引きこもりというのは、どのくらい家から出なければそう呼ばれるのだろう。
 もしもそれが五年やそこらで足りるというならば、アリス・マーガトロイドは既に立派な引きこもりの域にあるのだけれど。










 ぱちり、ぱちりと静かにはじける音。
 暖炉の中で、人形達に投げ込まれた薪が赤く燃え、冷たい部屋の中をいくらか暖める。
 アリスは暖炉の斜め向かい、数歩ぶん離れたところにあるソファの上で、丸まるようにして膝を抱き、毛布に包まっている。うつらうつらと、舟をこいでいる。この部屋の暖かさと、アリスが纏う毛布は、眠気で圧してアリスを突き落とそうとする。
 アリスも特に抵抗しない。そのまま眠りに落ちようとして──すぐ近くに、存在の気配を感じて目を開けた。

 部屋の掃除用の人形。既に行動パターンが入力され、あとは燃料代わりに適当に魔力を注いでやれば、それだけでスケジュールに従い、一日に一度、勝手に部屋の掃除を繰り返すという代物。今は、アリスが使っているこのソファの上を軽く掃いてやりたいらしく、身体のサイズからしたら大きくて扱いにくいであろうはたきを持って、アリスの横に待機している。

 彼女のスケジュールとアリスの睡眠欲は、稀にかち合う。勿論アリスの人形である彼女は、主人を押しのけて掃除するようなことはない。ただ代わりに、ずっと側に立ち尽くすから、落ち着いて眠れたものではない。だからこういうとき、アリスの方がソファの上を転がって、掃除できるようにしてやる。
 黙々と掃除を始める人形をぼんやり見つめながら、どうしてもうちょっと融通のきくものにしなかったのかと、アリスは少しばかり後悔した。



 春にアリスは、ソファかベッドの上で、いつしか眠る。
 夏にアリスは、ベッドの上で、ひたすら眠る。
 秋にアリスは、ソファかベッドの上で、いつしか眠る。

 そして今、冬。
 アリスはソファの上で、暖炉の火をぼんやり眺めつつ、毛布に包まりひたすら眠る。
 家の中は、掃除人形と同様に完全オート化した人形が、適当な温度に保っているはずだ。暑すぎると判断したら窓を開けるし、寒すぎると判断したら薪を投げ込む。

 アリス邸の中でも少し広めのこの部屋は、元は居間として使っていたものだ。
 けれどここは既に、その機能を果たしていない。

 ここはアリスの、世界のすべて。
 壁に沿うかたちで小さめのベッドが一つと、その隣に、ベッドと地続きになるような配置で、寝転がれる程度のソファが一つ。ソファの右斜め向かいには元から備え付けられていた暖炉。正面には、カーテンを閉め切った窓が一つ。あとは、暖炉の横、部屋の隅に、埃をかぶった二つの人形だけを飾っている、木作りの小さな棚が一つだけ。掃除人形は棚をいじらないように設定されていて、アリス自身もそれら二体に触ることは無いから、棚に飾られた人形たちはいつまでも埃をかぶったままだ。



 ……掃除が終わったようだ。
 去っていく掃除人形に一瞥を向けることすらなく、アリスはソファの上で、また小さく丸くなる。その上から毛布を被って目をつむり、しばらくすると、毛布へと体温が移り、程よい温かみが感じられるようになる。状態保存の魔法をかけたシルクの毛布。アリスのお気に入りだ。
 やがて、眠気が首をもたげてくる。








「アリス。おーいアリス」
「ふぇ……?」
 むくりと身体を起こす、自分のその体勢は仰向けではなく、うつ伏せ。
 どうも、テーブル──いや卓袱台に突っ伏すようにして、眠っていたらしい。
 眼前には、食器と様々な料理と、そしてその中央に大きな鍋。


 そうだ。
 博麗神社で、霊夢、魔理沙、早苗と一緒に鍋をつついていたのだ。


「もうあらかた食べちゃったわよ」
 言葉の通り、既に宴もたけなわといったようで、鍋の中にはもう何もなく、他にちまちまとした料理が少しずつ残っている程度だ。寝ていた自分が悪いのだから、仕方ないけれど。
「お酒かなにか、少し残ってないの?」
「……っておいおいアリス、まだ飲むのか?」
「え?」
「今日の酒はほとんどお前一人で飲んだんじゃないか」
「そうだ、っけ……? あたっ」
 急に頭が痛くなって、気持ちも悪くなってきて、アリスは口元を押さえる。そうだ。思い出した。いつのまにか背が高くなって、顔も仕草も大人びた魔理沙に、お前はぜんぜん変わらないのなとからかわれて、それで腹が立って、妙に酔っ払いたくなってしまったのだ。
 酔いたいと思って飲むと、驚くほど酔えた。これはたぶん後で気持ち悪くなると思ったけれど、どうでもよかった。酔っ払いの介抱に尽力するがよいと、アリスは変な覚悟をしていた。
 が、実際に気持ち悪くなってみると、馬鹿なことをしたもんだと後悔しか浮かばない。

「う〜、あ〜う〜……ぅえうっ」
「ちょ、アリス大丈夫?」
「ああもう、世話のやける奴め……う、重い、自分で立てよおい……霊夢ちょっと手伝ってくれ」
「まったく、仕方ないわね……」
「うぅ……」

 涙で曇る視界の中、ひとり座ったままの早苗が、苦笑しているらしいのが見えた。

「なんだか、昔とは逆ですね」

 一瞬、魔理沙と霊夢の動きが止まったような気がした。気がしたというだけだったのかもしれない。アリスの意識はぼんやりしていた。
 トイレに連れ込まれると、魔理沙が背中をさすってきた。ゆっくりと、優しくさすってきた。
 ちくしょう、ちくしょうと、アリスは思っていたような気がする。目の湿り具合も、戻しそうになっているだけにしては少し過ぎているような気がするけれど、『気がする』だけかもしれない。何もかも曖昧だけど、それも仕方のないことだ。アリスは珍しいほどに酔っ払って、すべてを酒に流してしまおうとしていたし、それに、これは、もう遠い昔のことなのだから。








