は他にいませんから」
「……にゃあ」


 少しばかり自信を持ち始めていたわたしですが、それも最後の一言でみごとに砕かれてしまいました。採用条件は『ひねくれていること』だったようです。なるほどそれならあのお燐にも、いや他のどの火焔猫にも勝っているかもわかりません。なんせ他の猫はみんな能天気ですし。
 いじけた思考を垂れ流すわたしを、さとり様は優しげに笑んで見つめていました。「あと、採用条件としてもう一つ」そして、もったいぶるようにして言葉を続けます。
「ひねくれているけれど……根っこは、真っ直ぐなことですかね」
 ……むう。
 そんな、いったん引いて押すみたいな緩急を付けられると、備えをしてなかったわたしとしては少し反応が難しいわけです。さとり様は相変わらずにこにこ笑ってわたしの目を見つめてくるのですけど、つい視線を逸らしてしまいます。こうやって考えているだけで返事にはなっているのですけれど、なんだかうまく形になりません。
「まあ、本当に駄目であるようなら、帰ってきてもらいますよ。とりあえずはしばらくの間ですから……ええ。まあそういうわけで、妹のこと、お願いしますね」
 そうやってわたしがあたふたしているうちに、さとり様は続きを口にしました。お願いの内容とは、どうやら妹様のことであるようです。


 ………………むう?
「………………にゃ?」


 妹様のこと。お願い。
 わたしがその意味を飲み込もうとしているうちに、さとり様の顔が、胸が、わたしから離れていきます。どうやらさとり様の正面、つまりわたしの背後には、いつの間にか誰かがいたようです。さとり様はその誰かへと、わたしを手渡ししました。


「わあ、猫だ。白っぽい毛って珍しいね。お姉ちゃん、この子もわたしが飼っていいの?」
「ええ、大切にしてあげてくださいね」
「うん、今度はちゃんと大切に飼うわ!」
 わたしが首を傾けると、妹様、古明地こいし様の顔が目に入ります。そして冷静に、冷静に考えて、どうやらわたしは妹様に飼われることとなっているようで──。
「にゃ、にゃあっ! んにぎゃああっ!」
「わわっ、急に暴れ……!」
 急に暴れたところのわたしは、妹様の手を振り切って、またさとり様の胸へとダイブします。幸いにも、先ほどと同じくしっかり抱きとめてもらえました。これでたとえば「もうわたしはあなたの飼い主じゃありませんから」なんて言われて床に落とされてたら、ちょっと泣いてた自信があります。
「……よくまあ、そんな後ろ向きな思考ができますね。他の猫とはいったいどこが違ってしまったんでしょう」
「なになに? この子、後ろ向きなの?」
「ええ、後ろ向きですよ。頼めば後ろ歩きしてくれると思います」
「すごーい!」


 何がすごいのかわかりませんが、とにかく状況としては、どうやらわたしは大ピンチです。
 実は、さとり様に乞われて妹様のもとに出張した火焔猫は、既に何匹かいるのです。しかしその誰もが、帰ってきた時には、何か地上への大きなトラウマを植え付けられていました。妹様のもとに行った猫は誰もが「もう地上には行きたくない」「妹様は酷いお方だ」と口をそろえるのです。
 噂話が好きな猫たちのもとで、けれどその話の詳細は知られていません。どのような事情があれ、それはさとり様の妹様への悪口に結びつくことでしょう。猫たちが妹様のことを恐れ嫌ってしまったら、さとり様が悲しむだろうとの配慮により、トラウマを植え付けられた猫たちも口外しないようにしているようです。……まあ、実際のところ既にじゅうぶん恐怖を感じているのですが、猫たちはあまり気にしていない、と言うよりもおそらく気づいていないのでしょう。おおよそ猫達は人情はあっても、肝心なところで頭が足りていないものなのです。
 さておき。ともかくこのままではわたしもそのうちの一匹と化す可能性が高いわけで──


 ──と。
 ぴん、とおでこが弾かれました。ふにゃあ、と声が出て、涙が浮かんだ目でわたしがさとり様を睨むよりも前に、
「大丈夫ですよ」
 さとり様はわたしをぎゅうと抱きしめて、耳元でささやいていました。「ごめんね、まだこの子にちゃんと説明してなかったのよ。今から説明するから、ちょっと離れててくれる?」と妹様を遠ざけます。妹様はなにか目をぱちくりとさせながら、従いました。
「実は、採用条件はもう一つあるんです。──あなたは、とても頭が良い」
 ぼそりぼそり、と。
 ほんとうに小さなその声は、妹様に聞きとらせないという強い意識が感じられて。
「だからきっと、あの子といて、いろいろなことに気づいてくれると思います。わたしがあなたに、何をお願いしているのかも」


 わたしは、あなたに──。
 さとり様の言葉を聞いて、だけど意味がわからなくて、わたしは先ほどの妹様と同じように、目をぱちくりさせることしかできませんでした。
 さとり様は、苦笑いしています。どうしてでしょうか、それはほとんど、泣き笑いに近いようにも見えました。


「ねえお姉ちゃん、お話終わった?」
「ええ、終わりましたよ」
 わたしの気持ちが固まったのを読み取ったのでしょう、さとり様は躊躇いなく言いました。
 さとり様と妹様の視線を受けて、わたしは「にゃあ」と返しました。肯定の意味合いなのですが、さとり様はともかく妹様に通じているのかはわかりません。
 思うに、わたしの返事など妹様はほとんど気にしていなかったという線が強いような気がしますが、さとり様と違って妹様の心の内はまったくわからないのです。


 わたしの身体が、妹様に抱き上げられます。
「たしか名前、メイだったよね。よろしくね!」
 視界を埋め尽くすくらいに近づいた妹様の笑顔に、わたしも「にゃーご」と返します。ふと思うと、妹様は笑顔の印象が妙に強いです。むしろ笑顔以外を見たことが無いようにすら思います。


 わたしを抱いたまま、妹様は走り始めました。地霊殿の外へ出るつもりなのでしょう。わたしはちらりと、さとり様を見やりました。
 さとり様は、こちらに向けて頭を下げていました。たまにここを訪れる閻魔様に応対する時だとかを除けば、初めて見る姿でした。それはひょっとすると、わたしに対してなのでしょうか。あのお願いに対してなのでしょうか。


 わたしは、あなたに、妹への復讐をお願いしたいのです──と。
 さとり様は、そう言ったのです。














 /猫とこいし


 もともと、わたしたちに、いま使っている名前などというようなものは必要ありませんでした。
 猫には猫の認識というものがありまして、毛の色の微妙な違い、体格、鳴き声、顔立ちなどなどで個体識別はじゅうぶんなんです。そもそも、個体というものをあまり意識しませんしね。家族と、あとわずかな知り合いをおさえておけばそれで猫には問題ないですし。
 必要になったのは、さとり様に飼われるようになったときです。わたしたちに必要なくとも、さとり様にはあった方が良かったのでしょうね。さとり様は、ペットたち一匹一匹に、それぞれ名前を付けていきました。
 わたしには、「メイ」という名をくれました。「名」という文字を音読みした(人語を解することや文字を読むことくらいはわたしにもできたのですよ。人化ができないので発声はできませんが、さとり様と話せればいいので必要ありません)だけじゃないかなとわたしが思うと、さとり様は、


「いいえ、わたし達の名字の『古明地』から取ったのですよ。漢字を当てるなら『明』です。あなたの明るい毛並み、わたしは好きですよ」


 ……なんて言うのです。
 そもそもわたしは、さとり様に飼われるまでは一匹猫を気取って誰ともつるまず生きていたのですが、というのも、どうにも他の猫とうまい具合に歩調を合わせられないところがあったのですね。能天気で明るい黒猫たちの中に、小賢しくてひねくれた白猫が一匹迷い込んでいたわけですから、当然といえば当然なのかもしれません。
 どうしてわたしの毛が白いのかはわかりません。もしわたしに親がいるなら訊いてみたいところですが、何の記憶も手がかりも残っていないので、おそらくこの先もできないでしょう。
 実際わたしは、白いものは白いのだから仕方がないだろうと、その点については諦めていました。
 諦めながら、呪っていました。もしかしたら、この毛の色だけでも普通だったら、もう少し上手に他の猫たちに溶け込めるんじゃないかと。
 呪いながら、意地を張っていました。他のやつらなんてどうでもいい、わたしは独りで生きていくんだと。
 今にして思えばぜんぜん諦められてませんし、まあ、毛の色が普通だったところで溶け込めやしないでしょうね。ひねくれてますし。
 意地も張りきれてないですね。結局、独りで生きるのが大変で、さとり様のペットに志願したわけですから。
 生まれだとか生き方だとか、そういうものを間違えてしまったんだと信じて、ただ呪って、自堕落に過ごしていました。


 とまあ、そんなのがさとり様に会う前のわたしだったわけでして、そんなわたしにとって、さとり様の言葉は……素直なところ、嬉しかったのです。異端の証だった白色の毛並みを認めて、ご自身の名前を分け与えてまでしてくれたわけですからね。
 正直、わたし自身、わたしの身を疎まんでいたところがありました。この毛の色だけでも普通だったらと呪っていたわけですし。
 さとり様は、それを、それでいいと。
 わたしを、わたしでいいと認めてくれたのです。
 それで、さとり様はわたしにとって、間違いなく特別な存在になりました。
 他の猫とは順序が逆ですね。他の猫は、心を読むさとり様に惚れ込んで、さとり様のペットとして志願したわけですけど。わたしの場合は、さとり様のペットになった後で、さとり様が好きになったんです。




