・或る巫女とブン屋の昼下がり。


 タイミングが良いといえば良いし、悪いといえば悪かったのだろう。
 人間、二人。巫女と魔法使いがつるんでいるところなど、ふとしたときに神社に赴けば簡単に見られる。二人とも普段は暇を持て余し、神社の縁側に腰掛けて、茶を片手に世間話に興じているのだから。しかし一方で、二人が喧嘩しているところというのは、滅多に遭遇できるものではない。
 それに巫女は、喧嘩なんてつまらないことに対しては、あまり興味を持続させない。頭の切り替えがはっきりしているのだ。ブン屋が神社にたどり着くのがあと少し遅かったなら、そこには喧嘩のことを記憶の隅に追いやり、何事もなかったかのように「パパラッチ死すべし!」と札を投げてくる巫女がいたはずだ。

 しかし結果として、二人の言い合いから、巫女に突き放された魔法使いが箒に乗ってどこぞへと飛んでゆくその場面にまで、ブン屋は目にしてしまった。
 面倒なところに来たなあと思ってみても、魔法使いはともかく巫女に存在を気づかれているのは感じていたし、魔法使いを刺し貫いていた冷たい目をそのまま自分に向けられては、さすがになにかリアクションを返した方がいいかと、ひとまずブン屋は巫女の隣に降り立った。



「本日は良いお日柄で」
「そうね」
「新聞取りませんか?」
「いらないわ」
「さいですか」

 そして沈黙である。
 ブン屋としては、そろそろ帰りたかった。茶も出ないし、好い感じのネタもない。世間話すらまともにできないとあれば、こんな神経が削れる空間に居たくはない。本気で苛立った巫女というのは、どうやら思った以上に面倒くさい相手のようだった。
 んー、と口の中だけで呟く。
 辛抱できないものだなと、どこか冷めた目で自分を見て。
 辛抱する必要もないことかと、開き直りがてら立ち上がった。

「それじゃ私はこの辺でおいとまします」
「訊かないのね」
「何をですか?」
「さっきのこと」
「ああ、そんなの訊いてもつまらないでしょう?」
「ネタになりそうとか言うと思ってたけど」
「本気の喧嘩は、ネタになりませんよ。無理矢理ネタにしても、少なくとも、面白くは無い」
「そういうもの?」
「そういうものですよ」

 言ってやると、巫女は溜息を一つついて、軽く頭を振った。
 たまに、この巫女などは自分のことをどう思っているのかと考えるときがある。いや、正確には、自分の新聞のことを、だろうか。自分が押し付けている新聞を普段から読んでいたなら、あんなものをネタにするとは考えないはず。……巫女は頭の切り替えが早い。要領が良いとも、ちゃっかりしているとも言う。もう新聞の中身なんてすっかり忘れているのだろう。

 実際のところ、もう一つ思惑はある。『本気』というものは、別の『本気』を引き寄せる。この話を今の段階で新聞にしたなら、おそらく巫女と魔法使いは、『本気』で怒りを向けてくるだろう。パパラッチ呼ばわりされることも多いこのブン屋、今も歓迎されているとは言い難いが、鬱陶しがられることと『本気』で怒りを向けられることとは、また別の次元にあるのだ。

「それでは私はこれで。魔法使いが結論を出したら、そのときはあなたにも話を聞いて、記事にするかもしれませんね。それはもうただの事後。ただの事実ですから」
「必要ないわよ」
「え?」
 飛び立とうとしていたブン屋を、巫女の言葉が引き止める。
 眠たそうな目。空のように深い、透き通った巫女の目は、既にこのことへの興味を失いかけているのだと窺い知れた。
「私の話なら、別に後でも今でも変わらないしね。どうせ来るんなら、暇な今のうちにでもいいけど」
 さっさと話すでもなんでもして、この話を終わりにしたいと。
 言葉にはしなかったが、巫女はそう言っていた。

「変わらないんですか?」
「変わらないわよ。だって結果はもうわかってるじゃない」
「あの魔法使いは悩んでいるみたいでしたけど」
「だから背を押してあげたんだけど」
「あなたは、」

 言いかけて、止めて。
 ブン屋は溜息を一つ。「ああ、もう……」頭をかきむしる。
「どうかした?」
「いえ、すみません、ちょっと考えさせてください」

 苛立っているのだろうか。そんな感傷が、自分に? 苛立つ必要なんてない。思い出す必要なんてない。そう信じることが、こんなにも難しいなんて。
 巫女の端正な顔を、横目で捉える。幼い少女の造形は、ブン屋の中の思い出を、より詳細に引っぱり出す。巫女と、彼女とが。既にいない少女とが重なる。
 ブン屋は、左の首筋に手をあてていた。かつて彼女が口付け、歯を立て、血をすすった場所。満足げな、昏い笑み。彼女があんなふうに笑うなんて、思ってもみなかった。快活で、飽きなくて。青空のような、彼女が。
 もう遠い昔のこと。傷なんて、残っているはずないのに。