 ぱち、と薪のはじける音で目が覚めた。
 夢を見ていた。神社で鍋をやっていた頃の記憶に近かったような気がするけれど、どうしてだろうか、もやがかかったように、詳しくは思い出せない。
 神社。懐かしい。この時期、同じように鍋をやっているだろうか。いや、きっと同じようにはやっているまい。神社は巫女が替われば、その有様も変わる。霊夢が役目を退いてからは、あの神社には人間の参拝客が増え、代わりに妖怪が来ることは少なくなったはずだ。少なくとも、自分のような魔女があの場所に行くことはもうあるまい。そうする理由は、何一つとしてなくなってしまった。

 ぱちり、ぱちり。
 棚に飾った人形を眺めていたアリスは、その視線を暖炉へと移す。
 赤く燃える薪をぼんやり見つめていると、その視覚の中に、わずかに嗅覚の主張が紛れ込んだ。食べ物の匂い。もうそんな時間か、とアリスは振り返る。
 茸を入れたスープだけを、乗せたお盆。それを手に持つ人形が、部屋の入り口に立っている。アリスは既に生活のすべてを人形に任せている。これもその一環、一日二回決まった時間に、同じように茸のスープをつくり、運んでくる人形だ。

 本来アリスには、食事なんていらない。この生活を始めた当初、習慣の一部として食事を取るように定めただけだ。人間的な身体の代謝も止めて久しいし、この食事も、やめようと思えば今すぐにでもやめられる習慣だろう。やめようとすら思わないから、続いているだけだ。
 食事だけではない。人間のような、身体の代謝というものを、アリスは極限まで抑えている。
 昔は、暑ければ汗もかくし、長いこと入浴していなければ臭うようにもなった。なぜならアリスは、まるで人間のように、自分の身体を設定していたのだ。今は違う。身体を化学ではなく、魔法によってのみ動くようにしてからというもの、アリスの身体にあらゆる老廃物は発生しなくなった。
 食事のように外から取り入れたものも、すべて魔法で処理される。暑さや寒さも、眠気を誘うのに便利だからと、多少感じるようにしているだけだ。あとは服にも状態を保つ魔法をかけてやれば、もうそれでアリスは何一つ変わることは無い。

 アリスはソファとベッドの上でのみ生きていた。
 アリスにはそれが可能だったし、もうそれ以外は必要なかった。

 お盆をアリスの膝元において、人形は立ち去る。見られていても鬱陶しいからと、そうするようにアリス自身が人形にプログラムしたのだ。この生活を始めてからというもの、人形とすら一緒に食事を取っていない。
 最後に誰かと一緒に何かを食べたのは、いつのことだっただろうか。








 とんとんとん、と家の扉がノックされた。
「誰?」念のため声をかけるけれど、おおよそ見当はついている。
「おーいアリス、私だ、私」
 わざわざこの雪降る中やって来るなんて、一人をおいて他に想像がつかない。アリスは苦笑しながら、玄関へと出向く。

「寒かったでしょ、こんな日に」
「ああ寒かった、酷く寒かった。暖炉の前は私が貰うぞ」
「まったく……」

 もう若くもないのに、無理をして。
 何をしに来たかと思えば、巫女に蜜柑をたくさん貰ったので、お裾分けに来たらしい。巫女。今の幻想郷では、それは博麗霊夢を指さない。もっと若く、真面目な、少し真面目すぎるきらいのある少女が、今の巫女だ。
 真面目といえば、意外なことだけれど、この霧雨魔理沙もそうなのかもしれない。あまり外に出なくなったアリスのもとに、こうやって律儀にお裾分けになどやってくる。自身も弟子を持っているのだから、彼女と一緒に食べればいいだろうに。
 そうやって言ってやると、魔理沙は、「まあいいじゃないか細かいことは」などと誤魔化そうとする。それでアリスは、機嫌が良くなりもするし、悪くなりもする。
 彼女がこうしてアリスに構ってくるのは、きっとアリスに対して何らかの不安があるからで、アリスもその中身になんとなく気づいていた。魔理沙に、この霧雨魔理沙という相手に、そんなことを気にされ、世話を焼かれる自分自身に対して、苛立ちもあった。それでいて、おそらく甘えてもいた。

 一緒に食べる蜜柑は美味しかった。
 神社のこたつの中で食べるともっと美味いぜと魔理沙は言うけれど、アリスはそれには首を横に振った。神社に行ったら、霊夢の次代となんとなくぎくしゃくしてしまうから。だけどたまには霊夢にも会いたいなと、心の中で確かに呟いていた。呟くだけで、なんらかの方法で自分から実行に移すことは、ついに無かった。








 いつのまにか、魔理沙はいなくなっていた。
 霧のように。まぼろしのように。いなくなったのは自分なのかもしれないと、できるならわずかな希望も抱いてみたかった。いなくなったのが自分であれば、あの場所にまた行ってみれば、今もまた、魔理沙が待っているかもしれないのだから。
 けれど、そうでないことは知っている。あの場所からいなくなったのはアリスではなく魔理沙だ。だからもう、あの場所には誰も来るはずはない。アリスが今も同じ場所でひとり待っていたところで、誰も来るはずは無いのだ。

 夢の中身をもっと思い出してみようとして、だけど不思議と、魔理沙と蜜柑を食べているその情景しか頭に浮かばない。以前はもっと、詳細に思い出せたはずなのに。この数年というもの、夢を見て、夢から覚めたあとはその夢を想って、生きてきたというのに。

「みかん」

 棚に飾った人形の片方をぼんやりと見つめてみたけれど、何も思い出せそうにない。
 不思議に思いながらも、ならばせめてと、食器を下げに来ていた食事担当の人形に、命じてみる。蜜柑を持ってきてと。
 人形は無機質に、振り子のように規則正しく、首を横に振って答えた。調達不可能。それはそうだ。暖炉にくべてある薪や、茸のようなそのあたりに生えているものなどとは違う。ちゃんと育てるか、あるいは人里へ行って手に入れなければならない。いずれの機構も、アリス自身、人形に備えてやった覚えはない。