 ──などといったようなことを、「メイ。メイね。いい名前よね」と言ってくれた妹様に自己紹介代わりに伝えてみようかと思ったのですが、妹様はさとり様と違って心が読めないので、「にゃあ。にゃあ」としか伝わらないわけです。メイという名の由来が自分の名字にあることに、妹様は気づいているのでしょうか。
 妹様は笑顔でわたしを抱いて、地底都市の上空を飛んでゆきます。わたし自身は飛ぶことはできないということをさとり様から聞いたためか、がっちりと捕まえてくれています。
 地底の建物は多くが二階か三階建てです。妹様は時折その屋根に足をつけて、ぴょん、ぴょん、と飛ぶよりは跳ぶようにして、地底の果て、地上への道を目指しているのです。


 わたしが地霊殿の外に出るのは散歩の時くらいなのですが、その時も街に出ることはありません。白い猫を見つけると、みな珍しがって捕まえようとしたり触ろうとしたりするので、落ち着いて散歩ができないのです。たまにはそれも悪くないのですが、街に出てしまうと、いつもそうなるのです。だから、ひとけのないところで一匹の時間を過ごすのが、わたしの散歩です。
 なので、こうして街の中を見るのは、久しぶりでした。誰かに捕まる恐怖なしに街の中を見るのは、初めてでした。わたしを抱きかかえる妹様の腕から、ついつい身体を乗り出してしまいます。
「にゃあ、にゃあっ」
「あ、あんまり乗り出さないでね。見えてるから」
「にゃあ?」
「わたし一人なら、みんなの無意識の中に溶け込めるから、誰にも気づかれないで動けるけど。今はあなたを連れてるから、そうしてないのよ?」
「にゃあ」
「つまりね、あそこでお酒を飲んでる鬼たちに見つかって、掴まって、撫で撫でゴロゴロされちゃうかもってこと。そういうの嫌なんでしょ? お姉ちゃんから聞いたわ」
 妹様が視線を向ける方向を見ると、なるほど、鬼が四人か五人ほど集まって、地べたに座ってお酒を飲んでいます。……いえ、よく見ると他の妖怪もいますね。土蜘蛛や釣瓶落としとか。知り合いで集まって飲んでいるのでしょう。ここは三階建ての建物の上、あちらは土の上ですが、がはははは、あははははと、大きな笑い声がここまで聞こえてきます。主に鬼の声ですね。相変わらず、鬼は豪快です。
 豪快な酔っ払いというのは猫に、とりわけわたしにとっては大敵です。掴まって撫で撫でゴロゴロされるだけならまだしも、あったかいからと抱き枕にしてそのまま寝てしまうことすらあるのです。
 わたしは忠告に従って、妹様の胸に顔を押し付け、腕の中で身体を小さく丸めました。こうすれば、傍目には何か白い小さな塊としか見えないはずです。地底の猫はほとんどが黒なので、少なくとも、猫と見破られることはまずないでしょう。
 などと思っていると。
「おお、こいしちゃんじゃないか! おーい、久しぶりだねー!」
 笑い声の一つが、妹様を呼び止める声に変わりました。わたしはびくりと身体を震わせようとして、なんとか押し留めました。
「ここ数ヶ月見なかったから、地上にでも移住しちゃったのかと思ってたよー!」
「あら、そんなことないわよー! 何度かあなたの隣も通ったわー!」
「なんだってー! あはは、そりゃ気づかなかったなー!」


 街の喧騒を押しつぶすくらいの鬼の声。妹様も意外なほどの声量で応えていますけど、鬼のそれにはまったく及びません。
 さてわたしは、鬼の視界にはもう入ってしまっているでしょうから、とりあえずできるかぎり気配を殺すことに努めていました。声を発することはもちろん、息をすることすら躊躇われます。もちろん震えることだってできません。
 そこらの石ころのように、鬼の意識に留まらないようにと願いながらわたしが考えていたのは、妹様のことでした。
 「妹様は酷いお方だ」と。他の猫はそう思っているようですし、実際わたしもその噂を信じていました。けれどそれは、果たして本当なのでしょうか?
 妹様は笑顔を絶やさず鬼と話しています。関係も良好、むしろ好かれているようです。それについさっきも、わたしのことを気遣ってくれていました。
 わたしは、妹様のことをあまりよく知りません。地霊殿で普通に暮らしている限り、わたしたちペットに、妹様と接する機会などほとんどないのです。
 さとり様の妹で。
 わたしがさとり様のペットになった頃はまだ心を読むことができていたのが、しばらくして、第三の眼を閉じて。
 そうして今は、無意識を操る力を得て、わたしたち猫のように、ふらふらと外に出たり帰ってきたりしていると。
 何匹か猫を飼って、何か地上へのトラウマを与えたらしいと。
 そのくらいしか、知らないのです。


「それじゃあねー! わたし、ちょっと急ぎだからー!」
「おーう! どこに行くか知らないが、気をつけてなー!」
 妹様は鬼に告げて、ぴょんと屋根を蹴ります。少しばかりの浮遊感。それが何度か訪れ、鬼の笑い声が遠ざかっていきます。最後にひときわ大きな浮遊感──おそらく、地面に降りたのでしょう。
 もう大丈夫だよ、と妹様がわたしの丸まった背をつつきます。わたしが顔を上げると、妹様はにっこりと微笑んでいました。
「あはは、怖かった? メイも無意識で動けたらいいのにね。そしたら鬼にも見つからずにすむわ」
 くすりくすりと笑って、わたしのお腹を撫でます。悶え転がりそうになるのを、にゃあっ、にゃああっ、と声を出すだけでなんとか抑えました。
 同時に、わたしたちが今いる場所が、視界に入ってきます。
 ここは地底の街の、地上からしたら入り口で、わたしたちからしたら出口。街の明るさを背後に背負ったわたしたちの前方には、光がほとんど見えない縦穴が続いています。明るい地上と明るい地底の間には、暗い昏い道があるのです。
 こんな場所まで来たのは、わたしは初めてでした。もちろん、この先も。
「さ、それじゃいくよ」
 妹様が、ふわりと宙に浮かびます。わたしはそれまでと同じように妹様の腕の中で、けれど恐怖ではなく、好奇心に胸を高鳴らせていました。






 わたしの地上への好奇心は、さとり様に原因があります。
 と言うのも、さとり様は、わたしを見て、地上世界のイメージを想起していたようなのです。
「あなたを見ていると、地上でのことを思い出します。他の猫は黒々として、いかにも地底という感じですからね。……そう、黒くない猫も、地上では珍しくないんですよ」
 いつのことだったでしょうか、そんなふうに、さとり様は言いました。
 地上世界というイメージをわたしに重ねているとなると、その地上世界とはどんな場所なのか、やはりわたしとしては気になるものです。もしかしたら「メイ」という名も、地上の明るさをイメージして付けた名前なのかもしれません。
 と、そんなことを考えていたわたしに、さとり様は、安心したように息をついて、「ああ、あなたはもう大丈夫みたいですね」と言ったのですが、ごくごく珍しいことに、その意味は、結局わたしにはよくわからないままでした。わたしが疑問に思っても、さとり様はくすくすと笑うだけで、説明してくれなかったのです。


 珍しいことと言うのも、実は基本的にさとり様は、常に本心を口にしようと努めているようでして。わたしが心の中に浮かべた疑問などにも、たいがい正直に答えてくれるのです。
 それはもう、さとり様自身も相手に心を読まれているという状況を再現しようとでもいうように。自分の意識にのぼる心情の、できる限りすべてを口にしている──とのことです。わたしはさとり様の心を読めるわけではないので、確認しようがありません。
 ただ、わたしが、「もしかしたらさとり様は心の中身をすべて口に出してるんじゃないか」なんてふと思いついてみたとき、さとり様は、
「『もしかしたらさとり様は心の中身をすべて口に出してるんじゃないか』ですか。……気づいてくれたのは閻魔様を除けばあなたが初めてですよ、メイ」
 ……なんて。
 気づいてくれた、なんて言うものですから、わたしとしてはやっぱり、それを信じようと思ったのです。
 相手の心を読めてしまうという宿命に、さとり様なりに、できるかぎり相手に誠実に、向き合っているんだ。なんて健気で可愛いんだろう──と、ここまで思ったくらいで、喉とお腹と耳の後ろをフルコースで撫で回されてしまったわけですが。


 ともあれ、わたしがそれを知って以来、わたしとさとり様の間に、さとり様が「ごめんね、これは教えられないの」と言った一部を除いて、隠し事はありませんでした。そのようにわたしは信じています。
 教えられないと言った事柄についても、そのほとんどは閻魔様や鬼との密談やらで、いち猫が首を突っ込むには場違いだろうと思えることばかりだったので、まったく気になりませんでした。
 だから、明らかにわたしに関することである「ああ、あなたはもう大丈夫みたいですね」は、数少ない違和の一つとしてわたしの中に残っています。……まあ、そこまで気になるものでもありませんが。






