「霊夢って、キスをするのが上手よねぇ」

 だいたい、あいつが楽しそうに笑んでそんなことを言ってきた時点で、酷く嫌な予感がしていたのだ。
 あいつのそういうところは嫌いでいるつもりだけど、どうにも端から見たら、少なくともあいつから見たら、嫌よ嫌よも好きのうちを体現してしまっているようだ。結局、あいつのそういうところを嫌ったとしても、あいつそのものを嫌いになることはなくて、最後にはいいようにされてしまう。

「まるで、どこかで練習でもしてきたみたい」
「……練習ならしてるようなもんでしょ。今まで何回したと思って」
「ああ、そうではなくて。初めて私としたときから、それなりに慣れているようだったわ」

 巫女の勘かもしれない。あるいはそんな大仰なものでもないかもしれない。ともかく私は、次にあいつが誰の名を挙げるのか、なんとなく察していた。きっと知っている──バレているのだと、確信していた。
 あいつを見上げる目が潤んだりなんてことはさすがになかったと思いたい。ただ、自分の心が弱さの膜にうっすら覆われるのがわかってしまった。いつもどおり、あいつは捕食者で私は被食者であるみたいだった。
 あいつが耳元に、口を寄せてきた。

「もしかして、私との本番に備えて、枕を相手に練習でもしてたのかしら? ねえ、霊夢?」

 ──あいつともなると、巫女の勘を裏切ることも容易いらしかった。
 張っていた気が抜けて、それと同じように足からも力が抜けそうになった。
 それでも、楽しそうに笑みを深めるあいつは、きっとわかっていたはずだ。そんな練習の成果なんかじゃないのだと。どこまで知っているかはわからないけれど、いくらかは、あえて言葉にはしなかったんだろう。
 私の足に残った最後の力を奪い取ったのは、たぶん、羞恥心だった。恥ずかしくてその場にへたれこみそうになって、あいつに寄せていた身を、もっと強く押し付けて、抱き締めるみたいにした。あいつは「ああ、霊夢。可愛いわ、霊夢」なんて、私を片腕で抱き締めて、もう片方の手で頭を撫でてきた。私はいじけていたんだろうか。よくわからない。ただ、あいつの胸の中で、「ばか、ばか」と呟くことしかできなかった。








  ◆  ◆  ◆








「んあ」

 目を開きながら、そんな声を聞いた気がしたのだけど、それが自分のものなのかそうでないのか、よくわからなかった。
 なにせ私が身体を起こす隣で、魔理沙も身体を起こして、あくびをしている。私たちは、ほとんど同時に起きたらしい。
 口元のむずがゆい感覚はどうやら涎みたいで、私が拭うと、これまた同時に魔理沙も口元を拭う。私は左利き、魔理沙は右利きだから、ちょうど鏡映しのように。

「真似しないでよ」
「そっちこそ真似すんなよ」

 唇をとがらせながら、魔理沙は頭に手をあてた。そして顔をしかめる。二日酔いなのかもしれない。
 魔理沙が潰れるところは見ていないから、どれだけ飲んだのかはわからない。ただ、度の強い日本酒を脇に控えさせて、アリスと二人きりで飲んでいるのを見た記憶はある。
 どうせ、強い酒を飲ませてアリスを酔わせてしまおうとでも思ったのだろう。酔わせて、自分がリードした状態でいろいろえっちぃことでもしようと思っていたのだろう。強気なのか弱気なのかよくわからないこいつにはよくあることだけど、それが成功したのか失敗したのかは、結局よくわからない。
 アリスは既にちゃんと帰っているようだし、寝ていた魔理沙はいちおう服を──いつものエプロンドレスを着ていて、毛布もかけられている。えっちぃことはしていたみたいだし、魔理沙の潰れっぷりからすると、アリスが魔理沙の服装等々ちゃんと整えて帰ったとしか思えない。果たして、リードを奪われるほどに飲まされた人形遣いに、そんな余裕が残っているだろうか。

「ていうかそもそもうちの神社でそういうことすんなよ」
「ん? 霊夢、なにか言ったか?」
「……なんでもないわ」

 まあそれに関しては、私だってあいつとのことをなんやかんや言われかねない。
 だから私は言葉を留めた。留めたのだけど、あいつ──八雲紫のことを考えたせいだろう、昨夜の記憶を掘り返してしまった。