 どうして蜜柑の栽培まで自動化しなかったのだろうと、ぼんやり思う。
 と。なにか既視感がアリスの脳裏をよぎった。

『どうして昔の私は、蜜柑を栽培する人形を作らなかったのか』

 同じだ。
 記憶の隅に、毛布に包まった自分の、この小さな部屋の、隣に佇む人形の、その光景がおぼろげにある。そこで自分が口にした言葉。

『みかんが食べたいわ』

 そうだ。
 去年か、あるいはそれ以上に昔か。判然としないけれど、同じことを思った気がする。
 かつてそう思ったはずなのに、アリスは、蜜柑を調達可能なプログラムを組み込んだ人形など、作成していない。そのまま何をすることもなく過ごして、そしてまた、同じことを思っているのだ。

 なにひとつ進むことなく。
 なにひとつ変わることなく。


「あ、」


 ああ。


 だめだ、と思った。
 あまりに突然にそれは降りてきて、あまりに簡単にアリスを潰した。


「は、」零れたそれは、一見すると笑いのようだった。「ははは」愚かしくて、馬鹿らしくて、救いようのない魔法使いを、アリスはもう、ただただ嗤うばかりだ。「はははははは」他になにかできることといえば、両の眼からぼろぼろぼろぼろ涙を零すそれだけだったけれど、嗤うことと泣くこととはアリスの中ではつながっていなくて、止めることもできなくて、顔を歪めて嗤うほどに、手で拭うこともせず涙を流し続けるほどに、自分がばらばらに引き裂かれていくみたいだった。


 もういいよ。

 もう、こんなことを続けたって。


 かつてアリスには、人間たちと一緒に過ごしていた時間があった。中でも、紅白の巫女と、白黒の魔法使い。二人はアリスがこの場所にやって来たきっかけであり、ライバルであり、そしてアリスに言わせれば不本意なことに、だけどきっと幸せなことに、親友ですらあった。
 アリス・マーガトロイド。まだ若く、魔族として染まりきっていなかった魔法使いは、まるで自分が人間であるとでも勘違いしてしまったかのように、人間の友人たちとつるんで、馬鹿をやって、そうして過ぎ去りゆく時間を慮ることすらなく、ただただ、何も考えずに楽しんでいた。
 愚かなことだった。知っていたはずだ。理解していたはずだ。アリスはひとり取り残される。


 そのうち二人は変わった。だんだんと変わっていった。姿かたちだけじゃあない。物腰に落ち着きが出てきて、少しずつ女性らしさも増してきて、子供っぽさは失われていって、いつのまにか、お姉さん役のような位置にあったはずの自分が、まるで、まるで、面倒を見られる側になっているみたいで。
 そのうち巫女は次代となる少女をどこからか連れてきて、魔法使いも弟子を取って、前線で戦うことを辞めて。アリスと、空の上で弾幕の華を咲かすことも、なくなっていった。



「どうすればよかったのかなあ」
 涙はもう乾いていた。止まったんじゃあなくて、流れ出すものがすべて流れ出して、何もなくなってしまったみたいだった。
 喉が痛い。目元と頬がひりひりする。服の首から腹のあたりにかけてが涙でぐっしょり濡れていて、それは普段なら我慢できないだろうくらいに不快だったけれど、しかしアリスは構わなかった。そのままソファの上で膝を抱え込んだ。抱え込んだ膝に顔を押し付けて、目をつむった。

 何も見えなくなった。
 何も聞こえなくなった。

 ひどく、ひどく静かになった。



 アリスには、次代の巫女や、魔法使いの弟子のことは、目に入らなかった。
 結局、アリスの時間は今の若い人間たちとも違っていた。あの巫女と、あの魔法使い。彼女たちとしか一緒にないものだった。ひとりだけ取り残された今、もう誰かと同じ時間を歩むことなどできはしない。失われた今、もうなにひとつ取り返すことはできない。
 アリスは子供のままだった。誰もが大人になっていく中、一人だけ変われなくて、変わりたくなくて、そして今も、変わることを拒み続けている。アリス以外の、全てはもう変わってしまったのに。

「……最初から何もなければ、」

 よかったのかもしれない。
 暗闇の中で、決定的な堕落が、魅力に満ちた決別が、脳裏をよぎった。

「そうよ」

 だって、別れは確定されていた。いずれ彼女たちと別れることは、アリスだって最初から予感していた。
 あの日々の最中、もしかしたら、彼女たちが人間以外のものになって、もっと一緒に生きられるようになるかもしれないなんてことを、まったく思わなかったわけではない。
 それでもアリスは、本当のところは、最初からそう予想していて、一緒に生きていく中でも、彼女たちは彼女たちのままでいなくなっていくだろうことを感じていた。
 そう、最初から、すべては何もおかしなことなく進んでいたのだから。

 それなら。
 最初からすべてが無ければよかったと、思うしかないじゃないか。

「二人が来たあの日」

 魔界で。侵入者の迎撃に出ることなんて無くて。あの二人に、こっぴどくやられることも無くて。

「あんな奴らと関わりなんて持たなかったら」

 そうすれば、ずっと魔界にいたままで。ここよりも静かな、時間の流れを感じさせない場所にいたままで。

「私はこんなふうにならなかったのに」

 誰かに置いていかれることも、なかったのに。

「あいつらとなんか、出会わなければよかった」



 言葉にしてみると、楽になった。
 それはアリスを縛り付けるものだったけれど、解放するものでもあった。すべて否定して、すべて無かったことにしてしまえば、こんなに楽な結論は他にない。

 静寂の中で、自分の鼓動だけを、アリスは感じていた。
 とくん、とくんと脈を打つ。それがだんだんと平坦に、いやに規則的になってゆくのを、アリスはどこか他人事のように感じていた。深い眠気に襲われて、意識の糸がだんだんと細くなってゆく。

