生きることを楽しむには、まず人間をやってみることだ。
 それが誰によってもたらされた導なのかは、もはや定かではない。魔界で生まれたものすべての母であった存在からかもしれないし、姉や兄のようであった無数の存在からかもしれない。あるいは、いつのまにかひとりでに芽生えていたものかも。

 人間をやってみたらいい。
 そんな気持ちが、アリスが物心ついた頃には、既に刷り込みのように在って。
 在るものは仕方ないのだから、曲げるのは優柔不断というやつだろうとも思っていた。


 ……だけども実のところ、幼い頃は、その意味がよくわからなかった。
 ほとんど本能、直感じみていて、それに理屈をつけられなかったのだ。

 ふとしたとき、アリスは考えた。どうして、人間をやってみたら生きることを楽しめるんだろう。
 それともやっぱりたまには曲げてみようか、いやしかしそれは芯が通っていない、でも中身もよくわからない事柄に盲目的に従うのは思考停止ではないかなどなど、何も考えようとしない頭で、つれづれ考えたものだった。…………








 一.

 常に蒸気にでもまとわりつかれているような、その年の夏の中でも人々をいっとう苦しめたある日のことだ。
 その日のアリスは、前の晩から暑さにうなされて、あまり眠れなかった。そのせいで、朝のうちにいちど目を覚ましていながら起き上がれなかった。

 最初は眠気から布団を離れられなかったけれど、二度目からは違った。起きることよりも、ほんの僅かな涼しさを、身体が勝手に優先した。
 朝の爽やかで冷たい空気を期待して息を吸っても、胸の中に入ってくるのはぬるま湯のような気だるい温度。
 暑いというより、だるかった。少しでも熱を遠ざけようとして、まとっていた薄いタオルケットを蹴飛ばし。寝返りを打って、敷布団の、体温が染みこんだ場所から距離を取ると、期待通り、少しばかりの冷たさがそこに在る。それを甘受しているうちに、また眠りに落ちて、起きたときにはひんやりした感触もなくなってしまう。



 そんなふうにして、睡眠と覚醒の境界をずるずる行ったり来たりで時間を消費していた。
 けれど陽というのは、時間が経つほど高くなる。朝方が結局、暑い中でも涼しいのだ。
 粘度が高く感じられていた空気は、だんだんと刺すような刺激をともなってくる。水分を失った身体がバランスを崩し、鈍い頭痛を訴えるようになったあたりで、アリスはまどろみからいっとき離脱した。
 ありていに言えば、寝すぎだった。あまりに過ぎた睡眠は、眠気をなくしてくれるどころか、新たな睡魔の種を植えつけてくる。それも、虚脱感と妙な疲れのおまけ付きで。


 目を覚ましたときのアリスは、仰向けだった。何度かうつ伏せで寝直したようにも思う。記憶と感覚がはっきりしない。ベッドから落ちていないのが幸いだ。
 汗と脂でべたつく髪と顔。手作りの、クリーム色の薄いパジャマはべったりと肌に張りついている。気持ち悪い。起き上がってパジャマを脱いでシャワーでも浴びればすっきりするだろうに、そうしようという気が起きない。まぶたがやけに重くて、それにまかせて目を閉じるけれど、頭の内部からもやもや響くような鈍痛が、眠りに落ちるのすら許してくれない。

 だからアリスは、目を開けて、ぼんやりとしていた。
 手足をだらだら動かして、タオルケットを完全に身体の上からどける。
 しばらくすると、パジャマがはだけてへそが出ているみたいだとか、すそがめくれあがって膝から下があらわになっているとか、カーテンの隙間から差す光の具合と身体の感覚からしてもう昼過ぎだとか、いくらか自分と周りのことがわかってきた。

 薄暗い部屋は、カーテンの色を反映して、少し青みがかっている。
 窓は昨晩から開けられたままだ。今は風が無いのか、カーテンはピクリとも揺れない。森の木々が葉を擦れ合わせるざわめき──森の声も、微かにしか聞こえない。これがはっきりと聞こえてくるのは風がそれなりにあるときだから、木々がつくる日陰もあいまって、外に出てみるといくらか快適に過ごせるものだけど。


「……はあ」

 ほとんど声にするくらい強く、アリスは溜息をついた。一日の半分を消費し、得たものは全身を覆う気持ち悪さと倦怠感、それに水分不足と頭痛を少々。この溜息は自己嫌悪以外のなにものでもない。
 ゆらりと上半身を起こす。頭痛は消えない。パジャマがべったりくっついた背中にはひんやりした感触もあるけれど、それはパジャマが吸った水分の証でしかないから、まったく嬉しく思えない。そもそも、他の何よりも気持ち悪さが先に立つのだ。

 だからアリスは、パジャマを脱ぐ──のではなく、上半身を再び倒して、身体を横にした。
 ここで思い切りよく起き上がれるくらいなら、とうに起きているというものだ。
 アリスは意識的に唾を出して、口の中を湿らせた。どうせ誰もいないからと、乾燥してねばつく口内を、舌を動かしてならしてやる。ちろりと唇を舐める。ざらざらしているのは、舌も唇もどちらもであるように思えた。

「……はあ」

 そしてアリスは、改めて溜息をつく。
 その溜息の理由は、人の気配だった。誰かがこんな暑い中、森の中を飛んでここに近づいてきている。おそらく間違いなく、ここを目指しているだろう。一番の心当たりは、霧雨魔理沙。弱くてデリケートな身体の人間のくせに、妙に元気なやつ。何の用かはわからないけれど、またくだらないことに違いない。

 どうしようかな、とほんの少し考えた。元気なときは、出迎えてやる。むしろ家の外に出て待っていてやる。だってそうした方が、弾幕ごっこのためにいちいち外に出る手間が省けるのだ──別に、魔理沙が来たときは常に弾幕ごっこというわけでもないけれど。
 数秒考えて、アリスはこのまま横になっていることにした。寝転がったまま、右腕の肘から先だけをゆらりと立て、指先をちょちょい躍らせる。カチリ、カチリと、それに反応する音が家の各所から響く。魔法の錠と侵入者用の罠を解除してやったのだ。



 別に霧雨魔理沙のやつと、仲の良い友達とか、親友とか、そういう間柄をやってるつもりはない。
 けれどやっぱり、彼女は人間だから。しかも、ちょっとばかり人懐っこくて、本気で憎むのが難しい。

 結局、手を焼いてはいるけど、嫌っているわけではないのだと思う。
 おそらく、あの図書館の魔女なども同じだ。近所に住む野良猫のような扱い。生意気なところもあるけれど、抱いたり撫でたり餌をやったりしているうちに許してしまうというような。

 だから今回も、入ってくるなら勝手に入ってくればいいというくらいの気持ちだった。
 もちろん、何か物を盗んだり壊したりするようならさすがに黙っているわけにはいかない。だから、どうか面倒を起こさないでくれ、とだけアリスは思った。自分がここから起き上がるような事態にさえならなければ、それでよかったのだ。





 結論から言うと、そうはならなかった。
 霧雨魔理沙は当たり前のようにアリスの家の敷居を跨ぎ。迷うことなく寝室へとたどり着き。布団が蹴飛ばされて散乱したベッドに横たわるアリス、パジャマがはだけたそのあられもない姿を正面からしっかりと目にし、そして一言。

「……うわぁ、ひっどいなアリス」

 うっさい。
 と口にする元気も無く、代わりにアリスは横になったまま、虫に向ける目で魔理沙を見やる。うるさい黙れ、何しに来たんだ、さっさと帰れ。すべてを視線にこめて、それらはたぶん通じているだろうに、魔理沙はまったく動じない。
 いつもの、ことではある。
 白黒のエプロンドレスが半袖仕様なのを見ると、やっぱり少しは暑さを感じているのだろう。魔理沙はスカートをばたばたとさせながら、意地の悪い笑みを浮かべた。

「いやぁしかし暑いな。こんなに暑い日に家にこもってたら、だらだらと怠惰な一日を過ごすことになるに違いないと思ってさ。とりあえず外に出たわけだが、早くも証明されたな。あのアリス・マーガトロイド様ともあろう者がこの様だ。こうはなりたくないもんだな。それともあれか? 都会はもうちょっと夏でも涼しかったか?」

 ──うっさいなぁ。
 アリスは思った。思っただけじゃあ、特にこいつ相手にはぜんぜん伝わらないので、声を出した。

「っあいにゃぁ」

 声を出した。
 苛立ちまかせに上半身を起こして、さっきの溜息なんかよりも輪郭がぼやけた、舌っ足らずで幼い声を出した。
 ぶふっとなにか噴き出すような音がした。「ぶ、ふ、ひ、ひぇへへへへへ……アリス、なんだそれ、可愛い……」
 腹を抱えてうずくまる魔理沙をぼんやり睨みつけていたアリスだったが、本気で笑っている魔理沙を見ているうちに、どんどん苛立ちが加速してきた。なんだこのやろう。ひとの安眠を妨害して。楽しそうに笑いやがって。あーもうちくしょうだるいなあ……!

 魔理沙はたぶん、運が良かった。もし運が悪かったら、アリスが適当に手を伸ばした先には、分厚いグリモワールだとか爆薬が仕込まれた人形だとか、もっと物騒なものがあっただろう。

「う」
「『っあいにゃぁ』って……ひ、ひひひひひひ、アリス、かわい」
「る、さい!!」
「ふげっ!?」

 手元にあった枕を全力投球、顔面に直撃させてやったことで、魔理沙はひとまず沈黙した。
 ふん、と荒い鼻息。寝汗でびちょびちょな全身の気持ち悪さはともかく、倦怠感などはこんなのでわずかばかり弱まっているから不思議なものだ。
 ともあれ、こうしてアリスの一日は、陽が天頂から降り始めたあたりでようやく始まったのだった。











 二.