 ──霊夢って、キスをするのが上手よねぇ。


 紫のばか。
 と、声を出すのはなんとかこらえたけれど、代わりに思いっきり顔をしかめてしまった。

 紫がどれだけ知っているのかはわからない。けれどそれとは関係なかった。昨日の紫とのことは、もう私の記憶を引っ張り出してしまっていた。
 私が紫といるようになってからは、魔理沙がアリスといるようになってからは、すっかり忘れていたのに。せっかく忘れていたのに。あのスキマ妖怪ときたら、面白半分にひとの心を覗いてくる。記憶の底に埋もれてしまって、触れられずにいたらきっとそのままだったろうに、わざわざ溶かしてくる。
 魔理沙のことを。
 この、幼馴染のことを。


「くそ、この私が酔い潰れるなんていつぶりだ」
「いつもぶりじゃないの」
「うるさいな」

 適当に調子を合わせながら、私は、いつのまにか魔理沙を見ていた。たぶん、苦虫を噛み潰したような顔で。
 なにかきまりが悪くて、視線を逸らした。魔理沙は私のことを見ないで頭をかきむしっていたから、気づかれなかったと思う。
 小さく溜息をつきかけて、その瞬間、妙に、変に、意識してしまっている自分に気づいた。

 私が頭をかきむしるのと入れ替わるようにして、魔理沙は手を止めた。そして、歩く元気は無いのか、台所の方へと這って動き始めた。
 それを視線で追って、魔理沙が台所に入ろうとするあたりで、私も手を止めた。
 本音を言えば、床にごろんと転がってうつぶせになって、座布団にでも顔を押し付けてしまいたかったけど。ほんの小さな溜息になんとかとどめて、そのまま溜息を、深呼吸に変えた。

 お茶を入れよう。
 思って、立ち上がった。
 飲みたい気持ちがそんなに強いわけでもなかったけれど、それ以外にやることが思いつかなかったし、そうすることで落ち着ける気がした。

 お酒はそんなに残っていないようだった。我ながら便利な身体だと思う。そのおかげで、無様に這って移動することも、ふらつくことさえもなく、あっという間に魔理沙を追い越してやった。
 追い越された魔理沙が「待てぇ……」と追いすがってきたので、なんとなく腹立ち紛れに蹴っ飛ばしてやる。切ないうめき声を上げて床に転がるのを確認すると、多少なり溜飲が下がったように思えた。

 戸棚を開け、茶葉を入れた缶を取り出そうとする。と、魔理沙はすぐに復活してきて、私の足をがっしと掴んだ。わざと小さく舌打ちして、見下ろしてやる。なんとなく、こいつを苛めてやりたい気分だったのだ。
 もっとも魔理沙はさすがに図太く、その程度でひるみはしない。

「待て、待ってぇ」
「なによ。また蹴っ飛ばすわよ」
「そうじゃなくて、歯ブラシ。歯ブラシとってくれよぉ」
「はぁ? あんたの歯ブラシなんてうちに」

 ──ある。
 思い出すまでもない。戸棚の引き出し、その奥。

 ほどよく温まっていた気分が、変な形に波打った。ほんとはこいつ、紫と組んで私をからかってるんじゃないか?
 しかし放っておいたら、自分で戸棚をひっくり返すみたいにして探しかねない。仕方が無いから何も言わず、引き出しの奥からちんまこい歯ブラシとコップを取り出してやる。
 昔。私たちがまだ小さかった頃。魔理沙がここによく泊まっていた頃のもの。もちろんあの頃は宴会で潰れてなんかじゃなくて、友達の家に遊びに行くその延長といった感じで、最初から泊まるつもりで来ていた。それがあまりに頻繁にあったものだから、こんなものまで備え付けるようになったのだ。
 予備として置いていた未使用のものを渡してやると、魔理沙はその小さな歯ブラシを、嬉しそうに笑って眺めた。