「おそらく、あの魔法使いは」
 過ぎたおせっかいは柄じゃないと。
 いつもは、ブン屋は、抑えていたはずだった。
「あなたに止められるなら、それもいいと思っていた」
 だけど、こんな、つまらない物語には、覚えがあるのだ。
「なにそれ。意味がわからないわよ。私はあいつが『魔法使い』になりたがってると思ったから」
「そうですね。あなたは一見正しい」
「なら……」
「でも、不思議と人間ってのはそういうものです。止めてもらいたかったのですよ、彼女は」
「……私が言うのもなんだけど、知ったような口をきくわね」

 巫女が、僅かに顔を歪めた。その苛立ちの中にいることを感じ取って、ブン屋も溜息を重ねる。
「毒を喰らわば皿まで、かしら」
 ぼそり呟いて、巫女に向き直る。小さな呟きに、「なんだって?」と詰め寄る巫女。半ば無視して、ブン屋は巫女の目を見つめた。

「あまり気が向かないのですが。少し、似合わない話をします」
「……なによ」
「人生の先輩としての話です」
「鴉の癖に」
「五月蝿い」
 互いに頬をひくつかせて、相手の片耳をつまんだ。それに伴って近づく、巫女の端正な顔。巫女と、彼女とが、また重なって。むずがゆさと痛みで、ブン屋は顔を逸らす。右手がまた、いつのまにか左の首筋を抑えていた。

 おそらくこれは、彼女の呪いなのだと思った。
 今の巫女と同じように友を失った彼女。失くしたものの意味がわからないまま、堕ちていった彼女。
 最初は、そんな彼女を救う可能性を思わなかったわけではない。あの色づいた、退屈しない日々を、また彼女に期待しようとしていたはずだった。
 だけど、果たせなかった。けっきょく彼女は堕落したままで、あんまりにもつまらないものになってしまった。

「あなたは、もっと自覚した方がいい。あなたは、妖怪じゃない。人間なのよ」
「そんなこと、わかってる」
「でも、それがどういうことなのかわかってない。あなたは、私も含めて多くの妖怪と親交があるけど……それでも、人間なのよ。だから、いつか道を違えるときは来る」
「だから、そんなこと」
「わかって、ないのよ。あなたは、きっと」
 彼女と、同じように。
 ブン屋は顔をしかめた。彼女の呪い。自分が、こんなことを言うなんて。天狗の自分が、人間ごときにわざわざ過去を伝えて、道を変えさせようとするなんて。
 ……まるで、人間みたいだ。

「……昔。あなたと同じように生きた、巫女がいた。
 多くの妖怪が周りにいた。あなたと同じように、慕われていた。彼女は、幸せだと思っていたでしょうね。
 でも、彼女は時が経つにつれて、だんだんと、怖くなっていった」
「……何が、怖くなったの? 死ぬことが?」
「死ぬことは死ぬことでも……自分だけ、死ぬということが。
 他の誰もが当たり前のように生きていくということが。
 ……自分が、いとも容易く忘れられるだろうということが」

 あるいは、彼女の周りにいたのが人間ならば。
 同じだけの時間を生き、数十年としない、近いうちに死ぬ存在ならば。
 彼女は、自分の生が共有されることを信じられたかもしれない。
 長く生きるものたちにとっては、一人の人間なんて簡単に忘れられるものに過ぎないのだと、信じずに済んだかもしれない。

「……そのひとは、どうなったの?」
「どうにもなりませんでしたよ。
 どうにかなる可能性もあったのかもしれませんけど、彼女は何もしなかった。
 彼女は、魔法使いになろうかと悩む友人の背中を素直に押して。
 心変わりして主と生きることを決めたメイドを見送って。
 人を辞め神となった巫女仲間のことを、ただ眺めて。
 そうしてやっと、隣に誰もいなくなっていることに気がついた。
 ひとりで居ることが怖くなって、
 誰と居てもひとりであるように感じられて、
 彼女は、何も信じることができなくなった」
「……それで、そのまま、死んだの?」
「いえ」

 ブン屋は昔から、彼女を見下していた。天狗はそういう生き物だ。たとえ博麗の巫女といえど、人間なんて種族に対する目は変わらない。面白いものではあったけれど、自身より高みに置くような対象ではない。
 彼女もそれに気づいていただろうし、だからいちいち何も言いはしなかった。天狗とは、そういうものだから。