 浴室から戻ってみると、頼んだとおり魔理沙は朝食を作ってくれていて、台所から出た様子は無い。
 少しだけ安堵する。熱いシャワーで頭が冷えた今では、他の部屋を見られるのはさすがに少々まずい気がする。魔理沙の家といい勝負なくらいに散らかっていたり、洗濯物が適当に積み上げてあったりするのだ。
 もうどうでもいいんじゃないかと囁いてくる、堕落した自分もいるけれど。

「アリスってさ」
「ん?」
「残念な女だよなあ」
「そこになおれ」
「ほら、苺ジャムつけたトースト。あーん」
「あー、むぐ」

 んまい。
 と、差し出されたトーストを口で受け取ってもぐもぐしていると、「ほんと残念な奴……」とかぼそぼそ聞こえたので、その頭に握り拳を振り下ろしておいた。やっぱりもういろいろどうでもいいかもしれない。
 もぎゅもぎゅ咀嚼して飲み込み、入れられていた紅茶を手に取る。「あ、それ私の」頭を押さえて涙目でいる奴がそんなことを言った気がしたが、容赦なく一息に飲み干してやった。「私の……」

 残念な奴。
 ああそうだわかってる。あんな乱れて格好でだらだら寝て、シャワー浴びたらバスタオル巻いただけでぺたぺた歩き回って、魔理沙に朝食作らせて、あーんって食べさせてもらって。
 アリス・マーガトロイドというクールな魔法使いを知っている者ならば、信じられないであろう姿。しかしこれが本性なのだから仕方ない。



 アリスはお嬢様であった。魔界の神に気に入られ、多数の世話役をつけられ、蝶よ花よと育てられた彼女は、本来もうこれでもかってほどの箱入り娘で、生活力など皆無に近かった。
 そんなアリスが幻想郷での一人暮らしを問題なく始められたのには、理由がある。
 実のところ、アリスが連れている人形のいくつかは魔界の神の支配下にあり、アリスの生活をサポートする役目を背負っていた。
 幻想郷に来た当初は、それらの力を借りる──時間通りにちゃんと起こしてくれる目覚ましから炊事洗濯掃除にお風呂の準備、髪の毛を洗ってその後水分を取るところに至るまで、至れり尽くせりの生活を送っていたのだ。

 しかし。
 せっかくの一人暮らしである。
 お世話をしてくれる人形達は、魔界の神の支配下にあるのだから、当然、それら人形達がいるかぎり、アリスの生活の様子は魔界側に筒抜けであった。しばらくしてそれを窮屈に思い始めるくらいには、アリスは幻想郷での一人暮らしに幻想を抱いていた。
 もっとこう、ダラダラっと生活してみたり、友達を連れ込んでグダグダとお酒を飲んでみたり、何か、もっと違う何かがあるように思っていた──だのにこんなんじゃ、住む場所が変わっただけで魔界に居るのとぜんぜん変わらないじゃないか! せっかくの一人暮らしなのに!

 アリスは奮起した。お付の人形たちをお役目御免にするべく、一人で生きられるのだと証明すべく。
 日が沈む頃には寝て、人形のモーニングコールなしに起きられるようにした。
 米を洗剤で洗っちゃいけないのだということを覚えた。
 人形の手から洗濯物を奪い取って、とりあえず水に浸してみた。
 人形達に掃除をしないよう言い含め、週に一度は自分で家を掃除することにした。
 お風呂の準備も、髪の毛だって自分で洗ったし、自分でわしゃわしゃ頭を拭くようにしたのだ。


 そうして、時が過ぎて。
 努力の結果、人形達を魔界に返すことを、魔界の神も渋々ながら認めた。
 その頃にはアリスも問題なく家事等々こなせるようになっており、問題なく一人暮らしが続けられるはずだったのだ、が──。


「なーんでこんなんなっちゃったかなあ」
「ん? 何か言ったか、アリス」
「なんでも。……ところで、なんであんた、うちに来たのよ」
「さっき言っただろう。うちにいたら腐っちゃいそうだったからな」

 人形に命じて髪を拭かせながら、服を着て朝食を食べ終えて、軽く歯を磨く。そのあいだ魔理沙は、さっきまでアリスが寝ていたベッドでごろごろしながら、適当に魔導書を引っ張り出して読んでいた。
 寝床を他人に預けるのはなんとなく落ち着かない。とはいえ、それを口に出すのもなんとなく幼い気がしたから、黙っていた。本を勝手に読まれるのはもう慣れたことで、何を言おうとも思わない。
 そう、勝手にだらだらさせておいて申し訳なく思わない程度には、なんだかんだで慣れた相手だ。だからアリスもゆっくりと、起き抜けの──決して、『朝の』ではない──時間を過ごした。アリスが魔理沙の肩を叩いたときには、彼女はもう、魔導書に没頭しているようだった。

「それでわざわざ人のうちに?」
「……ん?」魔理沙はもう、さっきの話を忘れているようだった。当然といえば当然かもしれない。しかしそれでも、彼女の記憶の回復は早かった。「あー、いや、アリスの家は通過点だ」
「通過点?」
「そう。せっかくだし、これから里に行って何か冷たいものでも食べよう」
「冷たいもの、ね……」

 唇に人差し指をあてて、ぼんやり考える。

 正直。
 行ってもいいし、別に行かなくてもいい。
 どちらかというとめんどくさい気もする。
 でも家の中は暑い。
 里に行ったら冷たくて美味しいものがたくさんある。
 でも外に出たらもっと暑い。

「まあいいから行こうぜ。こんなところにいても暑いだけだ」
「あ、ちょっ」

 考えてるうちに、手を引かれていた。それを強く拒絶する気が起きないくらいには、アリスの心はふわふわ浮いていて。
 どうも最近、いろいろなことがどうでもよくなりつつある影響か、ちょっと主体性が薄れている気がする。

「ほらほらアリス、早く行くぞ」
「ちょっと、待ちな、さいって」

 今だって、手を引かれて箒の後ろに座らされて、まぁいいかなんて思って家に魔法の錠をかけて。
 日除けの白い帽子だけ咄嗟に掴んで、魔理沙の身体に両腕を回して。
 それで、勢いのまま出てきてしまった。
 同じ行くにしたって、自分で行くとはっきり決めたほうがいいと思う。以前は簡単にそうできたはずなんだけど。

「なんだかなぁ」
「あ? 何か言ったか?」

 そういえば外に出るのに化粧もしてないや、なんて気づいてももう遅い。造形が文字通り人間離れしている──ほとんど人形に近く造られたアリスは、すっぴんでもいちおう見れた顔だろうと自負してはいるけれど。
 ふと気になって魔理沙の顔を横からちらりと覗いてみると、化粧のけの字もないもので、なんとなく安心する。
 ……彼女は若い、というよりまだ幼い。
 少女の成長は早い。あと一年後には化粧の一つも覚えているかなあ、なんて思ってみると、どうしても大人めいた、少し物腰が落ち着いた彼女の姿を想像してしまう。

「おい、アリス?」
「……ううん、なんにも」
「そうか、それなら黙って掴まってろ。舌噛むぞ!」

 幼さにまかせた、彼女のこの活発さ。それが失われるときはきっと来るだろうとわかっているのに。いや、わかっているからこそだろうか。なんだかひどくさみしくなる。



 魔理沙は加減を知らない。二人乗りの暴走車両は、一人の時とさほど変わらない速度で空を駆け始めた。
 高度と速度に、体温が一気に奪われる。シャワーを浴びてすぐの火照った身体はだからこそ。まだ薄く湿っている髪だからこそ。なるほど家の中でじっとしているよりはよほど涼しいなと、アリスはそんなことを思っていた。
 かといって、このまま何もしないでいるわけにはいかない。
 身体をこそぎ取ってゆくような風圧に負けぬべく、アリスは魔力で結界を展開する。
 魔理沙に回していた腕の片方を外し、ちょいちょいと魔法の陣を空に描く。アリスの魔力が周囲に流れて膜を形成し、押し寄せていた風の行き先を少しだけ逸らした。


 結界の強度を調整。いくらか風が肌を撫でる程度にしてやれば、直射日光の下でも多少は涼しくしていられる。
 本来なら魔理沙がやることだろうけれど、さすがに彼女はちゃっかりしていて、後部席に座るアリスにまかせる気満々だったようだ。そうするようちゃんと頼んだりしたわけでもないのに「遅いぜアリス」と不満げに、当たり前のように言ってくるのには、さすがのアリスもげんなりした。



 二人の魔法使いを乗せて、箒は空を行く。
 結界を張ったことで、アリスはようやく落ち着いて、魔理沙と自分の身体で挟んで落ちないようにしていた帽子を、自分の頭にストンと被せた。
 再び両腕を魔理沙の身体に回す。
 冷たい空気の中の温もりには、得も知れぬ誘惑がある。魔理沙の小柄な体格もあって、掴まるというよりも抱き込むような形で、身体を触れ合わせた。
 ほどよく暖かい熱源。魔理沙も最初は少しもぞもぞしたけれど、体勢を落ち着かせるかしてからは、こころなしかアリスに身体を預けているみたいだった。

 風に伴って流れてくる、甘い香り。眼前には魔理沙の、少し赤みがかった金色の髪がある。
 帽子のつばと魔理沙の髪の隙間から、きらめいた陽光が落ちてくる。アリスの結界は日光までは遮らないので、放っておくと頭に熱が溜まる。光を防ぐ結界を上に向けて張れないこともないが、そうしようとは思わない。魔理沙もおそらく反対するだろう。

 なぜなら──。
 アリスは帽子のつばで太陽を隠しながら、自分達よりさらに上空に目を向けた。

 夏の空。青く青い、高く高い空の下、真っ白く山のようにそびえる大きな積雲が一つ。
 太陽の光に照らされて明暗がはっきり分かれているその雲を、気づくとアリスはぼうっと見上げていた。
 どうしてだろう。夏の空を飛んでいると、下に目を向ける気にならない。
 上へ、上へ。
 たぶん、大きなものに心は吸い寄せられる。
 空と雲は、夏の世界でいちばん大きなものだった。


 ふと気づくと、魔理沙はどうやらいつもより高く飛んでいるみたいで、いつのまにか箒の速度もそれほどではなくなっていた。
 それに気づいたアリスが魔理沙を見やると、なんのことはない、自分と同じように、空をぼうっと、呆気にとられたみたいに眺めている姿があった。
 なるほど普段よりも高空に来たわけで、他にこの高さを飛んでいる者は無く、だから周囲を気にする必要もない。ここで、ちゃんと周りを見ろと言ってやるのは少々酷だろう。
 まったくアホっぽいなあと思いながら、アリスもまた、アホっぽいことを再開した。


 夏の空だった。
 吸い込まれそうなくらいに雄大で、嘘みたいに高くて、遠くて。

 遥か空をアホっぽく眺める二人の魔法使いを乗せて、箒はゆったりと空を泳いでいった。
 それなりに涼しいし、空と雲をいくら見ていても飽きる兆しが無いものだから。
 ずっとこのままでもいいかもしれないと、アリスは思っていた。


 もちろん、そうなるはずがないってことも、わかっていたけど。











 三.

