1.起きる

 わざわざ確認するまでもないことだろうが、寝ぼけた霊夢は抱きつき魔にしてキス魔だ。
 もちろんアリスも数え切れないほどの実体験によってそれを理解しているから、目を僅かに開いたとき、視界を霊夢の顔が埋め尽くしていても、特に驚くことはないのである。


 さて、起床直後。
 半眼のまま身じろぎもせず、アリスはまず顔の触覚に意識を巡らせた。今は、霊夢のぷっくりとした唇は、アリスの顔から離れたところにある。少し前まではそうでもなかったのかもしれない。乾いてぱさついているとか液体のままだとか違いはあるけれど、頬や鼻、そして口にいたるまで、霊夢の唾液の感触が支配している。いつも通り、霊夢は眠りながら好き放題やって、アリスは好き放題やられたらしいということだ。
 顔中を舐めまわされても目を覚まさないのは、つまり慣れというやつである。就寝中にちゅっちゅされても起きないようになるなんて、人間の適応力ってすごい。いや私魔法使いだけどね。魔法使いの適応力ってすごい。いや人間だろうと魔法使いだろうと関係ない。むしろ私。私の適応力すごい。


「……ん」
 寝起きのテンションでアリスが自分に自信を取り戻しているうちに、霊夢にも反応があった。とはいえ、起きるわけではないらしい。霊夢がアリスの身体に回した両腕に力が込められた。そのまま抱き寄せられる。
「んー……」
 最初の頃は。
 寝ているうちに唇なり鼻の穴なり耳の穴なり目蓋なりほっぺなり奪われて、不可解な感触に飛び起きて、目をつむったまま唇を突き出してくる霊夢に呆れた視線を送ったものだ。いちいち可愛らしい反応をしてやったもんだと思う。
 さて、慣れてしまった今はどうするか?
 アリスの答えはこうだ。


 まず、迫ってくる霊夢に、慌てず騒がず落ち着いて。アリスは右腕を霊夢の頭に巻きつける。強く固定して、離さないように。離れられないように。
 空いたほうの手では、幸せそうな寝顔をさらす巫女の、鼻をちょいとつまんでやる。これで準備万端。最後の仕上げと、アリスは霊夢に対して少し顔を傾けると、むしろ自分から求めるみたいにして、自分の唇を霊夢のそれに、きっちりと被せるようにして重ねた。
 結果は以下のようになる。


「ふむっ」
「…………」
「むぅ」
「…………」
「んむ……」
「…………」
「むぅ……?」
「…………」
「ん、むむぁ」
「…………」
「む、むー」
「…………」
「んむ、むむむむむむ」
「…………」
「むー! むー!」
「…………」
「むー……」
「…………」
「んぐぅ……」
「…………」
「ぅ……」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」












 2.シャワる

「アリスって意外と極悪非道よね」
「なんで? キスしたがってたからしてあげただけなのに」
「あのね、起きたらいきなり誰かにキスされてる人の気持ち、考えたことある?」
「その言葉そっくりそのまま返したい」


 ところでアリスは、霊夢とそれほど仲が良いわけではない。
 ただ、別に仲が悪いわけじゃあない。どちらかというと、どうでもいい部類だ。でも、どうでもいいやつだからこその関係っていうのもあるかもしれない。なにせ、めんどくさくない。人間関係とか。人妖関係かもしれないけれど。
 お互いに、根っこのところで他人に興味のない部分があるのだと、アリスは思っている。誰かと深い付き合いができないわけでもないだろうけれど、そこには必要以上のストレスと、エネルギーが要りそうだ。薄っぺらい付き合いでいい。だけど、薄っぺらい付き合いを薄っぺらい付き合いのまま続けられる相手というのは、意外に少ないのだ。


 ──なんてことを、霊夢との関係について問われたアリスは、おそらく答える。霊夢も同じ問いをされたら、同じようなことを答えるだろう。
 なので、顔を洗うついでにシャワーでも浴びようというアリスに霊夢が引っ付いていこうが、お互い特に意識してもいないので妙な何かを気にするわけでもなく、むしろそうしなければ水と燃料と時間の無駄くらいに思っていたのであり、つまり二人が一緒にシャワーを浴びるのは世界の摂理でありまったく当たり前のことなのだ!