 終わろうとしているのだと、アリスにもわかった。アリス・マーガトロイドの終わり。完全なる停止。心と身体がなにかで隔てられたような感覚。アリスの身体がアリスのものではなくなって、肉の塊だけがそこに残って、そしてアリスの精神は、ゆるやかに閉じ、死にゆこうとしている。
 それでいいやと、アリスは緩慢に思考した。最後にアリスは一つだけ、もはや自分の支配下にない身体に、そこにはもう何も残っていないはずなのに、頬にひとすじ涙の感触を覚えているのを、不思議に思った。












 そうしてアリスは、何もなくなった。
 何も、なくなったはずなのに。












「寝ちゃったか?」

 別に寝ているわけではなかったけれど、なんとなくアリスは、目をつむっていて。
 寝てないわよと目を開いてみてもよかったけれど、なんとなくアリスは、目をつむり続けることを選んでいた。

「まあ、あんたみたいに五月蝿いやつに四六時中そばにいられたら、アリスだって疲れるでしょうね」
「そうだな。霊夢みたいに遠慮の無い奴と一緒にいたら、アリスだって疲れそうだ」
「ちょっとちょっと、それ魔理沙だけには言われたくないわよ」

 ソファに身を預けていると、そのまま溶けていってしまうような錯覚があった。
 疲れているといえば疲れていたのかもしれない。二人がいきなり泊まりに来ると言い出して、それも十年以上ぶりのことだったから、せっかくだからと手の込んだ料理を用意したり、久しぶりに家中を片付け掃除して出迎える準備を整えたり、泊まっている間は間で二人の世話を焼いたりと、この数日でアリスは、普段の数か月分くらい動いていた。それが嬉しくて楽しくて、あるいは哀しくて、アリスは珍しいくらいに疲れていたのだ。
 最近はもう、二人とこうやって時を過ごすことはなくなった。仕方のないことではある。二人はもう高齢の域で、性格や態度こそ昔とそんなに変わらないけれど、身体の方はぼろぼろだ。若い頃のやんちゃっぷりが祟って、ということらしい。顔だって手だってしわくちゃで、痩せ細って、動くのも遅くなって、反応だって鈍って、もうすっかりおばあちゃんだ。


 薄く目を開けると、ぼやけた視界に、白黒の魔法使いと紅白の巫女が、二人用の、アリスとは別のソファに腰掛けて、じゃれあう姿が映る。けれどアリスはそれが、自身の記憶が作り出したまぼろしであることを知っている。昔はほとんどそれしか見なかったあの白黒服を、霧雨魔理沙はもう着ていない。魔法だって体に負担がかかるから、簡単なものをたまに使う程度になってしまった。博麗霊夢にいたっては、もう紅白どころか巫女ですらない。
 この数日の二人の服装といえば、茶色や灰色といった地味な色で固まった、何の変哲もないズボンに、カットソーやブラウス、カーディガン……ごくごく普通のおばあちゃんといったふうで、そんな彼女たちを見るのは初めてというわけではなかったけれど、アリスとしてはやっぱり違和感に付きまとわれている。

 紅白の巫女だったおばあちゃんが立ち上がって近づいてきたから、アリスはゆっくりと目を閉じた。隣に立った彼女から、笑みの気配。どうしたのだろうと思っていると、「寝てるんだからいいわよね」楽しそうな霊夢に、頬をつつかれた。「んむ……」つい声を出してしまって、それでも目はつむったままでいたからだろう、彼女はそれでやめようとしないで、そのまま何度もつつき続ける。

「アリスはやわらかいなあ。それにかわいいし」
「羨ましいか?」
「うーん、どうだろうね。羨ましくないわけじゃないけど、なんだろうね。私より若い子が私より若いのって、当たり前でしょ? それと同じような感じ。……魔理沙こそどうなのよ?」
「どうって?」
「だって、魔理沙だったら」
「ああ、やっぱりストップ。そりゃ言いっこ無しだぜ」

 それで二人の会話は止まって、なのに霊夢の、頬をぷにぷにつついてくる指の動きだけはそのままなものだから、寝ぼけた振りをして食べてやろうかと口を僅かに開けると、それを見越していたみたいに、ちょうど霊夢の指はアリスから離れた。

「アリスは大丈夫かな」
「ん?」
「なんだか子供みたい」
「そりゃ、私たちが年食ったからじゃないのか」
「そうかもしれないけど、そうじゃなくて……」

 アリスはまた薄目を開けた。魔理沙が霊夢に、何か静止するみたいに掌を向けていた。わかってる、と言っているようにアリスには思えた。霊夢は溜息をついて、また魔理沙の隣に腰を下ろした。


「私たちがいなくなった後、アリスは大丈夫かな」
「まあ、大丈夫だろ」
「……魔理沙はわかってないわ。一人でいるのって、きっと、けっこう寂しいのよ。私には、魔理沙が一緒に来てくれたけど。もしそうでなかったら、」
「まあ、」


 魔理沙が立ち上がった。立ち上がって、部屋の隅の、小さな棚のところまで歩いた。その棚はたった二体の人形のためのものだった。霊夢と魔理沙が、ついさっきアリスに返した、二体の人形のためのものだった。人形は、贈ってから時間が経っていたからある程度仕方ない部分もあるにせよ、良い状態といって差し支えなかった。アリスにとっては少し意外なことだったけれど、人形は霊夢にも魔理沙にも、とても大切に扱われていたようだった。
 けれど人形を返されたとき、アリスがひどく驚いたのは、人形を良い状態で返されたということだけではない。返してきたときに、魔理沙が耳元で囁いた言葉だ。


「大丈夫だろう。こいつは、きっと」


 私たちがいなくなったら、こいつらを自立化させて、そばにおいてくれたら嬉しい。
 そこには、お前の知らないものが、きっとあるから。
 きっと、悪いことばかりじゃないから。