 暑い。
 空の上にいたほうが太陽に近いはずだろうに、じりじりと身体を焼く日光は、どうしてか地の上の方が強く思える。

 じわりと身体の表面に湧き出してくる汗に、アリスは自身の服装を少しだけ呪った。半袖のブラウスと、青を基調としたワンピースに、肩を覆う白いケープ。いちおう夏用として、以前自分で作ったもの。
 まったくもっていつもの服装である。魔理沙が家に来て、シャワーを浴びて着替えるときには、こんなふうに外に出ることになるとは思っていなかったから、とりあえず慣れた服にしてしまった。
 この服も生地を薄めに、スカート部分を短めにしてはいるけれど、これよりも涼しい服が無いわけではないのだ。実際、夏のあいだ里に来て歩き回るときには、そっちを着ているのだから。

 そう、里に来たからには、飛ぶのではなく、歩き回ることになる。歩き回るのが、暑いのだ。
 魔理沙が抱える箒をついつい愛おしく見てしまう。やっぱり、アレに乗って飛んでいるときの方が格段に楽だ。
 その視線に気づいたのか、魔理沙は苦笑して、「まあまあ、地面に這いつくばる人間様にゃあ、それでそれなりの涼み方があるのさ」とアリスの肩をばしばし叩いた。



「ところでアリスって、あんまり里には来ないんだったか?」
「それほど頻繁にはね。月に一度来るか来ないかってくらい」
「じゃああれか、前に来たときはあの店は出てなかったか」

 魔理沙が目を向ける先。通りの向かい側には、小さな屋台と、そこに群がる子供達。
 屋台の中を見ずとも、子供達の手元を見れば、それが何の店かは一目瞭然だった。

「……かき氷?」
「ああ、かき氷だ。あそこのは美味いぞ。シロップが濃い上にドバドバかけてくれる。かき氷というより、ほとんどシロップだけに近い」
「どうなのよそれって」
「まあ、食べてみりゃわかる」

 と、わざわざ言葉にされずとも、食べていく流れだろうというのはアリスにもさすがにわかる。むしろ食べる以外にない。特に望んだわけでもないのにほいほいここまで連れてこられて、魔理沙がかき氷を食べるのを黙って見ているだけなんて、そんな話があるか。
 ……ほいほい連れてこられたのか。ほいほい付いてきたのか。
 どっちだろうかと考えながら、魔理沙と並んでかき氷屋台の前に立つ。どれにしようかと選び、値段の数字を見たあたりで、アリスはふと気づいた。

「……そういえば、財布持ってきてなかった」
「なんと。そりゃ残念だな。アリスは私が食べるのを羨ましそうに見てるがいい」
「あんたが急に連れ出すからでしょうが。普段は私が奢ってるんだし、たまにはそっちの番でもいいんじゃない?」
「料理なら私だって作ってるじゃないか。……まあ奢るのは無しだな。貸すなら利子付きで貸してやるぜ」
「……魔理沙ってもしかしてけっこうケチ?」
「他にも何件か回って涼む予定だからな。塵も積もればけっこうな額になるぜ? というか私の生活が圧迫される」
「あーそっか、他にも行くのか」
「まあ、この店の分だけってなら別に奢りでもいいが」
「よし。それじゃ……すみません、イチゴメロンレモンの三色氷でおねがいしまーす」

 無愛想なおっちゃんが淡白な返事をして、かき氷機のハンドルをがりがり回す。少しすると、涼しげなガラス容器に刻まれた氷の塔が打ち立った。
 おっちゃんは赤、黄、緑の瓶を持ってきて、中身を氷の塔へと豪快に注ぎ込む。塔はみるみる小さくなり、容器を土台にした小さな山くらいにまでなったが、逆にその重量感は大きく増していた。そこにスプーンを突き刺して、おっちゃんはアリスに差し出してくる。

 ずしりとした感触と共に、アリスはそれを受け取った。傍らでは魔理沙がブルーハワイを注文している。
 この店では、複数の色でも一つの容器に詰め合わせるのであれば、一色のものと値段は変わらないようになっている。なのに一色とは、魔理沙にしては無難な選択だなと思ったけれど、そう気にすることでもないかと、アリスは一足先に振り返り、かき氷を食べる場所に見当をつけた。

 屋台の前に備え付けられた椅子の一つに、腰を下ろす。
 子供達からはちょっと離れ、隣に一つ空きがある椅子を選んだ。日除けの大きな傘が椅子の隣に立っている。傘によって作られた日陰の中にアリスは腰を下ろし、身体の力を抜いて一息ついた。



 じーい、じーい。じーわ、じーわ。

 夏の音。何かが焼けつくような音。
 虫の声に似てるようで、少し違う、なにか別のもののような気もする。
 これってどこから聞こえてくるんだろう。アリスはぼんやり辺りを見回して、だけどどこを見てもその音源がみつかるわけもないから、けっきょく最後には、何もない空を見上げるしかなかった。
 陰の中で見る空は、ほんの少しだけ暗いような気がした。たぶん気のせいかな、と思うけれど。

 かき氷の容器を持った左の掌が、灼かれるように冷たい。そこから冷気が全身に広がっていくみたいで、まだ一口も含んでいないのに、アリスは身震いした。
 空の上じゃない、土の上で『寒い』と感じたのは久しぶりだった。日陰というのは、こんなに冷たい空間だっただろうか。

 イチゴ、メロン、レモンの三色がぶちまけられたかき氷。右の指でスプーンを抜いて、ちょうどそれがイチゴの部分に刺さっていたものだから、ぺろりと舐めとってみる。当たり前だけれども、妙に濃いイチゴシロップの味がした。
 子供達がかき氷を食べ終え、道を駆けてゆく。楽しそうな声が、その姿が、やけに遠く感じるのはどうしてだろう。ほかに通りに人影が無い、そんな偶然も、正体のわからない郷愁を加速する。

 ──たぶん、陰の中だからだ。この内と外では、世界が違っている──。

「ひぁっ!?」

 不意に背後から首筋へと入り込んだ冷気に、アリスは小さく跳び上がった。

「おお、いい反応」

 振り返るまでもない。ブルーハワイのかき氷を手にした魔理沙が隣に座り、即座にしゃくりと一口。「ん〜〜!!」と美味しそうに震え上がる彼女に何か復讐してやろうかと思うけども、特に思い浮かばない。自分のかき氷を引っ付けてやるのは少々芸が無いし。
 ひとまず、隙だらけの魔理沙のブルーハワイを一口ぶんすくって、ぱくりとやってみる。舌の上全体で冷たさをならしながら、アリスはまた震え上がった。味はほとんどソーダのそれに近いけれど、たった一口で身体がよく冷える。

 と、今度はアリスのその隙に、魔理沙が三色を少しずつスプーンでさらっていった。「今日は随分と少ない色だな。四割二分か?」
「七色もあったら味がわけわからないでしょうに」
「そうともかぎらないぜ。誰も見たことのない新種ができるかもしれない」
「その研究は魔理沙に任せるわ。かき氷は三色が私の最適解」

 アリスも同様に三色をすくって口に含む。ストレートな甘さのイチゴ、まろやかな甘さのメロン、そして酸っぱさを想起させるレモン。やっぱりアリスにとってはこのくらいで十分だ。
 と、そこに魔理沙が、再びスプーンを伸ばしてアリスの三色を器用にかっさらった。自分のも食べなさいよ、とアリスが口を出そうとすると、どうもそのスプーンの行く先は魔理沙の口ではなく、ブルーハワイのかき氷であった。
 スプーンの上の三色を落とさないように、魔理沙は慎重にもう一色を加えた。赤、緑、黄に青を加えた四色かき氷。アリスは思わず顔をしかめた。

「まずは四色からだな」
「碌なことにならないと思うけど」
「まあ、やってみなけりゃわかるまい」

 魔理沙は楽しそうに、四色をそのまま口に入れた。
 しゃり、しゃり、と氷を砕き、舌の上を転がすそのうちに、しかしその顔は無表情へと近づいていく。眉間に皺ができて、咀嚼のペースが遅くなって、ついに止まる。

「まずい」

 アリスは無視して、お気に入りの三色氷をスプーン山盛りに取り、口へと運んだ。
 口の中で丁寧に溶かしたりはせず、適当に噛んでそのまま飲み込んでしまう。キィィィンと張り詰めるような頭痛に、アリスは身を震わせた。

「まずい」
「……ふう。うん、やっぱり三色がちょうどいいわね。美味しい」
「まずい」
「ところで、魔理沙のブルーハワイってどんな味するの?」
「まずい」
「あら、美味しいじゃない……なんだかソーダみたいね。イチゴやメロンとかとは違う感じ」
「まーずーいー。アリスも食べてみろよ四色氷」
「断りますわ。別々に食べたほうが美味しいものをなんでわざわざ……むぐっ」

 霧雨魔理沙は問答無用で、手癖の悪さも折り紙つきだった。アリスの口の中には魔理沙のスプーンとともに素早く四色氷が突っ込まれていて、突っ込まれた以上、さすがに吐き出すのは無い話だし、まあせっかくだから味わってみようかなんて、アリスも大いに油断してしまったのだ。

 しゃくり、しゃくり。
 くちゅ、くちゅ。
 …………うん。

「まずっ」
「だろ? まずいだろ?」
「なんで嬉しそうなのかしらねあんたは」
「わ、ちょ、やめろアリスさすがの私も二杯目は嫌だ」
「うっさい黙って喰らえ」
「うわ、くそ、この私が黙ってやられると思うな」

 互いに互いのかき氷をちょっとずつスプーンにすくって、相手の口に突っ込もうとする。片手で相手のスプーンを遠ざけつつ、自分のスプーンを相手の口まで通さなくてはならない。
 手足のリーチではアリスが有利だが、魔理沙はちょこまか動く。しかし暗黙の了解で、かき氷を地面にこぼしたら負けだとアリスは思っている。
 食べ物は大切に、ということだ。



