冷蔵庫から出し、テーブルの上に置いた、そのときの。
 そのプリンの輝きに姉が魅せられた一瞬を、古明地こいしは見逃さなかった。

 その右腕は剣となる。関節は一直線に伸ばされ、薄い筋肉も湧き上がる覇気によってコーティングされ、すべてを切り裂く剣となる。
 こいしの完全なる隠密行動は、容易に自身を姉の死角へと入り込ませる。弾幕ごっこなんて遊びとは違う。本気のこいしに勝てるものなど、こいしの無意識の能力を無効化できるほどの高位存在以外に無いのだ。
 さらに。姉の見せた一瞬という隙は、あまりにも、あまりにも大きすぎた。こいしは躊躇無く、右腕の剣で姉の頭を薙ぎ払い──

「っ!?」

 しかし姉は、奇跡のような反応でしゃがみこみ、その一撃を避けてみせた。完璧なタイミング。宙を舞う、さとりの髪の毛が数本。やけにゆっくりと漂うそれらに、こいしはひととき意識を奪われ──逆転する天地と頭への衝撃に、再び覚醒する。

 さとりだ。あの姉が、しゃがみこんだまま背後に両手を伸ばし、こいしの足首を掴み。そして思いっきり引き倒したのだ。
 いや、それにとどまらない。姉はしゃがみこんだその足で地を蹴り、仰向けに地に墜ちたこいしへとロケットのように突っ込む。そして、肘だ。勢いのままに、左の肘をこいしの心臓へと叩き込んだ。
 衝撃がこいしの胸を突き抜ける。こいしは再び地に叩きつけられ──その身体に吸収しきれなかった力が、地霊殿の固い床を陥没させた。
 ドォン……と衝撃波が遅れてやってきて、地霊殿の空気を震わせる。ペット達がギャアギャア喚きながら方々へ散ってゆく。それはさながら、天変地異を予期したネズミ達のように。

「か……あ、はっ」

 なぜ……?
 唇の端から血が垂れる。呼吸がおぼつかない。神経が遮断されたかのように、手足はどんなに命じてもピクリともしてくれない。

「なんで……私の完璧な奇襲が……」

 ありえない。
 姉は自分の心を読めないはずだし、そもそも無意識で行動する自分は誰にも察知されることは無いのだ。今までも同じようにして、姉からプリンを奪い取ってきたのに。

「簡単なこと」

 尊大な口ぶりで、姉は妹を見下ろした。くく、くくく、と笑みを抑えられないまま。そんなに、プリンを守れたことが嬉しいか。

 ──嬉しいだろう。
 嬉しくないわけがない。
 だってプリンだ。プリンなのだ。こいしだって、アレを奪った暁には、ボロボロの姉を蹴飛ばして、

「あはははははは!! ねえどんな気持ち? すっごく大事にしてたプリン奪われて今どんな気持ち〜〜〜〜〜〜〜〜???? わたし心が読めないからわかんないや!! 教えてよお姉ちゃん!! あははははっははははははは!!!!」

 とするはずだったのだ。実際、今まではそうしてきた。

「こいし……あなたの閉じた目は、すなわち世界への拒絶。なにものへの興味も持たないことの証。でも……今のあなたは、本当に、すべてへの興味を捨てているのかしら?」
「……まさか」

 言うことをきかない体を無理やりに動かして、こいしは、自分の第三の目を見た。

「開いて、る……うそ! それなら私も、お姉ちゃんの心が読めたはず……!!」

 そうだ。覚としての力がよみがえったのかどうかなんて、どうでもいい。問題はプリンだ。プリンを奪うためにそれが活かせるのかどうか。仮に姉が自分の心を読んで奇襲を察知したというならば、こいしにも、奇襲を察知する姉の心が読めていたはずなのだ。しかし、実際はいつもどおり。姉の心なんて、かけらも見えやしなかった。

「ええ、そうですね。完全に開いてるなら、私にもあなたの心が完全に読めるのでしょう」
「……完全、に? これは不完全なの……?」
「そう。あなたはたった一つのものにのみ、興味を注いだ。それに対してのみ、心を閉じることをやめたのです。すなわち、プリンに」

 バカな。
 いや、否定はできない。そういえば最近プリンの心が読めていたような気がする。

「あなたが私の背後に近づいてきてるときも、ちゃんと聞こえてましたよ。あなたのプリンへの愛が」

 ──ああ。

「さよなら、こいし」

 こいしは、息をついた。
 姉と行ってきたプリン争奪戦。その初めての敗北は──プリンへの愛ゆえに刻み付けられたのだ。
 敗北の理由としては、上々だ。

「さい、しょは」

 風が、吹いた。

「ぐぅぅぅぅぅぅ……!!」

 大気が、姉に──姉の拳に、集まってゆくのだ。オーラを集中している。想起「じゃんけんグー」。最近、生前はケモノだか蟻だかだったらしい怨霊の心を読んだ際に、得たトラウマらしい。
 いや、それだけではない。姉は泣いていた。涙までもが、その拳にこめられていた。これまで奪われてきた、幾百幾千のプリンへの涙に違いなかった。

 だめだ。
 あの拳は、避けられない。
 今まで、プリン、おいしかった。

「じゃん、けん」

 ……おいしかった。
 自分は死ぬのか。あれで頭蓋を砕かれ。
 もう終わりなのか?
 もう、プリンを食べられないのか──?