 そうやってわたしが回想している間も、妹様は地上に向かってぐんぐん進んでいきます。
 旧都の明かりが遠くなり、でこぼこの岩肌が見えづらくなってきて、大丈夫だろうかと妹様の顔を見上げてみます。けれど妹様は変わらず笑顔で、スピードも一切落とすことなく進むようです。妹様は地上にも何度も行っているということですので、この道も慣れているということなのかもしれないと思っていましたが、いくらか進むうちに、どうやらそうでもないようだということがわかってきました。
 ふわりふわりと飛びながら、妹様は時たま方向変換するのですが、その時進んでいた先に目を凝らすと、岩が突き出していたりするのです。そのまま進んでいたらぶつかっていたということですね。
 しかしこの方向変換、どうにも、道を憶えているにしたら急なのです。ぎりぎりのところできつい方向に進行先を変えます。ふと妹様の顔を見ると、先ほどまでとは違って無表情です。それでわたしは、これは妹様の無意識の能力の一環なのではないかと気がつきました。無意識で障害物を避けている、というような。
 なるほど、目を凝らしてじっくり進むよりも、妹様からしたらこっちの方が楽なのかもしれない──わたしが思った瞬間、妹様は不意に空中を蹴り、後ろへと飛び退りました。
「んぎゃっ」
 タイミングと運の悪さによって、妹様の腕が首に食い込み、わたしは情けない声をあげていました。
 妹様の突然の行動の理由はわかっています。横方向の暗闇に急に一発の光弾が生まれ、わたしたちを狙って放たれたのです。妹様は回避行動をとったのでした。
 光弾が通り過ぎるのを眺めた視界、その端では、妹様が、まるで風船がパンと割れたかのように、目を見開いていました。意識に戻ってきたのだとはっきりわかる妹様は、けれど、いや、だからこそでしょうか、自分の行動の意味がよくわかっていないみたいで、開いた目をぱちくりとさせました。
 それから呆けたように、光弾が放たれた元の場所を見やります。やはりよく見えないのでしょう、妹様も手の上に光弾を生み出しました。それが灯りになって、攻撃主の姿が洞窟に映し出されます。


「あれ? なんだ、貴方なの?」
 けれど、どうやら、状況に首をかしげているのは向こう側も同じでした。
 たしか、水橋パルスィという名の橋姫だったように記憶しています。どうして彼女がこちらを攻撃したのでしょう。妹様がそれを訊くと、
「あー、ごめんなさいね。なんだか白い、よくわからないものが飛んでるように見えたから。とりあえず撃っておこうかと」
 水橋さんはそう言って、わたしを見やります。
 なるほど、妹様が言った通り、妹様一人なら、無意識を操る能力で、他の人の意識に映らないようにできるのでしょう。けれどわたしはその能力の範囲外。先ほどの妹様は能力を行使していたので、水橋さんの意識には留まらない。わたしだけが見つかって、結果、白くてよくわからないものが飛んでいるように見えるわけですね。なんだか申し訳ないです。


「もう、気をつけてよね。だいたい今までだって猫を連れてここを通ったことはあったのに、その時は何も言わず通してくれて今回だけ撃ってくるんだもん、油断してたわ」
「えっ、猫を連れてたことなんてあったかしら?」
「あったわよ? 地上に行って遊んで上げて帰ってきたこと、三回か四回くらいだったかなぁ。この子もこれから一緒に地上に行くところなのよ」
「ふぅん……貴方だけならともかく、猫を連れてたら気づくと思うんだけどなあ」
 これまで水橋さんが気づかなかったのは、おそらく、他の猫が黒かったからでしょうね。暗闇の中ですので、まあ少なくとも、わたしなんかよりは見つかりにくいはずです。
 まったくもう、と妹様は頬を膨らませながら、水橋さんに背を向けます。「あら、もう行っちゃうの?」と水橋さんがこころなしか残念そうに声をかけてきます。
「もう行っちゃうのよ。早くこの子に地上を見せてあげたいもの」
「つれないわねぇ。普段会わないんだから、もう少しくらい話してもいいじゃない」
「わたしはわりとしょっちゅうあなたの姿を見てるわ」
「わたしは殆どあなたの姿を見ない。……ねえ、じゃあ、一度だけ猫抱かせてよ」
「むぅ……そのくらいならいいけど。変なことしないでよね」
「こんな可愛い猫に、変なことなんてするわけないじゃない」
 わたしが口を挟む間もなく……まあさとり様がここにいない時点でわたしに挟める口などないわけですが、ともあれ水橋さんがわたしを一抱きすることに決まっていました。撃ち落されかけはしましたが、今までの言動を見る限り水橋さんはわりと常識人に思えたので、特に異存はありません。


 光弾をふわふわ漂わせながら妹様はてくてく歩いて、水橋さんにあと一歩のところまで近づき、わたしを手渡そうとします。水橋さんの腕にわたしの身体が乗り、わたしも、体重を預ける相手を妹様の腕から水橋さんのそれへと変えます。
 ──と。ぱちっと音がして、「あたっ」と妹様がびくつきました。
「あら、静電気かしら。わたしにも少し来たわ」
 水橋さんが左手でわたしを抱きながら、右手の手首を振ります。わたしには来なかったので、猫を媒介にして二人に電気が流れたというかたちなのでしょうか。そころのところよくわかりませんが、なんにせよ、妹様の反応がさとり様と似ているのが、なんだか微笑ましいです。
「ああ、可愛いわ、猫」
 なんて思っていると、水橋さんがわたしに頬をすりすりしてきています。幸せそうにすりすりしてきています。もしやこの人は猫に対して過剰な愛情を示す人でしょうか。もしそうであったなら、わたしの見立てが甘かったと言わざるを得ません。
「あー! あんまりすりすりしないでよね! わたしの猫なんだから!」
「いいじゃない、少しくらい」
 わたしの猫、と言われてしまうと少しばかり心がざわめきます。
 それを読み取る相手がここにいないというのも、また。
「ああ、妬ましいわ。こんな可愛い猫飼ってるなんて」
「もーう、返してよー」
 妹様は水橋さんの手からわたしをひったくって、ぷいと顔を背け、その場を離脱します。水橋さんはそんな妹様をくすくす笑っているのですが、妹様はすぐにまた無表情に、無意識に入ってしまったようなので、おそらく聞いてはいなかったでしょう。
「……妬ましいわぁ」
 そして最後に届いた水橋さんの言葉は、どこか楽しそうで、愉快そうでもあって。
 橋姫とは怖いものだなぁと、わたしはいろいろな意味で、彼女を油断できない相手と憶えたのでした。















 /猫とこいしと涙


「ほい、到着」
 光が見えてからおよそ数分、縦穴を上って昇ってたどりついた地上は、まるっきりわたしの知らない世界でした。
 妹様の腕の中、暗闇に慣れた目をゆっくりと開くと、まず視界に入ったのは、頭上の青と白。青が空というもので、白が雲というものとは、さとり様から聞いて知っていましたが。地底の天井を青くしたようなものだろうと思っていたそれは、想像よりも遥かに雄大で、限りがなくて、まるでいまにも落ちてきてすべてを潰してしまいそうな、一種の怖さすら漂わせているくらいでした。
 思えば地底というのは、閉鎖された空間なのです。そこにはない距離、遠さというものに、わたしは圧倒されていました。


 そして次にわたしの意識を占めたのは、植物の緑色です。足元を草が埋め尽くし、辺りには街の建物と同じか、それよりもう少し高いくらいの木々が並び立っています。木々が集まる、ここは森の中なのでしょうか。
 さておき、植物の緑をわたしはじっと眺めていました。地底にだって植物はありますが、なにかが違うように感じられます。
 しばらくして気づいたのは、光の質の違いでした。緑色を照らす光。
 地底の光は炎であったり光弾であったりで、少し強すぎるわりに、すべてを照らすには弱すぎるのです。他を喰らってしまいそうなそれらは、ぎらぎらした光、とでも言いましょうか。その光源では影ばかりが強調されて、いつも、どこかしら暗いのが地底です。
 一方、地上の、太陽の光は、きらきらしているのです。そのくせ強さも持ち合わせていて、植物の緑や、土の色、花の色を、喰ったりせず、輝かせています。影すらもその対象です。すべてが、それら自身の色を引き出され、彩られています。
 そう、地上は、ほんとうに、明るい世界だったのです。


 ──そうですね、あなたの名前は……メイ、にしましょうか。


 わたしは、なにを思っていたんでしょう。
 感動かもしれませんし、嬉しさからかもしれません。瞳が潤んできて、顔の毛を濡らします。鬱陶しくて仕方ないのですけど、止まってくれません。涙。こんなものを流すのはいつ以来でしょう。
「わ、泣いてる。猫も泣くんだね。大丈夫?」
 大丈夫ですよ、それに猫は普通なら泣かないみたいですよわたしはいちおう猫じゃなくて化猫ですから、などと考えようとするのですが、なかなかうまく形になってくれません。せめて妹様に心配はかけまいと「にゃあ」と口にするのですが、あいにく弱々しい声にしかなりません。これでは余計に心配させてしまいそうです。でも、妹様も咲くような笑顔のままでわたしを覗き込んできているあたり、その懸念は無駄であったようですけど。
 ──笑顔。


「うーん、大丈夫みたい? ちょっと散歩でもしようかと思うんだけど、いい?」
「にゃ、にゃあっ」
「よし、それじゃ行こっ」
 さとり様なら。
 いまの泣いているわたしを見ても、わたしが悲しんだり苦しんだりしているわけでは無いとわかるのですから、静かに笑んでわたしを見つめてくるというのも、想像できます。
 でも、妹様は?
 間違えてはいけません。妹様はもはや、妖怪さとりであって、妖怪さとりでないのです。わたしの考えていることなんて読めはしないのです。
 だというのに、泣いているわたしを、それまでとまったく変わりない笑顔で。
 ぞわりと、背中の毛が逆立ちます。わたしを抱いている妹様が、なにかすごくおぞましいものに思えてきます。わたしは、妹様のことをあまりよく知らないのです。
 さとり様なら、わたしが不安がっていることに気づくでしょう。ただしそれは、心を読むからとは限りません。たとえ心が読めなくとも、わたしの身体の緊張を感じ取るだろうと、それなりの年月あの方のペットをやってきたわたしにはそう思えます。
 妹様は、気づきません。
 同じ、笑顔のまま。