 さてしばらく経って戦況はというと、どうしてこうなったやら、スプーンを持った魔理沙の右手を、アリスは両の腕を絡みつかせるようにしてがっちり捕獲していた。魔理沙の右手一本に対して両方の腕を使っているが、ここでアリスは、掌をフリーにしている。
 アリスはスプーンを右手に持っていた。魔理沙の右腕を抱え込んでいるため、これ以上大きくは動かせない──だから手首の関節だけを動かして、スプーンを魔理沙の口に突っ込もうとする。
 魔理沙は空いている左手で抵抗を試みるが、それもアリスの左手ががっちり捕獲。掌をフリーにすることを重視したアリスの方が、勝利への近道を行っていたようだ。

 口元に迫ってくる四色氷に、いやいやと首を振る魔理沙。
 勝ちを目前にしたアリスは嗜虐的な笑みを浮かべ、そして熱い息をついた。
 がっぷり組み合ってわーわーぎゃーぎゃー騒ぎ立てているうちに、ちょっと身体が熱くなってきていた。日陰の中でよかったと思う。

 ……しかしこんなに騒いでても、かき氷屋のおっちゃんは何も言わない。無愛想っぽかったといえばそうではあるけども。
 でも、ふと冷静になってみると、他の人ならどうだろう。だってここは、いちおう街中だ。さっきは人影も無かったけれど、魔理沙と騒いでて気づかないうちに誰かが通って、「ママー」「しっ、見ちゃいけません」なんてやりとりが為されていないとも限らない。なんだか営業妨害になりそうだ。


 ──ここまで考えて、「よし、もうやめよう」ではなく「よし、さっさと勝負つけよう」を選ぶ自分もどうかと思ったけれど、ここまできたら、魔理沙の薄い唇にこのスプーンをぶちこんでやりたいというものだ。……って、あっちくしょう、こいつ口を力いっぱい閉じてやがる。なんだよそれ反則だろう、まあ同じ状況になったら私もやるけども。しかしどうするか、こうなったら押し倒して体勢崩してやって、隙を見て鼻をつまんでしまうか……。

 と、アリスが魔理沙を押し倒すべく身体を前方に乗り出していたその隣で、じゃり、と足音がした。
 おっちゃんがいたのとは逆方向だから、なんだよ野次馬は失せろよ、とアリスは一瞬だけそいつにちらりと意識をやって、すぐ魔理沙に戻して、だけど視界の端に映ったそいつの服装になんだか見覚えがあった気がして、うん? と思ってもうちょっとまともにそいつのことを見た。


「あー……え、いや、うん。デートの邪魔をする気は無いから、おかまいなく」

 野次馬さんは、知り合いだった。
 というか、霊夢だった。

 博麗、霊夢。
 相変わらず、いつもどおりの、腋を出した紅と白の巫女服。
 だけどもやっぱり暑いようで、襟元をぱたぱたやりながら、魔理沙とアリスのそばを通り抜けて、

「おっちゃーん、イチゴメロンレモンブルーハワイオレンジバナナさくらんぼ、それに抹茶も混ぜてー」

 ────たしかに。
 たしかに、この店の良心的なシステムゆえ、色をたくさん混ぜたところで、一色のと値段は変わらない。変わらないけれど。

 くしくも同時に発した「ねぇよ」によってアリスと魔理沙は顔を見合わせ、お互い溜息とともになしくずしに停戦し、変な感じに組み合わさっていた互いの身体の解放を試みる。
 熱を持った、汗に湿った魔理沙の肌の感触を意識しかけて、なんとかクールに振舞う。そうできたのは、先に意識してしまったのか、手を離すときに魔理沙がなんだかそそくさしていたからなのだけど。
 ひとまず別々の方向を向いて、音を出さずに一呼吸して──たぶん魔理沙も同じことをしているのだろう──気持ちをリセット。

 今度は同じ方向を向く。もちろん、しあわせそうに八色氷をほおばる巫女の方だ。
 そして改めて疲れた顔を作り、これまた二人同時に、「いや、デートじゃないから……」と釈明を始めるのであった。











 四.

「パフェ食べにきたのよ」
「……パフェ?」
 かき氷屋を後にして、三人でだらだら歩きながら。
 霊夢はどうして里に来たのかと、アリスが訊いてみると、予想もしなかった答えが返ってきた。
「アリスは知らないのかしら。ちょっと前に人里にできたカフェで出してくれるんだけど。甘くて美味しいのよ」

 知っている。むしろ、一度食べに行ったこともある。なかなか美味しかった。
 美味しかったが、しかしパフェだ。霊夢が、それも魔理沙や早苗だとかに連れられてならともかく一人で里に出てくる理由として挙げるには、いくらか違和感がある。むしろ違和感しかない。
 この、純和風で、渋い茶を愛する巫女が。パフェなんてハイカラで、現代的で、若者っぽいものを。付き合いでなく食べに来るなんて。

「そんなに私がパフェ食べるのが不満?」
 アリスの違和感はしっかり顔に表れていたらしい。彼女なら顔に表れていなくても、なんとなく勘で読み取るかもしれないけれど。

 んー、とアリスは唇に指をやる。
 訊いてくる霊夢はというと、アリスが不満であろうがどうだろうが、それこそ不満は無さげだ。興味そのものがそんなに無さそうでもある。このあたり彼女の接しやすく、あるいは接しにくいところだ。
 アリスのように自分勝手、自分本位な者にとっては、長所に映る。彼女が妖怪に好かれるのは、このへんが一因なのかもしれない。

「別に不満ってわけじゃないけど、意外ではあるわ。正直、似合わないし」
「まあ、ピンと来ない組み合わせではあるよな。霊夢とパフェ」
「そういうのを嫌いって言った覚えは無いんだけど」
「それでも普段のイメージってものがあるからな。日がな一日、神社で日本茶を飲んでるだけの巫女なんだし」
「ちょっと待った、私はこう見えていろいろ……」


 かしましい二人を横目にしながら、そういえばこれってどこへ向かっているんだろうとふと思う。
 流れ的に、パフェだろうか。いやカフェか。
 選択肢としては、悪くない。むしろ素晴らしいと、陽の光に溶かされながらアリスは思う。

 カフェ。魔界の都市部では見ないこともなかったが、幻想郷では、あのような洋風の店は少ない。似たようなサービスを提供する店はあれど、雰囲気が決定的に異なっている。幻想郷は、まだまだ和風。日本的だ。
 いま向かっているカフェは、そんな幻想郷で、ほとんど第一と言っていいだろう、洋風の雰囲気を取り入れた店だ。背景には、山の神の手引きによる技術の躍進と、近年ますます里の暮らしに溶け込んできた妖怪達──主に紅魔館の連中と、これまた山の神らからの、文化の流入があるのだが。
 それらはひとまずさておき、この状況で、なによりも重要なことがある。
 科学の手が入ったあの店は、あの店内は、夏場でも涼しいのだ。


「ほらあんたたち、これからパフェ食べるんでしょ? だらだら喋ってないで早く行きましょ」
「お、おお? アリス、意外と乗り気だな」
「どうせ店の涼しさに惹かれたんでしょ」

 恐ろしい精度の勘を誇る巫女を努めて無視し、アリスは足を速めた。それに対して魔理沙は少し足を速め、霊夢は変わらずのらりくらり。後ろを振り向かずとも足音と感覚でわかる。仕方が無いからと、けっきょくアリスも歩く速度を元に戻した。

「霊夢は、暑くないの?」

 ちらりと、背後を見やる。
 暑くないってことは無いはずだ。顔や首筋には薄く汗をかいていて、少してかてかしている。しかしあの脇を出した巫女服と自分達の半袖とでは、どちらが涼しいのか、ちょっとアリスには判断が付かなかった。隣の芝だからか、なんとなく、あちらの方が風通しが良いように感じるけれど。

「暑いに決まってるじゃない。歩いてるだけで汗がだらだら……ああもう、こんなときは冷たいお酒が飲みたいわね」
「おお、そりゃいいな。そういえば最近、外の世界の店を模した居酒屋ができたらしい。パフェ食べたら行ってみるか?」
「外の世界の? まあいいけど、誰が主導したのかしらね……やっぱり山の神様?」
「早苗は、外の世界ではお酒飲まなかったって言ってたけどね。なんか、年齢制限? みたいなのがあるらしくて。紫あたりが手を回したんじゃないの?」
「いや、噂によると、たまに来る外の世界の人間達からいろいろ話を聞いて再現したらしいな。まあ山の神や紫あたりが絡んでても不思議じゃないが」

 アリスはふうむと頷きながら、しかしこんな早くから居酒屋で酒をかっくらう少女達ってどうなんだろうといろいろ不安に思い、だが考えてみると、家を出たのが遅かったから時間的にはパフェ食べ終えた辺りでちょうどいい感じになっているはずだし大丈夫と思いなおし、そもそも家を出るのが遅かったのは自分が惰眠を貪っていたからで、むしろ今日とか起きてご飯作ってもらったのを食べてかき氷食べてこれからパフェ食べて酒飲んでって、私ほんとどうなんだろうと人生に疑問を抱いていた。


 どうなんだろう。不意に不安になる。魔界に居たときの方が、いろんなものを用意してもらっていたのは同じだけど、まだまともに生活できていた気がする。こういう堕落した生活は、一種の麻薬だと思う。楽で、楽しくて、やめるのには一苦労だ。
 いつまでこうしているんだろう。
 いつまでこうしていられるんだろう。

 魔理沙だ。
「──リス、アリス、大丈夫か? なんだかぼやーっとしてたけど」
「ん、」
 魔理沙の顔が目の前にあることに、声をかけられてやっと気づいた。
「脱水症状……って、妖怪もそんなのあるの? まあいいわ、どっかで水でも飲む?」
「ああ、いや、大丈夫よ」
 横から霊夢が覗き込んでいる。アリスは笑顔を作って、首を横に振った。
「少しぼーっとしただけ。それより早く行きましょ。外はやっぱり暑いわ」

 アリスは先頭に立って歩き出す。目的のカフェまでもうすぐだ。
 魔理沙は、なんだか納得しないふうに。霊夢は、それでぜんぶ納得したふうに。二人が付いてくるのを確認して、アリスは歩を速めた。




  ◆  ◆  ◆




 カランコロンと、涼しげな音を立てて開いた扉の中は、まさに別世界だった。まとわりつくような湿気も、肌を焼く日差しも、すべてから開放された心地よい店内。男性店員の「いらっしゃいませー」に、無意識に笑顔を浮かべてしまう。もう何時間でもここに居ていい。むしろ住みたい。
 感動のあまりちょっぴり泣きそうになっているアリスの前を、霊夢がとてとて通り過ぎる。──次の瞬間、それは起こった。