 人形に心を与え、自立化させるその魔法の理論を既に完成させていることを、魔理沙がどうして知っていたのかはわからない。もしかしたら魔理沙は、アリスが人形を自立化させる魔法を使わずにいる理由にも、気づいているのだろうか。訊いてみるのが怖かったから、そのままにしている。
 自立した人形を作らない理由。それは恥ずかしいことでもあるし、アリスの中で育ちつつある哀しみも不安も絶望も寂しさも、すべてさらけ出してしまうに違いないことで、万が一にも、よりにもよって魔理沙に知られているのかもしれないと思うと、怖くて訊けたものじゃあない。
 だって、やったことは無いけれど、心を与えられたばかりの、自立したばかりの人形は、おそらく赤ん坊みたいなものなのだ。アリスはそう予測していた。
 それはきっとアリスの子供みたいなもので、だから自立人形をつくったら、アリスがそれらを導いてやらなくてはならない。導けるような存在に、ならなくてはいけない。

 そうしたら、アリスはもう子供ではいられない。
 前をゆく誰かだけじゃない。
 隣を歩く誰かだけじゃない。
 後ろをついてくる誰かができてしまったら、もう、今のままじゃあいられないじゃないか。変わらなくちゃあ、ならなくなるじゃないか。
 変わることを、変わったことを、変わりゆくことを、認めて、受け止めなくちゃならなくなるじゃないか。


 怖かった。すべてはただの現実で、どうすることもできなくて、いずれはちゃんと見据えて、目を逸らさないで進むしかないとわかっていたけれど、少しでも先延ばしにできるなら、アリスは可能な限り今のままでいたいと思う。
 きっといずれ立ち行かなくなるけれど。前を向いて、歩き出さなくてはならないときが来るけれど。せめて今だけは。もう少しだけは。

 それは言い訳だとわかっている。実際にそのときが来たとして、外へとまた一歩を踏み出すことができるだろうか。アリスには自信も実感もない。寝ている振りをしてるのでなければ、両手で耳をふさいでしまいたかった。


「というか、私たちがいなくなった後は、まあ、いなくなった後だからな、そりゃあ私たちにはもうできることなんてない。アリスを信じるしかないってわけだな」
「……なんだか無責任な気もするけど」
「無責任かもしれないけど、仕方ないさ。まあ、」

 魔理沙はどうやら、小さく息をついたみたいだ。
 その声に、感傷が強く混じったように思えた。アリスは薄目を開ける程度だったからよくわからなかったけれど、魔理沙がこちらを向いたような気もした。

「大丈夫だよ。たしかに今のアリスはまるで子供みたいなやつだけれど、それは私だって、霊夢だってそうだったろう。ちょっとした違いで、私たちの方が早く変わっただけさ。それが少しばかりショックで、今は膝を抱えているみたいだけど、アリスもすぐに、アリスなりの方法で、私たちと同じ道を歩いてくるさ」


 アリスはいつのまにか、目を閉じていた。真っ暗な視界に、迷いのない、それでいて優しげな魔理沙の声と、微かな笑いとが響いてくる。
 こうやって魔理沙は、そんなたいした根拠もないくせに当然のように大きなことを言って、霊夢もそんな魔理沙が嫌いじゃないのか、まったく、でもそれでいいわとか、そうかもねとか言うみたいに、くすくすと笑ったりする。
 アリスはそんな二人に、やれやれと肩をすくめたり、苦笑したりする。アリスは、実際のところ魔理沙が魔理沙なりに確信を持って大きなことを言っているのも、霊夢がそれに気づいているというのも知っていた。そんな二人が、いやそんな二人と一緒にいることが、アリスは嫌いじゃなかった。


 隣に、誰かの気配がある。霊夢と魔理沙、どっちだろうと思っていたら、不意に抱き締められた。んにゅ、と声を漏らして、だけど目は開けないようにする。服の感触や足音、匂いなどから、たぶん霊夢かなとわかった。

「なんだ、さっきから随分としおらしいじゃないか、霊夢」
「五月蝿いわね。そういう気分のときもあるわよ」

 霊夢の声。霊夢の匂い。霊夢の感触。霊夢の熱をじっと感じながら、その暖かさを抱きしめ返すのをなんとかこらえていると、霊夢はどうやら、くすと笑ったみたいだった。耳元に、霊夢の唇が寄った。

「ごめんね、アリス。本当にごめん。でも」

 言葉はそこで、いったん止まった。迷っているのかなと思った。霊夢でも迷うことがあるんだなと、今さらに、ほんとうに今さらに、とぼけたことを思った。霊夢がなにを謝っているのか、たぶんアリスはなんとなくわかっていた。大丈夫だとひとこと言えれば、それで二人を安心させられたかもしれない。だけど言えない。言えやしない。そんな自信はやっぱりアリスには無かったし、いま笑顔を作ろうとしてみても、きっと変に歪んだものになってしまうに違いなかった。

「がんばって」

 だけど、こうやってうじうじして縮こまっているアリスは、どうしてだろう。そんな何の工夫もない一言で、少し身体が軽くなって、胸の中に熱が宿ったように思えた。
 立ち上がって、ほんの一歩くらいなら踏み出せるような気がして、それは冷え切ったアリスにとっては、一歩だけ歩いたところでまた立ち止まってしゃがみこんでしまうかもしれない、そんな程度の暖かさでしかなかったけれど、それでもアリスの口元は、わずかに緩んでいたのだ。

「まったく、意外と心配性だな、霊夢は」

 すぐそばに、もう一つ気配。
 魔理沙がいつのまにかそこにいて。アリスの頭に手が乗って、乱暴にわしゃわしゃかき回される。

「大丈夫だよ、うん。なにより、私たちの友達だからな」魔理沙が当然のように言った。
「なによ、それ」霊夢がくすくすと笑った。

 ほんと。なによ、それ。
 アリスは肩をすくめたのだろうか。霊夢に抱き締められたままだったから、そうはできなかったかもしれない。ただ、やれやれ本当にこいつらはと、苦味を含ませつつも笑ったのは確かだった。