「あ〜〜〜〜〜〜」
「アリスってさ……」
「気持ちいぃ〜〜〜〜〜〜」
「なんていうのかな、バランス取れた身体してるわよね……」
「いいのぉ〜〜〜〜〜〜」
「このお尻とか……」
 シャワーを先に浴びる権利は、アリスが勝ち取った。霊夢の涎を落とすという名目があるためだ。霊夢を風呂椅子に座らせて背後に待機させ、アリスは浴室で仁王立ち。シャワーのスイッチを入れて、目をつむり、頭から温水を引っかぶった。
 山の上の神社の付属品の一つであった、浴室というもの。そんなものが河童の好奇心の餌食にならないはずもなく、分解、理解、再構築の三つ目の結果がアリス邸のこの浴室だ。知り合いの家に優先的に設置する、なんて親切なわけもなく、知り合いの家が優先的に実験対象になっただけだ。とりあえず造ったんでお代はいらないから使ってみて、とか言われた。
 アリスも最初は戸惑っていたが、今となっては河童様様といった具合だ。というか、シャワーを浴びながら気持ち良さそうな顔して「はぁ、河童様様」なんて実際に口に出している。そんなアリスの背後からは、なんでうちには来てくれなかったのかなーと、霊夢の切なげな溜息が聞こえてくるけれど。


 右手でシャワーの蛇口を持ち、そこから流れ出る熱いお湯をアリスは頭で受け止め、空いた左手で顔を揉みほぐしている。
 ぬるぬるした霊夢の唾液の感触が少しずつはがれ、スベスベでハリのあるほっぺが戻ってくるこのとき、あー若いっていいなーわたし魔法使いでよかったーなんて、まるで年寄りみたいなことをアリスは思うのである。
「あ〜〜〜〜きもちぃぃぃ〜〜〜〜……」
「アーリースー。さっさと代わりなさいよー」
 しかし、不満げな声をあげて両手で臀部をもにゅもにゅ揉んできやがる霊夢に、アリスの幸せ空間はいともたやすく罅を入れられる。しかし、こんな程度で屈してなるものか。私は私の平和を守るとばかりに、アリスは努めてこれをスルー。スルーしてますよという自己主張のため、わざとらしく鼻歌まで歌い始めてやる。
 かくして、臀部を揉まれながら鼻歌を歌いつつ上機嫌でシャワーを浴びる金髪女性という非常にアレな画が出来上がったわけだが、これこそが霊夢の精神攻撃である。妖怪退治は精神を折るところから始まるのだ。


 しかしアリスは耐えた。というよりかは、あんまり気にならなかった。
 こんなのが効くのはどこぞの霧雨魔理沙のような初心っ子だけである。


 そうしてしばらくすると、臀部から霊夢の手の感触が離れた。
 諦めたか、とあざ笑うもつかの間、アリスの手から力づくでシャワーの蛇口が奪われる。シャー……と水の流れ出る音は止まらないまま。犯人など確かめるまでもない。
 顔を濡らす水滴を両手で弾く。目を開き、振り返る。湯気で少しぼやけた視界には、「あ〜〜〜〜きもちぃぃぃ〜〜〜〜……」と全身にお湯を浴びる霊夢。


「霊夢、それを返しなさい」
「嫌よ。もう十分じゃない。だいたいちょっと舐められたくらいでしょ。そんな念入りに顔洗うようなもんでもないじゃない」
「……ほう」
 霊夢の一言に、アリスの目が据わる。
 今度のホールドは片手ではない、絶対に逃がさないためには両手だ。右手を霊夢の左の頬に、左手を霊夢の右の頬に。
 相手の抵抗を阻止するためには、一連の動作に流れがあると良い。その点アリスの動きは完璧だった。「……ほう」からアリスが霊夢の唇を舐め始めるまで一秒とかからなかったし、また、結果論だが、霊夢が左手にシャワーの蛇口を持っていたというのも大きい。壁には蛇口を掛けるためのフックがあったから、『用が無いときはそこに掛ける』という意識が霊夢の中にも刷り込まれていたのだろう。不測の事態に、元の場所に戻す時間などないことはわかりきっているはずなのに。それでも神の恵みたるシャワーの蛇口を投げ捨てるのは気が引けたのだろう、霊夢は一瞬、左手の蛇口のことを気にして、そして結局、手を放せなかった。
 かくしてその瞬間、霊夢の利き手は防御のために使われることなく。アリスの洗練されたちゅっちゅは霊夢にクリティカルヒットしたのであった。
 浴室に充満した湯気と、お湯を排出し続けるシャワーの音を背景に、霊夢の声だけが響きわたる……。