「おや、霊夢ちゃん、また来てくれたんだ。すっかり常連だね」
「はい、ここのパフェがすごく美味しくて、つい……」

 珍しいものを見た。
 いや、見たこともなかったものを見た。
 現実どころか、夢ですら、想像の中ですら見たこともなかったものを見た。

「あー……アリスはああいう霊夢を見るのは初めてか」

 ああいう霊夢もなにも、あれは本当に霊夢なんだろうか。
 思考停止したアリスの視線の先には、どこかもじもじしながら男性店員の前ではにかむ、おしとやかな少女の姿がある。そう、あれは少女だ。『こんながつがつ食べに来る私ったらはしたない、でも……』みたいな空気を発しているあれこそが少女であり、『女の子』だ。果たして自分は今まで、『女の子』というものを見たことがあったのだろうか。いや無かった。無かったのだ。『女の子』とは『男の子』と対になることで完成されるのだと、アリスはいま初めて知った。

「今日はお友達も連れてきてくれたのかな? ……それじゃあ、あそこの窓際の席でいいかな?」
「はーい。ほら、いきましょう、魔理沙、アリス」

 ニコニコと可愛い笑みを浮かべてこっちを見てくるお前はいったい誰だ。
 アリスは愕然として、精神的衝撃に歯を食いしばって、なにか間違った世界に入り込んでしまったような気持ちで、それでもなんとか一歩を踏み出した。「霊夢をどこにやったの!? 霊夢を返して!!」と叫びださないようにがんばっていた。魔理沙が、ぽんと肩を叩いてきた。いやいやするようにアリスは首を横に振るが、魔理沙は沈痛な面持ちで、アリスの耳元で静かに呟いた。「現実だ」


「……霊夢は実は、美形の男に目がないんだ」
「あの霊夢が……?」
「あの霊夢がっていっても、まあ昔からそうだよ。かっこいい男にはふらふら付いてく。神社に寄り付くのは女の形をした妖怪ばかりだし、知らないのも無理はないが」
「……そうね。それに、男の人とお付き合いしてるって話も聞いたことは無いし」
「そりゃまあ、私達の年齢を考えろよ」
「……なるほど。霊夢のあれも、端から見たら子供の遊びか、まあせいぜい憧れってところよね。相手は一回り年上だし。霊夢『ちゃん』でしかないと」
「そういうことだ。私達みたいなちんちくりんに引っ付かれたところで、大人は興奮しないってな。むしろ興奮するようなら危ない」

 どこか安心するような気配をにじませて、魔理沙は言う。魔理沙のそれは、子供の遊びのままで留まっている霊夢と、子供の遊びとしかみなしていないあの店主と、どちらに向けたものなのか──さすがに邪推かなと思ったので、それ以上は考えないようにする。
 その代わりに、霊夢がここに通っているのももしかするとそれが理由なのかなあなんて考えて、なんだかなーなどと思うのであった。女のかたちをした妖怪やら人間やらばっかりとつるんで、男女の色気の無い空間にいるからだろうか。
 霊夢がそっち方面に興味を持つのは、仕方ないことで当たり前のことでもあるけれど、それでもやっぱり、置いていかれたような寂しさがある。たぶんアリスは、そっち側に行くことは無いから。
 ……人間たちが、そういうふうになっていくことは、わかっていたつもりだったけれど。



 案内されたのは、四人用の席だった。霊夢の向かいに隣り合って、アリスと魔理沙は座る。「あんたたちはどれにするの?」とメニューを差し出してくる霊夢は、既にアリスの知る霊夢に戻っているようだった。店員の前にいるかどうかで性格を変えるらしい。現金なことだと、なんとなく安心しながらも溜息を止められなかった。
 魔理沙がメニューを受け取って、ぱらぱらめくっている。アリスも横から覗こうと身を乗り出したけれど、メニューの中身がアリスの視界に入る前に、魔理沙がパタンと閉じてしまった。文句を言おうとしたアリスが見たのは、楽しそうに笑う魔理沙の顔。

「おいおい、どれにするかなんて、そんなの決まってるだろ?」
「え?」
「せっかく三人で来てるんだからな」
「ちょっと魔理沙、私は普通にチョコレート……」
「何いってるんだ霊夢、こいつを前にして食べないなんて女がすたるぜ」

 メニューのとあるページを開いて、そこに記されている一つを魔理沙は指差す。
 アリスも薄々感づいていたが、彼女が指差しているのは、ザ・ジャンボパフェ──複数人で食べることを前提とした、とりあえず大きいということを宣伝文句にして、様々なフルーツを盛りまくった馬鹿げた食物だ。
 前にこの店に来てメニューを見たときも思ったものだが、これを食べてる途中で倒さないようにするのがとてもとても難しそうな、そんなシロモノだ。比較画像を見るに、普通のパフェの七〜八個分といったところか。一人当たりに直しても三人前近くあるじゃないか。
 魔理沙には悪いが、食えたもんじゃない。霊夢も反対しているようだし、数の力で押し切らせてもらおう──

「おや霊夢ちゃん、ジャンボいくのかい? いやあ嬉しいなあ、うちの自慢のメニューなんだけど注文してくれる人が少なくて」
「そうなんですか!? 友達と来たんで、せっかくだから頼んでみようって思ってたんですけど……」

 おい。
 なんだそれ、と突っ込む間も無く、魔理沙すら差し置いて、霊夢の独断で注文が定まる。
 店員が去った後も衝撃は冷めやらず、アリスがポカーンと霊夢を見つめていると、「何?」と、自分がどうして見つめられているのか本当にわからないといった具合に小首を傾げられてしまった。アリスが霊夢の二重人格を疑うと同時に、彼女のこの性癖に関して早くも諦めの境地に達した瞬間であった。
 ──隣では、魔理沙がひたすら苦笑している。



 ほどなくして、ザ・ジャンボパフェがやってきた。
 四人用のテーブルの中央に凄まじい存在感と威圧感をもって屹立するそれは、当然のようにアリスの座高を超えていた。少なくともパフェ用の容器ではありえない、ラーメンでも入れるかというような丼に盛り付けられたそれは、塔というより、もはや山であった。
 広大に広がる裾野、丼の中にはフルーツとコーンフレーク、そしてバニラのアイスクリームがドバドバ節操なく敷き詰められ、さらにそれを土台として、上方に高く高く伸びている。
 山の中腹部分はむしろケーキに近い。スポンジケーキを芯にすることによって強度を確保し、生クリームやチョコレートソースでベッタベタにコーティング。その上からこれまた様々なフルーツを薄く切り、山の斜面を埋め尽くすように容赦なく貼り付けている。
 山の天辺部分は少し平らになっていて、そのスペースには七色、もとい七種類のアイスクリームが、一片の隙間も残さぬという意志を示すように堂々と鎮座していた。

「こうして見ると、実物の迫力は予想以上だな……」
「どうすんのよこれ……」

 ごゆっくりー、と戻っていく店員に手を振る霊夢を差し置いて、アリスと魔理沙は早くもくじけていた。

 無理だろこれは。
 圧倒的な絶望。いくらなんでも食べきれない。いやむしろ食べきったほうがひどいことになるんじゃないだろうか体重的な意味で。しかし頼んでしまったからにはお金ももったいない。せっかくの機会であることには違いないし、ひとまず口をつけてみようか……。
 アリスがふらふらとスプーンに手を伸ばしかけたそのとき、正面から「いただきます」と声が聞こえた。「え?」と自分の声。「お?」と隣から魔理沙の声。ぼんやりしていた思考が、前方を意識する。

「はむ、ほむ、むぐ、うみゅ、おいひい……」

 凄まじい勢いでザ・ジャンボパフェを口の中に詰め込む霊夢がそこにいた。「ふぅみゅ? まいひゃとあいひゅは、ふぁふぇふぁいふぉ?」むしろ詰め込みすぎで、ほっぺたがハムスターのように膨らんで、まともに喋ることもできていない。休みなく手と口を動かして、アリスと魔理沙が呆気に取られている間に、どんどんパフェの山に穴を掘っていく。

「あ、いや、うん、食べるぜ。うん。ほら、アリスも」
「そ、そうね。食べましょう。うん……」

 なるほど、たしかに美形に興味があるのは間違いないかもしれないけれど、それはあくまで第二の理由。霊夢がこの店に通っているのは、素直にパフェが好きだからだったのだ……。
 なんとなく直感、確信して、それがどこか自分の知っている霊夢に近いようにも思えて、安心するような、納得するような、脱力するような。
 まあしょせん霊夢。結局、まだ花より団子。子供扱いされてしかるべきということなのだろう。



 それでもすべてを食べ終わるまでには、アリスの体感で半刻以上は要した。
 縦横無尽に踊りまわる霊夢のスプーンとフォーク。その間隙を縫って、アリスはちびちびとパフェの山を削った。おそらく最終的に一人前くらいは食べたはずなのに、なぜだかそれほど食べた気はしなかった。魔理沙も同じだったのだろう。

「正直、霊夢が全部払ってもいいくらいだと思うんだ」
「え、なんでよ? 割り勘でしょう常識的に考えて」
「お前、一人であんだけ食っといてよくもまあ……」
「別に食べるななんて言ってないわよ。魔理沙も食べたいなら食べればよかったでしょ」
「ぐ……」
「まあまあ、ここでそんなごねたら迷惑だわ。魔理沙も、今度来た時ちゃんと食べればいいでしょ?」
「アリスもあんまり食べてないと思うんだが……」

 魔理沙の言うとおり、あのジャンボパフェの量から考えると、一人前くらいしか食べてないというのは、あまり食べてない部類に入るのだろうけど。
 それでもアリスはなんとなく満足した──すっきりした気持ちだったし、どうせこれから居酒屋にもいくのだ。外の世界の店を模したというのは、店の外観や内装だけでなく、酒や食べ物もきっとそうなのだろう。ここで食べ過ぎるよりは、そっちに期待するのも悪くない。

 そうして結局、お代に関してはきっちり割り勘した。
 店員と話している霊夢を置いて、アリスと魔理沙は一足先に店を出る。冷房のかかった店内と外との境は、けれど思ったほどには違和感もなかった。