 妹様の足が地面から離れます。ひゅんと加速して、見上げていたはずの木々の天辺を一瞬で足元に置き去り、その数倍の高さまで飛び上がりました。
 視界を埋めていた妹様の笑顔がぶれて、わたしは落ちないようにとその腕に引っ付き、風圧に目をつむります。
 しばらく待ち、安定を得たと思えたあたりで、わたしは目を開きました。
「にゃあっ」
「わぁっ、涼しいわ!」
 吹きつけてくる風は、地底にはない匂いがしました。少し濁った、どろりとした熱さと暑さを漂わせる地底とは違い、澄み切っているという印象を受けました。
 味が無いという味の空気は、すごく美味しく感じられて。それは身体を冷え渡らせ、わたしをぶるりと震えさせます。けれど感じたことのない爽快さに、わたしは何度もその空気を吸って吐いてしていました。
 ただ、呼吸を続けながら、わたしは同時に、息を呑んでもいます。
 わたしたちが出てきた縦穴は、なにか大きな山の中腹にあるようです。基本的には木々が山の斜面を埋め尽くしているのですが、縦穴の周りだけはぽっかりと空間ができています。それは狭いわけではありませんが、広いというわけでもない、木々で囲まれ仕切られた空間であることには違いありません。
 先ほどまでわたしは、その空間からしか、地上を見ていませんでした。
 けれど、いまは。
 前後左右、どこにも限りがありません。いえ、正確に言うならば背後には大きな山がそびえ立っているのですが、それにすら、閉じているという圧迫感はまったくなく。空はどこまでも遠く遠く続いていて、天井などありはしません。


 世界が、開いている。
 それは、生まれてこのかた地底を出たことのなかったわたしにしたら、初めての感覚でした。


 わたしは鳴くことすら忘れて、呆然と口を開けていました。忌々しいことに、泣くことは忘れていても勝手にやってきて、また顔の毛を湿らせます。
「今日はよく晴れてるなぁ、残念」
 妹様が呟きます。雲があまり出ていなければ晴れであるらしいので、空のほとんどを青が占めている今は、晴れと言ってよいのでしょう。妹様は曇りの方が好きなのかもしれませんが、わたしには、この青い空がなによりも素晴らしいものに思えます。
「にゃあ」
 やっとのことで一言呟きながら、わたしは、とあることを考えていました。
 化猫であるわりに、わたしは空を飛ぶことができません。化猫としてのわたしの、普通の猫にあるまじき異常のほとんどは、この思考能力に費やされているようだ──とはさとり様の言です。戦闘能力がないぶん、頭でっかちらしいです。実際のところ、他の猫がどの程度の思考をしているのかわたしにはわからないのですが。
 ともかく。地底の、すぐに果てにたどり着いてしまう狭い空だったからこそ、わたしは飛ぶということに興味を見出せなかったのではと思うのです。
 いま、わたしは。
 こうやって妹様にしがみつくのではなく、自分の力で飛んでみたいと、心から願っていました。






「お、人里」
 そのまま空を泳ぎながら、わたしなどはもっぱら景色を楽しんでいたのですが、妹様はどうやら別のものを見つけたようです。
「行ってみたい?」と訊かれたので、ひとまず考えるよりも先に「にゃあ!」と元気よく頷くと、妹様は「あはは」と笑い声を上げて高度を落とし始めます。
 人里、と妹様は言いました。人間の住んでいる里、でしょうか。わたしは人間というのを見たこともないので、少し楽しみに思いながら、人里の形を見やりました。
 そこには、数え切れないくらいの建物が並んでいます。建物が大きな通りに沿って並んでいる様は旧都を彷彿とさせますが、人里の方が遥かに大きいという点で、違いがあります。街中に見える人影も、旧都より多く感じます。
 近づいていくにつれ、人間という生き物の姿が詳細になっていきました。さとり様や妹様、それに地底の妖怪たちに人化してる者は多いため、なんとなくの形は理解していましたが、実際に本物を見てみると、これがなんとも……弱そうです。人間すべてが強いわけじゃないとはもちろん知っていますが、これはもしかすると、わたしでも頑張れば泣かせそうです。そんなことをする理由はないので、ちょっと肩透かしだなぁくらいに留めておきますけれど。
 妹様は、その人里の入り口に隠れるようにして下ります。さてこれから里に入るのだろうと思っていたわたしは、しかしおもむろに、地面へと放されました。
「にゃあ?」
 どういうことかとわたしが顔を向けると、妹様は変わらず笑顔で、けれどそれが、みるみる無表情へと変わっていきます。
「にゃあ、にゃあにゃあっ」
 足元でばたついてみても、何の反応も返ってきません。と、そんなことをしているうちに、
「わあ、猫だ!」
「白い猫だ!」
「かわいー!」
 人間の子供たちです。危険な感じです。「にゃあ! にゃあ!」と危機感割り増しで妹様に飛びついてみるも、返ってくるのは無機質な視線のみ。視線が返ってくるということは、いちおうわたしのことを認識してはいるのでしょうけれど。しかしそう思った直後、妹様の姿はわたしの視界から消えました。わたしの無意識に溶け込んでしまったのでしょう。助けは来ないようです。
 そして三人かと思っていた子供たちは四人になり五人になりみるみる増え、わたしのもとへと押し寄せてきました。妹様はその波から身をかわしましたが、わたしはそのまま飲み込まれ。


 ……その後、なかなか酷い目にあいました。
 子供というものは手加減がないもので、もうまったくところかまわず撫でられいじられるのです。気持ちがよすぎて昇天しそうになると同時に、あまりの気持ちよさに逆に気持ち悪くなってもくるのです。子供たちが飽きて去っていくまで、わたしはされるがままでした。
 子供たちが去っていくと、いつのまにか見えるようになっていた妹様はわたしに近づいてきて、それまでと同じように抱き上げました。ぐったりしながら見ると、その顔から無表情は消えて、人里に来る前となんら変わらない笑顔がありました。
「あはは、疲れちゃった?」
「にゃあ……」
 わたしが答えると、妹様も、
「じゃあ帰ろっか。わたしもちょっと今日は、あんまり都合がよくなさそうだから」
 そう言って妹様は顔を上げて空へと目を向け、少しそうしていたかと思うと、ふわりと飛び上がります。
「明日もまたこっちに来ようね」
「……にゃあ」
 こっち、というのは人里ではなく地上を意味しているのだと信じて、わたしは答えます。
「人間も猫が好きなのかな。人里に行った猫はだいたいみんなああいうことになるのよ。無意識で動くやり方、あなたたちにも教えてあげられたらいいのに。……こんな時だけなら、心を読めたら楽なんだけどね。普段は邪魔だけど」
 普段は、邪魔。さとり様は普段、あの能力を邪魔に思っているのでしょうか……つと考えて、首を横に振ります。そんなことはない、はずです。おそらく。
 妹様はもと来た道をたどり、地下への縦穴へと向かいます。その道中、わたしは妹様の腕の中で、空ではなく妹様の笑顔を見ながら、先ほどのことを考えていました。




 わたしが、子供たちにいじられているあいだ。
 妹様は、どこにも行かず、何もせず、その光景をただじっと眺めていたらしいです。
 あの天国、いえ地獄絵図を思い出しながら、わたしの頭の中に生まれているのは、とある閃きです。
 もう地上には行きたくない、妹様は酷いお方だ、といった猫たちの非難は、同じような状況を体験したためではないかと。
 そしてあの状況は、ほんとうに、妹様が酷いという事柄へと結びつくのだろうかと。
 考えなくてはなりません。わたしが他の猫に比べてなにかできることといえば、そのくらい。さとり様がわたしを選んだ条件は、ひねくれていながらも素直であること、そして、猫にしては頭が良いことなのです。


 まず、地底で暮らすわたしたちが、生きている人間の姿を見ることはまずありません。現に、わたしだって初めてでした。
 なのでおおよその猫は、人里というものがあれば行ってみたいと思うでしょう。わたしなんかよりも好奇心旺盛ですしね。
 そこで。そこで、です。記憶をたどってみると、たしか地底の妖怪は地上では忌み嫌われているという話を、さとり様から聞いた憶えがあります。
 つまり、わたしみたいな化猫ふぜいならともかく、さとりの力は失ったとはいえ無意識などという得体の知れないものを操る妹様が、地上で見つかってしまっては、少々まずいことになるのではないでしょうか? そう考えると、妹様がわたしを里に降ろしてすぐ無意識に入ったことにも説明がつきます。
 まあ、猫が人里にほいほい降りるとめちゃくちゃにされるということくらい先に教えてくれてもいいかもしれないと思いますが、こちらにしてもあれは地獄であると同時に天国だったという事実があります。そもそも人里へ行くのを望んだのはわたしでしたしね。


 こうやって、このときわたしの中の妹様のマイナスイメージは、ほとんどなくなっていっていました。
 心が読めない妹様に、さとり様ほどの名飼い主っぷりを期待するほうが間違っているのです。妹様は妹様なりにやってくれていると思うのです。
 わたしはそこまで考えて、疲労からくる睡眠欲に身をまかせることにしました。妹様への信頼に身をまかせ、と言い換えてもよいでしょう。
 この空を見ずに寝るのはもったいないけど、きっとまた来られるだろうから。──そんなふうに思って、です。
 少し得体の知れないところは残っていますが、それでもわたしは、妹様を信じることにしたのです。