 三人で一緒にいた、最後の記憶だった。
 どうして忘れていたのだろう。いや、その理由はわかっている。これが最後だったからだ。二人がこの後、すぐに死んでしまったからだ。悲しみや、喪失感や、いろいろなものに流されて埋もれてしまっていたからだ。

 それでもアリスは、どうして忘れていたのかしらと、アリスという子供を優しく叱った。
 二人はこんなにも、アリスを見て、熱をくれて、背中を押してくれていたのに。












 懐かしい声が、聞こえた気がした。

 その声は、うそつき、と言っていた。アリスをからかうようで、それでいて、いとおしむような声だった。不意に目元が潤んで、視界が一気にぼやけたから、アリスは部屋にただ一つの棚の方を見ていたけれど、そこにある人形の姿は、紅白と白黒というふうにしかわからなかった。
 アリスは目をこすった。少し痛くなるくらいにまで、人形の姿がちゃんと見えるようになるまで、力いっぱいにこすった。

「誰が、うそつきよ」

 埃をかぶった、霊夢と魔理沙の人形が。
 いつか約束して、二人に作って、なんやかんや文句を言いながらも二人は受け取って、そして、さよならと一緒に返してきた、二つの人形が。
 アリスに、微笑みかけていて。

 ──うそつき。

 声が聞こえた。
 だけど今度のそれは、霊夢でも、魔理沙でもない。
 それは聞き慣れた、今と変わらない、だけどやっぱり、懐かしい声だった。



 いつのまにか、アリスはソファから立ち上がっていた。毛布は床に落ちていて、二人の人形と向かい合って、ぐっと唇を噛み締めていた。
 久しぶりに。
 本当に久しぶりに、ソファやベッドから離れた気がする。
 ふらつきそうになるのをなんとかこらえる。一息に成長して背を伸ばしてしまったかのように、高くなった目線。昔と変わっていないはずの、かつて慣れていたはずの視界には、ここ数年暮らしてきた部屋が、信じられないくらいに狭く映った。

「……え?」

 そして、違和感を覚えた。
 暖炉に火がともっていない。
 部屋の温度は暖かく保たれているから、人形たちの不備ではない。むしろ異常は、暖炉に火がついていないことではなく、火も無しに部屋が暖かくあることだ。そろそろ春が近いとはいえ、この時期はまだ、暖炉無しでは冷えているはずなのに。

 アリスは、ゆっくりと一歩を踏み出した。その先には、カーテンで閉ざされた窓がある。外を見てみたいと、強く強く思った。何かあったのかもしれない。あるいはどこかの誰かが、また異変でも起こしたのかも。
 陽の光にやられないよう、まぶたの上に手をあてた。もう片方の手は、カーテンにかける。開く寸前、アリスは一度だけ深呼吸をした。
 この数年間、外を見ようなんて一度も思わなかったのに。
 今は吸い寄せられるように、カーテンに手をかけている。この小さな世界に、ひびを入れようとしている。止めるものは何一つ無かった。それが当たり前のように、なんでもないことのように、アリスの小さな、ひとりきりの世界は、終末を迎えた。


 何かあったのかもしれない。あるいはどこかの誰かが、また異変でも起こしたのかも。
 アリスのその予想は、正しくもあり、間違いでもあった。たしかに異変は起こっていたけれど、それは誰によるものでもなかった。
 窓の外では。
 終わりが近づいていた白の景色を、そこかしこに咲く色とりどりの花が、溶かしていた。

「花の異変」

 ここ最近、自分の身に起こっていた現象。
 それらの意味を理解し、アリスは目を見開いた。

 花の異変。幻想郷における、最大規模の、自然の流れ。
 六十年に一度起こるこの異変には、郷に住む妖怪の記憶を体系化、知識化し、記録へと落とし込む作用がある。よほどの大妖怪でなくては、これに抗うことは難しい。
 前回のこの異変の時には、アリスは生まれてからまだ数十年と経っていなかったためだろうか、自身の思い出に何らかの圧がかかる感覚はなかった。おそらくこれが、アリスがこの異変の波をまともに受ける最初の経験になる。

 タイムリミット。
 そんな言葉が連想される。
 この春の時間を過ごすたび。眠りにつくたび。おそらくアリスの思い出からは色が失われ、過去のものへとなっていく。思い出に寄り添って生きていくことは、もうこの先、きっとできはしない。泣いても笑っても、おそらくこれが最後。思い出に触れていられる、最後の機会。



 ──けれどアリスは、それを残酷とは思わなかった。
 絶望のひとかけらも感じなかった。

 ちょうどいいじゃないかと。
 アリスは、七色の人形遣いアリス・マーガトロイドは、不敵に笑んだ。

「起きなさい!」

 ここ数年、倉庫に眠っていた人形たちへと、一気に感覚を通す。世界が広がる。雑多に、賑やかに、人形たちは飛び回る。埃が詰まって動きが鈍いものたちもいたけれど、手入れは後だ。今はやることがある。やりたいことがある。
 迷わず足を踏み出す。その途端にふらついたけれど、かまわない。アリスは倒れこむようにして、ドアを開ける。懐かしい自分の家。埃っぽい廊下に無様に顔から突っ込んだ。あはは、とアリスは笑った。うまく立ち上がれないのがもどかしかったから、ほとんど四つんばいのままで進んだ。
 アリスの人形作りの場。そこでは、既に人形たちが大わらわで掃除を始めていた。もちろん人形たちにこの部屋の掃除プログラムを施していたのもアリスだから、作業場に行くまでもなく、そんなことはわかっている。ただ、この場を見たかった。アリスの原点のこの場所を、何年ものあいだ遠ざかっていたこの場所を、一刻も早く目に収めたかった。人形たちがあわただしく動く中、アリスは深呼吸をした。やっぱり埃っぽくて、軽く咳き込んだ。涙と笑いが一緒に出た。