 店に入るときには、外が暑く、中が涼しく感じたけれど。今は、中が寒く、外が涼しいように感じられる。店にいたのは、おそらく一刻ほど。その間に、外の景色は変わっていた。
 夕暮れで西の空が紅く染まった、暗くなりかけの時間。涼しくなりかけの時間。家路を急ぐ人々の影が、通りのそこらここらに長く伸びている。吹き付けてくる風からは、数時間前よりも間違いなく、熱がいくらか失われている。心地よい空気に、アリスは一つ深呼吸をした。


 一日無駄にしてしまったとげんなりしながら、心の隅ではこれから飲みに行く先に想いを馳せている自分に、やっぱりげんなりする。自分のことを、自立人形研究に全てを捧げた徒とするなら、今日という日は絶望的に無意味な一日であったと断じられる。

 だけど、きっとこの先も、こんなふうに、同じように、無駄な一日を過ごして。
 同じように、こんなのも悪くないなんて思ったりすることがあるんだろう。
 魔女の勘だ。巫女ほどではないかもしれないけど、でも、これに関しては外れる気がしない。
 そのあたり、昔からよくわからないままこうやって彼女たちと一緒に生きてきて、きっとまだよくわかってないのだろうけれど、でも少しずつ、ほんの少しずつ、わかってきた気もするのだ。



「おみやげにもらっちゃった」

 魔理沙にせっつかれて店から出てきた霊夢の手には、三本の小さな瓶があった。
 まさか酒だろうかと一瞬連想したが、瓶の特徴的な形状と口の近くのビー玉を見て、その正体に思い至る。「お、ラムネか」酒かと思ったことを自己嫌悪するアリスの横で、魔理沙が嬉しそうに言った。
 霊夢が持つ瓶は、赤、青、緑の三色。それぞれイチゴ、ソーダ、メロンだろうか。魔理沙がその中の、赤い瓶に手を伸ばした。

「私、イチゴ味な」
「ちょっとなに言ってるの。イチゴは私のよ」
「えー。霊夢、そこは譲れよ」
「なんで私が譲るのよ。私が貰ってきたんだから、魔理沙こそ譲りなさいよ」


 ──まったく元気だなあ、と。
 どれでも特に構わないアリスは、いやにこだわって譲らない二人を、微かに笑んで見つめていた。おそらく、呆れと羨望が混じった笑みだろうと自覚している。
 なんとなく、自分が年を取ったような気持ちになる。魔法使いとして年若いアリスは、実際のところ二人とそれほど年齢的に差はないけれど。それでも、年上であるのは確かではある。

 ……ここで変なこだわりを見せて、二人の間に割り込んだら。
 今だけは、ほんの少し幼くなって、二人と同じものになれるような気がした。
 今、だけは。

「……まったく」

 結局そうしないままだったのは、たぶん、二人とは違うのだからという諦めと、二人とは違うのだからという納得のせいだった。
 その比率がどうなっているのかは、自分でもよくわからない。諦め半分、納得半分か。あるいはほとんどが諦めで、納得は欠片くらいか。それとも、その逆か。
 その多くが納得であってくれればいいなと、アリスは思った。


「ちょっと魔理沙、手ぇ放しなさいよ。ラムネが温くなっちゃうでしょ」
「霊夢こそ放せよ。こんな争いを続けてたらいずれ割ってしまいそうだ」

 しかしそれにしたってそろそろ飽きれよ、とアリスがさすがに介入を考え始めたとき。
 ふと、背後に誰かが立つ気配。その場所で誰かが足を止める音を聞いた。

「あら、三角関係?」

 声に反応して、霊夢と魔理沙が小競り合いをやめる。その出所、アリスの背後へと二人が視線をやるのにあわせて、アリスも振り向いた。
 この状況で三角関係ってことは、霊夢と魔理沙が自分を取り合っているような感じなのだろうか──思いながら見た先には、山の巫女、東風谷早苗の姿がある。
 いつもどおり、と言えるほどに彼女と知り合っているわけではないけれど、いつもどおりの、なぜかこちらも腋が開いている巫女服だ。むしろ彼女のこれ以外の服は見たことがない気がする。

 早苗はにっこり笑みを浮かべるが、明らかにそれは、わかっていてからかいにきている。
 彼女の性格がいつの間にこんなに悪くなったのか、アリスにはわからない。こちらに来た当初、勧められるがままに酒を飲まされてすぐに潰されていたころの彼女からは、少し想像しがたい落ち着きっぷりだ。たくましくなったともいえるのかもしれない。

「人気ですね、アリスさん」
「おいおい早苗、ちょっと待てよ……」

 アリスじゃなくてラムネの取り合いだと律儀に説明を始める魔理沙、くすくす笑いながらそれを聞く早苗、その隙にイチゴ味を素早く開けてごくごく飲む霊夢……デコボコで、だけどどこか調和が取れているようにも思う、三人の人間達が作り出す光景に、アリスはやれやれと肩をすくめた。











 五.

 涼しいはずなのに、暑い。奇妙な閉塞感。店のどこからか聞こえるざわめき、店内に薄く流れるBGM。
 総じて、落ち着かないというのが第一印象だった。

「四名様ご案内でーす」

 威勢の良い店員が女性であったことには、多少の安堵が無かったといえば嘘になる。てれてれもじもじする霊夢を見ていると、なんだか心が不安定になるのだ。ぶっきらぼうで自己中心的ないつもの巫女の方が、安心できる。

 薄暗い店の中、細い通路を店員に付いていくと、四人がけのお座敷に通された。いちばん奥には魔理沙、その隣にアリス。魔理沙の向かいに霊夢と、その隣に、暇だからとちゃっかり付いてきた早苗が腰を下ろす。


 外の世界を模した居酒屋。どんなところが違うんだろう、出てくる料理や酒だろうかと思って来てみたけれど、どうやらそれだけじゃない。
 店内がついさっきのカフェと同様に涼しげというのもあるけれど、それ以上にまず、四人用のこの座敷席だ。客の座るスペースが、四人用だったり八人用だったりと大きさの違いはあれど、それぞれはっきり区画分けされ、壁や通路で区切られている。
 たしかに、幻想郷の居酒屋にも、区画ごとに仕切られているところはある。しかしそれがこうもはっきりしているところにはお目にかかったことがなかった。基本的に、店に来た客同士がいつのまにか絡み合って騒ぐことを想定しているらしい。そこへくるとこの店は、客のグループが混ざり合わないようにしている。

「……狭いなあ」

 魔理沙も同じことを思ったようで、多少落ち着かない様子できょろきょろしている。きょろきょろしているのは巫女二人も同じだが、霊夢はきっちり腰をすえて、壁に張ってあるメニューやテーブルに備え付けられた調味料などを見ているようだ。早苗はというと、純粋な興味に突き動かされて辺りを見回しているようだ。


「へえ……こういう店の中ってこんなふうだったんだ……」
「ああ、早苗もこういう店に入ったことはないんだったわよね。年齢制限とかで」
「ええ。……あれ、アリスさんに言いましたっけ?」
「霊夢と魔理沙がさっき話してたから」

 などと言っている間に、紅白巫女と白黒魔法使いはメニューに手を伸ばし、二人でいろいろとめくって見ている。早苗もそれに興味があるようで、脇から覗き込んだ。「まあ酒は飲み放題で……ん? なんだこれ」「魔理沙、どうしたの……うん? サワーって……?」「ああ、それはですね……」「まあ、頼んでみればいいか」「そうね」「あう……」

 コントかよ。
 などと思いながら、アリスはアリスで、壁にかかったメニューを見ていた。たしかに、見ない食べ物飲み物もたくさんあるが、一方で、自分達が普段食べているようなものも確かに存在している。当たり前といえば当たり前なのかもしれないけれど、なんとなく感慨深い。けっきょく、酒やつまみなんて、幻想郷だろうが外だろうがそれほど違いは無いのだろう。

 そのうち、また店員がやってきて、注文をとっていく。全員が飲み放題、それもせっかくだからとサワーから霊夢が適当に選び、料理に関しては、選びたそうにしていた魔理沙と早苗に任せた。



 胸元の服をぱたぱたとさせながら、アリスはいつのまにかひどく落ち着いている自分に気づいた。
 どうも、このお座敷の狭さは不思議な狭さだ。
 外に比べると涼しいはずなのに、どうしてか身体が温まる。それもいつのまにか適度な火照りに思えていて、閉ざされた空間は、誰かの家に集まって飲んでいるかのような安心感をもたらし、そこかしこから響いてくるざわめきは、店の中に流される音楽とあいまって、好い雰囲気を作ってくれている。
 なるほど、こういう店も悪くはないかなと思う。さっきまでは、やはり初めてということで、身構えているところがあったのだろう。
 気づけば他の三人も、普段は見ないタイプのこの店を楽しんでいるようだった。テーブルの端に備え付けられたボタンを、魔理沙と霊夢が興味深そうに見つめていた。

「このボタンを押して店員さんを呼ぶんですよ」
「へえ、面白そうだな。さっそく押してみようぜ」
「魔理沙、迷惑だからやめなさい……ほら、霊夢みたいにおとなしくしてられないの?」
「……なんだかそれ、アリスさんが魔理沙さんのお母さんみたいですね。ついでに言うと、霊夢さんと魔理沙さんが双子の姉妹かなにかみたい」
「ちょっと早苗、やめてよ。こんなのと双子なんて。どう考えても私が姉でしょ」
「おいおい霊夢、そりゃ私の台詞だ。明らかに私の方が精神年齢高いしな」
「こだわるのはそこなのね……」

 女の子の双子。霊夢と魔理沙。その母親。
 ……自分が、か。
 人形のことを考えてしまったのは、健康なのか不健康なのか。
 しかしまあ、それも悪くない気がする。最近、人形師アリスはどうにもたるんでいる。今日、家に帰って、ぐっすり眠ったら、二人を模した簡単な人形を作ってみようか。せっかくだから、早苗の分も作ってみていいかもしれない。綺麗や美しいというよりも、可愛い人形を。
 たぶん、霊夢も魔理沙も嫌そうな顔をするんだろうなあ。早苗はどうだろう。無邪気に喜びそうな気がする。三人とも、霊夢と魔理沙はなんとなく手元にないと落ち着かなくて、早苗は純粋に気に入って、自分の人形が欲しいと言い出しそうだ。もしそうなったらどうしよう。