「足りないですねぇ」
 さて。
 妹様に抱かれて眠ったわたしが目を覚ましてみますと、さとり様の膝の上にいました。ここはどうやらさとり様の自室、ベッドの上です。
 そして目を開けたわたしにさとり様は、「はい、それじゃあ思い出してみてください」と一言だけ。
 求められているところを理解したわたしは、妹様と過ごした時間のことをつらつらと思い返しました。そして回想の中のわたしが眠りについたところで、さとり様はふむと頷き、「足りませんねぇ」と呟いたのです。
 なにが足りないのでしょうか、それとわたしがさとり様のところにいるということは、妹様のもとへの出張期間は終わったのでしょうか。
「いっぺんに訊かないでくださいな。……まず二番目の質問から答えますけど、出張期間はまだ続いてますよ」
 ふむ。まだ出張中でしたかわたしは。
 それが嫌だと言ってしまうと、まあそこまででもないのです。もう一度地上には行ってみたいですし。妹様もそれほど怖がるべき相手ではないみたいですし。
「そこです」
 っと、言葉を遮られました。
「あなたは勘違いをしている。猫たちがあの子を怖がっているのは、人里に連れて行かれたからではありません」
「……にゃあ?」
 おや、するとなにが原因なのでしょう。少なくともあれ以外、妹様を怖がるようなことは……まあ、ないわけでもなかったですが。
 さとり様は、出来の悪い子を諭すように、ひとことひとこと、ゆっくり口にしました。
「いいですかメイ、地上には……雨が、降るのです」


 雨。
 それがどのような現象を表すのか、知識としては頭にあります。雪が降る代わりに水が降るようなものだと。けれど遭ったことも、見たこともありません。
 どうも本来、雪と雨は似たような原理で降るらしいのですが。地底では雪は降っても、雨は降りません。なぜなら、地底の雪は本来の原理で降ってはいないからだそうです。
 ちなみに地底に雪が降る理由というのは、冬だから。それ以上でもそれ以下でもありません。
 春には桜や新緑が舞い、夏には暑さに茹でられ、秋には紅葉に見とれ、冬には雪と寒さに埋まる。そういうものだから、地底でもそうなるのだそうです。
 雪は冬が運んできてくれますが、雨はどの季節も運んできてくれないんですね。
「そうそう、わたしが教えたこと、よく憶えてますね」
「にゃあっ」
 さとり様に頭を撫でられ、ついつい調子よく鳴いてしまいます。ちょっとさとり様相手とはいえ、甘えすぎかもしれません。なんだかんだで妹様のもとで、わたしも緊張していたのでしょう。


「それで、どうやら猫たちのトラウマは、その雨にあるようなのです。あなたたち、雨が嫌いでしょう?」
 嫌いです。
 と言うより、ただでさえ水が好きではないのに、それが上から際限なく降ってくるだなんて、恐怖以外のなにものでもありません。化猫とはいえ元は猫ですから、存分に苦手としているのです。猫舌と同じで、化けたからといって簡単に直るものではありません。地底世界に雨が降らなくてよかったというのは、ここに住むすべての猫に一致する意見でしょう。
「猫たちはこいしに、雨の中で置き去りにされたようです。いえ正確には、雨の中で抱きしめられて、放してもらえなかったとか。じたばたもがいているうちにこいしが力を緩めて、それでなんとか脱出してきたらしいですが。トラウマが強すぎて、逆に雨以外の状況をよく読めなかったんですけどね」
 ……それは、
 ちょっと怖いなぁと、想像してわたしは少し震えました。
 上の方から水がざあざあ落ちてきて、わたしはだけど妹様の腕から離れられず……わぁっ、妹様の腕に水が落ちた。ひえぇ、今度は逆側にだんだん近づいて、


「はいはい、勝手に悪い想像に落ち込まないでください」
 ぱん、とさとり様がわたしの目前で手を叩いて、それでわたしは正気に戻りました。
「こいしがどうしてそんなことをするかはわかりません。あの子の心は読めませんし、訊いても教えてくれませんから。そのくせペットは欲しいと言いますしね。ひとまず昨日は、秘密のルートで雨が降らなそうだという情報を貰ったうえであなたを送り出しましたが」
 悲しそうに目を伏せるその様を見て、さとり様がわたしを妹様のもとに送り出した理由に察しがついた気がしました。
 もともと妹様にペットを飼わせることを始めたのは、それで少しでも妹様が心を開くのに近づけばという思いからだったはずです。
 それが、よくわからない理由で猫達を追い返していると。それじゃあ困ります。
 そこで、わたしです。いちおうわたしも猫の端くれ。妹様がわたしを飼えば、おそらく天候が許したとき、同じような目にあわせられるはず。それまでに、さとり様の目の届かないところで妹様を観察し、その奇行の原因を探り出してほしいということだったのでしょう。


「正解ではありますが、足りません」
 しかしさとり様の返答は、力無い表情と、両手の人差し指で作った×の字。
「それよりもうちょっと事態は深刻なんですよ、おそらく」
 お茶目な指の形とは裏腹に、さとり様の声が真剣味を帯びます。聞く準備はできているという意味で「にゃあ」と相槌を打つと、さとり様も頷きました。
「第三の眼を閉じたあの時から、あの子の心は閉じています。閉じていて、使われないから、わたしにも心を読むということができません。あの子には心も感情も、ほとんど無いも同然なんです」
 ほとんど、ないも同然。
 それがどのような意味合いを持ち、妹様にどのような影響を与えているか、わたしにはわかりません。
 少なくともわたしが見た限り、妹様はいつも笑顔で楽しそうで、感情などちゃんと持ち合わせているように思えましたが。
「……ええ、こいしはいつも笑顔です。あの子が第三の眼を閉じた当初は、それでももう少し表情豊かだったんです。いつのまにか悲しい顔を失くして、怒った顔を失くして……ここ百年ほどは、わたしはあの子が無意識でいるときの無表情と、意識にあるときの笑顔以外に何の表情も見ていません」
 ──それは。
 わたしを絶句、呆気にとられて何も考えられない状態にするのにじゅうぶんな事実でした。
 妹様の笑顔。
 涙を流すわたしに向けられた満面の笑み。
 それを思い出して、気づくと身体が震えそうになっていて、さとり様がわたしの背を撫でて落ち着かせようとしてくれていました。


「にゃあ」
 もう大丈夫です、とわたしは強く鳴きます。さとり様は申し訳なさそうな顔になっていて、けれど言葉を続けました。
「これはすべての生き物に共通して言えることですが……使わない、必要の無いものは、生きていくうちに、だんだんと失われていくのです。身体に、精神に、命に、無くても良いものだとみなされてしまえば、本当に無くなってしまってゆくのです」
 ……そこまで聞けば、さすがにどのような話なのか予想がつくというものです。
 つまり、妹様の心は。
「あの子の心は、だんだんと痩せ細り、今にも失われようとしている」
 さとり様は、わたしの心に結論を許さず、自らの口で言葉にしました。すべてを悔いるように、悲しむようにして。
「……正確には、あの子の意識の部分が、でしょうか。メイ、無意識というのが何なのかわかりますか?」
 わたしは首を横に振ります。こんなことをしなくても心で思うだけで伝わるのですが、首を振ってから思い当たりました。やはりわたしも動揺しているようです。
「無意識とは、誰もが持つ意識です。それぞれの生物の固有の意識の先に、およそすべての生き物を繋ぐ、ある種先天的な意識があるのです。わたしもあなたも、すべての意識は、根っこのところで繋がっているのですよ。その、繋がっている根っこの、深い部分が、無意識と呼ばれます。こいしの心は、固有意識と無意識の境を行ったり来たりしているはずなのですが……普通の生き物に比べて固有意識の領域の使用が減ったためでしょうか、固有意識の領域が減衰し始めている。このままでは、消えてなくなります」
 ちょっと話が難しくなってきたので理解が不安ですが、とにかくこのままでは妹様の意識が消えてしまうということなのでしょう。
 わたしが思うと、「ひとまずそれで正しいです」とさとり様が合わせました。