 シャー……

「ん、ぷ、はぁ」
「…………」

 シャー……

「こ、のぉっ」
「…………」

 シャー……

「ふぁ、ちょ、ふ」
「…………」

 シャー……

「ん、うひぃぁ、耳はっ、」
「…………」

 シャー……

「そこ、だ、ひゃあっ、ちょっ」
「…………」

 カランカランッ
 シャー……

「ひゃ、あぁぁ……」
「…………」

 シャー……

「…………」
「…………」

 シャー……












 3.跳ねる

 濡れた身体を拭きながら、アリスは居間へと戻る。ぺたぺた足音を立てながらついてくる巫女にも、バスタオルを投げつけた。
 ひとりだったなら、ちゃんと浴室前の脱衣場で身体を完全に拭いて、服だって着てから戻ってくるのに。ふたりいると不思議とそういうことはなく、身体は適当に拭きながら、裸のまま居間に戻ってくる。どちらかというと逆にするべきかもしれないとたまに思うけれど、しかしふたりで使うには、脱衣場は少しばかり狭いような気もするのだ。


「なかなか貴重な情報を得たわ」
「おぼえてろアリス」
「霊夢は耳が弱い、と」
「復讐してやる」
「まあまあ。あんなに舐めまわされたら、たくさんシャワー浴びたくなるってのもわかるでしょ?」
「月夜ばかりと思うなよ」
「はいはい」


 風呂場でめちゃくちゃにされた猫みたい。なんて思いながら振り返ってみると、まさに、フーッ! と毛を逆立てて睨んでくる霊夢がいて、アリスはとても和やかな気持ちになった。

「まったく、そんなこと言ってる暇あったらちゃんと身体拭きなさいっての」
 さっきからなにか物騒なことを言っているけれど、そんなのは無視だ。
 だいたいこの巫女が、復讐なんてめんどくさいもののために夜間外出するはずがない。そんなことをするくらいなら、布団の中で惰眠を貪るに違いないのだ。
 復讐には、相応の因縁が必要だ。なにものかへの思い入れが必要だ。ここにいるのはそういうものが持てない二人だから、復讐されるほうならともかく、復讐するほうの資格を持つことはたぶん無い。
 たぶん。


「うん? でもどうなのかしら」
「なにが?」
「持たないから、そういうことをしてみたいって思うこともあるのかも?」
「なにが?」
「まあ、霊夢なら大丈夫か」
「なにが?」
 霊夢の顔も三度まで。アリスの顔を覗きこむみたいにして首を傾げていたけれど、飽きたのか、ベッドにダイブしてごろんごろん転がった。「ちょっと! 濡れた身体でベッドの上転がるな!」
 それで霊夢は転がるのをやめた。「はぁ、」代わりに、身体に妙な反動をつけて、ベッドのスプリングの力で跳ね上がった。


「この、」
 仰向けのまま、バランスとタイミングを合わせてべっこんべっこん飛び跳ねる。
「ベッドの、」
 べっこんべっこんべっこん。脱力した両手が一泊遅れてぶらんぶらん揺れる。
 もはやほとんど身体を操作せず、ただ反発力によってのみ跳ねているように見える。まさに熟練の技である。
「感覚も、」
 というか。
 宙に浮く巫女のくせに、宙を跳ねることの何が楽しいというのだろう。
「なかなか、」
 最近のアリスは布団派になりつつある。あのどっしりした床の感触には安心感があるではないか。
 なんて主張してみると、霊夢は、布団にひとりで寝るのはふわふわするから苦手だなんて言うのだけれど。
「悪く、ない」
「──って飛び跳ねるな! しかも濡れた裸!」