「おお、懐かしいな。もしかしたらぜんぶ捨てられたかもと思ったが」
「……いいから、歯ぁ磨くならさっさとしなさい」
「はいはい。いやぁ、息が酒臭くて困る」

 ゆっくりと立ち上がって、ふらつきながら庭の古井戸へと向かう魔理沙。
 それを横目にしながら、捨てたと嘘をつく選択肢があったことに今さらながら気づいたけれど、どっちにしろ、そんな嘘をつこうとはしなかっただろうと思う。そんな嘘をついたら、きっと何かに負けたような気になるし──それに、歯ブラシを見た魔理沙のあの反応から察するに、捨てたと言ったら、あいつはそれなりに寂しく思ったんだろう。
 ……うん。
 寂しく、思ったんだろう。
 残っていて、嬉しいと思ったんだろう。


「……なんだろうなぁ」

 ほんと、なんだろう。
 あの頃のことは。私にとって、どうにも扱いにくい。

 恥ずかしいけれど、きっとそれなりに大切で。
 忘れたいけれど、できれば忘れたくもなくて。

 まあいろいろと、もどかしい。今さら話題にするのにも、躊躇いがある。
 ……だって、魔理沙だし。


 ……だいたい。だいたい、紫の『思い出させ方』もまた、タチが悪いのだ。
 たとえば紫が。自分以外の奴と私がキスを繰り返していたと思い至って、それでちょっとでも動揺したり、少しでも嫉妬の感情を覗かせたりしようものなら、私はきっと笑って。そう、すべて笑い話にするみたいに、過去のことを洗いざらい暴露してしまっていただろう。そうしていたなら、ちょっと恥ずかしい過去の話というくらいに、私は自分の中で処理できていたはずなのだ。
 だけど紫は、偶然によってか作為によってか──まず後者なんだろうけど──そうさせてくれなかった。ただ、思い出させるだけ。私はひとり内に抱えて、悶々とするしかないわけだ。



 そんなことを考えているうち、自分でも信じられないけれど、お茶を入れるのがひどく面倒に思えてきた。手足を動かす気が、根こそぎ失せてしまったみたいだった。
 茶葉を戸棚に戻し、台所を出る。居間まで戻って、畳の上に仰向けに転がって、ぼんやり天井を見つめた。
 しばらくぼうっとしていて、気づくと、唇に利き手の指をあてていた。
 乾いた熱を感じながら。その感触を過去の記憶に重ねながら。紫のいやらしい、楽しそうな笑みを思い出しながら。呟いた。

「キスをするのが上手、ね。そりゃ上手でしょうよ」

 ──だって、小さい頃。
 魔理沙のやつと、何十回、もしかしたら何百回、していたのだから。



 私が魔理沙に抱いていた感情。それを正しく言葉にするのは難しい。
 単に彼女との事実を述べるなら、キスくらいなら何度もしていただとか、それは必ずしも口どうしのものではなかっただとか、互いの身体の色んなところに触れ合ったりくすぐりあっていたとか、まあそんな感じなのだけど。今にして思うと、かなり恥ずかしい。子供のスキンシップにしても過ぎている。

 それらの行為の基にあった感情が何だったのかはわからない。恋愛感情だとか、親愛の延長とか、子供の遊びの一種だったとか、それらしいものをいくつか挙げることはできる。けれど、不思議とそれらはすべて正しいようにも、すべて間違っているようにも思えるのだ。
 結局、かつての私のことは、かつての私にしかわからないのだと思う。かつての私はきっと、それらすべてを含んで、それらすべてと違う何かを魔理沙に向けていたんだろう。いや、もしかしたらかつての私にすらよくわかっていなかったのかもしれない。
 ともあれ私はもう、かつての私とは違ってしまったのだから。昔のことを語るには、今の私の心と言葉と記憶で、かつての私たちのことを無理矢理に表すしかないのだ。



 魔理沙と私がもっとも近かった頃、私が見ていた世界は、今よりもはるかに小さなものだった。周りにはほとんど誰もいなかったし、神社から出ることだってぜんぜん無かった。
 私の近くにいたのは、ほとんど親代わりだった先代を除けば、魔理沙と、あとはせいぜいあの悪霊といったくらいだ。そのほかはよくわからなかった。『人間』か『人間以外』くらいにしか思っていなかったし、そういう連中はだいたい先代が応対、あるいは対処していた。……逆に言うなら、先代でなく私を見てきた、私自身が相手した奴のことだけ、私は覚えたのだ。