「ああ、ああ、お腹がすいたわ!」

 人形たちがしているのは掃除だけではない。これまで使っていた料理用人形も含めて、七体ほどは料理に回している。なにせ、お腹がすいて仕方が無いのだ。料理だけではない。ある三体には浴室の掃除と、シャワーがまともに動くかどうかをチェックさせている。今は軽くでいい。ゆっくりと風呂に浸かるのは、やるべきことをやってからだ。
 作業場、台所、風呂場の様子を人形との感覚共有でチェックしながら、かつての居間へと、あの小さな部屋へと戻る。今度はあまりふらついたり、さっきみたいに突っ込むようにしてドアを開けたりなんてしたくないから、慎重に一歩ずつ。勢いに任せてあの二体を壊してしまったら、さすがに笑えない。笑うとしたら、そんなことをわざわざ考えなくてはならないほどに弱ってしまった自分にだ。
 ゆっくり、ゆっくりと歩を進める。それでも数秒ほどで端から端までたどりつけてしまう、小さな小さな部屋。うじうじしながら、膝を抱えながら、それでも数年を過ごした部屋を、アリスは少しの感傷も覚えながら横切った。
 二人の人形。返してもらったときは良好な状態だったけれど、そのあと数年放置している。ほこりもかぶっているし、最低限のチェックはしておかなくちゃならない。
 アリスはそう思っていたけれど。

「……これって」

 必要なかった。埃は積もっているように見えたけれど、霊夢の人形からは薄皮一枚隔てたところに浮いているだけだった。魔理沙の人形は、埃や時間の経過などものともせずに、どこにも汚れ一つなく、以前の姿を保っていた。
 なぜなら、霊夢の人形には、その表面に沿って、薄く、温かみのある結界が展開されていて。魔理沙の人形には、外界の変化の影響を受けなくするための、状態を保存する魔法がかけられていたのだから。
 アリスは人形に触れた。結界と魔法は、アリスを受け入れるみたいにして、溶けて消えた。二人の感触が、言葉が、指先から染み入ってきた。


 アリス、お帰り。
 それじゃあ、いってらっしゃい。


 言葉は、それだけだった。
 すごく簡単で、もっと他に何かあってもいいんじゃないかとも思ったけれど、おそらくそれで十分だと思ったのだろう。
 二人は、アリスのことを、最後まで、そう思っていたのだろう。


 しばらく呆然としていたアリスは、ふと我に返って、そして獰猛な笑みを浮かべる。
 結界と魔法は、ちょっとした気まぐれでかけたようなものではなかったはずだ。そのくらいの気持ちで施したものにしては、数年という持続時間は長すぎる。術者が存命でないから、その更新すら不可能だというのに。それに本来ならこの二体は、二人がいなくなった後には自立人形化するという話だったのだから、これらの術をこんな長期間かける理由は、そもそも無いはずなのだ。
 つまり、これは。

「なるほど。全部わかってたってことね。あんたたちがいなくなった後、私がそんな簡単に吹っ切れるわけなくて、しばらくは、もしかしたら数年か数十年かうじうじしてて、この人形の管理すらおぼつかないほどにだめになっちゃうって」

 料理班の人形たちが数体、倉庫から引っ張り出してきたのだろう、卓袱台を力を合わせて持って、なだれ込んできた。ソファの前に置いたかと思うと、その上に、作った料理を片っ端から運んでくる。アリスは紅白と白黒の人形を両手に掴んで、そのままソファに勢いよく腰を下ろした。勢いがよすぎて卓袱台に衝撃が伝わり、スープが少し零れた。

「そんなんで、だけど、いつかは戻ってくるって。それで私は大丈夫だって」

 がしゃんがしゃんがしゃんがしゃんっと乱暴に皿が運び込まれて、やがてそれもひと段落した。
 アリスは両隣に人形を置いて、素早く両の手を合わせると、一分に一皿のペースで料理を胃袋に詰め込み始めた。茸のスープを皿ごと持ってずずずずっと行儀悪く一気に飲み干し、休むことなく、焦げ目のついた茸を、頬をめいっぱい膨らませてがむしゃらに噛んで飲み込んだ。何を食べているのか正直よくわからなかったけれど、些細なことだった。どうせここ数年引きこもって里に食材も買いに行ってないのだから、森の中で人形に適当に採らせていた茸の料理のみだ。それに、料理を優雅に味わうのには、別の機会がいくらでもある。

 ありったけ食べきったアリスは、ほう、と息をついた。食べすぎでかお腹が重くてちょっと気持ち悪いのは気にせず、目をつむった。霊夢と魔理沙のことを思った。そしてまた、目を開き、立ち上がった。
 人形を掴み、そして作業場へと向かう。さすがに完璧とまではいかなくとも、ある程度の清掃は既に為されていた。人形を作るのならいざ知らず、これから作るのは自立人形だ。それは人形師よりもむしろ魔法使いの領域のことであり、肝心要である愛用の机はちゃんと掃除されたようであったし、まあこの程度でよかろうと、アリスはひとまず納得して人形たちを退かせた。


 指先をナイフで傷つけ、机の上に羊皮紙を二枚置き、それぞれに血で魔法陣を描く。研究の末に導き出した、細かく複雑な図形と文字を、アリスは慎重にたどる。

 アリスが開発した人形自立化の魔法とはすなわち、心を分け与える魔法だった。人形師の魂、想い、記憶。アリスはアリス自身の心を媒体とし、それらを人形の心の種と成す。種、というこの曖昧さ。成功した場合、育つにつれて人形師にも予測できないかたちになってゆくであろうことが、アリスが編み出したこの魔術の成果と言ってよい。
 アリスは二人のことを、二人へのありったけの想いをこめることに決めているけれど、それは『種』にしかならないため、最終的に自立人形に与えられる心には、さほどの影響を及ぼさないだろう。それでいいとアリスは思っている。
 それよりも、失敗した場合。『吸わせすぎて』アリス自身がすべてを失ったり、自立人形がただアリスのコピーとなってしまったり、あるいは逆に、人格未満の発芽しない種となってしまう可能性もある。

 失敗は許されない。
 進めるにつれ、肩がずしりずしりと重くなり、指先が震えそうになる。呼吸が荒くなる。思えば、実際に人形に心を与えるのは、これが初めてなのだ。それも一体ずつではなく、わざわざ二体同時に。