 我に返って声を出そうとするそのときには、アリスは既に用意を始めていた。
 二つ? 三つ? いいや調子に乗った巫女へのおしおきは七つくらいでいいだろう。
 ここは魔女の家だ。魔法使いの本拠地だ。アリスの手足たる人形達はあらゆる場所で準備万端。瞬きほどの時間があれば十分。アリスは意識の一部を、人形の制御へと割いた。

 ということで、ベッドの下に待機していた奇襲部隊七体が「イーッ!」と掛け声をあげて霊夢に殺到した。「いいっ!?」驚きながらも、そこはさすがに博麗の巫女、その手は懐の御札を取り出そうと動いている。

 無論、全裸の巫女にそんな備えがあるわけもないので。
 霊夢の手は、自分の胸の片方を、ぽよん! と揺らすだけに終わった……のなら、まだよかったのかもしれない。

 べたん!

 鳴り響いた硬質な音に、霊夢は驚愕と悲しみが混じったような表情を見せた。

『アリスってさ……』

 浴室での会話。
 あのときの霊夢の声が、よみがえってくる。

『なんていうのかな、バランス取れた身体してるわよね……』

 同情かあるいは優越か、よくわからないけれどやっぱり勘弁してやろうかという気持ちが顔を出してくる。
 奇襲部隊に与えた命令は、くすぐり地獄である。
 このままでは、七体の人形が霊夢のアレやコレをくすぐりまくるだろう。二体三体ならともかく、七体である。ちょっとかわいそうな気がする。

『このお尻とか……』

 うーんでもまあやっぱりいっかとアリスは臀部をさすりながら思った。

「ちょ、ひゃ、あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
「イーッ!」
「イーッ!」
「イーッ!」
「イーッ!」
「イーッ!」
「イーッ!」
「イーッ!」
「あ、ありす、この、ちくしょ」
「イーッ!」
「イーッ!」
「イーッ!」
「イーッ!」
「イーッ!」
「イーッ!」
「ありす、おぼえひゃあっ!?」
「イーッ!」
「イーッ!」
「イーッ!」
「イーッ!」
「イーッ!」
「わたしんちでは、あんたああああああああっ!?」
「イーッ!」
「イーッ!」
「イーッ!」
「イーッ!」
「……ぁ……ぅう……」
「イーッ!」
「イーッ!」
「イーッ!」
「………………」
「イーッ!」
「イーッ!」
「………………」
「イーッ!」












 4.医者る

 どうするかなーこれ。
 思いながら、とりあえず自分の身体を拭く。拭いてバスタオルを身体に巻くだけで、下着をまだつけてないのには理由がある。
 アリスの目の前には、水やら汗やらなにやらでぐちゃぐちゃになったベッドに横たわり、ぐったりと深く息をする霊夢の姿がある。しかも全裸。

 一応、選択肢はあるのだ。
 これから軽く何かを食べることになるだろう。
 ひとまず霊夢の身体を拭いてやることにもなるだろう。本人はもう力を使い果たしたみたいだし、放置していたらあのまままた寝てしまう気すらする。もし拭いてやるなら、自分が服を着るのはまだ邪魔になるような気がするのだ。

 普通なら、二つのことは同時にはできない。だけどアリスにはできる。片方は人形にやらせて、自分はもう片方を。あるいは、両方とも人形に任せてしまい、自分はぼーっと天井を眺めているのも良いかもしれない。

 などと考えながら、身体を拭き終えたアリスはぼーっと天井を眺めていた。むしろ眺めていた。天井のしみが気になる。隅っこの埃が気になる。人が来ているときというのは、不思議と、普段見えない我が家が見えるようになって新鮮だ。