 そんな私にとって、魔理沙は、たった一人の友人だった。
 たった一人の、年が近い存在だった。たった一人の、『子供』だった。……悪霊や先代とは違って、私に近いなにかだった。
 ひょこひょこ歩いて、ちんまこくて、やわらかくて、ふわふわして、甘ったるい匂いがした。なんだかんだで私もかわいいもの好きだったんだろう、魔理沙の近くにいたり、触れ合ったりしていると、それだけで気持ちよかった。心が浮き立った。魔理沙と居るのは、それだけで、私のほとんど唯一にして最大の楽しみだった。

 そしてもう一つ。なにより魔理沙は、明らかに、私のことを好いているみたいだった。私が魔理沙の綺麗な金色の髪を、舌ったらずな声を、やわっこい肌を、おひさまの香りを楽しんでいるのと同じように、魔理沙も魔理沙なりに、私を楽しんでいるに違いなかった。
 魔理沙は私と一緒に居たがって、なかなか離れようとしなかった。私も同じように離れようとしなかったのだから、必然、多くの時間を一緒に過ごすことになった。

 視覚と、聴覚と、触覚と、嗅覚と。
 すべてで互いを楽しんでいた私たち。それが味覚にも手を伸ばすのは、時間の問題だった。
 肌を舐めたりするのよりも、キスというのは、子供の知識に近しいものだった。だから味覚の最初は、キスから始まった。
 それは大人の行為で、神聖で、いけないことのようにも思えて、だからこそ私たちはのめりこんだ。長い長いキスをして、がむしゃらに身体をまさぐりあううち、身体が熱と湿り気を持ち始めて、理性から離れたわけのわからない声や言葉を発するようになって──そんな相手のことを、当時の私たちはそんなに言葉を知らなかったから、『かわいい』と、たった一つですべて表していた。

 ……今だったら、どうなのだろう。
 そんな魔理沙を見たら、また一緒にあの熱を共有したら。魔理沙は、私のことをどんなふうに思うんだろう。私たちは今度は何を思って、どんな言葉で私たちを綴るんだろう。
 わからない。多少興味はあるけれど、でも。

「霊夢」

 つと、目の前に魔理沙の顔が現れた。
 横から覗き込んでいる。私は天井だけじっと見つめていたものだから、急に出てきた魔理沙がまるで視界を埋め尽くしてしまったように思えた。
 けれど、いや、実際そんなことはない。
 私の意識が、魔理沙に集中してるだけだ。

「……霊夢?」

 魔理沙の目を見ているつもりだった。
 違う。
 唇に意識を吸い寄せられていた。れいむ、と魔理沙の薄い唇が動く。引き込まれてしまいそう。視界の中で魔理沙の唇が大きくなってくる。けれど、唇に近づくのは目ではない。唇に近づくのは唇。だから、目には目が近づいていく。私の視界を満たすのは、魔理沙の唇ではなく、とろけるような、揺れるような、魔理沙の瞳であるべきだった。少なくとも昔はそうだった。私たちのキスというのは、そういうものだった。
 心が溶ける。
 記憶の中の快楽に、流される。
 れい、む、と魔理沙の唇がまた動いた。それを合図にするみたいにして、視線をついと上にずらす。魔理沙の両目が映る。すぐ近くにある。どんどん近づいてくる。やっぱり、とろけるような、揺れるような、だけど固まってしまったような、魔理沙が。近づいてくる。どうして近づいてくるんだろう。今さらながらに思った。そういえば、掌に魔理沙の頬の感触がある。どうやら私が魔理沙を近づけているみたいだった。
 魔理沙が横から覗き込んでいたせいか、私たちの顔はちょうどいい具合に傾きあっていた。問題は何もなかった。近づいて、近づきすぎて、唇が触れ合うほんの少し前に、魔理沙はゆっくりと目を閉じた。私も、同じようにした。


 やわらかい、感触。
 キス自体は、昨夜も紫としたはずなのに。
 なぜだかひどく、ひどく久しぶりな気がした。

 じんわりと、熱が移っていく。
 私の唇から、魔理沙の唇へと。
 熱と一緒に、下や唾液も流し込んでしまおうかと思ったけど。
 ふと気づく。魔理沙の唇が、いやに冷たい。
 なぜだろう。いや、当たり前かもしれない。