「その前に、私がめちゃくちゃにしてやりました」

 それでも、ブン屋は。
 彼女に"見下げ果てた目"を向けたことは、そのときまで無かったはずだった。

 見下げ果てる程度には信じていたのだと、ブン屋が気づけたのは、彼女が命を絶った後だった。













・つまらない、日々。


 黒い、髪。
 自分と同じ、黒色の髪。自分の胸元に顔を埋めて、静かな寝息をたてる彼女の、黒い髪。汗にしっとりと濡れて、障子越しの僅かな月明かりに照らされる、黒い髪。
 つと撫でようとして、寸前で止める。撫でるなんてことが正しくできるか、自信が無かった。少し間違えたら、その髪を掴んで、引き裂いて、食いちぎってしまいそうだった。
 だから代わりにその手では、乱れて投げ出されていた掛け布団を掴むことにした。天狗はともかく、人間がこんな状態で寝ていては身体を壊すはず。
 ──そんなことは今さらどうでもいいかと小さく思いながら。そんなことを思っている自分に、この現状に唇を噛みながら。結局、重なり合う自分と彼女の裸体を、布団で隠す。



 何を計り違えていたのか、今となっては判然としない。
 ただ、違えてしまっていたという認識だけがはっきりしている。彼女の安らかな寝顔に、昔はもう少し、違うものを見ていた気がする。今はもう、胸糞悪さしか覚えない。

 長い時を人と共に生きてきたけれど、そうして見てきた中でも、彼女は特別な人間であるように思えた。だって、彼女の代で、幻想郷は変わった。弾幕決闘法。人と妖の、新たな関係。それを、当たり前のように、なんでもないように成し得ていた彼女。
 救おうとしたはずだった。堕ちかけた彼女の手を、拾い上げてやろうとしたはずだった。そうしてまた、面白いネタを提供してくれればいい。こうやって手をさしのべてやってるんだし、今後の彼女への取材は独占できるかもしれない。

 手をのばすのは簡単だった。人里に近いところで長く生きてきた天狗は、人のことをそれなりに知っていた。人間に同調はできなくとも、人間を把握することはできていた。
 彼女の暗闇も、天狗にとってはどこかで見たようなものでしかなかった。妖と心を通わせた者に訪れる、ありふれた孤独。彼女に近づくことも、その気持ちをぜんぶ理解していると微笑むことも、隣に居てあげると甘く囁くことも簡単だった。何も特別なことは無い。
 何も、特別なことは無いのだから。
 特別な、彼女なら。
 心を落ち着けてやって、あとは時間さえあれば、こんなくだらない、どうにもならない悩みなど。
 彼女なら。どうにでもなるだろうと思っていたのだ。



 打算のつもりだった。彼女は、少し特別かもしれなくても、それでも人間だから。天狗は傲慢の上から彼女を見ているだけ。彼女もそれを、わかってくれると思ったのに。
 結局、天狗も何もわかっちゃいなかったのだ。
 彼女は、少し特別でも、なんでもなかった。

 彼女は、手をさしのべてくれた者に依存して。
 隣に居る者を失うことだけを、ただ恐れて。
 それだけがあれば、それでいいというように。
 ただの、閉じた。
 天狗にとっては、つまらない、腐れ果てた人間になってしまった。
 天狗が、そうしてしまったのだ。

 彼女の背に、天狗は腕を回した。力は入れず、熱だけを伝えた。そうしてやると、彼女は小さく呻いて、母親に甘える幼子みたいに、天狗の胸に頬を擦り付けた。
 彼女のような、誰かが。彼女に似ている、誰かが。天狗の知らない、誰かが。知りたくなかった、誰かが。
 しあわせそうに、眠っていた。

「どうして」天狗は、震えた声で呟いた。
「どうして? なんで、こんな。あなたは。だって、あなたは……」
 天狗は、ここに居ない誰かを見ていた。だけれど、ここに居ない誰かが、ここに居る誰かとまったく同じものだと、誰よりも知っていた。
 ここに居る誰かはもちろんのこと。天狗は、もうここには居ない誰かのことも、ずっとずっと見てきたのだ。