 五分後。

 別に五分を待ったわけではない。
 天井を見ていて、ふと時計に目をやったら五分が経過していただけだ。

 なんとなくそろそろ霊夢が寝てしまってる気がしたので、ベッドに近づいてとりあえず頬をぺちんとやった。
「いたっ」
「あ、起きてる」
「起きてるわよ。こんなふわふわしたベッドで寝れるわけないでしょ」
「……まあ、なんでもいいけど」
 気づくと。
 霊夢の頬をぺちんぺちんとやりがてら、ベッドに腰を下ろしてしまった。ここまできてしまったら拭くのもやぶさかではない。

「もしくすぐったら……相応の覚悟があるとみなすわ」
「誰が。……まあ、結果的にくすぐりと感じるかもしれないけど、そのくらいは我慢してね」
「結果的にくすぐりと感じるって……なんで?」
「身体が敏感になってたりで」
「誰が!」

 言い合いもそこそこ、アリスは霊夢の身体を見つめる。
 ふっくらとした肉付き。白さでいうならアリスの方が上かもしれない。けれど、どこか自分の白さは人工的だとアリスは思っている。霊夢のは、自然な白さだ。普通の人間。手を加えようのないものなのだから、当たり前なのかもしれないけれど。
 最初は髪の毛から。身体と対比されるような、目の覚めるような黒。しかしなんとなく、こいつは手入れとかそういうことをあんまりまともにやっていない気がする。せっかくだし少しくらいやり方を教え込もう……その傍ら、人形に命じて暖炉に火をともす。今さらかもしれないと思うけど、まあやらないよりはマシだ。

「髪なんていいわよ、拭かなくて」
 やっぱりか。アリスは眉間に皺を寄せた。「よくないでしょ、まったく」
「普段そんなに拭いてないし」
「ここではお客様なんだから黙ってなさい」
「……お客様ってなら、私の言うこと聞くんじゃないの……?」

 お客様。
 いちおう、お客様のはずだ。自分の家にやって来たお客様。
 いつしか習慣になった、互いを互いの家に招きあう──もとい、なんとなく交替でお互いの家に行って二人きりで時間を過ごす。
 これが習慣として続いているのは、おそらく、お互いに楽だからなんだろう。お客様、なんていってもそんな明確に役割わけしてる気はアリスにはない……なんとなく、で過ごしている。なんとなく、で過ごせる相手ということが、たぶん重要なのだ。

 霊夢の身体を起こしてやる。人形が持ってきた、よく乾いた新しいタオル。水気が残っていそうな部分を優しく挟み込んでやって、そのまま軽く押さえる。それを繰り返す。

「もうちょっとぱっぱとやろうよ」
「慌てない。だいたいね、ほんとは普段からこうしてなきゃだめなのよ」

 あらかた水分を取ったら、魔法で局所的に風を起こしてやる。これは普段の霊夢には難しいかもしれないから、アリス邸限定のサービスだ。急に生まれた温かな風に、霊夢は身を震わせる。こういうことに慣れていないのもあるのだろうけど、しかしまるっきり猫みたいと、アリスは空いた手で霊夢の身体を押さえてやった。

「……こんなもんかな」


 つぎ、腕。
 アリスは普段、頭の次は腕から拭く。
「霊夢の腋って、なんで焼けないんだろう」
「知らん」
「不思議……」
「ん、」
 腋の辺りにタオルをあててやると、やっぱり感覚が鋭くなってもいるんだろう、霊夢が僅かに反応を見せる。
 ただ、結局は腕だから、ぐるっと軽く拭いてやるだけ。髪ほどには丁寧にならないし、霊夢の側からもそんなに抵抗はないので、すぐ終わる。


 次は、身体。
「ところでさ」
 声をかけながら、背中の方を大雑把に拭いてやる。さっきまで寝転がっていた分、既にほとんど水気は取れていた。
「なに?」
「胸とか身体のバランスとか、そんなに気になる?」
 すくなくともアリスは、それほど気にならない。
 とはいえ、自分と霊夢は別のものだ。他者であるとかそういうことではなく、魔法使いと、人間。身体の成長は──『止まって』ではなく『止めて』久しいし、仮に自分の身体で気になるところがあったとしても、簡単に変えられる。人形のパーツを取り替えるのなんかよりも楽だ。アリスには、だから、自分の身体について気にするという感覚がそれほどない。