 だって魔理沙は今まで歯を磨いていて、冷たい水で口をゆすいできたのだ。
 …………歯磨き。


 おもいっきり。全力だった。魔理沙の頬にあてていたはずの両手は、いつのまにか魔理沙の、その薄っぺらい胸を、力いっぱい吹っ飛ばしていた。吹っ飛ばされた魔理沙は、壁にぶつかって止まった。何がなんだかわからないというふうに、こっちを見た。無理もない。さっきのは、私のほうから誘ったようなものだった。魔理沙はその誘いに、積極的に応じはしなかったけれど、反抗もしなかった。キスされるだろうとはわかっていたはずだ。その認識は正しい。だけど、こうやって吹っ飛ばされるなんて思ってなかっただろう。

「お、おま、おまえ……」
「いやーごめん、歯ぁ磨くの忘れてたから」

 しかしまあ、冷静になってみると、心臓がどっくんどっくんうるさいくらいに脈打ってきた。本当は冷静になんてなってないんだろうか。なんだか恥ずかしかったりもどかしかったりで、ちょっとどうにもならなそうだ。

「だいたいなんでこんないきなり。発情したか?」
「うっさいな」

 だから。
 攻撃は最大の防御という。このもやもやは、ぜんぶ魔理沙に渡してしまうことにした。よく見たら、魔理沙だって顔を赤くしている。昔、こうやってキスしていたとき、魔理沙はどんなふうだっただろうか。やっぱり顔は真っ赤だったかもしれない。だけど、あんな恥じらいや、もどかしさや、色んなものが混ざった複雑な表情を見せることは、確かなかったはずだ。
 このもやもやは、私だけの中にあるものじゃあないのだ。

「魔理沙だって拒まなかったじゃない。なんで?」
「そりゃおまえ……」

 魔理沙は黙った。そりゃおまえ……何だろう。
 しかし考えてみたら、魔理沙は拒む理由があるはずなのだ。だって魔理沙の相手は、アリスなのだし。あの線の細そうな魔法使いのこと、浮気だとか言って騒ぐかもしれない。私はまあ、そのあたりは大丈夫だと思うけど。なにせあの紫なのだし。
 魔理沙は、何を言うだろう。今の魔理沙は、今の私たちのことをどんなふうに思うだろう。たとえば昔みたいにキスをする、そんな私たちのことを。アリスのことを慮ってやっぱり拒絶するんなら、それはそれで仕方ないかもしれない。今になってもこうやって触れ合う私たちのことを、そういうふうに思ったというだけだ。うん、それはそれで仕方ない。寂しくないといえば、たぶん嘘になるけれど。
 私は答えを待った。
 魔理沙は、少しいじけたみたいにして、口を開いた。

「そりゃあ……別に、おまえとなんて、何度もしてるわけだし」

 ……そして返ってきたのは、あからさまに誤魔化しでしかなかった。
 目つきをきつくしてみる。それにひるんだ魔理沙を、じっと睨み続けてやる。

「まあ、そうね。何度もしてるわね。でもいいの? アリスが怒るんじゃなくて?」
「う。……いや、まあアリスはたぶん怒らないと思うよ」
「そうなの? あとで変な痴話喧嘩に巻き込まないでよ」
「……って、そもそもおまえがキスしてきたんじゃないかよ!」
「そうね。魔理沙も拒まなかったわね」
「……いやまあ、それはその」
「それは、その?」
「……なんか、さ。だって、」

 魔理沙はもう、困りきったという感じの、これでもう許してくれという感じの、もやもやしてぜんぜん煮えきらないといった感じの、そんな表情を私に向けてきた。たぶん、魔理沙なりにきちんと考えたんだなと思えた。私は目元に力を入れるのをやめた。魔理沙は、少し躊躇いながら、それでもちゃんと私の目を見つめてきた。揺れる瞳を、じっと向けてきた。

 ──ああ、

 不思議なことに、その口が開く前から、


「だって、霊夢だし」


 ──なぁんだ。

 魔理沙が何を言うのかわかった気がして、そして、その通りになった。
 その答えはすごく単純で、曖昧で、やっぱりまるで誤魔化してるみたいだったけれど、そうではないことくらい私にはわかった。そうではないのだと、私はいつのまにか知っていた。