「わたし達の第三の眼は、固有意識の領域に干渉するための、精神的かつ概念的な器官です。こいしはこれを閉ざした結果、固有意識の領域に防壁めいたものができてしまったようで、そのせいでわたしもあの子の心を読めなくなったのですが……さておき、しばらく前にこいしの第三の眼に触れてみたら、以前よりもずいぶんと活動が弱まっていました」
 活動が弱まる、という言葉に引っかかって、わたしは質問を投げかけます。
 そもそも妹様の第三の眼は、閉じられて以降開いたのを見たことがありません。活動もなにもないのではないでしょうか。
「いいえ、あの眼は、眠っているだけなのです。閉じられて、眠っているのです。死んでいるわけではありません。だけど、眠ったまま、緩やかに死に近づいている」
 さとり様はそこで一度息をついて、
「……希望的観測でないと言えば嘘になりますが、おそらくあの子は、道を見失っているだけです。あの子はたしかに心を閉じた。けれどそれには──みんなに嫌われたくないという『目的』が、たしかにありました。それを失わない限り、あの子は自分でいられるはず。心を閉じても、失くすことにはならないはずです」
 いくらか推測が紛れ込んではいましたが、そこまで見当がついているというのは、大きなスタートダッシュであるように思います。
 わたしは「にゃあ!」と元気よく鳴きますが、けれどさとり様は、力なく笑うだけです。
「ええ、そのくらいは見当がついてるんです。そこまではわかっているのに……」
 さとり様が言葉を切って、唇を噛みました。強く強く噛んで、血がにじみます。やめてくださいとわたしが思って、だけどさとり様は聞こえないかのように。
「……わたしには、何もできない」
 さとり様は、血を吐くように。
 唇の端から血が滴って、わたしの身体にぽたりと落ちます。
「何百年もあったから。あの子の心を開くため、わたしにできることなら何でもやってきましたし、思いつくことは何でも試してみました。だけど足りなかった。わたしではだめなんです。妖怪さとりの身内では近すぎて、『誰かに嫌われたくない』という想いを動かせない。わたしではどうにもならなかった」
 ぽたり、ぽたりと。
 わたしの身体に落ちるものは、血だけではなくなっていました。
「もうわたしには、できることがない。地底の他の妖怪の力を借りようにも、みんな『さとり』を嫌っています。少なくとも、心を読む者が増える手助けをしてくれようなんて物好きはいません。だからもう、あなたたちに頼るしかなかった」
 あの、さとり様が。
 気高く誇り高く、他の妖怪にいくら嫌われようともものともしなかったさとり様が。
 涙を流すなんて、初めて見たから。
「ごめんなさいね、こんな情けない飼い主で……」
 ぽたぽた零れ落ちてくる涙は、まるで──。
 そう、まるで。
 きっとこれが、こういうものが、雨なのでしょう。
 わたしは精一杯に身体を伸ばして。
 雨をすべて、すくい取ってあげようとして。
 さとり様の、頬を舐めました。
 できるかぎりやさしく、やさしく。
 雨がやむまで、そうしていました。















 /猫とこいしと涙雨


「メイ。メーイー」
 妹様の声で、わたしは目を覚ましました。
 あのあと、さとり様はぎゅうとわたしを抱き締めてベッドに横になりました。その後いくらか言葉を交わしたのですが、泣き疲れたのか、話を終えたあたりで眠ってしまいまして。わたしもわたしでさとり様の身体を寝床にして、ぐっすり眠ってしまったわけです。
 さとり様の暖かさを名残惜しく思いながらも、ひょいとその腕から抜け出ます。「にゃあ」と一声鳴くと、妹様は気づいたのか、部屋の前で足音が止まりました。そのままドアを開けて、覗き込んできます。
「あーっ、お姉ちゃんずるい! メイはわたしのなのに」
「ん……うん……? こいし……」
 さとり様はまだ寝ぼけているようで、ぼんやりしながら身体を起こします。腫れぼったい涙が、流した涙の量を物語っています。
 ──と。
 ぼんやりした目つきで妹様を見やったさとり様は、不自然に目をぱちくりさせました。二つの目だけではなく、三つめの眼までも。
「こいしあなた、心が……? いえ、何かおかしい……」
 呟きにつられてわたしも妹様に目を移すと、こちらもなにか驚いたように目を軽く見開いているように思えます。
「お姉ちゃん……泣いてたの?」
「何かしらの干渉がされてる……? 閉じた心だからあまり上手くいってないようだけど、これは……」
 お二人が同時に言葉を発します。妹様の方は理解できますが、さとり様が何を言っているのかは聞いただけではわかりません。
 わたしが思った疑問に答えたのかそうでないのか、
「さっきは何の反応もなかったから、もしかしてこの状況が原因……? いったい何が……」
 ぶつぶつと独り言を続けるさとり様を、しかし妹様は無視するようにして、わたしの身体をがっしと掴みます。「んぎゃあっ!」悲鳴が出て、それでやっとさとり様は状況に気づいたようでした。
「こいし、ちょっと待っ……」
「ちょっと地上まで行ってきまーす! 気が向いたら帰ってくるわー!」


 そうなるとまあ、一介の猫に過ぎないわたしにはなんの抵抗もできません。
「ちょっと急ぐわ」
 それだけ言って逃げるように地霊殿を後にする妹様に掴まれたまま、しかし今回は前回のように悠長に建物の上を跳ねるのではなく、びゅんと一直線に、休むことなく、地底の閉じた空を横切りました。
 旧都を一気に通り過ぎ、地上へと続く道にたどり着くと、妹様は地に降りました。さすがに疲れているらしく、肩で息をしています。
 しかし、どうしてこんなに急いでここまで飛んできたのでしょうか。わたしの疑問に、けれど妹様は答えることなく、先を急ぎます。呼吸も落ち着かないままにまた飛び立って、すうと表情が消えていきます。無意識に入ったのでしょう。
 突き出した岩を避けて避けて、ふわふわ進み続けます──そういえば前はこの辺で。
 わたしが思った瞬間、同じように横合いから光弾が飛び出てきました。
「んぎゃっ」
 少々反応が遅かったため、わたしはまた潰れたような声を発してしまいました。妹様は同じように飛び退って避けました。
「通行料、一抱き」
「……今日はちょっと急ぎなのよ」
 けれど妹様の返答は以前と違いますし、水橋さんの態度もどこか違和感があります。
 断られたというのに少しも不機嫌な様子は無く、むしろ愉快そうに微笑んでいます。その笑みに、わたしはなにか不吉な予感すら感じました。
「……うーん、元々効き難い相性のはずだし、まあ多少なりと影響及ぼせたなら許容範囲かしら。所詮悪戯だし」
 ひとりごちる水橋さんを無視して、妹様は地上へと先を急ぎました。
 すれ違いざまに何かしてくるかとも思いましたが、何もありません。
 ただ響いてくるのは、くつくつと不気味な笑い声。
 わたしは一つの推測を頭に浮かべ──水橋さんに、ほんの少し感謝の念を送りました。




 旧都の鬼や水橋さんを無視したのもあってか、驚くほどの速さで、わたしたちは再び地上に出ていました。わたしなんて、起きてからほとんど時間が経っていません。
 時間感覚が曖昧でしたが、わたしが眠っているあいだに一晩くらいはきっちり過ぎていたようです。地上は変わらず明るくはありましたが、少しばかり様変わりしているように思えます。ふと見ると、空の青が以前より少なく、白の占める割合が大きいようです。風もこころなしか冷たくあります。
 それでも地底よりは明るい世界に、けれど二度目の感動を覚えていられる状況ではありませんでした。急ぎに急いだ妹様は、ぜえはあぜえはあと苦しそうに息をしています。とは言えわたしには、妹様の腕から大地へと飛び降り、ただ見つめることしかできません。
「わたし、さ。お姉ちゃんが泣くのって、一回しか見たことなかった」
 はぁ、はぁ、と息をつきながら、けれど笑顔で口にするその姿は、まるで、すごく必死にその言葉を絞り出しているように見えて。わたしは息を呑みました。
「ねえ、お姉ちゃんってペットの前ではそんなに泣いたりするの? 最近は昔に比べて泣き虫になったとか?」
 言葉が通じなくとも、はいかいいえの質問くらいなら答えられます。
 わたしが首を横に振ると、「そっか」と妹様は、ひときわ大きく息をつきました。
「じゃあやっぱり、お姉ちゃんが変わったんじゃなくて、メイが、泣いてるところを見せるくらいに特別なんだね。昔のわたしと、同じくらいに。お姉ちゃんにはもう、そういう相手がいるんだ」


 ──なにか。
 なにか、致命的な齟齬がその言葉にあるように思えて、わたしは精一杯に否定しようとするのですけど、首を必死に横に振るのが関の山で。
 それはきっと通じはしませんでした。
「わたし、一回だけお姉ちゃんを泣かせたことあるんだ。第三の眼を閉じた時」
 その言葉を聞いて、わたしは未練がましく暴れることをやめました。何かとても大切な話をわたしは聞かされようとしていると直感して、言葉が風の音に紛れてしまわないよう、じっと聴覚を働かせます。
「あの時、お姉ちゃんはわたしを引きとめようとしてた。ちゃんと憶えてるわ。お姉ちゃんはわたしを後ろから抱き締めてた。逃げないで、って。一緒にいて、って。お姉ちゃんはすごくあったかくて、こんなにあったかいお姉ちゃんと一緒だったら大丈夫かもしれないと最初は思ったけど、結局だめだった」
 そこまで言って、妹様は。
 まるで極限の寒さに包まれたかのように、ぶるりと身体を震わせました。
 けれど、語り続けるその顔には、満面の笑み。
「だめなの。お姉ちゃんがわたしを抱き締める腕はあったかかったけど、でもだめだった。それじゃあ防げない。入り込んでくるの。お姉ちゃんがわたしの分もほとんど受けてくれてたけど、それでも少しずつ、じわじわ染みこんでくるの。暗い気持ちが。汚い心が」