 自然と、笑みがこぼれていた。
 霊夢は気づいていてどうでもよかったのか、早苗は気づかなかったのか、だから最初に見咎めたのはアリスの前に座る二人ではなく、横から覗き込んできた魔理沙だった。

「アリス、どうかしたか?」
「ううん、なんでも」
「なんだよ、気持ち悪いな」
「む。失礼ね」
「だってそういうふうに笑ってるお前って、たいがい何かロクでもないことを……おっ」

 嫌そうな顔だった魔理沙の視線が、上方向にずれる。注文した酒がやって来たようだ。
 レモンサワー、カルピスサワー、巨峰サワー、青りんごサワー……店員が口に出す酒の名前を聞きながら、そういえば自分は何を頼んだっけかと思い返し、ぜんぶ霊夢が適当に頼んだんだと気づいたときには、残り物には福があるだろうと信じることしかできなくなっていた。こういうときだけ、他の三人は無駄に行動が早い。残ったのはレモンサワー。レモンアレルギーというわけでもないので、問題はない。

「じゃあ、えっと……外の世界風の店に乾杯?」霊夢が首をかしげる。
「そこで疑問系にするなよ……って店に乾杯してどうする」魔理沙が苦笑する。
「それじゃあ……初めてのサワーに、でどうでしょうか」早苗が自信ありげに言う。
「まあ、それでいいんじゃないかしら」アリスが消極的に同意して、方針は固まった。

「それじゃ、初めてのサワーにかんぱーい」

 声を合わせて、軽くグラスを触れ合わせる。涼しい店内とはいえ、それなりに外を歩いて汗もかいた身体だ。当然ながら冷たい飲み物になんら躊躇することなく、四人は四人とも、乾杯と書いて正しく杯を乾かした。

「けふっ。……ジュース?」

 そして四人とも、再び仲良く声を合わせた。

「これってお酒なの? ねえ早苗」
「いや霊夢さん、私に訊かれても……こっちに来るまでお酒のことなんて全然わかりませんでしたし」
「普通に炭酸入りのジュースって感じだけどな。ちょっと拍子抜けだ」
「まあ、他のものも頼んでみましょうか」



 ……その後。見慣れぬ名前の酒をとりあえず片っ端から頼んだ四人は、自分たちが普段飲んでいる酒との違い──それらはどれもこれもアルコールを感じさせない、それこそカフェで頼むようなジュースと同じようなものに感じられた──に、いちいち驚くことになる。

 メニュー内の知らない酒を一通り制覇したあと、外の世界の女性はこういった『甘い酒』を好む傾向にあるらしいと店員に聞いた。
 それからというもの、早苗などは何か達観したような表情で日本酒を注文し始め、霊夢や魔理沙もそれに続いた。結局、外の女性のような『甘い』飲み会は期待できないのだなと苦笑して、アリスもまたメニューのワインの項をたどり始めるのだった。




  ◆  ◆  ◆




 そしてしばらくの後、酔い潰れた三人を尻目に、テーブルに肘をつきながら、ひとり退屈そうに酒をちびちびとやるアリスがいる。

 頼むだけ頼んであまり食べずに落ちやがった三人に恨み言を呟きながら、野菜ばかり残ったモツ鍋に箸を伸ばす。美味い。あまりの美味しさに油断して、食べながら「んむ、んまい」と口に出したアリスは一瞬硬直。他の三人がたしかに眠っていることを視線だけ動かして確認してから、安心して咀嚼を再開する。

 飲み込んだあと、口の中に残ったニラやニンニクの臭みは、霊夢が半端に空けていた『甘い酒』──名前は聞いていなかった──で一気に流し込んだ。
 ほとんどオレンジジュースとしか思えないような、甘ったるい後味。こういった『甘い酒』があまり嫌いではない自分に気がつき始めていたけど、普段の宴会で飲むことはおそらく無いだろう。ここにいる三人のように、こんなのじゃあ物足りないというのがおそらく多数派だろうし、それを押し切って飲んだら、なんだか馬鹿にされそうな気がする。

 今のうちに飲んでおこうと結論し、だけど他の三人が潰れてしまった以上、ここで自分まで飲みすぎて万が一にも潰れたら、店に迷惑がかかる。ジレンマである。それに気になることもある。

 アリスが正座していたのをいいことに、勝手に膝枕で気持ち良さそうに寝ている魔理沙。
 背後の壁にもたれかかるようにして、少々間抜けな面を晒しながら眠る早苗。
 その早苗の胸のあたりにしがみつくという、珍しい姿を見せながら爆睡する霊夢。

 この三人、こう見えて酒はあまり弱くない。それが見事に酔い潰れてしまった。
 甘い酒。四人それぞれがメニューを制覇するくらいに飲んではいたが、それでもアリスは酔っ払っていない。
 酒との相性が悪かったのかもしれない。妖怪の酔いは精神の酔いである面が強いから、アリスのように、こんな甘い酒じゃ酔えはしないだろうと思っていれば、肉体もそのように働きやすい。
 その点人間は、精神と肉体が妖怪などより遠い。これじゃあ酔わないと思っていても、身体がアルコールに浸れば、気持ちに関係なく酔っ払うのだ。

 人間である三人には、甘い酒という認識が油断になる。
 妖怪であるアリスには、甘い酒という認識が酔い醒ましになる。



「……ふう」

 ふと、溜息をついていた。何か考えていたような気もするし、何ら具体的なものを思っていなかったようにも感じる。ただ、少し気持ちが沈み気味なこと、それだけは曖昧かつ確かに、自分の中に残っていた。

「もうちょっと何か食べるかな」

 意識的に、視線を上げる。
 テーブルの上の食事は大量に余っているどころか、中にはまったく手が付けられていない料理もある。勿体ないなと思いながらも、さすがにアリス一人ですべて食べる気は起きない。
 同時に、テーブル上のグラスも確認する。アリスのぶん、魔理沙のぶん、早苗のぶん、そしてついさっき飲み干した霊夢のぶん──すべて空だ。何か新しく頼もうと、いつのまにか料理の皿の下に敷かれていたメニューを引っ張り出すべく皿に手をかけたとき、魔理沙がなにやら呻き声をあげた。

「魔理沙? 起きたの?」
「うー……アリス……」
「なに?」
「きもちわるいはく」
「え? ちょま、おいやめろ」

 自分の膝上でオウエッと非常に不吉な前兆音を発する魔理沙に、アリスの対応は素早かった。右の肩を貸し入れ、立たせ、近くにいた店員にトイレの場所を聞く。幸運にもすぐそこ、十歩も歩けばたどりつく場所にトイレはあった。
 魔理沙を連れ、いざゆかん──が、立ちはだかる、いや転がりはだかるものがあった。

「う……えう……はく」

 青い顔で四つんばいになり、這って動く霊夢。こんな時に! と状況的についつい蹴っ飛ばしたくなるのを、アリスはなんとか堪えた。一瞬遅れて、彼女もまたトイレ搬入対象なのだと気づく。

「だーっ! とにかく立て! 立ちなさい!」
「うう……アリス……」
「ぐっ……仕方ない、魔理沙、ちょっと我慢して」

 えうっえうっと涙目でえづく霊夢に、珍しいものを見たという気持ちなどよりも何故か敗北感のようなものを抱きながら、魔理沙を刺激しないようできるだけ右肩の位置は固定しつつ、左の腕ですくい上げるようにして、霊夢を立たせ、魔理沙と同様に肩を貸してやる。それはもうアクロバティックな技をアリスはやってのけた。


「ほら! もうちょっと! トイレまで我慢しなさい!」

 両手に花を──今にも毒物を巻き散らしそうな花を抱えながら、一歩一歩、アリスはトイレへと歩を進める。あの木の扉。女性用と男性用で、扉が一つずつ。あそこまでたどり着けばアリスの戦いは終わる。勝利に終わる。
 途中、まさかと思いながら早苗に目をやると、こちらはちゃんと安眠しているようだった。さすがに一対三は厳しい。
 そんなことを思いながらトイレまであと三歩、恐れていた事態が発生した。

 この女性用トイレ、一人用だ。

「だあああああっ! もう!」

 どちらかを先に入れるか? そしてどちらかを先に入れたとして、自分はどっちについててやるべきか?
 げっそりした顔で、えるるるるるぅと野獣のような音を発生させている魔理沙。えうっえうっと半泣きで必死に我慢している様子の霊夢。
 だめだこりゃ。
 考えるまでもなくアリスは結論した。

「く……かくなる上は」

 そう、この店にはトイレは、二つある。隣の男性用トイレが。どちらをどちらに入れるかなどは、些細な問題でしかない。
 両手が塞がっているアリスは、祈りを込めながら、ノックの代わりに男性用トイレの扉を軽く蹴った。


 どん、どん。

 とん、とん、とん。


「ああもう……!」

 扉の向こうからの規則正しい返答に、拳にオーラ的な魔力的な何かを纏ってぶちやぶってやりたい衝動を感じながら、それでも頭は冷静なままで。
 もはや取りうる手段は二つしかない。どちらかを切り捨てるか、あるいは。

 アリスは膝を曲げて、そのまま二人を床に降ろしてやる。向かい合うは、女性用トイレ。引いて開くタイプのそのドアを覚悟をこめて開き、そしてまた二人ともに肩を貸し、二人ともを、同時にトイレの中に連れ込み。

「幼馴染だし遠慮することないでしょ……さっさとやっちゃって……ああ、相手にかけたりしないようにね……」

 洋式のトイレ。自分の家のトイレはそうであるけども、幻想郷の他の場所ではあまり見ない。
 小さな驚きを感じつつも。「うぅ……」「えうぅ……」呻きながら、のそのそとそれに覆いかぶさる二人。あまりにおぞましいその光景を見るアリスの目は、諦観に濁っている。

 ──これから此処は、地獄になるわ。

 もはや乙女も少女もあったもんじゃない。
 今の私って瞳のハイライトが消えてるんじゃないかなあなどと思いながら、アリスは外界への扉を静かに閉めた。
 二人の背中に手をあてて、優しくさすってやる。口をぱくぱくさせる二人はなんだか雛鳥かなにかみたいで、ついさっき女の子の双子を想像したことを思い出してしまい、違うなんか違うこれは違うでしょと、アリスはひたすら現実逃避に努めた。











 六.