 他の人形で実験してからにしようか。
 それは当然の考えであったし、普通ならばアリスも間違いなくそうしていただろう。けれどこれだけは。最初につくりあげる自立人形は、二人の人形であってほしかった。それは意地でしかなかったけれど、今のアリスにとっては譲れないものだった。

 机の上から、いったん手をどけた。
 小さく息をついて、目を閉じた。


 大丈夫だよ、うん。なにより、私たちの友達だからな。
 魔理沙が当然のように言った。

 なによ、それ。
 霊夢がくすくすと笑った。

 ほんと。なによ、それ。
 そんなふうに言って、二人ともすぐに死んだくせして。
 霊夢はある夜、静かに穏やかに死んでいったようだ。あまりに静かで、苦しむこともなかったみたいで、誰も気づかぬ間にころりと逝っていた。魔理沙は霊夢の後を追うみたいにして死んだ。霊夢が死んだら一気に老け込んで、もうなにがなんだかわからなくなったみたいだった。アリスは少しのあいだ、魔理沙の世話をした。そんな魔理沙を見るのは辛かったけれど、彼女は最後の最後で自分を取り戻したみたいだった。集まった連中は、魔理沙が最後に魔理沙に戻ったことに、もう死にそうになってるっていうのを忘れたみたいにして、不謹慎にも喜んでいた。仕方ないことだと思う。アリスもやっぱり、嬉しかった。魔理沙はそんなみんなを見て、苦笑していた。そして魔理沙は、最後に、魔理沙にしては珍しいことに、本当に申し訳なさそうにして、言った。「ごめんな。がんばれ、アリス」


「ちくしょう」

 アリスは呟いた。

「勝手なことばっかり言って」

 手の震えは止まっていた。魔方陣の続きへと指を伸ばす。
 もう何も気にならなかった。一切の淀みなく、迷いもなく、ただ自信と確信のみを持って、アリスの指先が踊る。アリスを、人形師アリス・マーガトロイドの心を、血で刻んでゆく。その最中、ずるいよ、と言葉が漏れた。

 ずるいよ。あんたたちは。一足先に大人になって、一足先にいなくなって。私はもっとあんたたちと一緒にいたかった。あのくだらない、ばかみたいな日々を、もっともっと過ごしたかった。だらだらと酒を飲んで、美味しいものだけじゃない、甘いものなんかもたくさん食べに行って。春は花見なんてしながらお団子でも食べて、夏は暑さにうだりながら冷たいかき氷なんて貪って、秋は落ち葉に埋もれながら焼き芋でもして、冬はこたつに入りながら鍋でも囲んで。
 そんな日々を、あんなどうでもいい、なんてことない時間の続きを、もっともっと過ごしたかった。

 ああ、そうだ。
 認めよう。私の負けだ。これ以上ない。はっきり認めてやろう。

 私はあんたたちが大好きだった。
 あの毎日は、この記憶は、私の宝だ。



 完成した魔方陣の上に、人形を浮かべる。血で描いた陣に、魔力を通す。二つの陣の端に両の掌をそれぞれ当てて、目をつむる。これで最後だ。
 自分の中から、何かが脈動し、動き、魔方陣という道筋を通り、人形へと至ろうとしている。アリスはそれを心と呼んだ。それが流れ出てゆくことには、喪失感のようなものもあった。この魔法は、正しく、失うことでもあった。自分の中に空白が生まれてゆく。アリスは自分の中のものを削り、陣を通すことで輪郭をそぎ落としながら、人形に与えようとしているのだ。




 ひとつ、うそをついた。

 わかってるんだ。出会わなければよかったなんて、思っちゃいない。
 だって、忘れたくない。花の異変というタイムリミットを前にして、それにまかせてすべてを終えてしまおうなんて、いまの私はかけらも思っちゃいない。それが仕方ないことなら、どうしようもないことなら、せめて何かを残して。ここで失われるというのなら、せめてなにかを、少しでも、持てるだけ必死に持っていきたいと思ってる。だから。
 私たちが過ごしてきた時間の、証。ほんの少しずつでも、それをかかえたまま。ひょっとしたらぽろぽろ落としていってるのかもしれないけれど、少しずつでも、できるかぎり、必死につかまえながら。

 失くしながら。

 変わりながら。

 大切に抱きながら。



 歩き続けていくしかない。

 そうなんでしょう?




 最後の工程が、終わった。
 机に描かれた血の文様が発光しながら浮かび上がり、一本の糸のようになって、人形の胸に突き刺さるように入り込んでゆく。
 術の成否を、そのときアリスが見ることはなかった。

「は、あああぁ……」

 大きく、大きく息をついた。
 途端、椅子からずり落ちそうなくらいの途方もない疲労感。まぶたが勝手に閉じて、頭は重力にいっさい抵抗できず、ごつんと鈍い音を立てて机に激突した。痛いと思う意識すら曖昧で、さらに急速に遠ざかってゆく。結果を見たかったけれど、やはり身体が弱っていたのか、とうに限界を越えていたみたいで、少しも抗えなかった。

 深い深い眠りに落ちるのだろうと、ぼんやり思った。
 浅くない眠りだから難しいかもしれないけど、できるなら夢を見たいと、アリスは思った。
 夢に逃げるためでなく、夢を抱いていくために、夢を見続けたいと思った。

 もし見れたならば、いつの夢がいいだろう。
 いつの夢でもいいかもしれない。
 ……そうだ、どうせなら、くだらない日のことがいい。

 なんにも特別なことなんてない。

 生産性皆無の。

 あいつらと、だらだら過ごした。

 そんな日の、夢が見たい。


















 アリスは眠りに落ちる前、誰かの気配を感じただろうか。
 両の手に触れる、小さな熱を感じただろうか。
 それはわからない。アリスがどんな夢を見ているのかもわからない。
 けれど、その口元はしあわせそうに緩んでいたから、二人も一緒に、笑うことができた。








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