 ──心を読む化け物への、悪意が。


「だからわたしは、お姉ちゃんの手を振り払った。もう全部嫌になって。こんな眼が無ければこんなものは目にしないで、誰にも嫌われなくてすむんだって。泣いてるお姉ちゃんを置き去りにした」
 ふーっ、と。
 やっと息が整ったみたいで、妹様は顔を上げました。
 思えば。
 思い返してみれば妹様は、ずいぶんと揺れていたのです。わたしに対して、無意識になってみたらどうかと、まるで仲間を欲するみたいに、誘ってみたり。たまには心を読んでみるのも悪くない、だなんて言ったり。
「でもね、ほんと言うと、お姉ちゃんの涙を独占してるって、悪い気分じゃなかったんだ。結局お姉ちゃんにはわたしだけだって思ってたら、なんとなくだけど、いつでもあそこに帰れるような気がしたし……まあ、勘違いだったみたいだけどね」
 ……自分の言葉が通じないことを、こんなにももどかしく思ったことはありません。
 違うのです。さとり様は今でも妹様を誰よりも大切にしています。わたしなんて二番手です。さっきのあの涙だって、わたしのためじゃあない。あなたのためなのに。
「正直さ、ちょうどいいところだったの。もう、だめなのよ。限界なの。何がなんだかわからないの。ねえ、わたしは何が嫌で、第三の眼を閉じたんだっけ? 嫌われて悲しかったから? でも、悲しいって何? わからないよ。だいたい今だって嫌われてるかどうなのかわからないし。誰かに好かれてるかも何もわからない。少なくとも昔だったら、お姉ちゃんがわたしを好きでいてくれたことだけはわかってたのに。楽しいとか嬉しいとかもぜんぜんわからない。ねえ、しばらく前からわたしはずっと笑ってるようにしてるんだけど、笑ってるから楽しいはずって思ってたんだけど、最近はもうそれもわからないの。ねえ、わたしは、わたしは、」
 ──やっぱり、間違ったん、だよね?
 それは、完膚なきまでの絶望で。諦めの確信で。空っぽの笑顔で。
「嫌われ者は、嫌われ者らしくいなくなった方がいいよね」


 違う。
 たとえ最初は間違いだったとしても、いまはもう、違うはず。
 あの子があの子であってくれれば、それでいい。
 さとり様は、そう言ったのに。


 にゃーん。
 わたしたちの張り詰めた場に響いたのんきな声は、もちろんわたしのものではありません。
 小さな白猫。地底に自分以外の白猫はいなかったため、わたしが白猫を見るのはこれが初めてです。なので少し面食らってしまいました。
 思い返してみれば、地上では黒くない猫も珍しくないと、さとり様が言っていたことがありました。その実物がここにいるということなのでしょう。地上の猫が、わたしのもとへ近づいてきました。
 言葉が通じるかわかりませんでしたが、試してみると、どうやらなんとかなりそうでした。
 話の中身は、なんだか母猫とはぐれたとかなんとか。それはもう言外に、母の元まで連れて行ってくれというお願いも含んでいて。迷子の仔猫さんというわけです。というかこんなに警戒心薄くて大丈夫なのでしょうか地上の猫は。
 さてこちらはもともとそれどころじゃないですし、どうしたものかと妹様に顔を向けると、
「ああ……うん、ごめんね、変な話に付き合わせちゃって。せっかくだしその子とちょっと遊んできたら?」
 などと言います。
 嫌な予感に、わたしが間髪いれず飛びかかろうとすると、
「大丈夫よ、勝手にいなくなったりしないわ」
 そんな一言を残して、それ以上有無を言わさず、無意識に入ってしまったのか視界から消えてしまいました。わたしは呆然として、妹様が見えなくなるのを見ていました。


 しかしそうなるとわたしは、妹様を信じて、妹様が再び現れてくれるまで時間を潰すしかありません。もどかしくはありましたが、無意識に隠れてしまった妹様はこちらからは見つけられないのです。……無意識に隠れているだけならばいいと、心の底で思ってもいましたが。
 かといって仔猫の母親を探すにしても、もちろん心当たりなどありません。仔猫と一緒にそこらを歩き回るのがせいぜいです。仔猫にそう告げてみると、けれど満足したようで、わたしの後について歩き始めました。どうやら仔猫とその家族、普段は森の中に住んでいるらしいです。たくましいことです。
 森の中、日差しが葉に遮られてそれでも明るい空間を、木々の根っこに足をとられないように注意して歩きながら、だけどわたしの頭の中にあったのは、仔猫の家族ではなく、さとり様と妹様のことでした。




 わたしは、あなたに、妹への復讐をお願いしたいのです。
 涙が乾いた頃。
 少し楽になった、ありがとうと前置いて。
 さとり様は再びその言葉を口にしました。
 初めて聞いたときにも思いましたが、復讐とは穏やかじゃありません。よい機会だから意味を聞いてみたいと思うと、さとり様は、それはもう穏やかに微笑みました。
「文字通りの意味ですよ。確固たる『目的』があってわたしを捨てたはずなのに、あの子ときたらその『目的』を忘れています。これを恨まずして何を恨めばよいのでしょう」
 それは、まあ、そうですけど。
 ただの見栄っ張りに思えなくもないので、わたしがたじたじ相槌を打つと、さとり様はくすと笑んで、
「あの子は心を閉じてしまったけれど、それでもここにいました。どこに行ってもここに帰ってきてくれていました。恥ずかしいことに最近まで気づかなかったのですけど、わたしはこれまで、あの子を失くしてなんかいなかった。今になって、あの子を本当の意味で失いそうになって、やっとわかったんです」
 さとり様は頬をかいて、わたしの背を撫でて、目を細めて、そして言いました。
「あの子があの子であってくれれば、わたしはそれでいい」




 ──妹様への復讐。
 わたしにできることはなんだろう。『目的』を忘れた妹様に、それを思い出させることでしょうか。それとも、別のなにかでしょうか。
 少なくとも通りすがりの仔猫の親探しじゃないだろうなあと、わたしがげんなりしていると、「にゃあ」と猫の声が。わたしのでなければ、背後の仔猫のものでもありません。それは前方、木の陰から聞こえました。
「にゃあ、にゃあ!」
「にゃあ!」
 予想通り、仔猫の家族です。ひい、ふう、みい……わらわらと出てきます。わたしが連れてきた仔猫も含めて、合計で十匹。みんな白か、クリーム色の毛。やはり地上ではこのような色も珍しくないのでしょう。帰還した仔猫に、同じく仔猫たちが群がっていきます。
 親御さんにお礼を言われて、どうも慣れない感触にどぎまぎしてしまいます。地底では、白色の毛というだけで、他の猫と違うためなんとなしに距離を置かれやすかったのですが、ここにはそんなことがありません。
 地上。
 地上、ですか。


 少しだけ。
 ほんの少しだけ、もしもわたしがここで生まれていればと、そんな気持ちが心をよぎりました。
 たとえば、この家族の一員として生まれていたら。
 きっと、家族に囲まれて平和に過ごしていたのでしょう。
 きっと、この広く明るい世界を、楽しみつくしていたのでしょう。
 きっと、若き日の孤独はなかったのでしょう。
 きっと、さとり様との出会いはなかったのでしょう。
 きっと、妹様の出会いはなかったのでしょう。


 ああ。
 遠く遠く、昔のことです。
 地底で、白色の毛で生まれたことを。
 一人ぼっちで生きていたことを。
 わたしは根本からなにか間違えてしまったのだと、信じていたときがありました。
 そのときわたしは、これ以上の絶望はないと心から思っていましたし、その気持ちに偽りはなかったと、いまでも思います。
 だけど。


 ──やっぱり、間違ったん、だよね?


 ──ああ、あなたはもう大丈夫みたいですね。


 そう。
 そうだったのです。
 わたしはもう、大丈夫だったのです。




 白猫の家族と別れてしばらく歩き、地下への縦穴のところまで戻ってきて、ふと気づくと、妹様が隣にいます。
 けれど安堵よりも先に、別の何かがわたしの中に現れていました。
 妹様は「どうだった?」と訊いてきて。
 わたしの返答手段は限られていますが。おそらくは、だからこそ。
 わたしは迷わず、大きく一つ頷きました。


 そして、まるでそれを合図にするみたいに。
 ぽっ、と音がして。妹様の頬に、まるで涙のように、水滴が生まれていました。


「ふふ、なんだか泣いてるみたい」
 妹様は笑って、頬の水滴を拭います。わたしはというと、すぐそばの地面に天から新たな水の粒が叩きつけられるのに、びくりと震えていました。
 ぽつ、ぽつっ。
 いちいち音が聞こえるたび、わたしは身体を硬直させてしまいます。へたれた猫だと思うかもしれませんが、猫だからこそです。水への忌避感は本能レベルで刻まれてしまっているのです。大丈夫と決心して覚悟もしてきたにせよ、いざこうやって目の当たりにすると、やはりどうしようもない反射的な感覚というのがあるのです。
「うーん、この雲の具合だとあんまり降らないかな。涙雨、ってあんまり使う言い方じゃないけど、これなら言っちゃっていいかも。少しだけ、ぽつぽつ降る雨ね。雨って地下には無いからね。地上に来るようになった頃、なんとなく雨のことは勉強したのよ。涙雨のもう一つの意味……涙みたいな、悲しみみたいな、感情の変化を映す雨なんだって」
 わたしには似合わないなあと、妹様は続けるのですけれど。
 おそらくそれが、それこそが。
 妹様の、傷だと思うのです。


 妹様は、いつもそうしているように、わたしを抱き上げました。
 わたしに抵抗はありません。そのままじっとしていると、ぽつ、ぽつの感覚が早くなってきて──ついにわたしも、わたしの背に、軽い衝撃を感じました。冷たさが身体を駆け巡って、ぶるっと震えてしまいます。
 雨。
 これが、雨。
 ──怖い。
 風が湿って、冷たくなって、明るい世界に影がさして、
 ──怖い。
 冷気が辺りを浸食して、わたしの身体を這いずり回って、だけど雨は尽きるどころかどんどんその勢いを増していて、
 ──怖い、怖い、怖い!
「やっぱり猫って、雨が苦手なのね。こうやって降り出すと、雨に当たるのがそんなに嫌なのかな、すぐ逃げ出すの」
 わたしの足は勝手に地面を蹴っていて、わたしの目は逃げ込む先を、地下への縦穴を真っ直ぐに見ています。だんだんと視界の中で大きくなるそこは救いの場所で、わたしは全速力で駆けているはずなのに、なぜか普通に歩いているのと同じくらいゆっくりに、風景が流れます。
 早く、早く、早く!
 けれどわたしの足は、途中で空を蹴りました。
 わたしの身体は、誰かの腕に抱かれていました。誰か、なんてわかりすぎるほどにわかっています。


