霧雨魔理沙が実は男の娘だったなんて、誰一人として想像すらできませんでした。
 そもそもこれまで誰も気づかなかったのが不思議なくらいのことですが、それは彼女、いや彼の涙ぐましい努力の成果だったようです。
 たしかに魔理沙は、他の誰よりもよっぽど『少女』をやっていました。男の子らしいがさつな言葉遣いこそしていましたが、それは乙女な内面を隠すための、言わば強がり、キャラ作りのようなものとして受け取られていました。
 外見に男女差がさほど現れない年齢だったことだけでなく、普段のちょっとした気配りや趣味嗜好、仕草や言動、そして何より、女の子を演じているのに羞恥心のかけらも見せないその堂々とした立ち振る舞いが、魔理沙が男の娘であるという事実を誰にも気づかせなかったのです。



 そう、魔理沙は、ほんとうに、誰よりも『少女』であり、それだけに皆は大きな衝撃を受けました。
 ……とは言え、何かが劇的に変わったわけではありませんでした。

 たとえばアリスやパチュリーのように、魔法使いであろうと魔法少女であろうと魔理沙が気にしないのであれば自分が気にしても仕方なかろう、というようなさっぱりした気性の者が多く、そして魔理沙はというと、少なくとも彼女らに対してはそれまでとなんら変わるところもなかったのです。
 少女の遊びであるところの弾幕ごっこに『男』を交えることには一部の妖怪が懸念を示していたようでしたが、魔理沙はまだ『男の娘』であり、そもそも完全に『男』を閉め出すことなど現実的ではないのだしと、いつか来る『男』を交えた弾幕ごっこの予行練習のような位置づけとして、魔理沙の存在は逆に広く受け入れられたのでした。



 魔理沙が男の娘であったくらいで、何も変わりはしませんでした。
 変わったとすれば、一つだけ。

「なあ霊夢、機嫌直してくれよ」
「……ふん」

 むかし一緒にお風呂入ってたのにぜんぜん知らなかった、などと漏らして、天狗のスッパ抜きと「いや気づけよ」の総ツッコミをくらって笑いものにされた女の子がいました。

「れいむー」
「うるさい。変態。えっち」
「だからごめんって」
「死ね。最低。ばか魔理沙」
「むう、そりゃ黙ってたのは悪かったけどさ。どうしたら許してくれるんだよ……」


 知るか、ばか。
 女の子は思うだけで何も言いませんでした。
 許してあげてもいい、と女の子は考えていました。むしろ、ほんとうのところ、昔のことは怒ってなんかいませんでした。一緒にお風呂に入っていたのは、すこし恥ずかしくて、顔が熱くなって、だけど胸のところも温かくなって、むずむずして、思い出そうとすると顔を手で隠さずにはやってられないくらいでしたが、そう、ほんとうのところ、あんまり悪い気はしなかったのです。
 それでも女の子は、どうしてか、「別にいいわよ」とたった一言を、口にすることができませんでした。

「あーもう、帰れ帰れ帰れ!」
「ぐぬぬ……わかった、また来るぜ」
「ふん!」

 箒に跨ってふわふわ飛んでいく魔理沙は、もうスカートなんか穿いてはいませんでした。
 あれは、幼馴染の、同い年の、『女の子』じゃない。『男の子』なんだ。
 そう意識すると、お風呂だけじゃない、いろいろなことが思い出されました。
 二人きりの夜を過ごしたこと。酔っ払っていたとき、ふざけて抱きついたりしたこと。抱きしめられたりしたこと。一つの布団で一緒に寝たこと。寒いからと、布団の中で身体をくっつけあって眠ったこと……。

「……なんなのよ、もう」

 熱くてしょうがない顔では、縁側でお茶を飲むことすらなにか恥ずかしくて、女の子はそそくさと部屋の中へ引っ込んでいきました。




 そんな夢を、彼女は見ました。
 そしてまた、別の夢も。
















「じゃーん」
「……じゃーん、って、何が変わったのかよくわからないぜ」
「お互い様でしょ、そんなん」
「まあそうだが」

 存在の根本を変じさせて妖怪と成った元巫女さんに、魔法使いの反応はというととても淡白なものでした。
 博麗の巫女である者、またはかつて巫女であった者は、人間のままでその生涯を閉じなければならない──博麗の巫女があくまで人間の側であることを規定するこのルールを変えさせるために、巫女さんは、弾幕決闘法の制定という自身の功績や、現在の幻想郷が非常に安定していることなどを根拠に、口と拳で妖怪の賢者を説得したのでした。