 清算を済ませ、店員の苦笑を受け取りながら、店の外に出る。入った頃はまだ空は赤かったけれど、今はもう真っ暗だ。
 思ったよりも長い時間、店にいたらしい。ぐったりした二人の存在もあって、ラストオーダーからもそれなりに時間が経っていたはずだ。

「……手伝います?」
「まあこのくらいならいいわよ……あなたも早めに帰ったほうがいいでしょ。神様が待ってるでしょうし」
「でも大変でしょうそれ……遠慮しなくていいんですよ」
「ううん、なんだかもういいわ……今日はもう、いいの……女の子の双子……お母さんは大変……はあ」

 早苗の苦笑いに、アリスは溜息を返す。
 少し寝たのもあってか、早苗は顔色もよく足取りも確かで、霊夢や魔理沙と違い、このまま放っておいても一人で帰ることができるとアリスは判断した。

 一方、精神的にも肉体的にも疲れきったアリスは、今度は憑かれきろうとしていた。
 トイレで一通り致した霊夢と魔理沙は、しかし回復することなく、アリスに肩を貸されたままお座敷まで戻り、戻った後もアリスから離れることなく、無駄に強い力で抱きつき続けながら熟睡している。
 引っぺがしてその場に放置してやろうかと最初は思っていたが、しあわせそうに引っ付いてくる二人を見やり、なにかもう、今日はこういう日なのだなあと、アリスは受け入れることにした。
 たまには、悪くない。たまには。

「それなら、魔理沙の箒でも持っていってやってくれる? 今日はこのまま博麗神社に連れてって泊まらせるから、明日中に神社に持ってきてくれればいいわ」
「わかりました。それではアリスさん、お気をつけて」
「ええ、早苗も気をつけて」

 箒を手に、ふわりと浮かび、夜の中へと消えてゆく巫女。彼女を見送りながら、アリスもまた、二人の身体にそれぞれ腕を回し、宙に浮く。
「重い……」
 二人分の体重を抱えて飛ぶと、しがみつかれている服が伸びてしまうのではないか──思い至ったアリスは、魔力による不可視の糸で、二人の身体を自分へとぐるぐる巻きに縛り付ける。普段の、およそ三倍の重さ。ただ飛ぶだけでも三倍の魔力がいる。だからといってそうそう尽きてしまうような魔力容量ではないけれど、普段の飛行よりも多く戦闘よりも少ない中途半端な魔力消費は、慣れなくて少しむずむずする。

 距離で言うならば、魔法の森と博麗神社とでは大差ない。それでもあえて神社に向かうのには、調子の悪い人間にとって森はきついだろうという気遣いだったり、自分の家も魔理沙の家も少し散らかり気味だからという事情がある。
 それに、里と神社の間には、厄介な妖怪が少ない。この状況でもそんじょそこらの妖怪に負ける気はないけれど、それでも面倒は避けるに越したことはない。実際、誰かに会うこともなくしばらく飛び続けるうち、見慣れた神社が視界に映り、だんだんと近づいてくる。少しばかり安心して、アリスは息をついた。


 冷たい夜風が、酒と二人の熱とで火照った身体を、適度に冷やしてくれていた。
 こんな時こそ身軽になって自由に飛びまわりたかったけれど、今は、引っ付いてくる二人のぶん、身体が重い。

「重いなあ……」

 気持ちよさそうに眠る二人を、拗ねたような顔で見つめながら、アリスは神社の、鳥居の前に降り立った。
 途中、普段は感じない結界の感触があった。いちおう、外出する時は戸締まり代わりに結界など張っているのだろうか。その几帳面さを意外に感じながら、なんとなく霊夢の頬をつついてやる。「んむ……」という反応と頬の弾力が気に入って、何度もつついていると、そのうち指を食べられそうになったから慌てて引っ込めた。


 社務所の戸、そのものには鍵がかかっていなかった。あと少し、とアリスは己を激励する。あと少し、布団を敷いてこいつらを突っ込んでやればそれで自由だ。
 暗闇の中を進み、和室にたどり着く。先に二人を畳の上に横たえてしまおうかと思ったが、どうも手を離してくれない。ここまで来たら最後までか、と半分腹をくくり半分どうでもよくなりながら、押入れを開ける。一組の布団が、ちんまりと収められていた。

「でえいっ……この、布団は毎日いちいち敷くのが面倒なのよね……」

 もとより、一人に一つ用意してやろうという殊勝な心は今のアリスには無い。
 布団を引っ張り出して、勢いのままに広げる。ひとまずこれで大丈夫だ。ここに霊夢と魔理沙を寝かせてやろう。毛布やタオルケットはいらないだろうかと、いつのまにか上がっていた自分の体温を感じて思う。

 そう。
 ふと、やることを終えて糸が切れたのか、本当に突然に、思った。

 暑い。引っ付いてきている二人はそれはもう暑っ苦しいし、服だって汗で湿ってべたべたしている。首のところを汗がひとすじ流れ落ちるのを感じる。服に吸い取られているところはまだいいのかもしれない。触ってみないとわからないけれど、ちょうど服に接しないあたり──胸や尾てい骨の部分などは、汗がたまってぐっしょぐしょになっているのではないか。そこまで認識したあたりで、どっと疲れが押し寄せてきた。二人分の体重が、重いどころか既に自分もそれに引っ張られて、畳に膝をついている。そのまま前方に倒れこむ。三人が、霊夢、アリス、魔理沙の順に、川の字の形に倒れこむ。やわらかで、少し冷たい──それでもすぐ温くなってしまう──布団の感触には、ずぶずぶと沈みこむような錯覚があった。暗闇の中、アリスは目を閉じた。顔の汗が布団に吸われていく感触の中、虫の声らしきものを、一つ聞いた気がした。
 一つだけのはずだった。だけどそれは、最初の一つでしかなかった。森のざわめき。虫の声が、今までも鳴いていなかったはずはないのに、急に現れたかのように、一気に押し寄せてきた。しゅわしゅわしゅわ、じぃじぃじぃ、りりりりりり……執拗なくらいに耳の中に入ってきて、いつまで経っても止むことはなくて、だんだんとそれが、まるで音楽のように思えてくる。布団に溶けようとしていた意識が、その多重奏で、またおぼろげに形を取り戻す。
 それを待っていたかのように、アリスの耳は、声を一つ聞いた。


「……暑い」


 声は、アリスのものではなかった。
 声は、アリスにとって右側から発せられた。そちらを向くと、魔理沙が身体を起こして、閉め切られた部屋を胡乱げに見回していた。いつのまにか魔理沙の手も、霊夢の手も、アリスの身体を離れていた。
 魔理沙はのっそりと立ち上がり、外へと繋がる戸の前までたどりつく。そういえばあれくらいは開けておいてよかったかもしれないとアリスは思ったけれど、いま思っても仕方ないことだ。アリスの代わりに、魔理沙が戸を一気に開け放つ。吹き込んでくる風は、期待したほどに涼しいものではなかったけれど、それでも空気の入れ替わりのない部屋とは比べ物にならない。
 アリスは、寝転がったまま、風の元を、外の景色を見た。
 闇の中で、けれど月の光のせいか、生い茂る草木の輪郭ははっきりと捉えられた。彼らは光のある闇の中で、覚めるような群青色の世界の中で、風にその身を揺らしていた。
 視界にとらわれていたアリスは、虫の声がまた部屋の中に入り込み、満たしていることに遅れて気づいた。部屋と外にもう境は無くて、それらの音楽はすぐそこで奏でられているようにすら感じられた。
 そんな中で、ぽつりと、外を見ている魔理沙の声が。


「夏だなあ」


 ふぁさ、と衣擦れの音。アリスから見える魔理沙のシルエットの、服のふくらみが、ストンと足元に落ちる。
 暑い暑い、と口にしながら下着とドロワーズだけの姿になる魔理沙に、戸を開けておきながらと思わないでもなかったけれど、どうせこの博麗神社、男性なんて滅多に訪れない。それほど迷うこともなく、ケープ、ワンピース、ブラウスと脱ぎ捨て、部屋の隅に追いやった。ふと横を見ると、霊夢もいつのまにやら、巫女服にリボンまでそこらに投げ捨て、サラシとドロワーズ姿で布団からはみ出しつつ、惰眠を貪っている。

「なんだアリス、戸が開いてるのに脱いで寝るなんて、だらしない奴だな」
「はいはい、だらしなくて悪うございましたね──」

 少し照れ隠しもあったのかもしれない。霊夢と魔理沙はなんだかんだでドロワーズだけれど、アリスはそうじゃあない。露出面積で言うならアリスの方が上だ。どちらがはしたなく見えるかと言ったら、無論アリスだろう。それを自覚していたから、アリスはことさらクールに振舞った。

「まあ、いいじゃないこれくらい。夏なんだから」
「……やれやれ、だな」

 案の定からかおうとしていたのか、飄々としたふうのアリスに、魔理沙は一瞬、虚を突かれたような表情を見せた。それですぐ諦めたのか、苦笑してアリスの隣に寝転がる。

「はあ、今日はどっと疲れたな」
「……あんたね、疲れたって言うなら私の方がよっぽど……」
「そうなのか? あれ、そういえば、もしかして私をここまで運んだのってアリスか?」
「……もういいわ」
「まあそうだな、もういいじゃないか。とにかく疲れた」

 このぶんだとおそらく、霊夢のやつも酔っ払っていたときのことは覚えていないのだろう。まったく現金な連中だ。今度同じようなことがあった時には、その辺にほっぽり出しておいてやろう。
 アリスは、そう思っていたのに。

「それじゃアリス、また明日な。面倒見てくれたのには、いちおう礼言っとく」

 最後の最後で魔理沙はそんなことだけ言って、すぐに寝息をたて始めてしまうものだから、アリスもつい、「はいはい、また明日」なんて答えてしまった。

 また明日。
 また、こんな日がやってくるのだろうか。
 意味とか意義とかいう考え方では、きっと価値を見出せないような日が。それでも楽しいと、悪くはなかったと、本心から「また明日」と言えるような日が。明日とは言わずとも、また、いつか。

「また、明日」

 暑苦しいことはわかっていたけれど、それでもアリスは霊夢と魔理沙の手を抱いて。
 自分がわずかに笑んでいることを自覚しながら、目をつむった。
 
 
 
 
 
 
 




index      top



inserted by FC2 system