 他の猫にしたように、妹様はわたしを抱き締めて、放そうとしません。
 けれど、わたしの身体に触れた熱が、わたしの中のわずかに冷静であった部分を呼び戻してくれました。
 これで逃げるわけにはいかないのです。わたしは結局、妹様のこの行動の意味すらわかっていない。


 でも、振り絞った勇気とは裏腹に。
 心では、堪えて堪えて堪えているつもりなのに。
 妹様の右腕に水が落ちて、左腕にも水が落ちて、それはどんどんわたしに近づいてくるようで。
 身体が逃げようとして、暴れ始めます。それほど鋭くもない爪ですが、まがりなりにも化猫の爪です。妹様はわたしを抱くだけで何の抵抗もしないから、その服は肌は引っかかれて切り裂かれて、たちまち無残な姿になってしまいます。それでも変わらない笑顔が、妹様をよりいっそう悲惨に見せました。


 わたしはそのあたりで、不思議なことに気づきました。
 半狂乱状態で暴れているくせして、わたしはやけに冷静なのです。
 それは、勝手に暴れているわたしを、同じだけど違うわたしが、どこか他の場所から見ているように。他人事のようにわたしを感じ取っている、わたしがいました。本能と理性が分離してしまったかのようです。
 妹様の腕の中で暴れる自分がひどく滑稽に見えます。
 滑稽に見えるのです、が。
 それに昔のわたしを重ねてしまうのはどういうわけでしょう。


 一人でいた頃のわたし。
 さとり様に会う前のわたし。
 わたしはわたしでいいと、認めてもらう前のわたし。


 重ねるということは、どこか似ている部分があるはずです。
 たとえ滑稽でも、一生懸命に頑張っているというところでしょうか。
 わたしだってわたしなりに頑張っていたんです。それは間違いありませんし。
 あるいは。
 ……あるい、は。
 身の回りのすべてが、怖くて仕方ないところとかでしょうか。
 逃げたくて逃げたくて、仕方ないところとかでしょうか。


 雨は、どんどん強さを増しています。
 妹様の身体が雨避けになってくれている面もあるのですが、そのぶん妹様はもうずぶ濡れで、髪の毛から、顔から、水滴が滴り落ちます。わたしにとっては、冷たい水という点でそれも雨とほとんど変わりありません。
 それに、どんなに強く抱き締めても、冷たさは防げないのです。妹様の腕は暖かいけれど、その隙間に潜り込んでくるのです。
 染みこみ、浸食してきます。入り込み、支配されてゆきます。それらが身体の中を伸びてゆく感覚に、わたしは、だんだんと力を失っていきました。
 暴れるほどの余分な熱量は失われ、ただ、身体をがたがたと震わせる。
 そんなわたしを、まるで待っていたかのように。
 信じれられないことに、妹様は、腕の力を緩めました。緩めたと言うより、ほとんど力を抜いたと言った方が正しいでしょう。これなら簡単に抜けることができてしまう──わたしが呆気にとられた、一瞬の後。
 妹様は、やはり笑顔で。
 だけど、顔を流れる雨の悪戯が、まるで泣き顔にも見せて。


「逃げないで」


 ──あ。
 わたしがもし人語を発することができたならば、そんなふうに、間抜けな声を出していたことでしょう。


「一緒にいて」


 確信、でした。
 きっと今までの猫たちも、同じように言われて。
 だけどそんなこと聞かずに逃げて。雨への強いトラウマで、こんな小さな言葉なんて忘れてしまっているのだと。


 そして、妹様は、わたしが逃げることを望んでいるのです。
 かつて自分がしたように。裏切って傷つけたように、裏切って傷つけられることを。
 それは、贖罪と自虐です。
 さとり様を見捨てたことへの、妹様なりの──。


 ──おそらくあの子は、道を見失っているだけです。
 ──もう、だめなのよ。限界なの。
 ──やっぱり、間違ったん、だよね?
 ──嫌われ者は、嫌われ者らしくいなくなった方がいいよね。
 ──あの子があの子であってくれれば、わたしはそれでいい。


 ──ああ、あなたはもう大丈夫みたいですね。




 やるべきことが。
 見えたような気が、しました。




 がちり、と。
 歯車がかみ合ったような音は、けれど、わたしの歯と歯が鳴らす音でした。
 悪寒が身体を包み込みます。身体が恐ろしいほどに冷えていて、止まらない震えがかたかたと歯を鳴らすのです。
 わたしを見ていたわたしは、いつのまにか消えていました。わたしはちゃんと、わたしに戻っていました。
 ここにいるのは、わたしと、妹様だけ。


 ふざけないで、と。
 できることなら言葉にしたかったのですけど、人語をいまだ操れないわたしにはできません。
 だから。
 わたしは妹様の腕に、強く、強く歯を立てました。がぶりと噛み付いてやりました。
 放しやしません。決して逃げません。
 それにこれで、身体は震えても、歯は震えない。かたかたと忌々しい音も消えて、一石二鳥です。


「なん、で」
 痛みがないわけではないでしょう。けれど妹様は、そんなことなど気にしていないようで。
「なんで、逃げないの。寒いでしょ。怖いでしょ。ねえ、逃げちゃっていいのよ。わたしのことなんか放っておいていい。なんで。メイが逃げないんなら、だって、なんで、わたしは」
 わたしは、放しません。
 がっちりと噛み付いて、妹様をじっと見つめます。
「逃げ、ないの? わたしといるの? こんなに濡れてて、こんなに寒くて、こんなに辛くて、こんなに嫌われてるのに」
 噛み付いたままだったから、難しかったのですが。
 わたしは、大きく一つ、頷きました。
 だって。
 さとり様の妹であるからとか、そういうことを抜きにして。
 わたしは妹様を──こいし様を、嫌いになったりなんかしていない。


 雨が、降っているから。
 こいし様が涙を流しているかどうか、わたしにはわかりません。
 ただ、その笑顔が崩れて、くしゃりと歪んだそれだけで、託された役目の第一歩は。
 少なくとも、さとり様を見放した甲斐なく、自分を否定していたこいし様への復讐の、その最初くらいは、果たせたのだと思うのです──まあ、すぐにぎゅうと抱き締められて、見えなくなってしまったのですが。





















 /猫とこいしと涙雨と、暖かな復讐劇


 結論から言うと、こいし様は、間違っていました。
 第三の眼を閉じて自己を曖昧にした以上、きっと、『誰かに嫌われたくない』という一念が、こいし様を形作るのに大きな意味を持っていたのです。
 けれど痩せ細った心は、嫌われるという事象を、嫌われることによる感情を忘れて。
 そこで、こいし様は間違えました。
 自分が間違っていたと思う、という間違いを犯したのです。


「メイ。メーイー。どこー?」


 無意識に入り込むことで自分の固有意識を失いやすい状態にあったこいし様は、自分を否定することで、無意識へと溶けてゆくスピードを加速させた……と、さとり様は言っていました。
 だから、つまらない話をしてしまうと、わたしがこいし様から逃げようとしなかったことは、今のこいし様を認めるという効果もあわせ持っていたらしいです。


「んにゃーっ!」


 しかしもう一つ、ここがこいし様の悪いところで……猫を雨の中で虐めるのは、かつて自分がさとり様を見捨てた時と同じ状況を再現していたようですが、あれは、嫌われ者として見捨てられる立場に立つと同時に、嫌われ者は見捨てられて当然と言う意識を成長させる儀式みたいなものだったらしいですね。自己嫌悪して、それをぐるぐる成長させていたわけです。


「あ、いた。ねえメイ、お姉ちゃんのペットが最近パワーアップしてるみたいなんだけど……」


 わたしとしてはほんとうに、昔の自分を見ているようで、見てられません。
 そこでまあ、少しばかり、意趣返しのようなものを考えたわけです。実は、こういう自分の殻に閉じこもってる輩というのは、うまく突っついてやれば意外と簡単に出てきてしまうわけです。まあ、わたしがそうだったわけですが。


「……にゃっ」


 そこで、さとり様への恩を返しがてらの意趣返しということで……ひとまずこいし様のペットとしての出張を長引かせました。具体的な日時としていつまでかは、まだ決まっていません。
 ただ、目標としては、わたしが人語を操れるくらいに力を増すまでは。


「話を聞いたら、神様に力を貰ったらしいのよ! そこでちょっとね、メイも……」
「にゃっ、にゃあっ!」


 そうしていつか、わたしがこいし様に、言葉を伝えることができるようになったら。
 もちろんその時にこいし様が、また変な状態に陥ってなければですけど。
 その時に伝える、私の初めての言葉は、もう決まっているのです。


「それじゃあちょっと話をつけてくるわ! 留守番よろしくー!」
「にゃーっ! にゃーっ!」






 こいし様が元気よく走って、地霊殿を後にします。
 さとり様が、わたしの傍らに立って、こいし様を見送りながら、苦笑を浮かべます。
 ついていかなくていいんですか、一人で大丈夫でしょうかと、さとり様が言いました。
 その言葉はわたしが喋れるようになってからですよと、わたしは思いました。


 <了>








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