「うーん」霊夢は、しばらく、ぼんやりと宙を見つめていた。アリスは気にせず、霊夢の胸を拭いていた。僅かなやわらかみ。ないといえなくもないこともない。
「気になるっていうか」
 霊夢は黒髪をぼりぼりと乱暴に掻いた。アリスが少し残念な気持ちになったのは、霊夢にはわからないだろう。
「私も成長するのかな?」
「え? あなた成長しないの?」
「うーん、してるのかな。よくわからん」
 霊夢はアリスの手を押しのけて、自分の胸に触れた。
「魔理沙くらいならわかりやすいけど」
「あー」
 相槌を打って、今度はへそと、脇腹のあたりを拭き始める。
 大雑把に見える魔理沙だけど、あれは意外と奥ゆかしい。だから霊夢とこうしてるみたいに、互いの裸を見たことなんてない。
 それでも。魔理沙の胸がここ最近だんだん大きくなってきているのは、服越しでも十分に見て取れる。

「してるんじゃないの? 成長」
 あなたも魔理沙も、私とは違うんだから。
「同じ人間なんだし」
 上半身を拭き終えて、一度床に下り、下半身の側に回る。
「同じなのかなあ」


 つぎ、足。
 ふむ、とアリスは顎に手をやった。
 どうせ今の霊夢は、害意を持ってでもなければ、だいたい何をされてもされるがままだろう。最近ちょっとかじったくらいだけど、軽く試してみようかと。そんな気持ちが湧いた。

 右の足裏、足首と水滴を拭ってやる。ふくらはぎは少し違う。
「ふぁ? ちょ、なに?」
「まあまあ、気にしないの。それよりちょっと長くなるから、身体倒しといた方が楽だと思うわ」
 タオル越しに、親指で圧をかけて、揉みほぐしながら。だんだん上に向かっていく。これを何度か繰り返し。
 ふくらはぎが終わったら、次は太もも。こころなしか力を強めて、あとは同様に。
 ほう、と霊夢が満足げな息を吐いた。
「なんかこういうのってお医者さんごっこみたい。裸になって、なんかいろいろするやつ」
「お医者さんごっこってそういうもんなの?」
「らしいけど」

 お医者さんごっこ。裸で。
 なんとなくの納得もあるけど、なんとなくの違和感もある。
「……んー、でも、それって二人とも裸でなんかいろいろするの?」
 自分の手と霊夢の足に集中しながら、アリスはぼんやり問うた。
「……んー、どうだろ。しらない」
 わりと気持ち良さそうにしている霊夢も、たぶんぼんやり答えていた。
「霊夢はやったことないの?」
「ない」
「ふーん。じゃあなんで知ってるの?」
「魔理沙がいってた」

 お医者さんごっこ……お医者さんにかかったら、お医者さんも患者も、二人とも裸になったりするんだろうか……お医者さんにかかったことが無いから、よくわからない……。
 ぐるんぐるん渦を巻く思考。そんな中でも時間は過ぎて、手も動くから、やがて脚の付け根にたどりつくときは来た。

「……おわり」
「……ふう。なんかマッサージみたいだった」
「血行促進とかで、足を綺麗な形にするマッサージなんだって」
「……ふーん」
「お人形を扱うみたいにやってみました」
「……ふぅん……」
 奉仕活動と思うと腹立たしいけど、お人形の手入れと思うと、なかなかどうしてそんなに悪くは思わない。人形使いとは不思議なものである。
「三食昼寝お茶マッサージ付きなら、ちょっとなってあげてもいいかも」
 アリスのお人形、と。
 これで霊夢がちょっと笑ってでもいたなら、冗談でしかないだろうけど。ぼけーっとした、ある意味真顔で言ってくるあたり、霊夢はよくわからない。
「うーん……」
 巫女「霊夢人形」とか使ったら弾幕ごっこではかなり強いんだろうか。最初はそんな気持ちが脳裏をかすめた。
 いやーそれにしても手間かかるわりにリターンが少ないな。最後はそんな気持ちが脳を直撃した。