「死ねぇ……!」

 やだ!
 そんなの!

 動け!
 動けぇ……!

 ……しかし、願い空しく。
 こいしの手足は、やはりピクリともしなかった。





 轟音。
 先の肘打ちの数百倍の破壊力が一点に凝縮され、こいしにとどめをさす──

 はず、だった。

「ぐ……あっ」

 浮遊感。衝撃で吹き飛ばされ、数秒のあいだ宙に居たこいしが、床に墜落する。直撃を避けたとはいえ、あれだけのアウラ。自分の頭がちゃんと残っているか、ついこいしは手をやって確認してしまう。大丈夫だ。頭も、口もちゃんと残っている。

 そう、口がまともに残っているのだ。
 まだ、プリンを食べられる。

「ハァ……ハァ……まだ、諦めていないとは」

 一撃にすべてを注ぎ込んださとりは、荒い息で膝を突いていた。すぐそばの床には、その拳を一回り大きくしたサイズの底なし穴が開いている。想起「じゃんけんグー」で開いた穴だ。まともにくらっていたら、こいしの頭は残らなかっただろう。

「諦めるわけ、ないわ……!」

 震える手足を無理矢理に使って、こいしはなんとか立ち上がる。その周りで、ひゅん、ひゅんと空気を切る音を発するものがある。

 第三の目。
 プリンに恋して心を開いたこいしの、新たな武器。
 二本のコードに繋がったそれは、即席の鎖分銅だ。こいしはこれを全力でぶつけることで、姉の拳の軌道を僅かにずらしたのだ。

「ふん……だけど、もうあなた得意の奇襲は使用不可能。最初の一撃で大きなダメージを受けたあなたに、勝ち目はないわよ」
「それはどうかな……!」

 こいしは、駆けた。肉体でなく、精神で駆けた。満足に動かない手足に見切りをつけ、自ら生み出した弾幕を自身の身体にぶつけることによって、爆発的な推進力を得たのだ。いまやこいしは、銃口から撃ち出される弾丸であった。代償として肉体がボロボロになるが、ささいなことだ。

 さとりの顔色が変わる。圧倒的優位が一瞬で詰められたことに気づいたのだろう。なぜならこいしは、既にさとりを目指して飛んでいなかった。こいしは、プリンだけを見ていた。プリン目指して、真っ直ぐに吹っ飛んでいた。

 そう。
 これは、相手を倒したほうが勝ちなのではない。
 プリンを食した方が勝ちという勝負なのである。

「ちょこざいな真似を……!!」

 姉の焦った声など、知ったことではない。

 プリン。
 プリン。
 プリンだ。

 目の前に迫るプリン。こいしは、顎が外れそうなくらいに大きく口を開けた。あと一メートル。あと三十センチ。あと十センチ。

 そこで、火花がはじけた。
 衝撃。十センチまで迫った距離が、三十センチまで殴り戻される。殴ったのは、姉の頭だ。姉は、その頭をこいしの頭にぶつけ、こいしと同じように吹き飛びながら、空いた両手でプリンが載った皿を確保しようとしていた。
 しかし、両手が空いているのはこいしも同じだ。

 姉より先に確保!
 いや、間に合わない!?

 思考は一瞬にすら満たない。こいしはプリンよりも先に、姉の手を止めることを優先した。
 あと五センチ。そこで、さとりの手は電撃でも走ったかのようにピシリと止まる。「こぉぉぉぉぉぉいしぃぃぃぃぃぃぃ」地獄の底から響いてくるような声だが、そもそもここが地獄の底だった。「おおおぉぉぉねえちゃあああああんんんん」第三の目どうしが、残像を残して空中戦を繰り広げる。目を開いたばかりだからだろうか、こいしの方がやや扱いに不慣れだ。それでもなんとか押さえ込んでいる。そして互いに両手も潰しあっているため、残るはただ一つ、プリンを飲み込むその口のみ。

 さとりが蛇のように伸ばした頭を、こいしが同じく頭で迎え撃つ。だが、やはり一瞬こいしの方が遅れている。おでこだけで押し返すのは難しい。さとりの口がプリンに近づいていく。負ける。喰われる。もう手はない。

 手はない。
 本当に?

 ──そうだ!

 プリンを食べるのは口だ。他のどこでもない。つまり、口さえ封じてしまえば、少なくともプリンを食われることは無い……!
 こいしは可及的速やかに、最も効率的に、さとりの口をふさいだ。



 ちゅっちゅ。
 
 
 
 
 
 




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