 結果としてこのルールは、当代の巫女こそ人間でなくてはならないとしながらも、巫女を終えた者のその後までを縛ることはなくなり、かくして巫女さんは、元巫女さんの──性質としては境界の賢者に近い──妖怪と成ったのでした。



「というわけで、今日から私ここに住むから」
「はぁ? なんでだよ、巫女妖怪は神社に居ればいいだろ」
「神社に居たらそれこそ巫女に退治されちゃうじゃない。あの子は生真面目だし、私が妖怪になったのもあまり気に入らないみたいだから」
「ああ、あの巫女ならたしかにな……まあ、我が優秀な弟子も少し前に一人立ちしたことだし、場所に余裕があるといえばあるんだが」
「じゃあいいじゃないの。あんたったら昔はいっつもうちに入り浸ってたんだから、そのお返しよ」
「……はぁ、わかったよ。まったく、久しぶりに独り暮らしができると思ったんだが」
「それじゃあ早速この邪魔くさいガラクタどもを処分しようかしら」
「おいちょっとまて」

 そんなこんなで、ふたりはいっしょに暮らし始めました。
 元巫女さんは何よりも先に、種々の茶葉で戸棚を占領しました。家の中を綺麗に片付けられるのには断固として抵抗していた魔法使いも、「お前のお茶が飲めるんならいいか」と、これだけはすんなり認めました。
 お茶を淹れる台所からお茶を飲むソファまでの道だけはしっかり片付けられ掃除されました。そこがふたりの妥協点でした。


 ふたりの生活は、過去の再現でした。魔法使いが元巫女さんのところに通いつめていた時間の再現でした。
 元巫女さんは、まったりとお茶を飲んだり、魔法使いと雑談したり、魔法使いが本を読んだり実験などするのをぼんやり眺めたりしていました。ふわふわくっついてきて手元を眺める元巫女さんを、魔法使いは決して邪険に扱うことはありませんでした。



「霊夢」

 ある日、魔法使いは不意に口を切りました。

「ごめん」

 背を向けて、ばつが悪そうに言うものだから、元巫女さんには、それだけで魔法使いが何を謝っているのかおおよそ見当がついてしまいました。
 おそらく、今の状況そのもの。魔法使いが魔法使いになって、巫女さんが元巫女さんの妖怪になって、今ここでこうしていることそのもの。
 あるいは、この状況の最初の一歩を踏み出したのが、魔法使いの側であるということ。


 幼い頃からずっと一緒にいて、ライバルのようなものとして、そしてそれ以上に親友として隣に立っていた誰かさんに対して。人間のままで生を終えるはずだった誰かさんを、結果的に独り置いて、自分だけ違うところに行ったということに対して。
 ひょっとしたら、裏切ってしまったというような気持ちでいるのかもしれない。
 元巫女さんは思いました。実際、元巫女さんも、裏切られたような寂しさは感じていたのです。


 裏切って、裏切られた。
 変な話だなと、元巫女さんは思いました。
 だってふたりは、約束めいたものなんて、なにひとつ交わしていなかったのです。

「ねえ、魔理沙」

 元巫女さんは、だから、今度はちゃんと、言葉にしておこうと思いました。
 ──うそ。いやだ。行かないで。いっしょにいて。
 その気持ちに素直になって、巫女さんは、元巫女さんな妖怪になったのですから。


「ちっちゃくてぼろっちい家だけどさ。ここで、ずっと、いっしょに暮らそ?」
「……誰の家がちっちゃくてぼろっちいと」
「まりさ」
「…………ああ。こんなちっちゃくてぼろっちい家でよければな」
「ふふ、ごめんごめん」