「不採用」
「ぐうっ」












 5.メシる

 食事というのを、アリスは本来、そんなに嫌ってはいない。
 だけど霊夢との食事は、ちょっと苦手だ。

 テーブルの上には、焼いたトーストを数枚。その横には各種ジャム。それと熱い紅茶。
 まるでおやつみたいだけど、アリスとしてはこんなものでいい。量はいらない。魔法使いのアリスは、栄養のためじゃなく味わうために食べている。

 たとえばさっきマッサージをしたみたいに、もっと手の込んだものを作ってやろうという気分にはならない。そのあたりの境界がどうなっているのか、アリス自身はっきりとはわからない。
 ただ、霊夢が来るから豪華な料理を作るなどというのは。
 なにか、一歩を踏み出してしまっている気がする。そういうのは、なにか違う。
 それがぜんぶ建前で、実際面倒くさいからというだけだったら、楽だったろうに。


 食事というのを、アリスは本来、そんなに嫌ってはいない。
 だけど霊夢との食事は、ちょっと苦手だ。
 どうも、他に比べて食事の時間というのは、気を遣いやすい時間であるように思う。
 美味しい料理を出そうとか。せっかく作ってくれたんだし、あんまり口に合わないけど我慢するとか。
 まるで、この先を望んでるみたいじゃないか。

 霊夢との時間は、真っ白い、無邪気な時間だと感じている。単純で、生産性も発展性もなくて。相手のことなんてあまり気にしない、子供のような時間。
 食事のときは、それが、陰ってしまうみたいだ。


「……なに?」
 テーブルに向かい合って。
 いちごジャムを塗ったトーストをかじりながら、霊夢の顔を見つめてしまっていたらしい。「……いや」もごもご呟いて、口の中のトーストを先に咀嚼する。もやもやした、後ろめたさのようななにかが、逃げるように視線を逸らしたことで、少しだけ大きくなった。
「お口に合うかなって」
「んー」
 和食派の、霊夢が。
 いつもわかりやすい直球の霊夢が、こうやって訊いたときだけ、いつも少し変化球になるような気がするのは。
「普通に、美味しいと思う」
「……そう」
 気のせい、ということでいいんだろうか。

「前は、そうでもなかったけど」

 アリスは、視線を上げた。上げたということは、それまで下がっていた。霊夢を見ていたはずなのに。

「……ふうん。不満なら、そう言えばよかったのに」

 なにか不満があったなら、そう言えば。
 それに対応してやるのは、たしかにアリスとしては不本意だ。もしかしたら、これ以外を作るのは拒否したかもしれない。その場合は霊夢に我慢が求められてしまうかもしれない。そんなことがきっかけで、この交流が終わることも考えられたかもしれない。
 だけど、やりたいことがすれ違うのは仕方ないことだし、そうなったらそうなっただ。そもそも、こんなの薄氷の上でのんびりくつろいでいるような関係だ。成り立っているほうがむしろ奇跡なんだろう。

「不満ってわけでもなかったのよ。だって楽だったし」
「楽?」
「うん」
 はむぐ、と霊夢がトーストをかじる。ブルーベリーのジャムをたっぷりのせたトースト。ふとその減り具合を見てみると、他のはほとんど減っていない。霊夢はどうやら、ブルーベリーに集中して食べていた。

「アリスの家に来るのってなんか楽。だって、何もしないでもご飯出てくるし」
「ん……あー」
 霊夢の言う意味がわかって、アリスは口をぽかんとさせた。
 そういえば、霊夢には親がいない。
 アリスも。魔界を出て、こうやって幻想郷に一人で暮らすようになってから、人形の家事への応用に慣れるまでは。いろいろと鬱陶しく思い、同時に、魔界に居て他の者と暮らしていた頃がどんなに楽だったか身に染みて理解したものだ。

 なにか、嫌な予感が背筋を上ってくる。
 自分がいろいろと、一人芝居をしていたんじゃないかという予感。

「それに」
 霊夢はまた、トーストをひとかじり。
「同じ人の料理を何度も食べてると、馴染んじゃって、そればっかり美味しいように思うようになるんだって」
「料理ってほどでもないけど。ただのパンとジャムだし」
 ジャムが自作のものであること、紅茶に施している自分なりの工夫等々を、なんとなしにアリスは、あえて棚の上にやった。
「そうなの? これが噂に聞く、おふくろの味かと思った」
「なんか違うと思うけど。……というか誰がおふくろだっ」