「はくれい、れいむ」

 祈るように、懇願するように、天狗は彼女の名前を呼んでいた。
 むず、と腕の中の彼女が動く。目を覚ましたらしい。天狗は息を呑んだ。
 どうしてだろうか、天狗は自分の目で見たもの、あらゆる現実をのみ信じることで自分の世界を形作っていたはずなのに、そのときは、奇跡のようなものを願ってしまっていた。なぜなら天狗は、これまでのすべてをこめて、彼女の名前を呼んでいた。
 彼女がまだ、彼女だったころ。満ち足りた、飽きさせてくれない、時間。
 そして彼女が、彼女になってしまってから。それまでのすべてが嘘だったように、退屈な、つまらない、日々。

 わかっていた。理解したつもりだった。ぜんぶが、彼女だった。裏も表も、先も後もない。すべて彼女の一面で、昔は、偶然、こうならなかっただけ。今こうなってしまっていることは異常でもなんでもなくて、なにもおかしなことはなくて。

「あや」

 だから。
 それを覆す奇跡なんて、起こるはずが無いのに。

「ふふ、あや」
「い、つっ」

 えへらと顔を弛緩させて、彼女は、天狗の左首筋に触れた。「ふふ、ふふふ」
 ついさっき、彼女がつけた傷。口づけて、唾液で湿らせて、吸血鬼みたいに、尖った犬歯をゆっくりと埋めた。天狗は、抵抗しなかった。なにかもう、よくわからなくなっていた。人の歯なんかで、天狗の肌に傷がつくんだろうか。自分の中に彼女が沈んでいく痛みの中で、そんなことを考えるのが関の山だった。

 彼女は、いとおしそうにその傷を見つめていたかと思うと、また唇を近づけた。傷の周りににじんだ血を舌ですくうと、今度は傷口の中にまで侵入させる。舐めて。舐めて舐めて舐めて舐めて。それが至福であるように。それだけがすべてであるように。
 それが、天狗には。
 理性や、誇りや。それだけじゃない、彼女の魅力をかたちづくっていたすべてを失くした、犬畜生のようなものにしか。

「あ、」

 その瞬間。
 天狗は、自分の中にあるものが、急速に冷えていくのを感じた。
 自分の血をすすっているものに対する興味が、恐ろしい速度で失せていった。
 すべての執着。とうに千切れかかっていて、それでもなんとか繋がっていた糸。
 ぷつりと、切れた。

「はは、ははは」

 ああ。
 これ、じゃあない。
 これは、もう、ほんとうに、あのひとじゃあない。

 心からそう信じられると、すごく、楽になった。

「……あ、や?」

 様子がおかしい天狗を、彼女が見上げる。
 おろおろと、必要以上に心配してくるその様も、天狗の苛立ちを加速させる。だって、彼女なら、そんなふうにはしない。心配はするかもしれないけど、そんな不安そうな顔は見せたりしない。

「ねえ、どうしたの、あや。だいじょうぶ?」
「うるさい」

 お前なんかどうでもいいんだよ。抜け殻。彼女の姿をしただけの別物。鬱陶しいやつ。今まで散々我慢してきた。けどもう優しくしてやる必要なんてない。簡単だ。この苛立ちにまかせて力任せに振り払ってもいい。もっとも、何の力も持たない彼女は、そんなことをしたら死ぬんだろうけど。
 ……いっそ、それでいいんじゃないか。
 いま、殺してやろうか。

「……あ、っ」

 天狗が、彼女の目を見た。彼女も、天狗の目を見た。
 天狗の視線に殴られるようにして、彼女は後ずさった。逃げようとしていた。途中で、ぺたりとへたれこんだ。当然だ。彼女にはここの他に行き先なんてもうどこにもなかった。

「あや、やだよ、なんで。ねえ。なんで? わたしが……?」
「私の名を口にするな」

 結論すると、殺そうという気にすらならなかった。
 天狗は彼女を振り払って、立ち上がった。そこらに投げ出してあった衣服をひっ掴んで、素早く身につける。閉じきられていた障子を開ける。夜の空。涼やかな風。あんまりにも久しぶりに思えた。

「はは」

 すえた臭いのする部屋。中では少女がひとり、泣いているだけ。こんな場所に、どうして自分は居たんだろう。

「あや、ごめんなさい、ごめんなさい」
「ははっ、あははははは!」

 彼女の声を引きちぎって、天狗は空に飛び出した。天狗を縛るものなど、もう何もなかった。つまらない日々よりも、少し前。退屈しなかった日々の、それよりも少し前。何事もなかった日々に、そうしてまた、舞い戻っていった。

「なかないで」










 それが。
 博麗霊夢と呼ばれた人間について、射命丸文が知っている最後のことだ。

 直後に彼女は、命を絶つ。
 それが、最後に縋った天狗が、離れていったためなのか。
 あるいは、それ以外の何かのためなのか。今となっては、知る由もない。




 
 
 
 
 
 




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