 私たちは、それでよかったのかもしれない。
 いや、結局、それ以外にはなれないのかな。
 だって、魔理沙だし。
 だって、魔理沙と私だし。

 魔理沙に、なにか言おうとしたんだと思う。でも言葉が出なかった。
 代わりに、我慢できず、笑ってしまった。大笑いしてしまった。魔理沙が非難の目を向けてくるけど、知ったことじゃない。お腹が痛くなって、喉がちょっと痛くなって、目元が湿るくらいに、盛大に笑い続けた。



 どのくらい、そうしていただろう。
 ひとしきり笑い終えて、絶え絶えになった息を整えている私を、魔理沙は壁に背を預けて、膝を抱えて座って、釈然としないような目で見ていた。
 私は一つ息をついて、立ち上がって、魔理沙の横を通って、台所まで歩く。目的は戸棚、いや、小さな歯ブラシだ。

「ねえ、魔理沙」
「……うん?」
「歯磨きしたら、またしてみる?」
「なっ」

 手にした歯ブラシをちらちら振ってやる。魔理沙の慌てる顔が面白くて仕方ない。たぶん魔理沙は断れない。私にはわかっている。
 別にこういうことをするからといって、私が紫に向けている感情が魔理沙に向くわけでもなければ、魔理沙がアリスを思う気持ちが私の方に向くこともないだろう。私たちは私たちなのだ。それは恋愛感情であって、親愛の延長であって、子供の──もうそれほど子供でもないけれど、遊びの一種であって、そしてそのどれでもない。私たちの関係であり、すべてはその一環にすぎない。紫やアリスが気にするなら問題かもしれないけれど、そうでないのなら、キスだろうがそれ以上だろうが、友達どうしが手を繋ぐのと同じだ。

「お、おまえ、なにいって」
「別に誰とでもするわけじゃないのよ? 紫と魔理沙だけ」
「……っ。いや、いやそんなことを訊いてるわけじゃなくて……」
「嫌ならそう言ってもいいのよー」
「あ、……う」

 まあ、魔理沙が駄目だと言うなら仕方ないけれど。でもこの態度からして、たぶんアリスは、本当にそのへんおおらかであるみたいだ。
 それなら、私と魔理沙の、こういう関係も、あっていいんじゃないかと思う。続けていいんじゃないかと思う。恋愛感情とははっきり違っているけれど、私はなんだかんだで、魔理沙が好きなんだろう。魔理沙もどうやら、これまた恋とは違う何かの気持ちの中で、私を好きなままだ。だから結局、アリスに問題が無いとなると、断ったりなんてできないのだ。

「あー、すっきりした!」
「ふぇ……?」

 頭の中のいろんなもやもやが綺麗な感じにまとまっていた。だけど魔理沙の方は、突然大声をあげた私に、もう何がなんだかさっぱりといったふうだった。いきなりいろんなことがあったから、まだちゃんと処理できていないのかもしれない。私が魔理沙とのことにもやもやしていたように、魔理沙も私とのことにもやもやしているのかもしれない。
 本当は、難しいことなんてそんなにない。少なくとも私はそう思う。私も魔理沙も、周りの環境もどんどん変わっていくけれど、『私たち』はあんまり変わらないままでいていいんじゃないかと、そう思う。
 もっとも、『私たち』はそう簡単に変われるものでもないのかもしれないけれど。私は魔理沙に吸い寄せられるようにキスをして、魔理沙もなにひとつ抵抗しなかったのだから。

「まあ、なるようになるでしょ。それじゃ魔理沙、おとなしく待っててね」
「う……えぅ」
「返事ははい、でしょ? ほら」
「うう……なんだかいろいろすっきりしないが」
「まーりーさー」
「はい……」

 さてひとまずは、魔理沙がいろいろとよくわかっていない今のうちに、さんざんからかって苛めてやろうという所存である。
 なんてったって。意外なことかもしれないが──ひょっとしたらアリスは知っているかもしれないが──魔理沙はいつもの強気な状態よりも、なにかしら弱気になっているときの方が、そりゃあもう、とびっきり、かわいい子になってしまうのだ。
 
 
 
 <了>
 
 
 
 
 
 




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