 ──そのようにして。ふたりはいっしょになりました。


 魔法の森のちっちゃくてぼろっちいお屋敷。
 そこには、元巫女さんな妖怪と、魔法使いがいて。
 ふたりで楽しく仲良く、いつまでも、いつまでもしあわせに暮らしたのです。




 そんな夢を、彼女は見ました。
 そしてまた、別の夢も。















「うぉい紫ぃ! 霊夢を自由にしてやれー!」

 とある宴会の席でのことでした。
 誰も相手してくれませんの、とめそめそ泣きながら隣に座ったスキマ妖怪のことを、巫女さんは嫌な顔をしながらも追い払うことは無く、ゆったりと杯を口に運んでいました。
 そんなとき、白黒の魔法使いが、不意に二人のあいだに乱入してきたのです。


「自由に……と言いますと?」
 不思議そうに問い返す八雲紫に、魔法使いは声を荒らげます。
「いくら博麗の巫女ったってな、恋愛一つ自由にできないなんてそんな話があるかよ! そのくらい好きにさせてやれよ!」


 ああそれか、と巫女さんは納得しました。
 自らの母親、先代の博麗の巫女のことを思い出します。巫女さんの母は、里の男の中から、八雲紫が見繕った者と結ばれたのでした。そして巫女さんは、父親が普通の人間としては非常に高い霊的素養を備えていることも知っていました。
 ここまでくれば答えは自明というものです。博麗の巫女は、次代に更なる力を伝えるために、霊力の高い者と番うことを運命付けられているのでしょう。自由意志での恋愛など認められないのです。
 しかしそのはずが、八雲紫は、きょとんとした顔で小首を傾げていました。



「えっと……何のことかしら? 別に巫女に恋愛の制限を設けた覚えはありませんが」
「……なに?」
「え、ちょっと待ってよ紫。私のお父さんって、あんたが連れてきたんでしょ?」
「……ああ、ああ、そのことですか。霊夢。それに魔理沙。あなたたちは勘違いをしているわ」
「勘違い?」
「そう。巫女にだって恋愛の自由くらいあります。先代は、少し真面目すぎたのね。霊夢の前で言うのもなんですが、素質ある子供を産んで次代を託すことまでが巫女の仕事だと、あの子は勝手に思っていました。そして無駄に意志も固かった。番う相手くらい恋愛でもなんでも好きなようにやって決めなさい、と私は言ったのですが、結果としてあの子は、次代に善き巫女を産むための善き種を選別することを、私に望んだのです。そして私も断りきれなかった、ただそれだけのこと」

 そのように出会いは冷たいものでしたが、いざ夫婦となった二人は、それなりに温かい家庭を築いていたように思います──八雲紫が付け加えるのを、しかし巫女さんは、あまり聞いてはいませんでした。
 心臓が強く脈打つ感覚。ほんとに? という心の中のつぶやき。巫女さんの頭は、それだけでいっぱいになっていました。



「恋愛なんて自由にやってもらって良いのです。……もっと言ってしまうと、子供だって必ずしも作らなくて良い」
「次代の候補がいなければ攫ってくるだけですから。もちろん、今代の巫女が産んで育ててくれるというのであれば、その方が私としては楽ですが」
「ああ、別に女同士でも構いませんわ。何らかの術か魔法で子供を作るのも」
「たしかに、子供を健やかに育てるためには父性を持った存在が欲しいところですが。まあ、おそらくあなたたちなら大丈夫でしょう」


 巫女さんは、ゆっくりと、ゆっくりと、八雲紫の言葉を咀嚼していました。
「なっ……なっ、なんで私たちの話になってるんだ!」
「おや? そうであるから、そういう話をしてきたのかと思いましたが。初々しくていいわねぇ」
 巫女さんがぼんやりしていると、ふと、なにやら呻いている魔法使いと目が合いました。魔法使いの真っ赤な顔を見ていると、どうしてか顔が熱くなって、何か言おうとしても口元がうまく動かなくて、どうやら魔法使いも同じことになっているみたいで、なんだかよくわからないまま見つめあってるうちに、巫女さんの目からは、不思議と涙がぽろぽろこぼれ落ちていました。
 
 




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