 いちおう言ってみたけど、ものともせずトーストを貪る霊夢。
「うん、美味しい」
 一つ溜息をついて、アリスもいちごジャムのトーストをかじる。それはさっきまでと同じもののはずだけど、さっきよりも。
「うん、美味い」
 なかばやけくそじみた気持ちで、もごもごと口を動かす。食べ物の味は、食べ物の味だけでは決まらない。些細な納得ではあるけれど、実感してしまったのだから、アリスの負けだった。












 6.寝る

 食後。
 人形達がシーツや毛布を取り替えてるのを、霊夢はふと見るや。
 椅子から立ち上がり、とてとてとアリスのそばに来て。
「ねえアリス、寝よ」
 などと、アリスの腕を引っ張り始めた。
「あんたどんだけ寝るのよ」
 呆れながらもだらだら応じてしまうのは、ついさっき一つ負けを喫したような気がしているからだ。
 洗い物は人形に任せる。このくらいのルーチンワークは、アリスの監修なしでも軽くこなしてくれる。頼りになる小さな人形達。対して霊夢人形は、やはり維持コストがでかそうだ。

「ひとりで寝ようとは思わない?」
「あんなふわふわしたベッドなんかで寝られるわけないじゃない」

 問答無用である。
 自分はこれを断れないんだろうなあというビジョンが、アリスには見えていた。
 起きて、シャワーを浴びて、軽く食べて、また寝る。
 なんとなく。
 なんとなく、霊夢を家に呼ぶたび、自分もいろいろとダメな感じの人になっていってる気がする。どう見てもダメなのは霊夢なのに。それに付き合っているうちに。腐ったリンゴは別のリンゴも腐らせるのか。

「あんたって普段からこの時間寝てるの?」
「普段は寝てないわよ。今は休暇。お客様」

 一つあくびをする霊夢。切り替えのあまりの早さに、呆れ半分感心半分でアリスも椅子を立った。
 普段の霊夢は、ああ見えていちおう仕事とかしてたんだなあ。
 アリスの胸中を空しい感慨がよぎる。仕事といっても、境内の掃除とお茶を飲むこと以外に何があるのかわからなかったけれど。

「……まあいいわ。寝るなら寝るで。でも、一つ条件」
「なに?」
 アリスは霊夢を追い越して、先にベッドの端に腰掛ける。そして軽く手招き。首を傾げながらも寄ってきた霊夢の、その両肩を掴んで、自分に引き寄せる。そのままベッドに倒れこんだ。
 霊夢の頭はアリスの胸に埋もれ、両腕でがっちり抱えられてもいる。そこからはもう動きようがないくらいに。
「んむぐぅ」
「この体勢で寝ること。ちょっと苦しいかもしれないけど、せっかくシャワー浴びたのにまたグチャグチャにされたら嫌だし」
「……むぅ」
 渋々ながら頷いたのか、霊夢は両腕をアリスの身体に回した。アリスも片手を使って、自分達に毛布をかける。霊夢の頭も毛布の中に埋もれたけれど、諦めたのか抵抗はない。むしろ足の先がはみ出てしまわないよう、少し身体を丸めたみたいだった。
 そして。
 これも切り替えの速さか、それからさほどもしないうちに、霊夢の力が緩んだ。
 アリスもまた、自分でも意外なほど早く、夢と現の境にいた。薄く目を開ける。霊夢の黒髪が見える。霊夢の力が緩んだ気がする。暖かい。胸元で聞こえる、感じる、規則的な吐息。
 今まで自分から抱きつくことはなかったからわからなかったけど、抱き枕というのは、なかなかどうして心地よいものだった。
 アリスは少しだけ腕に力をこめて、また目を閉じた。



 そして数時間後、目を覚ましたアリスの胸元は霊夢にかぶりつかれてぐっちょぐちょになっており、二人のもう半日はまたもやシャワーを浴びるところから始まることになった。



 おしまい。

 
 
 
 
 
 




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